今日のことば
【原文】
尚書にも亦古今文有り。而して今の伝うる所は、即ち古文の経なること疑う可き無し。宋以降、信疑曹(そう)を分つ。近世閻若璩(えんじゃくきょ)、疏証(そしょう)を著わして、而して毛奇齢之を寃(えん)とす。是なり。凡そ五経の中にて、確言の夥しきこと、此の経に若くは莫し。乃ち妄に之を沙汰するは、翅(ただ)に経を尊ぶの道に非ざるのみならず、而も更に経を非(そし)るの罪有り。〔『言志後録』第231章〕
【意訳】
(『易経』と同じく)『書経』にも古今の文書がある。現在伝わっているのは古文尚書であることは疑いのないところである。宋の時代になって真偽をただす議論が起こり、派閥が生まれた。閻若璩が『古文尚書疏証』を著わして、古文尚書を偽作であるとしたが、毛奇齢は『古文尚書寃詞』を著わしてこれに反論している。五経(詩経・易経・書経・礼記・春秋)のなかで『書経』ほど確言の多い書物はない。したがって『書経』の批評をするという行為は経書を尊ばないというだけでなく、むしろ誹謗するという罪を犯すことになる。
【一日一斎物語的解釈】
中国古典などの古い書物には、後世の偽作とされるものも多い。しかし、とくに古典を活学する立場からすれば、真偽の程は大きな問題ではない。書かれている内容で自分を律するものがあれば、素直に実践すればよい。
今日のストーリー
今日の神坂課長は、元同僚の西郷さんと食事をしているようです。
「『論語』の中の孔子の言葉もすべてが本当に孔子が発した言葉かどうかはわからないんですよね?」
「たしかに、すべてが実際の孔子の言葉だとは断定できないだろうけど、しかし、ほぼ孔子の言葉だと考えてもいいんじゃないかな」
「そうなんですか? でも、『論語』って、孔子が死んでから100年後くらいに編纂された書物なんですよね?」
「うん。孔子が亡くなり、儒家集団もいくつかの派閥に別れて行った。そんな状況で、このままでは孔子の言葉も徐々に忘れられたり、誤って伝わったりすることになるかもしれないと危惧した一部の弟子達が『論語』を編纂した言われているね」
「100年も経ったら、だいぶ曲がって伝わったものも多いんじゃないですか?」
「そうかも知れない。でも私は、編纂に当たった後輩たちが、これは先師の言葉で間違いないと思われるものを厳選してくれていると信じているんだ」
「なるほど。たしかに、本当に孔子の言葉かどうかより、どんな内容が語られているかの方が大事なのかも知れませんね」
「古典とはそういう書物だと思う。仮に孔子の言葉ではなかったとしても、孔子ならそういうだろうと思えれば、それで良いんじゃないかとね」
「そういえば、有名な徳川家康公遺訓も、実際には家康公の作ではないと言われていますね」
「それでも、内容が素晴らしく、家康公ならそう言っただろうと思わせるよね」
「そうですね。だから私は、あれは家康公の言葉だと信じることにしています」
「うん。『論語』も同じ受け取り方で良いんじゃないかな」
「なるほど」
「孔子の言葉かどうかを疑ったところで、答えはわからない。それなら、孔子の言葉だと信じて、そこから何を学び取るかの方が重要だよね」
「はい。つまらないことを考えるのは止めにします!」
「特に『論語』に関しては、それで良いと思うよ。これが『孔子家語』あたりになると、かなり創作が混じりこんでいるようだけどね」
「そうなんですか? じゃあ、『孔子家語』は読むのをやめておこうかな?」
「いや、私は読むべきだと思うよ」
「え、なぜですか?」
「それなりに孔子を研究した後世の学者さんたちが創り上げているとするなら、そこにある孔子の言葉も、記録に残っていないだけで、実際にはそう言っていたかもしれないわけだし、それはそれで学びになるはずだと思うんだ」
「なるほど。とにかく古典の読み方としては、そこに書かれている内容を素直に受け取って、今の自分にどう活かせるかを真剣に考えるというスタンスで良いということですね?」
「私は断固としてそう思うよ」
ひとりごと
古典の読み方に、細かいルールはありません。
古典を学び、何を感じ、どう行動に活かせるか。
それこそが古典を学ぶ上で最も大切なことなのです。