一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年09月

第230日

原文】
堯・舜の上、善尽くる無し。備るを責むるの言、畢竟難きなり。必ず先ず其の人の分量の至る所を知り、然る後、備うるを責む。然らずんば寧(いずく)んぞ窮極有らん。


【訳文】
聖王堯・舜には、善が備わって尽きることがない。しかし、つまり完全性を求めるということは難しい。それで、まずその人の才能の限度を知ってから善行を勧め求めたらよい。そうせずに、ただ人に善を責めるのでは限りがない(これはすべきことではない)。


【所感】
堯帝・舜帝の善は尽きることがない。しかし一般的にはそのような備わった状態を求めることは難しい。まずはその人の分際を弁えて、その人に適した善が備わっているかを見るべきである。そうしなければ、責めを受けない人など存在しえない、と一斎先生は言います。


第175日のところで触れましたが、かつて小生は先輩からメンバーには能力差があるのだから、各自が均等に力を発揮する必要はない。それぞれがその力の範囲内で努力していれば良いのだ、ということを教えていただきました。


『論語』に頻繁に出てくる「忠」という言葉は、今でこそ忠誠とか忠義というような単語によって、人に逆らわずに仕えるという意味で使われます。


しかし、この言葉の本来の意味は、己の精一杯を尽くすことなのです。


たとえば、忠誠といえば、組織の長や上司に対して精一杯の誠を尽くすことです。


今では小生も、メンバーそれぞれの現時点での能力をよく見極め、各々がベストを尽くしているか否かを見るように努力しています。


たとえば、能力が10あるのに7しか発揮していないB君と能力が7あって6の力を発揮しているC君がいたとすれば、パフォーマンスとしてはB君のほうが優れているとしても、C君を褒め、B君にはさらに力を尽くして欲しいとお願いをします。


モチベーションの管理が大変難しくはありますが、たとえば野球のチームには、4番打者がいればバントの上手な2番打者が必要であるように、それぞれがもてる能力のベストを発揮してくれるようなマネジメントをすることが、リーダーとして非常に重要なことだと考え、日々精進しております。

第229日

原文】
孟子は、先務を急にし、親賢を急にするを以て、堯・舜の仁智と為す。試みに二典を検するに、並びに皆前半截(はんせつ)は、是れ先務を急にして、後半截は是れ親賢を急にす。


【訳文】
孟子は、知るということよりも、まず最初に為すべきことを為し遂げ、人を愛する以前に、賢者に親しむを急務とすることを、堯・舜の仁であり智であるとしている。試みに、『書経』の堯典と舜典とをしらべてみたが、両者ともそうで、前半は先務を主にし、後半は親賢を主としている。


【所感】
孟子は、知ることよりも自分のなすべきことをやり遂げることが先決であり、人を愛するよりも賢者に親しむことが先決であるとして、これを堯・舜の仁や智であるとしている。試みとして『書経』の堯典と舜典を調べてみると、ともに前半では務めを先にすることを、後半では賢者に親しむことを述べている、と一斎先生は言います。


一斎先生が引用した『孟子』の該当部分を掲載しておきます。


【原文】
孟子曰く、「知者は知らざること無きなり。当に務むべきを之れ急となす。仁者は愛せざることなきなり、賢を親しむを急にするを之れ務となす。堯舜の知にして物に徧(あまね)からざるは、先務を急にすればなり。堯舜の仁にして人を愛するに徧からざるは、賢に親しむことを急にすればなり。(後略)」


【訳文】
孟子のことば「知者はなんでも知らぬことはないはずだが、自分の本務をまっ先とするから、自然知らぬこともある。仁者はなんでも愛さぬものはないが、賢者を親愛することを急務とするから、自然至らぬところも生ずるのだ。すなわち、堯舜のような知者でも、すべての物事をあまねく知らなかったのは、先務を急としたからであり、堯舜のような仁者でも、すべての人間をあまねく愛することがなかったのは、賢者を親愛することを急務としたからである。」(宇野精一先生訳)


立派な人になりたいなら、まず目先の仕事に一所懸命に立ち向かえ。そして師と仰ぐべき人に親しみ、教えを請いなさい、と一斎先生は仰っています。


なにはともあれ、まずは今やるべきことを後回しにするな、という教えはこれまでにも目にしてきました。


しかし、この言葉の深さは、人に仁を施したいなら、まず己が師となる人に私淑せよ、と述べているところにあります。


これについては森信三先生も『修身教授録』の中で以下のように述べておられます。


目下の人に対する思いやりというのは、まず自分自身が、目上の人に対してよく仕えるところから生まれてくると思うのです。世間でも、「人に使われたことのない人に仕えるのはつらい」と申しますが、まったくその通りで、人に仕えたこのとない人は、どうしても人に対する思いやりが欠けやすいものです。つまり人間というものは、実地身をもってそこを経験しないことには、単に頭だけでは察しのつかないところがあるわけです。


この章句は、つまるところ知者になろう、仁者になろうとするならば、まず実地身をもって体験せよ、ということを教えてくれているのです。


小生などはすぐに形から、あるいは知識から入ろうとする悪癖がありますので、こうした言葉を聴くと目が覚める思いがします。

第228日

原文】
賞罰は世と軽重す。然るに其の分数、大略十中の七は賞にして、十中の三は罰して可なり。


【訳文】
賞と罰は世の中の事情となりゆきに従って、軽くしまた重くすべきである。しかしその比率は、およそ十中の七ほどは賞し、十中の三ほどは罰するのが望ましいことである。 


【所感】
賞罰は状況によって軽重を判断するものである。しかしその割合はといえば、十のうち七は賞を与え、三は罰を与えるくらいが良い、と一斎先生は言います。


非常に具体的でわかりやすい章句ですね。


人の上に立つリーダーは、メンバーに対してこの賞罰をどう与えていくかに心を配らなければいけません。


賞を与えてばかり、つまり褒めてばかりでも駄目ですし、罰してばかりでも駄目だということでしょう。


そのバランスは、状況によって異なるものの、大概は7対3で良いと、一斎先生は仰っています。


小生などは、どちらかといえば3対7、いや2対8くらいの割合で、罰することが多いようです。


これでは組織マネジメントはうまくいかないよ、と一斎先生に諭されているようです。


さて、この賞罰に関しては、『韓非子』に有名な言葉があるので掲載しておきます。


【原文】
明主の導(よ)りて其の臣を制する所の者は、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑と徳なり。何をか刑と徳と謂う。曰わく、殺戮をこれ刑と謂い、慶賞をこれ徳と謂う。人臣為る者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。故に人主、自ら其の刑徳を用うれば、則ち群臣は其の威を畏れて、其の利に帰す。故(すなわ)ち世の姦臣は則ち然らず。悪む所は則ち能くこれを其の主に得て、而してこれを罪し、愛する所は則ち能くこれを其の主に得て、而してこれを賞す。今人主、賞罰の威利をして己れよい出さしむるに非ず、其の臣に聴きて其の賞罰を行わば、則ち一国の人、皆な其の臣を畏れて其の君を易(あなど)り、其の臣に帰して其の君を去らん。此れ、人主、刑と徳を失うの患いなり。


【訳文】
賢明な君主がその臣下を制御するための拠りどころは、二つの柄にほかならない。二つの柄というのは、刑と徳である。何を刑と徳というのか。処罰で死罪にすることを刑といい、誉めて賞を与えることを徳という。人の臣たる者は、ふつうは処罰を恐れて褒賞を喜ぶものである。だから、人君たる者、その刑を行ない徳を施す権限を自分自身で運用したなら、群臣たちは刑罰の威力を恐れて褒賞の利益へと向かうことになるのである。ところが、世間の邪悪な臣下はそうではない。自分の嫌いな者がいると、君主の刑罰を行なう権限をうまくかすめ取ってその者を罰し、自分の気にいった者がいると、君主の褒賞を与える権限をうまく手にいれてその者を賞する。今かりに、人君たる者、賞による利益と罰による威力とを自分で与えることができず、その臣下と相談しながら賞罰を行なうということなら、国じゅうの人々はすべてその臣下を恐れて君主を軽視し、その臣下に身を寄せて君主からは離れることになるだろう。これこそ、人君たる者が刑を行ない徳を施す権限を失ったための弊害である。(金谷治先生訳)


いかにも法家の韓非子らしい章句ではありますが、リーダーが無暗に賞罰を与える権限までも下位の者に委譲してはいけない、という教えには納得するところが大きいのではないでしょうか。


そのためにはリーダーは日頃からメンバーの行動を直接視るという機会を得ておくことも必要でしょう。


最終的な評価を与える権限はしっかりと保持した上で、褒めると叱るのバランスを7対3で行う。


これが適切なリーダーシップを発揮する上でのゴールデンルールなのかもしれません。

第227日

原文】
経の用に妙なる処、是れ権なり。権の体に定まる処、是れ経なり。程子の「権は只だ是れ経」の一句、詮(と)くこと極めて妙なり。


【訳文】
経(不変の道理)をうまく運用されると、これが権ということである。権のもとづくところは経である。宋代の儒者程子が「権はただ是れ経」といったこの一句は、大変妙味があるといえる。


【所感】
経すなわち不変の道理がじょうずに使いこなされる場合、それが権すなわち臨機応変の謀(はかりごと)である。権が導きだされる根拠となっている基本的な筋道が経である。北宋の儒者である程子の「権は只だ是れ経」という言葉が説くところは極めて深いのである、と一斎先生は言います。


非常に難解な章句です。


一斎先生は、『周易欄外書』でも、


経・権は一なり。時中を得るものは皆典礼なり。踏むべき常道に非ざるはなし。


と述べておられます。


見事な策略は、宇宙の摂理に則っているものであるから、言うならば宇宙の摂理そのものだと言って差支えない、という解釈で良いでしょうか。


宋学(宋代の儒教)以来、中国儒学の骨格をなすのが、体と用(本体と作用)の考え方なのだそうです。


この章でいえば、体は経、用は権ということになります。


前章であれば、性が本体つまり体であり、情がその発用すなわち用だと言えます。


用は体から発現するものであるから、体そのものであり、体は用を生む本であるから、用と同一のものである、という考え方のようです。


哲学的解釈に深く立ち入ることは、このブログの本意ではありません。


ここでは、結局正しい行いや考え方というもの(作用)は、宇宙の摂理(本体)に則ったものとなるのであるから、宇宙の摂理に逆らっては、事を起したところで首尾よくいく道理が無い、という解釈に留めておきたいと思います。

第226日

原文】
情の本体は即ち性なれば、則ち悪の本体は即ち善なり。悪も亦之を性と謂わざる可からず。


【訳文】
感情の本体(四端)が本性であれば、悪を起す本体は善といえる。それで、悪も本性と言わなければならない。


【所感】
前章で触れた悪の本となる情(四端)の本体が、人間が本来もっている性であるならば、悪の本体は善である。悪もまた人間の本性なのだと言わざるをえない、と一斎先生は言います。


善と悪はまったく別物だというのではなく、情が中庸を保っている状態が善であり、極端に発揮された場合に悪となる、ということを意味しているようです。


性善説の本質に触れている言葉だと解釈できます。


この考え方は宋儒に特有のものであるようです。


『河南程氏遺書』(北宋の程明道、程伊川兄弟の語録集)には、こうあります。


善は固より性なり。然るに悪もまたこれを性と謂はざるべからず。


一斎先生が、この言葉を参考にしていることは疑いようがありません。


この考え方によれば、生まれながらの善人や悪人などは存在せず、ただ心の在り方次第で人は善人にも悪人にもなる、と言えるのではないでしょうか。


心理学者のアルフレッド・アドラー博士はこう言っています。


同じ環境に育っても、人は自分の意思で、違う未来を選択できるのだ。


つまり、親に捨てられたという過去をもつ人が、それを理由に殺人犯になることもできれば、自分と同じ苦しみを経験させないようにと孤児の自立支援に動くこともできるということです。(『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』小倉広著、ダイヤモンド社より)


今の自分は過去の自分の選択の結果であって、未来の自分は今の自分の選択によって決まるのです。


これが性善説に対するひとつの解釈であり、善も悪も同じ心の働き(作用)に過ぎないということでしょう。


学問を修め、実践するというサイクルを回し続け、どんな環境においても善を選択できる人でありたいものです。
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れみれみ