一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年03月

第37日

原文】
能く人を容るる者にして、而る後以て人を責む可し。人も亦其の責を受く。
人を容るること能わざる者は、人を責むること能わず。人も亦其の責を受けず。


【訳文】
人を受け容れる度量の大きい人であってこそ、はじめて人の欠点を責め咎める
資格がある。責められる人も、度量のある人から責められれば、
その責めをよく受け容れる。これに反して、人を受け容れる度量のない人は、
人の短所・欠点を責め咎める資格はない。責められる方としても、
度量のない人の言葉は受け容れない。


【所感】
人を受け容れることができる人であってこそ、人の上に立ち、
指導することができる。また相手もそれを心から受け容れる。
ところが人をすぐに誹謗中傷するような人は、人の上に立つ資格はないし、
そもそも相手も意見を聞くようなことはない、と一斎先生は言います。


一昨日、昨日に引き続き人を受け容れる度量についてのお言葉が続きます。


人を受け容れるとは、すなわち清濁併せ呑むということでしょう。


リーダーとして、メンバーの濁の部分には敢えて目をつぶり、
清の部分を取り上げ評価するからこそ、メンバーはリーダーの意見を受け容れ、
成長していくのです。


ところが濁の部分をいちいち取り上げて、厳しくダメ出しをしていては、
メンバーはリーダーの意見に心から従うということはないでしょう。


心の信頼口座という考え方があります。


日頃、相手の心に信頼という名の預金をどれだけできているかで、
いざというときの指導やアドバイスが大きく変わってくるという考え方です。


たとえば信頼残高がゼロあるいはマイナスという信頼関係の下で、
上司がメンバーに指摘をすれば、メンバーは上司に対し敵意や怨みを
感じてしまうということです。


小生はかつて、こうした心の機微に疎く、結果として人財育成で大きな過ちを
犯しています。


人を受け容れるから、人から受け容れられる。


人を動かしたいのなら、まず自分から動く。


人間教育の根本精神を教えてくれる重要な章句です。

第36日

原文】
人の言は須らく容れて之を択ぶべし。拒む可からず。又惑う可からず。


【訳文】
他人の言は、ぜひ聴き入れてから、そのよしあしを選択すべきである。
最初から断るようなことがあってはいけない。
また、その人の言に惑うようなことがあってはいけない。


【所感】
他人の言葉には個人的な好き嫌いの感情を心にしまい込み、
すべて一旦は最後まで耳を傾けるべきである。
そのうえで自分自身の軸を判断基準として取捨選択すればよい。
気に入らない人だからと最初から意見を拒んではいけない。
また軸がブレて他人の意見に迷いを生じるのもよろしくない、
と一斎先生は言います。


ここには2つの教えがあります。


ひとつは他人に対して忠恕の心をもつこと。
相手に対して自分のまごころを尽くし、思いやりをもって接することで、
人間関係を良好に保つこともできるし、思いがけないアドバイスや気づきを
得ることもできるでしょう。


2つ目は、まず確固たる自分を確立すること。つまり常にぶれない軸を持つべし、
ということです。


軸を持たないまま、相手の意見をすべて受け入れると自分を見失い、
時には八方美人とか風見鶏などと揶揄されてしまうでしょう。


逆に考えれば、すぐに相手の意見を否定したり、拒むような人は、
実は自分に自信がない人だと言えるのかも知れません。

第35日

原文】
物を容るるは美徳なり。然れども亦明暗有り。


【訳文】
人を寛大に受け容れる雅量(広くおおらかな度量)のあるのは、
立派な美徳といえる。しかし人を受け容れるにしても、善と悪、
明と暗があって、善・明を受け容れるのは良いが、
悪・暗を受け容れるのは良くない。


【所感】
広い心をもって人を受け容れていく姿勢は大切である。
しかし時には裏切られることもあるかも知れない、と一斎先生は言います。


皆さんは、この短い章句をどう解釈しますか?


その1 下手に人を受け容れると、とばっちりを受けることもあるから、
慎重に人を判断しなければならない。


その2 性善説に立って、人を受け容れることが美徳である。
その結果、時に裏切られることがあったとしても、
人を信じるという美徳が失われるわけではない。


小生は、上記2つの解釈が可能ではないか、と考えます。


では、小生はどちらをとるかですが、学びを深めるためにはという前提付で、
その2を採用したいと思います。


特にリーダーとして、部下をもつときには、性善説で部下を信じて
受け容れるべきではないでしょうか?


でも、その結果裏切られたらどうするのか?


そうならないために、小生はいつも組織に於いては下記の考え方で
仕組みづくりをしています。


人には性善説で接し、仕組みは性悪説で作る


生れながらの悪人はいません。
ちょっとした物心、魔が差したときに小悪を犯すのではないでしょうか?


そうだとすれば、小悪を起こしやすいような仕組みを取らず、
お金が絡む部門は常にダブルチェック体制にするなど、
簡単に悪事ができない仕組みをつくれば良いのです。


そうは言っても、人を受け容れる美徳を有することは、小生にとっては
一生の課題と言えそうです。

第34日

原文】
少年の時は当(まさ)に老成の工夫を著(あらわ)すべし。老成の時は当に
少年の志気を存すべし。


【訳文】
少年の時代は、経験を重ねて老熟した人のように、よく考えて手落ち(てぬかり)
の無いようにすべきである。年をとってからは、若い者の意気ごみを持つように
すべきである。


【所感】
血気にはやる若者時代は、慎重さが必要なため、あたかも老人のように
万全を期する。老年を迎えたら、心まで老いないように、
若者の気概を持つようにすべきである、と一斎先生は言います。


君子と呼ばれる人は、常に自分に欠けているものを的確に把握して、
それを補うべく行動することができるということでしょう。


しかし小生のような小人は、常に助言を仰ぐと捉えた方が
この章の理解としては良さそうです。


若者はベテランの意見をよく聴き、ベテランは既成概念を打破する意味で、
若者の意見を確認する。


リーダーとしては、このように風通しの良い組織づくりを目指したいものです。

第33日

【原文】
志有るの士は利刃(りじん)の如し。百邪辟易す。志無きの人は鈍刀の如し。
童蒙も侮
翫(ぶがん)す。


【訳文】
聖賢の道を学ばんと志す人は、鋭利な刀と同じで、多くの邪なるものが
しりごみして退く
。これに反して、志の無い人は、あたかもなまくら刀と同じく、
子供でさえも侮ってばかにする。


【所感】
志を抱いて日々を過ごす人には、誰もが一目置くが、志の定まっていない人は
子供にさえ見透かされてしまう、と一斎先生は言います。


今日も志についての言葉が続きます。


リーダーの視点で考えると、志が定まっていれば、決断に迷いが生じないため、
悪事に染まるということがないが、志が定まらないと、決断にも迷いが生まれ、
部下や後輩からも不信感を買ってしまいかねない、ということになりそうです。


つまり真のリーダーシップは、志を定めてこそ発揮されると言えるのでしょう。


いま従事している仕事を通して、どう国家社会に貢献していくのか?


世のリーダー諸氏は、まずこの点を明らかにしなければならないようです。


まったく話は変わりますが、ここに鈍刀という言葉が出てきました。


皆さんは、坂村真民という詩人をご存知でしょうか?


残念ながらすでに故人となった方ですが、真民さんの詩「二度とない人生だから」
は海外も含め800を超える数の石碑に刻まれているそうです。


その坂村真民さんの詩で私がもっとも好きな詩が「鈍刀を磨く」です。


一斎先生のお言葉の趣旨からは外れますが、ここに掲載しておきます。


鈍刀を磨く

鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが 甚深微妙( じんじんみみょう )の世界だ
だからせっせと磨くのだ

第32日

【原文】
緊(きび)しく此の志を立てて以て之を求めば、薪を搬(はこ)び
水を運ぶと雖も、亦是れ学の在る所なり。況や書を読み理を窮むるをや。
志の立たざれば、終日読書に従事するも、亦唯だ是れ閑事のみ。
故に学を為すは志を立つるより尚(とうと)きは莫し。


【訳文】
しっかりと志(目的)を確立して、これをどこまでも追求する時は、
たとえ薪や水を運んだりする日常平凡な事でも、学ぶべきものが存在するのである。
まして読書したり物事の道理を推し窮めることなどにおいては、
なおさらのことである。しかし、志が確立されていなければ、
一日中読書していても、それはただ無駄ごとに過ぎない。それ故に、
学問をするには、まず第一に志を確立するより大切なことはない。


【所感】
志さえ定まれば、日常のルーティンワークさえもが学びとなる。
仮に読書をしていても志が定まっていなければ、それは無駄な時間である。
学問を為すには、あるいは仕事を極めることも同じであろうが、
まず志を立てることが第一である、と一斎先生は言います。


昨日に続き、志を定めることの大切さを語ったことばです。


森信三先生は、常に志を立てることの大切さを語っています。


『修身教授録』第1部第7講「立志」においても


「この人生は二度とないのです。ですから今にして真の志を立てない限り、
諸君の生涯も碌々たるものとなる外ないでしょう。同時に諸君らにして、
もし真に志を立てたならば、いかに微々たりとはいえ、その人が一生をかければ、
多少は国家社会のために貢献し得るほどのことは、必ずできるはずであります。」


と学生諸氏に語りかけています。


本を読むことだけが学びではない。


志さえ定まれば、日々の実生活におけるすべての行いから学ぶことができるのだ
ということです。


一時一事の気持ちをもって、どんな仕事にも自分の今を精一杯注ぎ、
学び・気づき・感動を得ていかなければなりません。

第31日

【原文】
今人率(おおむ)ね口に多忙を説く。其の為す所を視るに、
実事を整頓すること十に一二、閑事を料理すること十に八九。
又閑事を認めて以て実事と為す。宜(うべ)なり其の多忙なるや。
志有る者誤って此の窠を踏むこと勿れ。


【訳文】
今時の人は、たいてい口ぐせのように忙しいといっているが、
その日常の行動を見ていると、実際必要な事をちゃんと処理し整えている
ことが、わずか十の内の一、二であって、不必要な事を十の内の八、九も
している。また、このつまらない不必要な事を実際に必要な事と
思っている。これでは多忙であるというのももっともなことである。
何かしようと志している人は、誤ってこのような心得ちがい(欠点)をして
はいけない。


【所感】
本当にやるべきことをやらずに、やる必要のないことをしていながら、
「忙しい、忙しい」と言っては、日々不満をいだいている人がいます。
それはそもそも志が定まっていないからであり、志が定まった人であれば
そんな状況には陥らないものだ、と一斎先生は言います。


周囲を見渡しても、このように非効率な仕事をしていながら、
自分ではそうと気づかずに、いつも忙しそうにしている人がいます。


仕事を進める上で重要なのは、優先順位をつける前に、
劣後順位をつけることです。


まずやらなくて良いこと、後で処理すれば良いことをバッサリと
捨てることを劣後順位をつけると言います。


一斎先生の言葉でいえば、実事と閑事を切り分けるということです。


劣後順位をつけて、今やらなくてよいことを捨てた上で、
残った仕事の中で優先順位をつけることが肝心です。


しかしそんなことは、そもそも志が定まってさえいれば自然にできることで
あるから、まずは志を明確に定めることがもっとも大切なことであると、
一斎先生は明言されています。


志を定めるとは、自分は何をもって世の中に貢献するのかを決めること
です。


孔子が天命を知ったのは五十のときです。


小生もあと2年で五十になります。


それまでに自分の志を明確に定めなければなりません。

第30日

【原文】
自ら責むること厳なる者は、人を責むることも亦厳なり。人を恕すること
寛なる者は、自ら恕することも亦寛なり。皆一偏たるを免れず。
君子は則ち躬自ら厚うして、薄く人を責む。


【訳文】
自分の過失を責め咎めることの極めて厳しい人は、他人の過失を責める場合
も厳格である。また他人の過失に対して思いやることの寛容な人は、
自分の過失に対して思いやることも寛大である。これはどちらも厳格に
過ぎるか寛大に流れるか、一方に偏していることは免れない。
しかるに教養のある立派な君子は、自分を責めること厳格で、他人を責める
こと寛大である。


【所感】
自分に厳しい人は他人にも厳しく、自分に甘い人は人にも寛容である。
このようにどちらかに偏るのが人の常だが、君子と呼ばれる人は、
自分には厳しくとも他人には寛大に接するものだ、と一斎先生は言います。


これは後の一斎先生の名言中の名言


「春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら慎む」『言志後録』


の原型とも言える言葉です。


小生なども、自分に厳しくしているつもりですが、その結果、他人にも
同様に厳しく接してしまうタイプですので、この言葉は心にグサリと
突き刺さりました。


『論語』(里仁第四篇)の中で、孔子は


「苟(いやしく)も仁に志せば、悪(にく)むこと無きなり」


と言います。


これは安岡正篤先生の訳によれば


「仁を常に心に抱いているならば、人の言うことを、あれもいけない、
これもいけないと、簡単にしりぞけることをしなくなる」


という意味になります。


さらに安岡先生は言います。


「好き嫌いが激しいということは、要するにまだ利己的でけちな
証拠である」(『論語に学ぶ』PHP文庫より)


結局、口では利他の心などと言っていても、他人に接する際に厳しく
接するような人は、まだまだ修行が足りないということのようです。


自惚れから目を覚ましてくれる痛快なお言葉です。

第29日

【原文】
大徳は閑(のり)を踰(こ)えざれ。小徳は出入すとも可なり。此(ここ)を
以て人を待つ。儘(まま)好し。


【訳文】
五倫・五常のような大きな徳というものは、根本的な礼法や規則を
ふみ越えなかったら、応待進退のような末節のことは、多少の出入があっても
さしつかえないものである。このような心得をもって人に対応してまあよかろう。


【所感】
儒教の根本精神である、五倫(父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序
・朋友の信)や五常(仁・義・礼・智・信)をしっかり心得た生活を
しているのであれば、日常の礼儀に少しくらい悖(もと)ることがあっても
致し方ない。そういう心をもって人に接するので大きな間違いはないだろう、
と一斎先生は言います。


リーダーとしてメンバーに接するときには、よく拳拳服膺すべきお言葉ですよね。


自分自身を含めて、すべてに完璧な人はいません。


かといって、何事も指導せず、自由奔放に振舞わせることは、放任に
外なりません。


では、どこを見るかといえば、五倫や五常の徳といった大きな社会のルールに
則っているかという点です。


ミスすることはOK、されどそれをしっかりと上司に報告し、
ご迷惑をおかけしたお客様にきっちりと謝罪ができているかどうか?


こうした大きな心持ちでメンバーに接することで、リーダーシップは大いに
発揮されるはずです。

第28日

【原文】
纔(わず)かに誇伐の念頭有らば、便(すなわ)ち天地と相似ず


【訳文】
少しでも自慢する - 誇る - 心を持っていると、万物を化育して少しも誇りたかぶることの無い天地の心と似合わないことになる。


【所感】
少しでも人を見下ろすような気持ちが生じただけで、万物を産み育てている自然の法則から外れることになる。自然の法則に背けば、善く生きることはできない、と一斎先生は言います。


『論語』里仁第四篇第二章にも


「不仁者は以て久しく約に處るべからず。以て長く樂に處るべからず」


とあります。


これは、「仁の徳をもたない人間が窮乏の生活に長くいれば、窮乏に耐え切れずに、いろいろな不都合をしでかす。また長く得意の地位にいることもできない。必ず僭上沙汰(自分の分際を超えたことをすること)をしでかすからである」という意味です。


小生のような小人は、仁の心から離れてしまい易いので、困苦を耐え忍ぶこともできないし、得意絶頂のときには慢心や驕りによって、自らその地位から転がり落ちてしまうということでしょう。


特に日本人の特性として、困窮のときは比較的持ちこたえられても、得意のときに慢心を起こさないように平生を保つことが難しいのではないでしょうか。


常に禍福に惑わない仁のこころを保って、自然の法則に適った人生を歩みたいですね。
プロフィール

れみれみ

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