今日のことば

【原文】
周子の主静とは、心の本体を守るを謂う。図説の自註に「無欲なるが故に静なり」と。程伯子此(これ)に因って、天理・人欲の説有り。叔子の持敬の工夫も亦此に在り。朱・陸以下、各々力を得る処有りと雖も、而も畢竟此の範囲を出でず。意(おも)わざりき、明儒に至り、朱・陸黨(りくとう)を分ちて敵讐の如くならんとは、何を以て然るか。今の学者、宜しく平心を以て之を待ち、其の力を得る処を取るべくして可なり。〔『言志晩録』第24条〕

【意訳】
周濂渓の「静を主とする」ということは、心の本体ともいえる本然の性を守ることをいっている。周子は『太極図説』の自註に「無欲なる故に静なり」と述べている。程明道はこの考え方をベースにして、天理と人欲を説いた。弟の程伊川が説いた居敬と窮理の工夫も元は周濂渓の説を下敷きにしている。南宋の朱子や陸象山らの儒者が各々力をつけておるが、結局のところ周子の学説の範囲内にとどまっている。ところが、明代の儒者が朱子派と陸子派とに分れて敵同士のように論争するに至ったのは、何故だろうか。今の学者は虚心坦懐に各々の長所を採ればそれでよい

【一日一斎物語的解釈】
自分のアイデアをオリジナルだと思わないことだ。善につながるアイデアは、すべて宇宙の摂理にしたがっており、オリジナルだと思っている考えは、学びや経験によって、その摂理に気づいたに過ぎないのだ。したがって、意見の違いを争うのではなく、相手のアイデアの長所を採用するという意識をもつことで、人間関係は円滑になるはずだ。


今日のストーリー

今日の神坂課長は、元同僚の西郷さんと食事をしているようです。

「『論語』の解説を聞いていると、学者の先生方が新説を提唱しているのが面白いですね」

「古典の解釈は自由というか、幅広いからね、時には奇を衒ったような突飛な新説も出て来るんだよね」

「私は思うのですが、まったくの新説なんて無いのではないでしょうか?」

「うん、私もそう思うな」

「まぁ、私のような学の無い人間を例にとるのは不適切かもしれないですが、これは面白いと思った考えがあっても、ネットで調べてみると、大概は既に誰かが発表していますよね」

「そのとおり。今から二千五百年前に孔子が、『述べて作らず』と言っているからね」

「どういう意味ですか?」

「『私は古の聖賢の教えを学び、それを今に伝えているだけだという意味かな」

「今から二千五百年も前に、すでに孔子がオリジナルなんてないと言っているということですか?」

「そのとおり」

「やはりそうですよね。たしか儒教には陽明学と朱子学があって、お互いに相手を批判していると聞いたことがあります。それって、孔子が望んでいることとは思えませんよね」

「まったくそう思うよ。そもそも陽明学の生みの親である王陽明は、朱子の学説をすべて否定しているわけではないんだ。それなのに、後世になって、両派が争うようになってしまったんだね」

「マウントをとりたがる人って、いつの時代にもいるんですね?」

「さみしいことだけどね!」

「むしろお互いの主張の違いをよく吟味して、互いを認め合おうという姿勢にはならないのでしょうか?」

「そう思えたら素晴らしいよね。世界中の人々が神坂君のような考え方をもてば、世界は平和になるはずだよ」

「ちょっと大袈裟じゃないですか(笑)」

「そんなことはないよ。少なくとも人間関係は円滑になるはずだね」

「対立から生まれるものと、対話から生まれるものでは、どちらが質が高いかはいわずもがなですよね」

「神坂君、すばらしいね。ぜひ、その考え方で大累君や新美君にも接してあげてね!」

「ひぇーっ、これは痛いところを突かれました!!」


ひとりごと

人間の思想や知識は、古代に比べてはるかに深まっているのかといえば、そうではありません。

それどころか、古代には可能であった技術を現代では再現できないということもあるようです。

したがって、おそらくは我々が創り出すものは、先人の智慧の上に作り上げられているのでしょう。

一から作り上げる必要もなければ、そもそも一から作ることなど不可能なのかも知れません。


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