一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年05月

第106日

本来は本日第108日目を掲載するべきですが、第106章を飛ばして掲載していたことに気づきました。
そこで本日は第106日目として、第106章を掲載いたします。
失礼いたしました。



原文】
凡そ年間の人事万端、算え来れば十中の七は無用なり。但だ人平世に処(お)り、心寄する所無ければ、則ち間居して不善を為すことも亦少なからず、今貴賤男女を連ね、率(おおむ)ね無用に纏綿(てんめん)駆役せられて、以て日を渉れば、則ち念(おも)い不善に及ぶ者、或いは少なし。此も亦其の用ある処。蓋し治安の世界には然らざるを得ざるも、亦理勢なり。


【訳文】
だいたい、一年間の仕事は種々さまざまであるが、これを算(かぞ)えると十の中の七つは無用なことである。ただ人は平和な世の中にいて、心を寄せる所が無ければ、人にかくれてこっそりおると、悪いことをすることも少なくない。今の世の身分の貴い人も低い人も男も女も、大体無用のことで、それにまといつかれ、追いまわされて生活しておれば、悪いことをしようと考えることが少ない。これもまた無用の用といえる。思うに、平和な世の中においては、そうならざるを得ないことも、また自然のなりゆきといえる。


【所感】
およと一年間に行うことを数えてみれば、その七割は無駄なことをしている。しかし人は争いの無い平和な世の中にいて、心を奪われることがなく、暇を持て余すと悪いことをしてしまうものだ。身分の高下、男女に関係なく、みな無用なことに関わり、働かされて日々を過ごすと、悪いことを考えることも少なかろう。これも無用の用であって、平和な世界ではこれもまた自然の法則なのであろう、と一斎先生は言います。


大学に


「小人閑居して不善を為す」


という有名なことばがあります。


このことばが掲載されている章句全体を見ると、


小人閑居して不善を為す。至らざる所なし。君子を見て后(のち)として、その不善を揜(おお)いてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝を見るがごとく然り。則ち何の益かあらん。これを中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。


とあります。


通解としては、


不徳の小人は間居独坐すれば、人目を憚ることなしと思い、不善をなしても一向構わない。君子にあった後はあわって覆い隠そうとし、俄かに善をなそうとする。ところが人を視ることは、その人の肺や肝臓を見透かしてしまうので、そんなことをしても全く無意味である。心に誠があれば外に表れるものである。(逆もまた真で、心に邪悪なものがあれば、それが面貌に表れてしまう。)だからこそ、君子は独りを慎む、つまり慎独を大切にするのである。


となるでしょうか。


小生のような正に小人にとっては、独りを慎むということが非常に難しいことに思えます。


誰も見ていないからまあいいか、と思ってしまうことが多々あるものです。


そういう意味では、一斎先生の仰るように、実は大したことをしているわけではないものの、常に忙しくしている方が、また人目に晒される環境に身を置く方が、善を為しやすいと言えそうです。


最近小生は、仕事以外にプライベートの活動を充実させています。


月に二回は塾生として学ぶ場に参加しており、月に一回は小生自身が古典を学ぶ読書会を主査しています。


これによって土日はほとんど家に居ない、つまり独りでいる環境がほとんどない環境を作り出しています。


その結果、大変充実した日々を送っていますし、悪いことを考えている暇など全くありません。


ただし、家族からは白い目で見られているようですが。。。


第108日

原文】
性は諸を天に稟(う)け、軀殻は諸を地に受く。天は純粋にして形無し。形無ければ則ち通ず。乃(すなわ)ち善に一になるのみ。地は駁雑(ばくざつ)にして形有り。形有れば則ち滞る。故に善悪を兼ぬ。地は本(も)と能く天に承けて以て功を成す者、風雨を起して以て万物を生ずるが如き是れなり。又時有りてか、風雨も物を壊(やぶ)れば、則ち善悪を兼ぬ。其の謂わゆる悪なる者、亦真に悪有るに非ず。過不及有るに由りて然り。性の善と軀殻の善悪を兼ぬるとは亦此の如し。


【訳文】
人の本性は天から受け、身体は地から受けたものである。天はまじりけが無く、形というものも無い。形が無いので、どこへでも通ずることができる。それで、善一つになることができるのだ。地はごたごた入りまじっていて、形を具えている。形があるので通ぜず渋滞する。それ故に、地は善と悪を兼ねている。この地は、本来天から受けて地としての働きをするものである。風雨を起して万物を生成するが如きはこれである。また時には、風雨が物を破壊すれば、善悪を兼ねる。その悪というものも、真からの悪ではなく、過ぎたり及ばなかったりして、中正を得ないがためにそのようになるのである。本性が善(至善)であるのと、身体が善悪を兼ね具えているということも、またこれと同じようなものである。


【所感】
人の心は天から受け、身体は地から受けたものである。天は無形であるからすべてに通ずる。すなわち善と一体化している。地は不純物も混じった形有るものであるから滞る。それゆえに善悪双方を有している。とはいえ地は本来は天から受けて功を成すものであるから、風雨を起して万物に命を与える。しかし、時には風雨が物を破壊することがあり、こうなると善悪を兼ねていることになる。その悪も、真の悪ではなく、過ぎたり足りなかったりで適度なところを保てないからである。心が善で、身体は善悪を兼ねるというのも、またそれと同じであろう、と一斎先生は言います。


人の心は本来善である、という性善説に立ったお言葉ですね。


しかし前章で指摘されたように、形ある身体は安逸を求めるゆえに、時に悪をなすことがある。


身体の欲望を捨て去って本来の善をなす様、己を磨くのです。


これを中国古典の『大学』では、


明明徳


すなわち、


明徳を明らかにする


としています。


つまり学問をすることは、何かを身につけるのでなく、日常生活でいつの間にかこびりついた心の曇りを拭い、心の鏡をピカピカに光らせることなのです。


万物は全て(人間にとって)メリットとデメリットを有しています。


我々は自然の法則に逆らわない範囲でこのメリットを最大限に引き出す努力をするしかありません。


そしてこれは人と接する時もまったく同じであるように思います。

第107日

原文】
性の善を知らんと欲せば、須らく先ず悪を為すの由る所を究むべし。人の悪を為すは、果たして何の為ぞ。耳目鼻口(じもくびこう)四肢の為に非ずや。耳目有りて而る後に声色に溺れ、鼻口有りて而る後に臭味に耽り、四肢有りて而る後に安逸を縦(ほしいまま)にす。皆悪の由りて起る所なり。設(も)し殻をして耳目鼻口を去り、打して一塊の血肉と倣(な)さしめば、則ち此の人果して何の悪を為す所あらんや。又性をして殻より脱せしめば、則ち此の性果たして悪を為すの想有りや否や。蓋ぞ試みに一たび之を思わざる。


【訳文】
人の本性が善であることを知ろうとするならば、まずぜひとも何故に悪をなすのかを究めるべきである。人が悪をなすのは、はたして何のためであろうか。それは耳・目・鼻・口・手・足のためではなかろうか。耳や目があるので音楽や女色に溺れ、鼻や口があるので美香や美味に耽り、また手や足があるので安楽を貪ろうとするのである。これらは総て悪の起る原因となる。もし、身体から耳目鼻口を取り除いて、一かたまりの血肉としたならば、この人ははたして、どのような悪をなすのであろうか。また、人の本性を身体から取り除いたならば、この本性ははたして、悪をなそうとする考えがあるのかどうか。試みに一度これを考えてみようではないか。


【所感】
人は本来善であることを知ろうとするなら、まず悪をなす理由を究めるべきだ。人が悪をなすのは何故か。耳目鼻口や手足の為ではないか。耳目は音楽や色気に、鼻口は芳香や美味にとらわれ、手足は安楽を求める。皆悪の原因となるものである。もし耳目鼻口を去り、血肉のかたまりとなせば、この人はいかなる悪をなすだろうか。又本性を体から抜き取れば、この本性はいかなる悪をなすことを考えるであろうか。物は試しでこれを考えてみよう、と一斎先生は言います。


悪をなすのは、己の存在を意識するからであって、無我の境地に至るならば、人は本来善である、ということを一斎先生は仰りたいのでしょう。


以前に


夢=For me

志=For you


というお話をしました。


まずは世の中のお役に立てる人物たろうとすること、すなわち志を立てることが重要です。


なるべく若い時に、明確な志を立てることができれば、人は迷うことなく善を発揮できるはずです。


そしてそのためには、耳目鼻口手足といった己自身を棄て去ることを目指さねばなりません。


これこそ人間が学問をしなければならない、ひとつの大きな理由と言えそうです。

第105日

原文】
天下の事物、理勢の然らざるを得ざる者有り。学人或いは輒(すなわ)ち人事を斥けて、目するに無用を以てす。殊に知らず、天下無用の物無ければ、則ち亦無用の事無きことを。其の斥けて以て無用と為す者は、安(いずくん)ぞ其の大いに有用の者たらざるを知らんや。若し輒ち一概に無用を以て之を目すれば、則ち天の万物を生ずる、一に何ぞ無用の多き。材に中(あた)らざるの草木有り。食う可からざるの禽獣虫魚有り。天果たして何の用有りて之を生ずる。殆ど情量の及ぶ所に非ず。易に曰く、「其の須(ひげ)をかざる」と。須(ひげ)も亦将(は)た何の用ぞ。


【訳文】
世の中の物事は、自然のなりゆきでそうならなければならないものがある。どうかすると、学問する人は、人の行なうことを排斥し、無用な物と見る。殊に「世の中には無用な物が無ければ、無用な事も無い」ということを知らない。学人が排斥して無用とするものは、それがかえって大いに役立つものであるということをどうして知ろうか。もしおしなべて無用の物と見るならば、天が万物を生ずるにあたって、なぜ無用の物を多く作ったのであろう。世の中には、用材に適しない草木もあり、食用にならない禽獣や虫魚もある。天が果たしていかなる用途があって、これらの物を生じせしめたのだろうか。それはほとんど人間の考えが及ぶべき所ではない。『易経』に「あごひげを飾る」という言葉があるが、そのひげもまた何の役に立つのであろうか。


【所感】
万物は皆、自然の法則に逆らうことはできない。学問をする人は、人の行いを無用なものと見るが、無用の用を知らないだけだ。無用のものが実は大いに役に立っていることを知らないのだ。もし一見して無用だと決めつけるなら、世の中にいかに無用のものが多いことか。建築に適さない草木、食に適さない生き物もある。天がいったい何のためにこれらを作ったのかは、吾々の考えの及ぶところではない。『易経』には、「あごひげをかざる」とある。そのひげも何の役に立つというのだ、と一斎先生は言います。


一見役に立たないものが、実は役に立っているということについて、『荘子』には有名な「無用の用」という故事があります。


惠子、莊子に謂ひて曰く、子の言は無用なりと。莊子曰く、無用を知りて、始めて與(とも)に用を言ふべし。夫(そ)れ地は廣く且つ大ならざるに非ざるも、人の用うる所は足を容(い)るるのみ。然らば則ち足を廁(はか)りて之を墊(ほ)り,黃泉に致らば,人尚ほ用いることあらんか?と。惠子曰く、用いること無しと。莊子曰く、然らば則ち、無用の用たるや、亦た明らかなりと。


訳は


恵子が荘子にむかっていった、「あなたの話は現実離れして実際の役には立ちませんね」。荘子は答えた「役に立たない無用ということがよく分かってこそ、初めて有用についてかたることが出来るのです。いったい大地は何処までも広々として大きなものだが、人間が使って役に立っているのは足で踏むその大きさだけです。しかし、そうだからといって、足の寸法に合わせた土地を残して、周囲を黄泉に届くまで深く掘り下げたとしたら、人はそれでもその土地を役に立つ有用な土地だとするでしょうか」。恵子「それじゃ役に立たないでしょう。」と答えたので、荘子は言った、「してみると、役に立たない無用に見えるものが実は役に立つ働きを持っているということが、今やはっきりしたでしょう。(わたしの話もそれですよ。)」(金谷治先生訳)


となります。


人間の生活に役立たないからといって、無用と決めつけることは危険なことです。


この世の中は人間のためだけにあるのではないからです。


極端に解すれば、組織の長となったとき、自分にとって役に立たないものごとをすべて切り捨てるようなことをしたら、必ずその報いを受けるのではないでしょうか?


一見、デキの悪い社員さんも、自分を光らせてくれるために存在しているのだ、と思うことができるかどうか。


人間の真の成長は、そうしたところにあるのかも知れません。


一見役に立たないものごとが存在する意味を深く考えるべきなのでしょう。


其の須(ひげ)を賁(かざ)る
『易経』山火賁(さんかひ)にある言葉
この卦は、飾るのは良いが、飾り過ぎるのは良くないという趣旨の卦。

第104日

原文】
夏后氏而来(じらい)、人君皆子に伝う。是れ其の禄を世にするなり。人君既に自ら其の禄を世にして、而も人臣をして独り其の禄を世にするを得ざらしむる者は、斯れ亦自ら私するならざらんや。故に世禄の法は、天下の公なり。


【訳文】
禹が聖王舜の禅(ゆずり)を受けて位に即(つ)いて以来、人君は皆王位を自分の子に伝えていった。これが禄というものを世に伝える始めといえる。人君が自分の子に位を譲って、臣下には禄を世に伝えさせないのであれば、これは人君自ら王位を私物化するものである。それで、禄を子孫が代々受け継ぐことは、天下の公事といえる。


【所感】
禹がその業績を讃えられて舜から帝位を譲り受けて夏后氏(夏王朝の始祖)となって以来、君主はその帝位を世襲とした。これが禄を世に伝えた始めである。君主が世襲制度を敷いて、臣下には位を継承しないのは、帝位を私物化することになる。よって世襲の制度を敷くことは、天下の公事である、と一斎先生は言います。


中国古典の『貞観政要』にある有名な一節に、


創業と守成いずれが難きや


があります。


これは、貞観十年に時の君主である唐の太宗が発した言葉だそうです。


つまり、


国を興すのと国を維持するのではどちらが難しいだろうか?


と尋ねたわけです。


この問いに対し、宰相の房玄齢は、創業が難いと指摘し、重臣の魏徴は守成が難いと回答をします。


最後に太宗は、「今や創業は成ったのであるから、これからは皆共に守成の難しさに対処して行こう」と答える、という件があります。


会社を興すことは勿論大変なことではあります。


しかし創業者は熱い想いや志をもって進めるが故に逆境を超えていくことができるものです。


しかしいざ、企業として体裁を整え、やがて二代目に引き継ぐとなると、ここに守成の難しさが立ちはだかります。


つまり二代目は創業の苦労を知らない場合が多く、また横暴を極めたり、浪費に走ったりといったことから身を持ち崩すというパターンに陥るわけです。


私企業を同族での世襲とするか、パブリックにするかは大変難しい問題です。


企業存続のひとつの壁が三十年だと言われます。


同族企業の場合は、だいたい三代目がトップとなる頃でしょう。


ここで第二創業あるいは中興と呼ぶような大きな改革を打てなかった企業、特に同族企業は崩壊して行くようです。


古代中国においても、堯から舜へ、舜から禹へは禅譲によって帝位が移りました。


しかし禹が夏王朝を開いてからは世襲制となり、やがて夏は亡び、殷が起り、また殷も亡びて周が起こる、といった繰り返しになります。


二代目以降にはしっかりと帝王学を学ばせ、優秀なブレインがサポートする体制をつくり上げることが長期政権となる大きなポイントになりそうです。


また改めて万世一系の国である日本の素晴らしさにも思い至りますが、これについてはいつか別の機会に述べましょう。

第101日の誤記訂正について

第101日目の投稿に誤記がありましたので、訂正致しました。
三監(管叔、蔡叔、藿叔)とは、周の文王の子で、武王の弟でしたので、その部分を訂正、加筆しました。
申し訳ありませんでした。

第103日

原文】
征、十の一に止まれば、則ち井田なり。経界、慢ならざれば、則ち井田なり。深く耕し易(おさ)め耨(くさぎ)れば、則ち井田なり。百姓親睦(ひゃくせいしんぼく)すれば、則ち井田なり。何ぞ必ずしも方里九区に拘拘(くく)として、然る後に井田と為さんや。


【訳文】
納める税金が、収穫の十分の一に止まってそれ以上に出なければ、それで井田(せいでん)である。田地の区画がはっきりして乱れなかったならば、井田である。田地を深く耕し、よく管理し、雑草を除くことができたならば、それで井田である。人民が争うことなくおとなしく仲むつまじくしておるならば、これも井田である。どうして一里四方、九つの区画に、こせこせとかかわって、そして後に井田となそうか。井田となるものではない。(九つの区画があって、はじめて井田であるということはない)


【所感】
税金が収穫の十分の一であれば井田法の原理にかなう。田地の境界がはっきりとしていれば、井田法にかなう。田地をよく耕し、除草されていれば正殿法にかなう。人民が仲睦まじくしておれば、これも井田法の原理にかなっている。必ずしも井田法の区画(殷・周時代の田制。田を九等分して井の形とし、周囲を八軒に分ける)に厳密に拘る必要などない、と一斎先生は言います。


以前にも紹介した狂歌


白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき


ではないですが、水がキレイ過ぎても魚は棲めないものです。


同様に人民もあまりにすべてが理路整然とルールに寸分も違わることが求められれば、窮屈に感じるものです。


本来の井田法が人民からの租税を徴収することが第一の目的として作られたのであれば、その他の決まりに多少に差異が生じたとしても、人々が仲良く働き、田地もよく手入れが行き届き、税金がしっかりと徴収できているのであればそれで良しとすべきである。


一斎先生はそう仰っています。


組織においても、社員さんに共通の目的(ゴール)を明確にするためのルールが作られているでしょう。


ここで、リーダーがマネジメントではなく、コントロールをするようになると、共通のゴールを目指すという本来の目的が忘れ去られ、ルールを守ることが目的と化してしまいます。


リーダーは、つねにマネジメント(なんとかやりくりしてゴールを目指す)を意識して、フレキシブルにメンバーに対応せよ、と一斎先生は教えてくれます。

第102日

原文】
諺に云わく、禍は下より起ると。余謂えらく、「是れ亡国の言なり。人主をして誤りて之を信ぜしむ可からず」と。凡そ禍は皆上よりして起る。其の下より出づる者と雖も、而も亦必ず致す所有り。成湯の誥に曰く、「爾、万方の罪有るは、予(われ)一人(じん)に在り」と。人主たる者は、正に此の言を監(かんが)みるべし。


【訳文】
諺に「禍は下より起る」ということがあるが、私は、「この諺は亡国の言であって、人主をして誤ってこれを信じさせてはいけない」と思っている。総て禍というものは、上から起るものである。下から出た禍であっても、また必ず上に立つ者が、そうさせる所があるものである。殷の湯王の誥に「汝ら四方の国々の人民が罪あって法を犯すのは、上に立つ自分の責任である」とある。誠に至言である。人主たる者は、この湯王の言を手本にすべきである。


【所感】
昔からの言い伝えには、禍は下から起きるとある。私は思う、「これはすでに亡びた国の言葉であろう。君主に信じさせてはいけない」と。禍は皆上から起るものであり、下から起きたものがあれば、そこには必ずそうする理由があるものだ。殷の湯王のお告げに「あなたがたが罪を犯すのは、私ひとりの責任である」と。君主たる者は、是非ともこの言葉を拳拳服膺すべきである、と一斎先生は言います。


何かよくない事が発生したとき、矢印をどちらに向けるか?


他人の責任だと見るか、自分の不徳の致す所とみるか?


この章は、リーダーであれば、いつも矢印を自分に向け、すべての責任を引き受けよ、というメッセージだと捉えます。


かつて小生が部下指導で大きな過ちを犯し、社から譴責を受けた際、小生も最初は「彼らがデキが悪いのが原因なのに、何故自分が罰を受けるのか」と憤懣やる方ない気持ちとなりました。


その時、小生を救ってくれたのが、森信三先生の『修身教授録』の中にあった、


最善観


という物事の見方でした。


森信三先生は、この言葉を以下のように説明されています。


わが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。


自分の周りに起こることに意味がある、という趣旨の言葉はそれまでにも聞いたことはありましたが、それが「最善」であるという考え方には初めて出会いました。


小生のこのたびの過失はいったい小生にとって、なにが最善たり得るのだろうか?


この言葉を深く噛みしめ、何度も自分の言動を振り返るうちに、それまでの私の矢印はすべて相手に向けられていることに気付くことができたのです。


特に、リーダーとして組織を共通の目的(ゴール)に導かねばならない立場にある人は、矢印を自分自身に向けて、日々を振り返ることが求められるのでしょう。


「爾、万方の罪有るは、予一人に在り」


リーダーとして、常に心に留めておくべき言葉ですね。

第101日

原文】
或(ある)ひと疑う、成王・周公の三監を征せしは、社稷を重んじ人倫を軽んずるに非ずやと。余謂(おも)えらく、然らずと。三叔、武庚を助けて以て叛く。是は則ち文武に叛きしなり。成王・周公たる者、文武の為に其の罪を討せずして、故(ことさら)に之を緩して以て其の悪に党(くみ)せんや。即ち仍(な)お是れ人倫を重んぜしなり。


【訳文】
ある人は前言(100条)を疑って「幼主の成王と摂政の叔父周公が三監を征伐したことは、国家を重視して人倫を軽視したのではないか」という。自分はそうではないと思う。すなわち「三監は紂王の子武庚を奉じて成王に叛いた。これは周の祖先である文王とその子武王に叛逆したのと異ならない。成王と周公は、祖先の文王・武王のために、叛逆者を征伐せずに、三監のなすがままにして、その悪に組することができようか、できるものではない。すなわち、成王や周公は人倫を重視したのである」と。


【所感】
ある人は、成王と教育担当兼宰相の周公とが、三監を征伐したことは国家を人道よりも重視したのではないかと疑った。私はそうは思わない。成王の三人の叔父である三監が武庚を輔て謀反を起こしたことは、彼らの父である文王、兄である武王の御霊に叛いたことになるのであるから、成王と周公がその悪を許さずに討伐したことは当然であって、これこそ人道を守ったことになるのだ、と一斎先生は言います。
 

この章は、前章を補足するために書かれています。


国をとるか、人道をとるかという問題は大局的な見地から見ないとかえって国を危険に陥れる可能性があります。


罪を憎んで人を憎まず、と言いますが、もし人を憎まずをもって罪を許してしまえば、罰せられない事を知った別の人物が同様の罪を犯すことを誘発します。


こうなれば他人を思いやる心(恕)はいつしか消滅してしまうでしょう。


その結果、人道は廃れてしまいます。


組織においても同様で、やはり組織のルールを守らない者は罰を与えなければ、組織における人道は育たず、その結果組織の目標を達成することも難しくなるでしょう。


残念ながら現在は法治主義の下に国も組織も管理されていると言わざるを得ません。


もし徳治主義で国を動かし、企業を動かすためには、幼少期からの儒教的な教育、たとえば『論語』の素読などを復活させる以外に方法はないでしょう。


しかしこれは現実には不可能な情勢にあります。


リーダーは大局的見地に立ち、組織の維持と人道の堅持のバランスを常に考えて行動しなければならないようです。

第100日

原文】
人君は社稷を以て重しと為す。而れども人倫は殊に社稷より重し。社稷は棄つ可く、人倫は棄つ可からず。


【訳文】
人君は国家を尊重しているが、人の守るべき道は、国家よりもとりわけ重要である。国家は棄てることがあっても、人道は棄てることはできない。


【所感】
君主は国家を重く見ているが、人の履み行うべき道は国家よりも重要である。国家は棄てることもできるが、人道はいつも守らねばならない、と一斎先生は言います。


社稷(しゃしょく)とは、元々は社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称ですが、どちらも国家にとっても重きを置いたものであったため、いつしか国家そのものを指すようになったのだそうです。


また、人倫とは儒教的にいえば、五倫すなわち君臣の義、父子の親、長幼の序、夫婦の別、朋友の信を意味します。


一斎先生が言う国家とは、江戸時代の諸藩を意味するのでしょうか?


場合によっては脱藩して、別の土地に住むことは可能ではあるが、五倫を捨てて大手を振って暮らせるような場所はない、すなわちどんな場合でも守らねばならないのは人道である、ということです。


企業組織においては、特に君臣の義、長幼の序、朋友の信が守られなければなりません。


部下が上司を馬鹿にし、後輩が先輩の指示に従わず、仲間同士が足の引っ張り合いをするような組織が正常に機能し、目的を達成することはあり得ません。


小生が組織論のバイブルとして折に触れて読んでいる本に『幸せな売場の作り方』(兼重日奈子著、商業界)があります。


著者はこの本の中で主人公の兼子に、


売上は、売上が上がる店にならないと無理です。


と言わせています。


つまり組織の目的を達成するためには、まず組織として在るべき姿になっていることが先決だということです。


リーダーにとっては、常に組織に於いて人道が守られるよう目を配ることこそが、組織の目標を達成するために最も重きをおくべきことなのかも知れません。
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れみれみ