【原文】
有名の父、其の子の家声を墜(おと)さざる者鮮(すくな)し。或ひと謂う、世人其の父を推尊し、因りて其の子に及ぶ。子たる者豢養(かんよう)に長じ、且つ挟む所有り。遂に傲惰の性を養成す。故に多く不肖なりと。固より此の理無きに非ず。而れども独り此れのみならず、父既に非常の人なり。寧(いずくん)ぞ慮の予(あらかじ)め之が防を為すに及ばざらんや。畢竟之を反りみしむる能わざるのみ。蓋し亦数有り。試みに之を思え、就(すなわ)ち草木の如きも、今年実を結ぶこと多きに過ぐれば、則ち明年必ず歉(けん)す。人家乗除の数も、亦然る者有り。
【訳文】
有名な父の子であって、家の名声をおとさないものは少ない。ある人は「世間の人々がその父をあがめるから、その子までほめる。ところが、その子は父の養育によって成長しながら、父の名声を自慢にして、遂に人に誇り自ら怠る習性を養成する。それで大抵は愚鈍な者である」といっている。もとより、このような道理が無いわけではない。しかしただこれだけではない。父は大変すぐれた人物であるから、どうして事前にこれを防ぐという考えの及ばないことがあろうか。結局のところ、考えていても、子供を反省さすことができない。思うに、これも天の定めなのだ。試みに考えてみなさい。草木のようなものでも、今年実を結ぶことが多すぎると、その翌年は必ず実りが少ない。人の家の盛衰の運命も同じことといえる。
【所感】
有名な父がいると、その子は家の名声を失墜させるものである。ある人が言うには「人々が父親を尊敬するので、それがその子にも及ぶ。その子は甘やかされて育ち、己を誇るようになる。その結果、驕りを生じ、努力をしなくなって、不肖の息子となるのだ」と。確かにそれはそのとおりであろうが、それだけでもない。父は優れた人物であるから、予めそうならないように手を打つはずである。結局は手を打ってみても、子供を反省させることができないということだろう。思うにこれも運命なのだ。考えてみれば、草木も今年多く実をつければ、翌年は少なくなるものである。家の盛衰もこれと同じであろう、と一斎先生は言います。
この章句については、第173日でも触れた守成(事業や家業の継承)に関する問題として考えてみましょう。
小生が見てきたいくつかの企業においては、父親から息子へ事業を継承するパターンとして以下の2つのパターンがありました。
ひとつめは、息子をいきなり自社の社員として迎え、比較的若いうちに役職を与えていくパターン。
もうひとつは、息子を一度奉公に出させて、他人の飯を食わせてから自社に迎えて、事業を継承するパターン。
この場合、明らかに前者のパターンの二代目は、傲慢で世間知らずということが多いようです。
どんなに優秀な人でも、自分の息子や娘には甘くなるものではないでしょうか?
可能であるならば、これはと見込んだ人材にその子の教育を委ねるということが必要です。
例えば、殷を滅ぼし周王朝を樹立した武王はその子である成王の教育を、弟である周公旦に委ねました。
周公旦とは孔子の故郷魯の初代の統治者であり、孔子が最も敬愛した人物です。
将来、自分の後を継いで欲しい子供であるからこそ、一度は親元を離れて、厳しい指導を受けることが必要だということでしょう。
一斎先生は、これも天の命であると達観されていますが、自分の起こした会社が長く発展することを望むのであれば、子供の教育には十分な配慮が必要だという戒めの言葉として理解したいと思います。
少し大きく捉えるならば、部下や後輩に目を掛ける場合でも、優しさと厳しさを持って接していくことが必要だという戒めとしてこの章を読んでも良いのではないでしょうか。