一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年02月

第16日

【原文】
栽(う)うる者は之を培う。雨露固より生生なり。傾く者は之を覆す。霜雪も亦生生なり。


【訳文】
植えた物はこれを培い養ってやるべきで、降る雨や露はいうまでもなくいきいきしていて、植物の生長を助ける。また根が傾いて生長の望みのない植物は倒れてしまう。これを倒すところの霜や雪もまたいきいきとしている。


【所感】
ここも佐藤一斎先生の深い宿命論から発せられた言葉です。


人の一生は、植物が自然に逆らうことができないのと同じように、成り行きに任せるしかない、ということになるでしょうか。


かつて大ベストセラーとなった『夢をかなえるゾウ』の中でガネーシャという神様は、主人公に対して以下のような教えを与えています。


他人が起こす出来事、自分の身の周りで起きる出来事には自然の法則が働いている。
自然の法則を変えることはできないので、自分自身を変え、自然の法則に適応するしかない。
つまり成功するために重要なことは、自然の法則と自分のズレを矯正することである。


この自然の法則のことを、時には神様と呼び、仏様と呼び、お天道様と呼び、サムシング・グレートと呼ぶのでしょう。


さて、この章も深読みをしてみると、以下のように解釈することができるのではないでしょうか。


自然の成り行きを恨んでみても始まらない。まずは己を磨き、自然の法則に逆らうことなく、常に原因を自分の言動に求め、少しでも世の中のお役に立つ生き方をするよりほかはない。


小生はこう理解して、その時その時の境遇を楽しみたいと思います。

第15日

【原文】
辞(ことば)を修めて其の誠を立て、誠を立てて其の辞を修む。其の理は一なり。


【訳文】
経書(四書・五経)における聖賢の言葉の意味をよく修め会得して、誠の道を立てて修養に努めるのと、誠の道を打ち立てて聖賢の言葉を修得するのとは、先後の別はあるが、どちらも道理は同じといえる。


【所感】
これは知識から入るか、実践から入るかは問題ではなく、どちらから入るにしても知識修得と実践を共に行わなければならないという教えだと小生は理解をしています。


そう考えるならば、これは陽明学における知行合一の教えそのものです。


佐藤一斎先生は昌平黌という現在でいえば東京大学にあたる幕府直轄の教育機関のトップの地位にあった方です。
もちろん当時の幕府公認の学問は朱子学であり、陽明学は異端の学とされていました。


しかし一斎先生は、陽明学にも理解を示し、双方のエッセンスを取り入れたバランスの良い教育をされました。


このため、当時は「陽朱陰王」(朱とは朱子学、王とは王陽明、すなわち陽明学を指します)と呼ばれていたそうです。(この呼び名については、親しみを込めてそう呼ばれたという説と、揶揄であるという説があります。)


こうした背景もあり、一斎先生門下からは朱子学者よりも、佐久間象山や山田方谷に代表される陽明学者の方が多かったそうです。


そのようなわけで、『言志四録』にも陽明学的な教えが数多く収載されています。


さて小生は日頃より、勤務先において研修を行う際には、


インプットなくしてアウトプットなし


とよく話をします。


なにか新しいことをやるなら、まずインプットが必要であるという意味です。


しかしこの一斎先生の教えを噛みしめてみると、まずアウトプットしてみて自分の足りなさに気付き、その不足点に関するインプットをするということでも良いことに気付かされました。


これは小生にとっては、非常に大きな学びとなりました。

第14日


【原文】
吾れ既に資善の心有れば、父兄師友の言、唯だこれを聞くところの多からざるを恐る。書を読むに至っても、亦多からざるを得んや。聖賢の云う所の多聞多見とは、意正に此(かく)の如し。


【訳文】
自分に資善の心をもっておれば、父兄や師友の言葉を聞くことの多くないことをただ心配するだけである(なるべく多く父兄や師友の言を聞こうとする)。また読書についてもなるべく多くの書を読もうとしないわけにはいかないではないか。聖人・賢人が言った多問多見の真の意味は正しくこのようなものであろう。


【所感】
資善の心とは、他人の善言善行をとって自己の善としようとする心、のことだそうです。


一斎先生は、他人の欠点ではなく、長所を見て、徹底的に学びとろうとする姿勢を重くみています。


もともと「学ぶ」ということばは、「真似ぶ」ということばが語源だという説があります。


学ぶとは、その本質を理解することに他なりません。
ただ単に言葉を暗記するとか、行為をモノマネするだけでは、学びではありません。


孔先生も言われるように、疑問に思う所は徹底的に取り去り、その本質をえぐり出すまで思索し、実践することが求められます。


つまり、真の多聞多見とは、常に現状に満足せず、学び続ける姿勢を貫き続ける人のみがたどり着ける境地であって、決して知識をひけらかすことではないということです。


小生にとっては重い戒めの章です。

第13日


【原文】
学を為す。故に書を読む。


【訳文】
学問をして修養や処世に役立てようとする。そのためにあらゆる書物を読むのである。


【所感】
とてもシンプルに学問をする理由が述べられています。


なぜ学ぶのか?
それは自分自身の修養のためであり、世の中を生き抜いていくためである。
そしてそのために読書をするのである。


学問の目的が立身出世であり、読書がその手段となるようではいけない、と一斎先生は言います。


中国古典の『荀子』には、


「君子の学は通ずるが為めに非ず。窮するとも困まず憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり」


とあります。


君子の学問とは、立身出世のためにするのではない。窮するときも苦しまず、幸福なときも驕らず、物事には始めがあれば終わりがあることを知って、どんなときも平静な心で対処できる人間となるために学ぶのだ、という趣旨の言葉です。


また、森信三先生は、常々”読書は心の食物である”として、


一日不読 一日不喰
(一日読まざれば、一日食わず)


という言葉を残されています。


人は平生、食を欠けば騒ぎ立てるのに、心が渇していても一向気にしないのは不思議なものだとも言われています。


窮するときに濫れるのは小人である、と孔先生は言います。


窮すれば乱れ、幸福のときには調子に乗る小生はまさに小人です。


だからこそ学ぶことで、少しでも君子に近づきたいと願っているのです。

第12日

【原文】
三代以上の意思を以て、三代以上の文字を読め。


【訳文】
三代以上のすぐれた見識をもって、三代以上の宇宙に宿る大精神を読みとれ。


【所感】
少し解釈の難しい章です。


三代とは、中国古代の夏・殷・周の三王朝のことです。


歴史は繰り返す、と言います。
歴史を学ぶことで、その奥に潜む永遠の摂理を読み取らねばならない。


一斎先生はそう教えてくれます。


この歴史とは国史や世界史といった国の歴史だけでなく、社史すなわち我々が勤める会社においても然りで、過去の社史の中に創業者の想いや、諸先輩方の努力を読み取り、目の前にある困難を乗り越えるための糧とすることが求められます。


さらに個人史を振り返ることで、自分自身の過去の出来事についても、しっかりとその意味を捉えておかなければなりません。


変転する世界の中に不変の摂理を読み取る。


この章をこのように解釈するのは、読み過ぎなのでしょうか?

第11日

【原文】
権は能く物を軽重すれども、而も自ら其の軽重を定むること能わず。度は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を度(はか)ること能わず。心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。是れ至霊たる所以なる歟(か)。


【訳文】
秤(権)はよく物の軽い重い(重さ)をはかることができるが、自分の重さをはかることはできない。物指(度)は物の長い短い(長さ)をはかることができるが、自分の長さをはかることはできない。しかるに、人の心は権や度とは異なって、外物の是非・善悪を定めることができて、その上に自分の心の是非・善悪を知ることができる。これが心をもってこの上もなく霊妙なるものとする所以ではなかろうか。


【所感】
一斎先生が言うように、本来心は外物の是非を判断できるだけでなく、己自身の是非についても判断できるものであるはずです。


ところが実際には心は迷い、時に道を誤ります。
それは生きていく中でいつの間にか心に曇りを生じるからなのでしょう。


曇ったままの鏡では、物を正しく映すことはできません。
常に心を磨き続けることが必要です。


では、なにをもって心を磨くのか?
読書、それも古典を学ぶに如くは無しです。


現にこうして『言志四録』を学ぶことで、常に心を磨き続ける必要性に気づくことができるのですから。

第10日

【原文】
人は須らく自ら省察すべし。「天は何の故に我が身を生み出し、我れをして果たして何の用に供せしむとする。我れ既に天の物なりとせば、必ず天の役あらん。天の役共せずんば、天の咎必ず至らん」と。省察して此(ここ)に到れば、則ち我が身の苟くも生く可からざるを知らん。


【訳文】
人間はだれでも皆、次の事を反省し考察しなければいけない。それは「天は何故に自分を此の世に生み出したのか。また天は我れに何の用をさせようとするのか。自分は既に天の生じた物であるから、必ず天の命ずる職務がある。ここまで、反省して考察してくると、自分は何もせずに、ただぼんやりと生活すべきではないということがわかるであろう。


【所感】
森信三先生は、人は皆「天からの封書」をもって生れて来る。ある年齢(少なくとも40歳)になったらその天からの封書を開けなければならない、と言われます。


「天からの封書」、つまり天命です。


自分はこの世の中にどんな貢献をするために生まれてきたのか?
その答えを見つけ、分に応じた役割を果たさなければなりません。


天命を果たさないのであれば、生きていく意味がないどころか、天罰を受けるのだ、と一斎先生は言います。


孔先生は十有五にして学に志し、五十にして天命を知ったと言います。


小生ももうすぐ五十になります。


いまだ天からの封書を空けきれぬままに。。。

9日目

【原文】
君子とは有徳の称なり。其の徳有れば、則ち其の位有り。徳の高下を視て、位の崇卑を為す。叔世(しゅくせ)に及んで、其の徳無くして、其の位に居る者有れば、則ち君子も亦遂に専ら在位に就いて之を称する者有り。今の君子、蓋(なん)ぞ虚名を冒すの恥たるを知らざる。


【訳文】
君子とは徳のある人を指していう言葉である。昔は徳のある人は、その徳に相応した立派な社会的地位があった。すなわち、その人の徳の有無・高低によって、地位の崇卑・高下が定まっていた。ところが後世になって、なんら徳を具えておらずに、上位につく者が出てきたので、君子の中にも、高い地位にあるというだけの理由で、君子と称する者があるようになった。今日の君子といわれる人々は、自らそれだけの実を具えていないのに、君子という名をつけられて、どうして恥と思わないであろうか。


【所感】
今も昔も徳と地位のアンバランスさは同じようです。


私達の周囲にも、実力より地位が高い人もいれば、実力以下の地位に留まっている人もいます。
本来、役職や地位とその人の立派さ、徳の高さは別の物であるはずです。



これに関しては、『西郷南洲翁遺訓』の中に次のように記載されています。

「廟堂(びょうどう)に立ちて大政を爲すは天道を行ふものなれば、些(ち)とも私(わたくし)を挾みては濟まぬもの也。いかにも心を公平に操(と)り、正道を蹈(ふ)み、廣く賢人を選擧し、能(よ)く其職に任(た)ふる人を擧げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ眞に賢人と認る以上は、直に我が職を讓る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程國家に勳勞(くんろう)有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には俸祿を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるゝに付、然らば尚書(書經)仲■(ちゆうき)之誥(かう)に「徳懋(さか)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相對するは此の義にて候ひしやと請問(せいもん)せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。」

つまり功ある人には禄を与え、徳ある人には地位を与える、という考え方です。


小生のようにビジネスの世界に身を置く者も、人事考課に際して実績実績のみを重視し過ぎる傾向があります。


人の上に立つ人を選ぶ際には、実績よりも徳があるかどうかを重視することを忘れてはいけません。


政治の世界も二世三世が幅を利かす世の中になっています。


せめて己くらいは、地位を求めず徳を求めて、日々精進したいものです。

第8日

【原文】
性分の本然を尽くし、職分の当然を務む。此の如きのみ。

【訳文】
人間は生得的に仁・義・礼・智・信の五常を具えているから、この五つの道を極め尽くすべきである。また、人間は道徳的に守るべき職分としての親・義・別・序・信の五倫や孝悌忠信をもっているから、他者に対してそれらを当然の義務として実践すべきである。人間はこのように道徳を本務として行うべきだ。

【所感】
自分が今やるべきことを、手を抜かずにやり切ることが大切だと一斎先生は言います。


性分とは人間が本質的に内にもっている真心であり、職分とは、他人に対して尽すべき奉仕のことだそうです。(川上正光先生訳『言志四録』)


儒教の古典『大学』という書物には、

「大学の道は明徳を明かにするに在り」

とあります。これも同じ意のことを述べています。

明徳とは天与の徳であり、それを一斎先生は性分の本然・職分の当然と名付けたのでしょう。


伊與田覺先生は、

人間学とは徳性・習慣を磨くこと

時務学とは知識・技術を修得すること

と定義づけされています。


つまり人間学とは、明徳を明かにすること、明明徳であるということになります。

さて、五常の徳(仁・義・礼・智・信)、五倫(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)については、これからの長いお付き合いの中で、折にふれてひとつひとつ取り上げてみる予定です。

第7日

【原文】
立志の功は、恥を知るを以て要と為す。

【訳文】
志を立てて成績をあげるためには、外(周囲の人々)からも、または内(自分)からも恥辱を受けて発憤することが肝要なことである。

【所感】
ここの訳文は久須本先生の思いの籠った意訳となっています。

恥を知ること、恥をかくことは立身出世の要諦である、と佐藤一斎先生は言います。

かつて森信三先生は、十三歳のとき祖父から示された頼山陽の『述懐』(頼山陽が十三歳のときに作った詩、別名『立志の詩』)を読むことができなかったことが、終生忘れらなかったと述懐されておられます。

人は嬉しい経験より辛い経験から多くを学び、成長していくものです。

社会人として立派に成長してもらうためには、早い時期に恥を知る機会を与えてあげることが重要なのかも知れません。


ご参考

「述懐」(じゅつかい)

十有三春秋(じゅうゆうさんしゅんじゅう)

逝者已如水(ゆくものはすでにみずのごとし)

天地無始終(てんちしじゅうなく)

人生有生死(じんせいせいしあり)

安得類古人(いずくにかこじんにるいして)

千載列青史(せんざいせいしにれっするをえん)

意訳:自分が生まれてから、すでに十三回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同様、時の流れは元へは戻らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時が来る。なんとしてでも昔の偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ。

プロフィール

れみれみ