【原文】
此の軀殻を同じゅうすれば、則ち此の情を同じゅうす。聖賢も亦人と同じきのみ。故に其の訓に曰く、敖(ごう)は長ず可からず、欲は従(ほしいまま)にす可からずと。敖欲も亦是れ情種なり。何ぞ必ずしも之を断滅せん。只だ是れ長ず可からず、従にす可からざるのみ。大学の敖惰も、人往々にして之を疑う。吾は然りと謂わず。
【訳文】
人は同じような体をしているので、感情も同じである。聖人や賢人もわれわれと同じである。それで、聖賢の教訓たる『礼記』に「おごりの心を増長させてはいけない。欲望はほしいままにしてはいけない。」とある。おごりも欲望も、われわれの感情の一種であるから、これを断滅することはできるものではない。ただ、これを増長させたり、ほしいままにしたりすることはよくないことだ。『大学』に「おごりなまける所に偏する」とあるが、世人は時折りこれを疑うが、私はそうは思わない。
【所感】
同じ身体をもつ人間は、その感情も同じようなものである。聖人賢者においても同じである。だからこそ『礼記』には、「驕る心を増幅させてはいけない、欲望をなすがままにしてはいけない」とあるのだ。驕る心も欲望も感情のひとつである。これを仏教徒が言うように完全に無くす必要などない。ただ増幅させず、なすがままにしないことが大切なのだ。『大学』に書かれている驕りや怠惰に関する記載に疑いをもつ者もいるようだが、私にはなんの疑いもありはしない、と一斎先生は言います。
聖人であっても賢者であっても、人間である以上驕る心や欲望を持つことを否定していません。
このように、もともと原始儒教は非常にフレキシブルであり、『論語』においても孔子は随所にちょっとした心の乱れを垣間見せてくれます。
そしてそれこそが『論語』を読むときの、小生のひとつの楽しみでもあります。
よって『礼記』にしても『大学』にしても、度が過ぎることがよくないのであり、断滅ではなく、抑制つまり慎むことを求めています。
ここで、『礼記』の該当箇所をもう少し長く見てみます。
【原文】
敖(おごり)は長ず可(べ)からず。欲は從(ほしいまま)にす可からず。志は満たす可からず。楽しみは極む可からざるなり。(新釈漢文大系・竹内照夫著『礼記』明治書院)
【訳文】
驕り高ぶるような態度であってはいけない。欲望をほしいままにし溺れてはいけない。物事を要求する度合いは、適度でなければならない。喜び楽しむ快楽は、ほどほどでなければならない。
一方で仏教、特に禅宗においては、欲望を断滅(完全に消滅させること)することを目標とします。
一斎先生も儒者ですから、仏教徒が目指すレベルまでは必要ない、と仰っています。
つまり聖人君子(賢者)というのは、驕る心や欲望が心に生じない人を言うのではなく、それらをほぼ完全にコントロールできている人を指すことになります。
傲慢心や欲望を断滅することは勿論として、これをほぼ完全に抑制するということも大変な修養を要します。
そのためには、やはり「慎独」つまり独りでいるときに己を慎むことが最も効果的な修養となるでしょう。
以前にもご紹介した、「天知る、地知る」すなわち天地の神は常に見ている、という考え方で独りを慎み、驕りや欲を自制できる人間となりたいものです。