今日の神坂課長は休日をゆっくり自宅で過ごしています。

リビングで妻の菜穂さんと会話をしているようです。

「今日は珍しく出かけないのね?」

「たまにはな。家でゆっくり競馬と競艇を観戦しようかなと思ってる」

「そうか、今無観客でやってるから、競馬場や競艇場へ行けないのね」

「そういうこと」

「ギャンブルで借金とかしてないでしょうね?」

「その辺はちゃんと弁えていますから。だいたい俺の競馬歴はもう20年以上だぜ。今更そこまでハマらないよ」

「それなら良いけど」

「ちょっと真面目な話をするけどさ」

「なによ」

「こんなダメな父親の息子にしては、二人ともまともに育ったなと思って。それはみんなお前のお陰だと思って感謝しているよ」

「あら、どうしたの突然。わかった、お小遣いが欲しいのね?」

「素直じゃないねぇ。せっかく俺が本心から言ってるのにさ」

「だってそんなこと言われたことないもん!」

「この前な、ある本に書いてあったんだよ。子供にとって父親は種で、母親は田んぼのようなものだって」

「どういうこと?」

「つまり、息子は父親の才能を継承して生まれて来るけれど、それを活かすも殺すも母親次第だ、という意味だよ」

「勇に才能があったっけ?」

「まあ、そこは置いとけよ。要するに、菜穂という田んぼがシッカリしていたから、息子二人の苗はスクスクと成長してくれたということだよ」

「そんなこと言われたことないから、恥ずかしいわ」

「感謝してるよ」

「よし、今日は勇の好きなおかずを作ってあげよう!」

「おー、それはありがたい。いつも無視され続けているからな」

「だって、何が食べたいか聞いたら、だいたいカレーかハンバーグっていうじゃない」

「そのハンバーグが食べたいんだけど」

「わかったわ。今日はハンバーグにします。息子二人も、食の好みは父親とまったく一緒だからね」

「あざーす!」


ひとりごと

この一斎先生の言葉は、現代においてはやや時代錯誤と言われてしまうかも知れません。

しかし、平均的に言えば、現代日本においても、子供が接する時間は父親よりも母親の方が多いでしょう。

そういう意味では、子供の成長に母親の果す役割は依然として大きいと言えそうです。

世のお母さんは、自分は田んぼだと思って、息子という苗を育ててください。


【原文】
人の生るるや、父の気は猶お種子のごとく、母の胎は猶お田地のごとし。余、年来人を閲(けみ)するに、夫の性厚重にして、婦は順良或いは慧敏(けいびん)なれば、則ち生子多く才幹有り。夫は才幹有りと雖も、而も婦は暗弱或いは姦黠(かんかつ)なれば、則ち生子多く不才或いは不良なり。十中の八九是(かく)の如し。然れども未だ必ず然りとは謂わず。〔『言志晩録』第232条〕

【意訳】
人が生まれる際、父の気質はまるで植物の種子のようで、母の胎内は田地のようである。私は、長きに渡り人を観察してきたが、夫の性がどっしりと落ちついており、妻はおとなしく素直であるか、あるいは聡明でてきぱきと働くようであれば、その子供は多くはゆたかな才能を備えている。夫が才能ゆたかであっても、妻がおろかで気が小さく、よこしまで悪賢いようであると、その子供の多くは才能に乏しいか性質の良くない子供となる。十のうち八か九はそのとおりであるが、必ずそうだとも言い切れない

【一日一斎物語的解釈】
子供の能力形成において、母親の役割は非常に重要である。


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