今日の神坂課長は、元同僚の西郷さんと食事をしているようです。

「それにしても、サイさん。『論語』って、文章がシンプルですし、言葉の背景みたいなものが書いていないので、どう理解して良いのか悩む章句も多いですね」

「そうだね。でもね、それが『論語』の魅力だと思うんだ」

「どういうことですか?」

「たとえば、ある孔子の言葉について、その言葉は孔子がどういう場面で、どんな心境で語った言葉だ、ということがすべて分かっていたら、幅広い解釈はしづらいよね?」

「そうですね」

「きっとこういう場面ではないか、と想像するから、それを自分の立場に置き換えて読むことができるんじゃないかな」

「なるほど、実際にどういう場面だったかを正すより、ある程度勝手に解釈して自分の糧にした方が良いということか」

「私はそう思う。『論語』の解説本は巷に溢れているんだ。私の書棚にも『論語』に関係する書籍が100冊以上ある」

「『論語』だけで、100冊ですか!?」

「私も数えてみて驚いた。それだけに、本当に数多くの学者や経営者が『論語』について、それぞれ独自の解釈を与えているんだ」

「へぇー」

「だから、その中から正解を探すのではなく、もっとも自分の心に響く解釈を採れば良いと思うんだ」

「書いた人も十人十色なら、解釈も十人十色なわけですね。面白いなぁ」

「そういうこと。ただし、ずっと『論語』を読んでいると、自然とその言葉が発せられた場面が映像として浮かんでくるし、孔子のこの時の心境はきっとこうだっただろう、という予測がつくようになってくる」

「そこまで読み込めたら凄いなぁ」

「神坂君、学問というものはそういうものだと思うよ。まずは先人が遺した文章と格闘する。次にその人が実際にどんな行いをしたかを調べる。それを徹底していくと、その人の心境というものは、ある程度見えてくるんじゃないだろうか?」

「そうか、常に、『なぜ、この言葉を選んだのか』ということを想像しながら、その人の文章や行動を学ぶと、心の中まで見えてくるのですね」

「うん。見えてくるというか、先人の心と自分の心が一体になるんだろうね」

「すごいな、孔子の心とサイさんの心が一体になるんですか!?」

「いやいや、私はまだまだ一体になるレベルまでは達してないよ。きっとこうじゃないかなと予測ができるようになっただけ」

「それでもすごいですよ。なるほどな。学びの順序としては、まず文章を読む、次に行動を知る、そして最後に心を知る、というステップなんですね

「神坂君は頭の回転が早いね。そのとおり。ただ、最後は『心を知るというよりも、心がわかるという表現の方が適切かもね」

「いやー、学問って深いですね。私はバカですから、これからもサイさんについて行きます。ご指導よろしくお願いします」

「こちらこそ。私も優秀な後輩がついてきてくれるのは、とてもうれしいよ!!」


ひとりごと

小生が主査する『論語』の読書会・潤身読書会では、これまで丸6年間にわたって『論語』を読んできました。

何度も読んでいると、自然と言葉の背景となる情景が目に浮かんでくることもあります。

そして、多くの学者先生はAと言っているが、本当はBなのではないか?などと、不遜な考えが浮かぶこともままあります。

そのように『論語』を読んでいると、とても楽しく学ぶことができます。

古典を学ぶ際には、ぜひ今回の一斎先生の言葉を思い出して、まずは文章と行動を理解して、そこから自然と心がわかるという学びを目指したいものです。


【原文】
学は一なり。而も等に三有り。初めには文を学び、次には行(こう)を学び、終りには心を学ぶ。然るに初めの文を学ばんと欲する、既に吾が心に在れば、則ち終りの心を学ぶは、乃ち是れ学の熟せるなり。三有りて而も三無し。〔『言志耋録』第1条〕

【意訳】
学問の道は一つである。しかしそこには三つの段階がある。初めに人の文章を学び、次に人の行動を学び、最後に人の心を学ぶのだ。実際には、最初のの文章を学びたいという気持ちが自分の心に芽生えたのであれば、学問によって自然と心が成熟して、古人の心を理解できるようになるものである。そういう意味で、学問には三段階あるといっても、それはすべて心の中に一貫してあり、別々のものではないのだ

【一日一斎物語的解釈】
先人の残した文章を学び、先人の行動を学べば、自ずと先人の心まで理解できるようになる。ここまで達して初めて学問と言えるのだ。


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