今日の神坂課長は、N大学消化器内科教授の中村先生のお部屋にいるようです。
「神坂君、人の上に立つことはむずかしいよね?」
「はい。私のように数人の部下がいるだけでも大変なのですから、中村先生のように大勢の部下をお持ちの方の気苦労は計り知れません」
「そう言ってもらえるだけでもうれしいよ」
「いろいろな部下がいますからねぇ」
「そうなんだ。私はできる限り王者のリーダーシップを追及しているんだけど、なかなか難しい」
「王者のリーダーシップですか?」
「そう。たとえば自分の組織の優秀な部下から慕われるだけでは、それは覇者のリーダーシップなんだ。それに対して、すべての部下の心をつかむのが王者のリーダーシップだよ」
「私ですら全員から慕われているかは微妙です。先生の医局は30名以上いらっしゃいますよね。相当大変なことじゃないですか?」
「そうだよ。それでもそれを理想として追求しているんだ。覇者のリーダーシップは、いわばルールや規則で人を統治すれば可能なんだけど、王者のリーダーシップは心と心で触れ合わない限りなし得ないことなんだ。だからこそ、追及すべき価値があると思っているんだ」
「すごいですねぇ。そんなこと考えたこともなかったです」
「ははは。たとえば、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権は、力で庶民を統治しようとした。一方、江戸幕府は力と心の両面での統治をしようとしたんだ。そこが徳川家康のすごいところだよね」
「心の統治というのは、儒学のことですか?」
「おお、さすがは最近よく勉強している神坂君だね」
「中村先生に褒められると、めちゃくちゃ恐縮します」
「ははは。江戸幕府は大いに学問を奨励した。それが260年以上の長期間にわたって政権を保ちえた最大の理由ではないかと思うんだ」
「当時の日本の識字率は、諸外国に比べて圧倒的に高かったそうですよね?」
「うん。何より大事なことは、官僚である武士たちもしっかりと学問をしたことだよ。やはり人の上に立つ者は学び続けないとね」
「あ、先生。面会時間をオーバーしていました。講演の件は先ほどお話したとおりでよろしくお願いします。それから、今回もとても勉強になりました。ありがとうございました」
「本当だ、もう30分経ったんだね。神坂君といると時間の経つのが早いね。君は王者になれる資質を持っていると思うよ」
「中村先生、それは私にとっては最高のお言葉です。これで3年は頑張れます!」
ひとりごと
徳川家康は、兵法書『三略』を愛読したと言われています。
もしかすると、この一斎先生が取り上げた章句を実践したのかも知れませんね。
そう考えると、織田信長はやはり覇者だったと思わざるを得ません。
その結果として、光秀の謀反を呼んでしまったのでしょう。
【原文】
「務めて英雄の心を攪(と)る」とは、覇者之を以(もち)う。「天下の従う所を以て、親戚の畔(そむ)く所を攻む」とは、王者之を以う。〔『言志晩録』第101条〕
【意訳】
兵法書の『三略』にある「務めて英雄の心を攪る(できる限り英雄や豪傑の心を把握する)」とは、法と罰で人を統治する覇者が用いる方法である。『孟子』にある「天下の従う所を以て、親戚の畔く所を攻む(万民が心から服従して来るような人が、親戚でもそむき去るような人を攻める)」とは、徳と礼で人を治める王者のとる手法である。
【一日一斎物語的解釈】
真のリーダーは、優秀な成績を収めている部下からだけでなく、すべての部下から慕われるものだ。