一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年07月

第159日

原文】
敬を錯認(さくにん)して一物と做(な)し、胸中に放在すること勿れ。但だに聡明を生ぜざるのみならず、卻って聡明を窒(ふさ)がん。即ち是れ累(わざわい)なり。譬えば猶お肚中(とちゅう)に塊(かい)有るがごとし。気血之が為に渋滞して流れず、即ち是れ病なり。


【訳文】
敬を誤認して一つの物となし、胸の中に放置してはいけない。賢明な働きができないだけでなく、反対に賢明さをふさぎとざして出さなくしてしまうのである。これが、累(わずらい)というものである。喩えていえば、腹の中(心中)にかたまった物があるようなもので、血液がこのために滞って流れていかないのと同じである。これが病気なのである。


【所感】
敬を重視せずに単なる一物として、胸中に放任していはいけない。ただ聡明になれないだけでなく、愚かになってしまう。これは禍いといえるだろう。例えて言えば体内に大きな塊があって、血液の流れを滞らせている状態、すなわち病と同じだ、と一斎先生は言います。


敬、すなわち己を虚しうして、慎み敬うことを軽視してはいけない。それは病にも似た大きな問題であると、一斎先生はご指摘されています。


病が体に、ひいては命に大きな影響を与えるように、不敬は人間関係を、ひいては人生を甚だしく悪化させるということでしょう。


それほどまでに一斎先生は敬を重要視し、何章にもわたって敬について触れています。


特に意識すべきは、昨日も触れた目下の人や弱者への敬でしょう。


相手の悪い点に目を向けず、良い点を見逃さずに、その良い点に対して敬の態度で接する。


一斎先生が仰るように、これが人生をより良く生きる最良の秘訣なのかも知れません。

第158日

原文】
己を修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、以て百姓(ひゃくせい)を安んず。壱(いつ)に是れ天心の流注なり。


【訳文】
自分を修養していくのに、敬の心をもってするならば、人々を安んじていくことができ、さらに広く天下の人民を安んじていくことができる。敬は、まったく天の心が流れ注いだものである。


【所感】
敬をもって自己を修養するならば、人を安心させ、さらに天下の人民をも安心させることができる。敬とは天の心が流れ注いだものなのだ、と一斎先生は言います。


人の上に立つ者にとっては、敬の心で自己を修養することが大切であり、そうすることで人から信頼されるということでしょう。


敬とはつまらない自我を消して、己を虚しうし、すべて一度は丸受けをする態度をいいます。


上に立つ者がこうした謙虚な姿勢を保てば、必要な情報、とくにマイナスの情報が速やかに上ってきて、事が大事になる前に対処することを可能にしてくれます。


この敬の心で接するということは、天(あるいは自然の法則)に逆らわない、本来の人間が有している態度なのだ、と一斎先生は仰っています。


ところが人の上に立つと、自分が偉くなったと勘違いをして、メンバーに対して傲慢な態度に出てしまう人がいます。


これではマイナスの情報は隠ぺいされ、手が付けられないほど状況が悪化してから露呈するということになりがちです。


かくいう小生がまさにそんなリーダーでしたので、下からの情報収集にはいつも苦労をしてきました。


人の上に立つからこそ、敬の心で謙虚さ、慎ましさを表わさなければいけないのでしょう。


小生の敬愛する中江藤樹先生のお言葉が思い起こされます。


それ学は、人に下ることを学ぶものなり。人の父たることを学ばずして、子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学ぶ。よく人の子たるものはよく人の父となり、よく人の弟子たるものはよく人の師となる。自ら高ぶるにあらず、人より推して尊ぶなり。


学問をする意味は、人に下ることを学ぶためである。人にへりくだるからこそ、人に推されるのである。


真のリーダーのあるべき姿がここにあります。

第157日

原文】
敬すれば則ち心精明なり。


【訳文】
慎みうやまうという敬の心をもっておれば、心は明鏡の如く汚れもなく純粋にしてはっきりしている。


【所感】
敬の心があれば、心は清らで穢れないものとなる、と一斎先生は言います。


この章については、関西師友会さんのサイトに以下の解説文が掲載されていましたので、引用をさせていただきます。


これは佐藤一斉先生の教えである。この意味は「心に敬があれば、妄念を起こさないから、心はいつも純粋でまじりけがなく、はっきりと明るい」という意味である。「敬」という文字は「恥」と対比されるもので、敬の心があってはじめて恥の意味がわかってくる。最近は敬もなければ恥もあまり感じない。あるのは妄念ばかりというのであれば、心は常に何かに覆われ霧のかかった状態である。安岡正篤先生は敬は人間がより偉大なるものの引き合わせに会うて、自ら発する心であると述べておられるが、自らの心を高める努力が必要である。


安岡正篤先生によれば、「敬」とは偉大なる自然の法則を体得し、それを事物に照らしていくことだ、と解説しているものと、小生は理解しています。


敬については、単に対人的な徳だと捉えるのではなく、偉大な自然の法則(時により、神、天、サムシング・グレートなどと呼ばれます)に対峙する徳であり態度であるということでしょう。


このように捉えるからこそ、己を小さな存在と認識し、己を虚しうして、周囲に対して慎ましくすることが可能となるのですね。


西郷南洲翁の大変有名な名言に、


人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。

とあります。

これこそまさに敬の態度そのものと言えましょう。

第156日

原文】
一箇の敬は、許多の聡明を生ず。周公曰く、汝其れ敬して、百辟(ひゃくへき)の亨(きょう)を識(し)り、亦其の不亨の有るを識れと。既に已に道破せり。


【訳文】
一つの敬の字は、たいへん人をかしこくする。昔の聖人周公が幼君成王に対して「汝は常によく慎んで、諸侯が献上する貢物を受けるべきか受けざるべきか(諸侯の中にはよく命を奉ずるものとそうでないものとがあること)をよく知っておくがよい」といったが、これは誠意の有無を、敬の一字で聡明に判別すべきであると言ったことである。


【所感】
敬は、人を非常に聡明にする。孔子が敬愛した周公旦は、成王の育成役であったころ、成王に対して「あなたは人に対して慎みをもち、諸侯の貢物を受ける場合と受けてはいけない場合があることを理解してください。」と言った。これこそ聡明さの極みであると、一斎先生は言います。


引き続き「敬」についてのお言葉です。


敬とは己を虚しうすること。慎み深くすること。


周王の下には、全国の諸侯から様々な献上品が送られてきたのでしょう。


恐らくその中には目の眩むようなお宝もあったことと思います。


そしてそこには様々な意図が交錯していたはずです。


もし謙虚さを忘れ、欲に目がくらんでしまったら、献上品を受け取るための交換条件を受け容れ、その国に特別の待遇を約束してしまうかも知れません。


これではまさに収賄です。


周王朝の前の殷、あるいはその前の夏の二つの王朝は、共に暴君が酒と女に溺れて国を乱し、その結果武力革命によって国を失っています。


周公は成王に対して、深くこれを誡めたのでしょう。


国を乱す最大の要因は統治者の我欲であり、この我欲を起さないために修めるべき徳が「敬」だということですね。


一箇の敬は、許多の聡明を生ず。


世のリーダー諸氏にとっても記憶しておきたい箴言ではないでしょうか?

第155日

原文】
敬は能く妄念を截断(せつだん)す。昔人(せきじん)云う、敬は百邪に勝つと。百邪の来る、必ず妄念有りて之が先導を為す。


【訳文】
心を専一にするという敬があれば、みだらな考え(妄想・迷心)を断ち切ってしまう。古人が「敬はいろいろな邪悪にうち勝つ」と云っている。多くの邪悪が襲ってくると、必ずみだらな考えが先に立って案内するものである。


【所感】
敬があれば妄念を断ち切ることができる。昔の人は、敬は数多の邪念に打ち勝つものだと言っている。数多の邪念は、先にみだらな考えが生じた後、これに先導されて湧いてくるのだ、と一斎先生は言います。


昨日の続編です。


本来、心に誠があれば、みだらな考えは生まれないはずだが、人間は長く生活してくると心が曇ってくる。


するといつしかみだらな考えが生まれ、それが契機となって、さらに数多くの邪念が誘発されてしまう。


一斎先生はそうお考えのようです。


しかし敬の気持ちがあれば、それを押さえ込む自制心がはたらくのだそうです。


敬とは己の心を虚しうすること。


そのためには相手をそのまま清濁併せ呑んで、まる受けに受けてみる。


するとその相手の中にこれまで気づかなかった良さを発見できる。


これによって距離感が心地よいものになり、邪念など消え失せてしまうのでしょう。


敬のパワーをもっと理解しないといけませんね。

第154日

原文】
妄念を起さざるは是れ敬にして、妄念起らざるは是れ誠なり。


【訳文】
心にみだらな考えを起さないのが敬ということであり、みだらな考えが起らないというのが誠なのである。


【所感】
心に敬の念があればみだらな考えは起さなくなるが、誠があればそもそも心にみだらな考えが生まれることすらない、と一斎先生は言います。


慎独を積むことで己の心に誠を蔵することができれば、どんな状況になってもみだらな考えを起すことがなくなるのだと、一斎先生は指摘しています。


ところがその修行の途中においては、完全に妄念を払いのけることができないので、敬の心で他人を尊重し、それによってみだらな考えを起さないように自分自身を自省することが必要だということのようです。


森信三先生は、他人に対して謙遜の態度をとるためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だと指摘しています。


この確固とした自己がないと、目上の人に対しては慇懃で卑屈な態度になり易く、また目下の人に対しては傲慢になり易いのだそうです。


そしてこのように結論づけられております。


傲慢は、外見上いかにも偉そうなにもかかわらず、実は人間がお目出度い証拠であり、また卑屈とは、その外見のしおらしさにもかかわらず、実は人間のずるさの現れと言ってもよいでしょう。


一斎先生が仰るみだらな心とは、この傲慢あるいは卑屈な心を指すのかも知れません。


以前にご紹介したように、敬とは己を虚しうすることです。


自己を確立し、他人を敬して、どんな人とでも適度な距離感で接することができれば、みだらな心は抑え込むことができるということでしょう。


となると、独りを慎むことも大切ですが、まずは確固とした自己を築きあげることが先決なようです。

第153日

原文】
意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。


【訳文】
自分の心が誠であるか誠でないかということは、せひ共、ねむって夢を見ている間に試してみるべきである。


【所感】
自分の心に誠があるかないかは、寝ている間の夢で試せばすぐに分かる、と一斎先生は言います。


人は起きているときは、心に反する言葉を発してその内面を隠すことができます。


しかし、寝た後の夢までもコントロールすることはできません。


夢の中で誠に反する自分が登場するのであれば、まだまだ自分の誠は足りていないと判断して、昨日学んだように、陰徳を積むより他はありません。


晩年の孔子は、こう言って自分の誠の衰えを嘆いています。


(原文)
子曰わく、甚(はなは)だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾復(ま)た夢に周公(しゅうこう)を見ず。


(意訳)
先師が言った。私の衰えもひどくなったものだなぁ。久しく夢に周公を見ていないのだから。


孔子にとって周公旦はアイドルでした。


周公が築いた礼制度を復活させたいということが、孔子の最大の願いでもありました。


きっと若い頃の孔子は、毎日のように周公を夢に見て、日々の励みとしてきたのでしょう。


ところが最近は夢を見なくなった。


それを孔子は自身の衰えだと捉えた。つまり誠が薄れてきたということです。


孔子はまさに夢で試して、自分の誠の衰えをはっきりと自覚したのです。


それにしても一斎先生のこの言葉は、有意識の世界と無意識の世界を見事にとらえた明言ですね。


一方、最近は夢すら見た記憶がない小生などは、衰えを通り越して、老いが深刻化しているのかも知れません。。。

第152日

原文】
畜厚くして発すること遠し。誠の物を動かすは、慎独より始まる。独処能く慎めば、物に接する時に於いて、太(はなは)だ意を著(つ)けずと雖も、而も人自ら容(かたち)を改め敬を起さん。独処慎む能わざれば、物に接する時に於いて、意を著(つ)けて恪謹(かっきん)すと雖も、而るに人も亦敢て容を改め敬を起さず。誠の畜不畜、其の感応の速やかなること已に此(かく)の如し。


【訳文】
貯蓄が多ければ、遠方までそれが現われるものである。誠が物を動かすのは、独り慎んでいくことから始まるのである。独居をよく慎んでいけば、事に応じ物に接する時に、ことさら注意しなくとも、人は自然と姿や形を正しくして敬意を表わすものである。独りを慎むことをしなければ、応事接物の時に、注意して謹んでも、人は決して姿を正して尊敬の念を表わさない。誠が蓄えられているかいないかによって、その感応の速やかであることは、このようなものなのである。


【所感】
徳目の蓄えが潤沢であればその影響力は大きくなる。人の誠が相手を動かすのは、独りを慎むところから始まる。独りを慎むことが深ければ、こちらが意を凝らさなくても、接した相手は居住いを但し、敬服するものである。独りを慎むことがなければ、こちらが如何に意を凝らしても、接する相手は態度を改めることなく、敬意を示すこともない。誠をどれだけ深く身に蔵しているかによって、その感化するスピードはこんなにも違うものだ、と一斎先生は言います。


儒教において最も重要な実践命題と言えるのが、この「慎独」でしょう。


誰でも人目があれば、ある程度モラルを守ることはできるものです。


ところが誰も見ていない環境となると、「まあちょっとくらいいいか」となりがちなのも人間です。


そんな時にどれだけその「ちょっとした出来心」を自制できるかが修養においては極めて重要だという事です。


誰も見ていないときでも常に正しい行いをするということは、実践する上では極めて困難なことではないでしょうか。


大変有名なエピソードですので、ご存知の方も多いかと思いますが、『後漢書』という古典にこんな話があります。


後漢の学者・楊震に推挙されて役人になった王密が、そのお礼として楊震に金十斤の賄賂を贈ろうとしました。


王密が
「夜なので誰にも気づかれません」
と言ったところ、


楊震が
「天知る、地知る、我知る、子知る。何をか知る無しと謂わんや」
と答えて、王密を強く叱責したという故事です。


意訳すれば、「お天道様も地の神様も、そして私もお前も見て知っているではないか。誰もいないなどと何故言えるのだ!」となるでしょうか。


特にこの「天知る、地知る」という考え方が慎独を踏み行う上では非常に重要な考え方になります。


神様は御見通しだということですね。


さて一斎先生は、誠という徳目は、深く独りを慎むことで蓄えられると解釈されております。


人前でどれだけ聖人君子を装っても、慎独が実践できていなければ、その言葉には威厳が欠落し、結果として相手に見透かされ、敬意を集めることはできない、ということですね。


メンバーを率いるリーダーにとっては、大変身の引き締まるお言葉ではないでしょうか。

第151日

原文】
善を責むるは朋友の道なり。只だ須らく懇到切至にして以て之を告ぐべし。然らずして、徒に口舌に資(と)りて、以て責善の名を博せんとせば、渠(かれ)以て徳と為さず。卻(かえ)って以て仇と為さん。益無きなり。


【訳文】
善行をなすように互いに責め合うということは、友人としてぜひなすべき道である。その場合は、ただ極めて親切丁寧に忠告しなければいけない。そのようにせず、いたずらに口先だけで、友人に善を責めるという美名を得るだけであるならば、彼は有難く思わず、反対に仇と思うであろう。そうなれば忠告はまったく無益なことになる。


【所感】
善を行うことを励まし合うことは、同門の友としてのなすべき道である。この場合は真心を尽して忠告すべきである。もし口先だけで、友に積善を勧めることで売名を図ろうとすれば、かえってそれは徳とはならず、友人からも仇として疎んぜられ、まったく無益なことである、と一斎先生は言います。


この章は現代における人間関係についてもそのまま当てはまります。


会社の同僚や、先輩後輩社員さんに対して、悪い行為を責め、良い行いを積むことを告げる際には、特に注意をしなければいけません。


少しでも真心からの言葉ではなく、売名行為だと捉えられてしまえば、アドバイスが無視されるだけでは済まず、かえってその後の人間関係を大きく壊してしまいかねません。


以前にご紹介した稲盛和夫さんの自問自答の問いかけ、


機善なりや、私心なかりしか


の如く、そのアドバイスは、あくまでも相手を心から思う純粋な気持ちが動機なのかどうかをよく自答しなければなりません。


これに関して、『論語』里仁篇の中に有名な章句があります。


(原文)
子曰わく、参(しん)や、吾が道は 一 (いつ )以て之を貫く。曽子曰わく、唯 ( い)。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂ぞや。曽子曰わく、夫子の道は忠恕のみ。


(訳文)
先師が言われた。
「参(曽子の名)よ私の道は一つの原理で貫いているよ。」
曽先生が「はい」と歯切れよく答えられた。先師は満足げに出て行かれた。
他の門人が「どういう意味ですか」と問うた。
曽先生が答えられた。
「先生の道は、忠(まこと)と恕(おもいやり)だと思うよ」


朱子は、


己を盡くす、之を忠と謂い、己を推す、之を恕と謂う。


として、まず己自身に対して真心を尽し、それを広く周囲に広めていくことの重要性を説明しています。


自分の出世のためとか、名誉のためなどではなく、真心から相手のためを思いアドバイスをすることは、まさに自己修養なのです。


それでも思いは伝わらないかも知れません。


しかし、己の真心を尽して、それを相手に施したのであれば、結果は二の次です。


少なくとも自分自身に私心がなく、動機が善であるならば、それで良しとして見返りを期待しないという覚悟でアドバイスをすることを心掛けましょう。

第150日

原文】
信、上下に孚(ふ)すれば、天下甚だ処し難き事無し。


【訳文】
誠の心があって、上下の人々に信用を得たならば、この世の中で、どんな事でも至難とされることはない。


【所感】
職位が上の人からも、また部下からも信頼を得ているならば、この世の中で成し難いことなどない、と一斎先生は言います。


有名な『論語』の一節があります。


(原文)
子貢政(まつりごと)を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民之を信にす。子貢曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先にせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何れをか先にせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆死有り、民、信無くんば立たず。


(訳)
子貢が政治の要道を尋ねた。
先師が答えられた。
「食(食糧)を豊かにし、兵(軍備)を充実し、民に信(道義)を持たせることだ」
子貢が尋ねた。
「どうしてもやむなく、捨てなければならないときに、この三つの中どれを先にすればよいでしょうか」
先師が言われた。
「兵を捨てよう」
子貢が更に尋ねた。
「どうしてもやむなく捨てなければならないときに、この二つの中どれを先にすればよいでしょうか」
先師が言われた。
「食を捨てよう。昔から食の有無にかかわらず、人は皆死ぬものだ。然し人に信がなくなると社会は成り立たない」(伊與田覺先生)


このように孔子は明確に、「信」の重要性を説かれています。


職場に置き換えてみましょう。


どんなに給与を含めた福利厚生面を充実させ、またカタログ等の販売ツールを整えたとしても、リーダーとメンバーの間に信頼関係がなければ組織は成り立たない。


このように理解することができそうです。


ではリーダーがメンバーから信頼を得るにはどうすべきか。


あくまで小生の拙い経験から導き出した答えであることを前置きした上で、掲載しておきます。


メンバーから信頼されるリーダーの条件

1.メンバーの誰よりも働いている。

2.ものさし(判断の基準)は常に「利よりも義」に置かれている。

3.トラブルが発生した際には、逃げることなく、先頭に立ってその解消に
努める。


信無くんば立たず。


組織運営においても非常に重要な言葉であり、肝に銘じておくべき箴言ですね。
プロフィール

れみれみ