原文】
乾(けん)は易(い)を以て知(つかさど)るは良知なり。坤(こん)は簡を以て能くするは良能なり。乾坤は太極に統(す)べらる。知・能は一なり。


【訳文】
天は何の困難もなくたやすく万物を創造しているのは、人についていえば良知にあたっている。地は天が創造した万物を、何ら煩わしくごたごたすることなく育てているのは、人についていえば良能にあたっている。この天と地は、宇宙の根元である太極によって統一されているからして、良知や良能は別個のものでなく一つのものなのである。


【所感】
天が、いとも容易(たやす)く万物を創造しているのは人間でいえば良知に当る。地が、天の想像した万物を簡単に成育しているのは、人でいえば良能にあたる。この乾坤(すなわち天と地)は、万物の根元とされる太極という一点によって統治されているように、良知も良能も本来はひとつのものである。


この章句は『易経』繋辞伝上にある以下の言葉がベースになっています。


【原文】
乾は易(い)を以て知(つかさど)り、坤は簡を以て能くす。易なれば則ち知り易く、簡なれば則ち従ひ易し。知り易ければ則ち親しみ有り、従ひ易ければ則ち功有り。親しみ有れば則ち久しかる可く、功有れば則ち大なる可し。久しかる可きは則ち賢人の徳なり、大なる可きは則ち賢人の業なり。易簡(いかん)にして天下の理得。天下の理得て位を其の中に成す。


【訳文】
(乾は創造の働き、坤は完成の働きであるが、その働きかたはといえば)乾はきわめて容易にむぞうさに、少しの困難もない。つまり私心がないから物を生ずるになんの妨げもなく、大創造の業が行われるのである。坤はきわめて簡単に大まかで少しの繁雑なところがない。坤はよく乾に受けて逆らうことがないから完成の功が成し終えられるのである。(人の行いも)乾の徳のように平易であればだれにでも知りやすく、坤の徳のように簡略であればだれでもこれに従いやすい。平易で知りやすければ、人はみな我を疑わずして親しみついて来る。簡略で従いやすければ、人はみな一生懸命に自分の力を尽して功績があがる。人が自然に親しみついてくれば、おのずからそのなすところが永久に存続する。人が一生懸命に力を尽してその功績があがれば、おのずからその事業が広大となる。そのなすところのことが永久に存続するのは、人に勝った賢人日新の徳によるのである。その事業が広大になるのは、人に勝った賢人富有の大業だからである。(以上、人も乾坤の易簡の道にのっとって事を行えば、ついにその徳業が人に勝ることを説く。)乾の特質である平易と坤の特質である簡略を身につけたならば、天下の道理を完全に体得することができる。天下の道理はけっきょくは易簡にほかならないからである。天下の道理である易簡を体得することができれば、それはもはや聖人であって、天地の中における人の正しい地位を確立し、天地と肩を並べて天地人の三才として天地造化の功を助けることができるのである。(以上は総括。乾坤の特質は易と簡にあり、易簡は天地の公理であるから、易簡を体得すれば、天地と並んで三となるべきをいう。)(鈴木由次郎先生訳)


さらに、『孟子』尽心章句上の下記の文章も参考にしているようです。


【原文】
孟子曰く、「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は、其の良知なり。孩提(がいてい)の童も、其の親を愛するを知らざる者無し。其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる無し。親を親しむは仁なり、長を敬するは義なり。他無し、之を天下に達するなり。


【訳文】
孟子のことば「人間が学ばずして自然になしうるものは、良能であり、特に思慮をめぐらさずして知りうるものは、良知である。たとえば、二、三歳の子供でも、自分の親を愛することを知らぬ者はなく、やや成長すると、自分の兄を敬うことを知らぬ者はない。これがつまり良知・良能である。そして、この親しい身内を親愛することは仁であり、長上を敬うことは義である。たいせつなことは、この親親・敬長の心を天下に推し及ぼすことにほかならないのである。(宇野精一先生訳)


この二つの儒教の経典からインスパイアされて、一斎先生は乾を良知に、坤を良能に見立てているようです。


一斎先生の『欄外書』(儒教の経典の欄外にコメントを遺したものを集めた書)に以下のように記載しています。


乾坤が太極より出る以上、知・能の本体は固より二ではない。乾坤が妙合して人を成すのだから、人の知・能もまた一に合する。故に良知は即ち良能の知、良能は即ち良知の能であって、身の運動に係る点で能といい、心から発する点で知というにすぎず、それが良であることにおいて同一無二である。


以上をまとめると、この章句は結局以下のことを教えていることになりそうです。


天下の道理は(乾坤)の易簡にほかならないのであり、それを体得することを求めるべきである。それが行動となって現われるのが良能であり、思考として発揮されるのが良知である。つまり良知・良能とは別々に手に入れようと努力するようなものではなく、易簡の体得によって発揮されるものである。