【原文】
古楽は亡びざる能わず。楽は其れ何(いずれ)の世に始まる。果して聖人より前なる歟。若し聖人に待つこと有りて而して後作(おこ)りしなば、則ち其の人既に亡くして、而も其の作る所、安んぞ能く独り久遠を保たんや。聖人の徳の精英、発して楽と為る。乃ち之を管絃に被(かぶ)らせ、之を簫磬(しょうけい)に諧(ととの)え、聴く者をして之に親炙するが如くならしむ。則ち楽の感召にして、其の徳の此に寓するを以てなり。今聖を去ること既に遠く、之を伝うる者其の人に非ず。其の漸く差繆(さびゅう)を致し、遂に以て亡ぶるも、亦理勢の必然なり。韶の斉に伝わる、孔子深く心に契(かな)えり。然れども恐らくは已に当時の全きに非ず。但だ其の遺音尚お以て人を感ずるに足るも、而も今亦遂に亡ぶ。凡そ天地間の事物、生者は皆死し、金鉄も亦滅す。況や物に寓する者、能く久遠を保せんや。故に曰く、古楽亡びざる能わずと。但だ元声太和の天地人心に存する者に至りては、則ち聖人より前なるも、聖人より後なるも、未だ嘗て始終有らず。是れも亦知らざる可からず。【訳文】
昔の音楽は、滅亡しないわけにはいかない。音楽はいつの時代に始まったのであろうか。はたして聖人より以前のものであろうか。もし、聖人が世に出てから作ったものであれば、その聖人がなくなって、その作られた音楽が、どうして永遠に残っていられようか。聖人の徳の秀でたものが、外に現われて音楽となった。これを管弦簫磬などの楽器に和して、音楽を聴く者をして、聖人に親しませるようにしたのである。すなわち、これは音楽が人を感動させて、聖人の徳が音楽のなかに存しているがためである。今は聖人が世を去ってから久しくなっているので、音楽を伝える者も昔の人のようでない。次第に相違が出てきて、遂に滅亡するようになるのも、あたりまえである。韶の善美な音楽が斉の国に伝わって、孔子はその音楽を大変賛嘆せられた。しかし、それは恐らく、舜の時のものではない。ただ残っていた音が、人を感動させるに十分なものであったであろうが、それは現在滅亡してしまった。大体、天地間の万物は、生じた物は総て死に、金属のようなものまでも、滅亡してしまう。まして、楽器に寄寓する音楽は、久しくも保ち得るものではない。それで、古代の音楽は、滅亡しないわけにはいかないというのである。ただ、元声・太和のような最上の音楽が、天地人心の中に存在しているものについては、聖人より前も後ろも変わりなく。元来終始のあるべきものではない。このことも、知っていなければいけない。
【所感】
昔の音楽は廃れていくのは当然である。聖人が作った音楽であれば、当の本人が亡くなった後に廃れてしまうのも致し方ない。その人(聖人)に親しむように作られた音楽が、当の本人でない人によって伝えられても、そこには差異が出て当然であり、その結果廃れていくのである。かつて孔子が感動した韶ではあったが、舜帝の当時とは差異が生じていたはずで、ついには廃れてしまった。すべてこの世界の事物は滅亡していくものである。ただし最上の音楽には聖人のこの世にあるなしに関係なく、本来は終始などないはずである。このこともよく覚えておくべきだ、と一斎先生は言います。
音楽は作者の逝去と共に次第に変貌し、遂には消え失せてしまうというのは、世の中のすべての事物と同様のことで、当然である。
しかし本物の音楽と呼べるものには流行り廃りはなく、永遠に存在するものであることも忘れてはならない。
この章を読んで感じるのは、音楽のような形のないものと、文学のように書という形で残されるものとの寿命の違いです。
しかし本物の音楽と呼べるものには流行り廃りはなく、永遠に存在するものであることも忘れてはならない。
この章を読んで感じるのは、音楽のような形のないものと、文学のように書という形で残されるものとの寿命の違いです。
本日、共に学ぶ仲間と道元禅師ゆかりの永平寺を訪れ、宝物殿にて、道元禅師直筆の「普勧座禅儀」を拝見し心から感銘を受けました。
これは当時既に紙と墨が発明されており、800年の時を超えた現在にも道元禅師の書が現存していればこそ感じ得た感動であろうと思います。
ところが音楽は古代においては録音という技術がなく、作者の想いの込められた演奏が残されていません。
ところが音楽は古代においては録音という技術がなく、作者の想いの込められた演奏が残されていません。
その結果、音楽は永く存在することができなかったのではないでしょうか。
森信三先生は、名著『修身教授録』の中で、成形の功徳と称して以下のような説明をされています。
すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現れないということです。同時にまた、仮に一応なりとも形をまとめておけば、よしそれがどんなにつまらぬと思われるようなものでも、それ相応の効用はあるものだということです。
現実界が有形界だとしたら、この地上に一つの新たな有形物を生み出すということは、それ自身確かに一つの善事であり、功徳のあることと言ってもよいわけです。
小生は営業部門のマネジメントをしています。
マネージャーとして最初に取り組んだ事の一つが、手書きの日報をデジタル化(IT化)することでした。
書いたら書きっぱなしで、再読されることがほとんどなかった日報を、全社で共有するIT日報へと変えたことによって、本来無形であった多くの有用な情報が社の財産として活かされるようになりました。
これも成形の功徳のひとつだと認識しています。
さて一方で一斎先生は、本物は永遠であるとも指摘しています。
これも成形の功徳のひとつだと認識しています。
さて一方で一斎先生は、本物は永遠であるとも指摘しています。
本物とは何か。
それは天地自然の法則であり、それに適ったものと言えるでしょう。
それは天地自然の法則であり、それに適ったものと言えるでしょう。
日々、成形の功徳を実感すべく、形にするという活動を行いながら、本物を見出し、本物を生み出せるような人間へと成長したいものです。