一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年09月

第230日

原文】
堯・舜の上、善尽くる無し。備るを責むるの言、畢竟難きなり。必ず先ず其の人の分量の至る所を知り、然る後、備うるを責む。然らずんば寧(いずく)んぞ窮極有らん。


【訳文】
聖王堯・舜には、善が備わって尽きることがない。しかし、つまり完全性を求めるということは難しい。それで、まずその人の才能の限度を知ってから善行を勧め求めたらよい。そうせずに、ただ人に善を責めるのでは限りがない(これはすべきことではない)。


【所感】
堯帝・舜帝の善は尽きることがない。しかし一般的にはそのような備わった状態を求めることは難しい。まずはその人の分際を弁えて、その人に適した善が備わっているかを見るべきである。そうしなければ、責めを受けない人など存在しえない、と一斎先生は言います。


第175日のところで触れましたが、かつて小生は先輩からメンバーには能力差があるのだから、各自が均等に力を発揮する必要はない。それぞれがその力の範囲内で努力していれば良いのだ、ということを教えていただきました。


『論語』に頻繁に出てくる「忠」という言葉は、今でこそ忠誠とか忠義というような単語によって、人に逆らわずに仕えるという意味で使われます。


しかし、この言葉の本来の意味は、己の精一杯を尽くすことなのです。


たとえば、忠誠といえば、組織の長や上司に対して精一杯の誠を尽くすことです。


今では小生も、メンバーそれぞれの現時点での能力をよく見極め、各々がベストを尽くしているか否かを見るように努力しています。


たとえば、能力が10あるのに7しか発揮していないB君と能力が7あって6の力を発揮しているC君がいたとすれば、パフォーマンスとしてはB君のほうが優れているとしても、C君を褒め、B君にはさらに力を尽くして欲しいとお願いをします。


モチベーションの管理が大変難しくはありますが、たとえば野球のチームには、4番打者がいればバントの上手な2番打者が必要であるように、それぞれがもてる能力のベストを発揮してくれるようなマネジメントをすることが、リーダーとして非常に重要なことだと考え、日々精進しております。

第229日

原文】
孟子は、先務を急にし、親賢を急にするを以て、堯・舜の仁智と為す。試みに二典を検するに、並びに皆前半截(はんせつ)は、是れ先務を急にして、後半截は是れ親賢を急にす。


【訳文】
孟子は、知るということよりも、まず最初に為すべきことを為し遂げ、人を愛する以前に、賢者に親しむを急務とすることを、堯・舜の仁であり智であるとしている。試みに、『書経』の堯典と舜典とをしらべてみたが、両者ともそうで、前半は先務を主にし、後半は親賢を主としている。


【所感】
孟子は、知ることよりも自分のなすべきことをやり遂げることが先決であり、人を愛するよりも賢者に親しむことが先決であるとして、これを堯・舜の仁や智であるとしている。試みとして『書経』の堯典と舜典を調べてみると、ともに前半では務めを先にすることを、後半では賢者に親しむことを述べている、と一斎先生は言います。


一斎先生が引用した『孟子』の該当部分を掲載しておきます。


【原文】
孟子曰く、「知者は知らざること無きなり。当に務むべきを之れ急となす。仁者は愛せざることなきなり、賢を親しむを急にするを之れ務となす。堯舜の知にして物に徧(あまね)からざるは、先務を急にすればなり。堯舜の仁にして人を愛するに徧からざるは、賢に親しむことを急にすればなり。(後略)」


【訳文】
孟子のことば「知者はなんでも知らぬことはないはずだが、自分の本務をまっ先とするから、自然知らぬこともある。仁者はなんでも愛さぬものはないが、賢者を親愛することを急務とするから、自然至らぬところも生ずるのだ。すなわち、堯舜のような知者でも、すべての物事をあまねく知らなかったのは、先務を急としたからであり、堯舜のような仁者でも、すべての人間をあまねく愛することがなかったのは、賢者を親愛することを急務としたからである。」(宇野精一先生訳)


立派な人になりたいなら、まず目先の仕事に一所懸命に立ち向かえ。そして師と仰ぐべき人に親しみ、教えを請いなさい、と一斎先生は仰っています。


なにはともあれ、まずは今やるべきことを後回しにするな、という教えはこれまでにも目にしてきました。


しかし、この言葉の深さは、人に仁を施したいなら、まず己が師となる人に私淑せよ、と述べているところにあります。


これについては森信三先生も『修身教授録』の中で以下のように述べておられます。


目下の人に対する思いやりというのは、まず自分自身が、目上の人に対してよく仕えるところから生まれてくると思うのです。世間でも、「人に使われたことのない人に仕えるのはつらい」と申しますが、まったくその通りで、人に仕えたこのとない人は、どうしても人に対する思いやりが欠けやすいものです。つまり人間というものは、実地身をもってそこを経験しないことには、単に頭だけでは察しのつかないところがあるわけです。


この章句は、つまるところ知者になろう、仁者になろうとするならば、まず実地身をもって体験せよ、ということを教えてくれているのです。


小生などはすぐに形から、あるいは知識から入ろうとする悪癖がありますので、こうした言葉を聴くと目が覚める思いがします。

第228日

原文】
賞罰は世と軽重す。然るに其の分数、大略十中の七は賞にして、十中の三は罰して可なり。


【訳文】
賞と罰は世の中の事情となりゆきに従って、軽くしまた重くすべきである。しかしその比率は、およそ十中の七ほどは賞し、十中の三ほどは罰するのが望ましいことである。 


【所感】
賞罰は状況によって軽重を判断するものである。しかしその割合はといえば、十のうち七は賞を与え、三は罰を与えるくらいが良い、と一斎先生は言います。


非常に具体的でわかりやすい章句ですね。


人の上に立つリーダーは、メンバーに対してこの賞罰をどう与えていくかに心を配らなければいけません。


賞を与えてばかり、つまり褒めてばかりでも駄目ですし、罰してばかりでも駄目だということでしょう。


そのバランスは、状況によって異なるものの、大概は7対3で良いと、一斎先生は仰っています。


小生などは、どちらかといえば3対7、いや2対8くらいの割合で、罰することが多いようです。


これでは組織マネジメントはうまくいかないよ、と一斎先生に諭されているようです。


さて、この賞罰に関しては、『韓非子』に有名な言葉があるので掲載しておきます。


【原文】
明主の導(よ)りて其の臣を制する所の者は、二柄(にへい)のみ。二柄とは刑と徳なり。何をか刑と徳と謂う。曰わく、殺戮をこれ刑と謂い、慶賞をこれ徳と謂う。人臣為る者は、誅罰を畏れて慶賞を利とす。故に人主、自ら其の刑徳を用うれば、則ち群臣は其の威を畏れて、其の利に帰す。故(すなわ)ち世の姦臣は則ち然らず。悪む所は則ち能くこれを其の主に得て、而してこれを罪し、愛する所は則ち能くこれを其の主に得て、而してこれを賞す。今人主、賞罰の威利をして己れよい出さしむるに非ず、其の臣に聴きて其の賞罰を行わば、則ち一国の人、皆な其の臣を畏れて其の君を易(あなど)り、其の臣に帰して其の君を去らん。此れ、人主、刑と徳を失うの患いなり。


【訳文】
賢明な君主がその臣下を制御するための拠りどころは、二つの柄にほかならない。二つの柄というのは、刑と徳である。何を刑と徳というのか。処罰で死罪にすることを刑といい、誉めて賞を与えることを徳という。人の臣たる者は、ふつうは処罰を恐れて褒賞を喜ぶものである。だから、人君たる者、その刑を行ない徳を施す権限を自分自身で運用したなら、群臣たちは刑罰の威力を恐れて褒賞の利益へと向かうことになるのである。ところが、世間の邪悪な臣下はそうではない。自分の嫌いな者がいると、君主の刑罰を行なう権限をうまくかすめ取ってその者を罰し、自分の気にいった者がいると、君主の褒賞を与える権限をうまく手にいれてその者を賞する。今かりに、人君たる者、賞による利益と罰による威力とを自分で与えることができず、その臣下と相談しながら賞罰を行なうということなら、国じゅうの人々はすべてその臣下を恐れて君主を軽視し、その臣下に身を寄せて君主からは離れることになるだろう。これこそ、人君たる者が刑を行ない徳を施す権限を失ったための弊害である。(金谷治先生訳)


いかにも法家の韓非子らしい章句ではありますが、リーダーが無暗に賞罰を与える権限までも下位の者に委譲してはいけない、という教えには納得するところが大きいのではないでしょうか。


そのためにはリーダーは日頃からメンバーの行動を直接視るという機会を得ておくことも必要でしょう。


最終的な評価を与える権限はしっかりと保持した上で、褒めると叱るのバランスを7対3で行う。


これが適切なリーダーシップを発揮する上でのゴールデンルールなのかもしれません。

第227日

原文】
経の用に妙なる処、是れ権なり。権の体に定まる処、是れ経なり。程子の「権は只だ是れ経」の一句、詮(と)くこと極めて妙なり。


【訳文】
経(不変の道理)をうまく運用されると、これが権ということである。権のもとづくところは経である。宋代の儒者程子が「権はただ是れ経」といったこの一句は、大変妙味があるといえる。


【所感】
経すなわち不変の道理がじょうずに使いこなされる場合、それが権すなわち臨機応変の謀(はかりごと)である。権が導きだされる根拠となっている基本的な筋道が経である。北宋の儒者である程子の「権は只だ是れ経」という言葉が説くところは極めて深いのである、と一斎先生は言います。


非常に難解な章句です。


一斎先生は、『周易欄外書』でも、


経・権は一なり。時中を得るものは皆典礼なり。踏むべき常道に非ざるはなし。


と述べておられます。


見事な策略は、宇宙の摂理に則っているものであるから、言うならば宇宙の摂理そのものだと言って差支えない、という解釈で良いでしょうか。


宋学(宋代の儒教)以来、中国儒学の骨格をなすのが、体と用(本体と作用)の考え方なのだそうです。


この章でいえば、体は経、用は権ということになります。


前章であれば、性が本体つまり体であり、情がその発用すなわち用だと言えます。


用は体から発現するものであるから、体そのものであり、体は用を生む本であるから、用と同一のものである、という考え方のようです。


哲学的解釈に深く立ち入ることは、このブログの本意ではありません。


ここでは、結局正しい行いや考え方というもの(作用)は、宇宙の摂理(本体)に則ったものとなるのであるから、宇宙の摂理に逆らっては、事を起したところで首尾よくいく道理が無い、という解釈に留めておきたいと思います。

第226日

原文】
情の本体は即ち性なれば、則ち悪の本体は即ち善なり。悪も亦之を性と謂わざる可からず。


【訳文】
感情の本体(四端)が本性であれば、悪を起す本体は善といえる。それで、悪も本性と言わなければならない。


【所感】
前章で触れた悪の本となる情(四端)の本体が、人間が本来もっている性であるならば、悪の本体は善である。悪もまた人間の本性なのだと言わざるをえない、と一斎先生は言います。


善と悪はまったく別物だというのではなく、情が中庸を保っている状態が善であり、極端に発揮された場合に悪となる、ということを意味しているようです。


性善説の本質に触れている言葉だと解釈できます。


この考え方は宋儒に特有のものであるようです。


『河南程氏遺書』(北宋の程明道、程伊川兄弟の語録集)には、こうあります。


善は固より性なり。然るに悪もまたこれを性と謂はざるべからず。


一斎先生が、この言葉を参考にしていることは疑いようがありません。


この考え方によれば、生まれながらの善人や悪人などは存在せず、ただ心の在り方次第で人は善人にも悪人にもなる、と言えるのではないでしょうか。


心理学者のアルフレッド・アドラー博士はこう言っています。


同じ環境に育っても、人は自分の意思で、違う未来を選択できるのだ。


つまり、親に捨てられたという過去をもつ人が、それを理由に殺人犯になることもできれば、自分と同じ苦しみを経験させないようにと孤児の自立支援に動くこともできるということです。(『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』小倉広著、ダイヤモンド社より)


今の自分は過去の自分の選択の結果であって、未来の自分は今の自分の選択によって決まるのです。


これが性善説に対するひとつの解釈であり、善も悪も同じ心の働き(作用)に過ぎないということでしょう。


学問を修め、実践するというサイクルを回し続け、どんな環境においても善を選択できる人でありたいものです。

第225日

原文】
惻隠の心偏すれば、民或いは愛に溺れて身を殞(おと)す者有り。羞悪の心偏すれば、民或いは自ら溝瀆(こうとく)に経(くび)るる者有り。辞譲の心偏すれば、民或いは奔亡(ほんぼう)して風狂する者有り。是非の心偏すれば、民或いは兄弟墻に鬩(せめ)ぎ、父子相訴うる者有り。凡そ情の偏するは、四端と雖も、遂に不善に陥る。故に学んで以て中和を致し、過不及無きに帰す。之を復性の学と謂う。


【訳文】
あわれみ痛む惻隠の心が、一方にかたよると、民衆の中には愛情に溺れて身を亡す者があるであろう。己の不善を恥じ、人の不善を憎む羞悪の心が、一方にかたよると、民衆の中には溝の中で首をくくって死ぬ者があるであろう。辞退して人に譲る辞譲の心が、一方にかたよると、民衆の中には逃げ走って狂人のような者がでるであろう。正邪善悪を判別する是非の心が、一方にかたよると、民衆の中には、兄弟喧嘩をしたり、または親子が互いに訴訟をするような者があるであろう。このように感情が一方にかたよると、孟子のいう四徳の萌芽までが、遂によくないことになってしまうのである。それ故に、学問をして、性情を中正にし、過不及の無いようにする。これが宋儒のいう復性(本性に復帰する)の学というものである。


【所感】
他者に強く同情する心が度を過ぎれば、民は愛に溺れてかえって身をダメにする者もあろう。悪を憎む心が度を過ぎれば、民は溝の中で首をくくる者もあろう。譲ってへりくだる心が過ぎば、奔走して狂人のようになるものもあろう。正しいことと間違っていることを判断する心が過ぎると、兄弟で争ったり、親子の間で訴訟を起こしたりする者もあろう。すべてあまりにも偏った心の持ちようでは、孟子が提唱した四端の心といえども、最後にはよくない結果をもたらすものだ。だからこそ、学問をして常に中庸を保ち、過不及のない状態であらねばならない。これを人間本来の本性に復帰する学問というのだ、と一斎先生は言います。


四端とは、以前にも紹介しましたが、以下の四つのきざし・前兆を意味します。


「惻隠の心」(かわいそうだと思う心)
「羞悪の心」(悪を恥じ憎む心)
「辞譲の心」(譲り合いの心)
「是非の心」(善悪を判断する心) (守屋洋先生)


人は生まれながらに善であるとする、孟子の性善説を裏付けるこの四端といえども、度を過ぎてしまえば危険なものとなるのだ、と一斎先生は仰るのです。


たとえばリーダーシップに関連づけて理解してみますと、


メンバーに優しくすることは良いことですが、優しすぎれば過保護となってかえって独り立ちさせることから遠ざけてしまうでしょう。


同様に、あまりに厳しく悪を取り締まれば、誰もついてこなくなるでしょう。
清濁併せ呑むことが人の世で生きる秘訣でもあるのです。


あるいは、メンバーに仕事を任せたとしても、リーダーが責任を取ることを放棄してしまっては、メンバーは思い切った仕事ができません。


また、なんでもかんでも白黒はっきりさせようとすれば、メンバーは失敗を恐れて積極性を失うはずです。


このように本来良いとされること(心)も、度を過ぎれば期待する方向とは間逆の結果を生んでしまいます。


孔子も、


過ぎたるは猶及ばざるがごとし


と仰っています。


日々学び、三省して、中庸を保つ努力をし続けなければなりませんね。

第224日

原文】
匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛愎は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む。


【訳文】
感情を抑えて外に出さないという意味の匿情(とくじょう)は、慎み深くゆき届いたという意味の慎密によく似ている。柔らかにして媚びへつらうという意味の柔媚(じゅうび)は、慎み従うという意味の恭順によく似ている。強情で人に従わないという意味の剛愎は、自分の能力や価値や正しさを確信して疑わないという意味の自身によく似ている。それで、『孟子』に「自分(孔子)は、似ているが、その実、ちがっているものを悪む」ということがわかる。


【所感】
感情をおし隠すという意味の匿情は慎み深くよく注意が行き届くという意味の慎密に似ている。柔らかで人に媚びるという意味の柔媚は恭しく従うという意味の恭順に似ている。頑固で人に従わないという意味の剛愎は、自信に似ている。それ故に『孟子』尽心章には、一見して似ていても実際には非なるものを憎むとあるのだ、と一斎先生は言います。


まず『孟子』尽心章を見てみましょう。


【原文】
孔子曰く、「似て非なる者を悪む。莠(ゆう)を悪むは、其の苗を乱るを恐るればなり。佞を悪むは、其の義を乱るを恐るればなり。利己を悪むは、其の信乱るを恐るればなり。鄭聲(ていせい)を悪むは、其の楽を乱るを恐るればなり。紫(し)を悪むは、其の朱を乱るを恐るればなり。郷原(きょうげん)を悪むは、其の徳を乱るを恐るればなり。」と。君子は經に反るのみ。經正しければ、則ち庶民興る。庶民興れば、斯に邪慝(じゃとく)無し。


【訳文】
孔子は「真なるものに似ていて実はそうでないものを憎む。たとえば、莠(はぐさ)を憎むのは、穀物の苗に紛らわしいからだし、口先達者な佞を憎むのは、その言が義に紛らわしいからだし、誠意のないおしゃべりを憎むのは、信実に紛らわしいからだし、鄭の音楽を憎むのは、正しい古典音楽に紛らわしいからだし、紫色を憎むのは、朱色に紛らわしいからだ。同様に、郷原を憎むのは、それが真の徳ある者を紛らわすことを恐れるからだ」と言われた。君子たる者は、一時のまやかしをせず、万世不易の常道に立ち返るばかりである。常道さえ正しく打ち立てられれば、庶民はこれによって興起し、庶民が興起すれば、郷原のようなまやかしの邪悪はなくなってしまうのだ。


一見似てはいるが、その実は真逆のものであるということはよくあることです。


ためらうことと譲ること、卑屈さと素直さ、無分別と勇気などなど、似て非なるものはたくさんあります。


森信三先生もこう仰っています。


すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。


我々はホンモノを目指さねばなりません。


またホンモノを見極める目を持たなければなりません。


そしてホンモノを見極めるためには、人間学や古典を学ぶに如くはなしというところでしょうか。


ホンモノの師を見つけ、ホンモノの仲間と日々を切磋琢磨できることほど、幸せなことはないはずですから。

第223日

原文】
漸は必ず事を成し、恵は必ず人を懐く。歴代の姦雄の如き、其の秘を窃む者有れば、一時亦能く志を遂ぐ。畏る可きの至り。


【訳文】
急かずおもむろに事をなせば必ず成功するし、仏心両面に人に対して恩恵を施していけば、必ず人がなつくようになる。代々の心の極悪な人物でも、この秘訣(漸と恵)を自分のものにして、たとえ一時的でも彼らの野望を満足させた。漸と恵の力は実に恐ろしいものである。


【所感】
急がずに少しずつ事をなせば必ず成功するし、人に恵みを与えれば人は懐いてくる。歴史上の悪知恵に長けた英雄たちも、その秘訣をものにして一時的ではあるがその志を遂げている。恐るべきことである、と一斎先生は言います。


成功の秘訣に関する章です。


急いては事を仕損じる。


という言葉もあるように、事を成すにはタイミングがあります。


孔子と子夏の問答にもそのことが示されています。


【原文】
子夏、莒父(きょほ)の宰となりて政(まつりごと)を問う。子曰わく、速(すみや)かならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速かならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事成らず。(子路第十三)


【訳文】
子夏が、莒父(魯の町)の代官になって、政治の要道を尋ねた。
先師は答えられた。
「速やかに成果を挙げようと思うな、目先の利にとらわれないようにしなさい。無理に速くしようと思えば、目標には到達できない。目先の利にとらわれると大きなことは完成しないよ」(伊與田覺先生訳)


また、人に施すことについては、老子がこう言っています。


【原文】
将に之を奪わんと欲すれば、必ず固(しばら)く之に与う。(第三十六章)


【訳文】
奪いとろうと思えば、まず与えておかなければならない。(小川環樹先生訳)


少しテクニック的になりますが、人を治め、懐けるには、まず与えることだということです。


物品を与えることはもちろんですが、ここでは評価といった心への施しも含まれると見てよいでしょう。


漸(一気に結果を求めず、少しずつ進めること)と恵(仏心ともに施しを与えること)は、組織運営の非常に重要な秘訣だと、一斎先生は見ておられます。


悪人といえども、この秘訣を手の内に入れれば、成功をつかむことができることを歴史は証明しています。


しかし、心が技術を超えない限り、決して技術は生かされません。


そこに義はあるか? といった、常にブレない自分独自の軸をもつべきです。


善あるいは義のない行動では、仮に一時は成功しても、必ず堕ちていきます。


歴史はそれをもまた証明しています。


ブレない軸を作るためにも
学問修養に励まねばなりません

第222日

原文】
民の義に因りて以て之を激し、民の欲に因りて以て之に趨(おもむ)かしめば、則ち民其の生を忘れて其の死を致さん。是れ以て一戦す可し。


【訳文】
国民が正義とするところを察知し、それによって民心を激励し、そして国民が欲しているところを察知して、民心をその方向に赴かすように指導するならば、国民は感動し心服して自分の生命をも忘れ去り、死をもって大義に殉ずることを辞するものではない。こうして君国のために奮起すべきである。


【所感】
民が自分が正しいと信じていることを理解して、それを激励し、民が何を欲しているかを理解して背中を押すことができれば、民は命を惜しまずに全力を尽すであろう。戦わざるを得ない時はこのように人を使わねばならない、と一斎先生は言います。


この章句はリーダーシップ論として読むと非常に深い示唆を得ることができます。


非常事態や緊急時に組織をひとつにまとめて動かすことができるかどうかが、一流のリーダーと三流のリーダーとの違いだと言っても言い過ぎではないでしょう。


そのためには、メンバーの大切にしているもの、軸としている考え方や仕事上で求めている成果や志などを平時に把握しておかねばなりません。


『論語』にもこうあります。


【原文】
子曰わく、千乗の国を道くに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。


【訳文】
先師が言われた。
「兵車千台を有するような諸侯の国を治めるには、政事を慎重にして民の信頼を得、国費を節約して民を愛し、民に使役を課すときには、農閑期を心掛ける」


孔子の時代は農業が主力ですから、民を繁忙期に使役すれば、収穫を得ることができず、その結果お上を恨むことになるので、それを避けて用いよ、と孔子も言っております。


現代でいえば、メンバー個人個人のプライベートの事情についても、ある程度把握して、タイムリーに仕事に用いることが必要だと読みかえても良さそうです。


どうしてもリーダーから見ると、メンバーは「メンバー」というひとつのまとまりとして捉えてしまいがちです。


しかし、実際には「メンバー」という人格はおりません。


その組織を構成する一人ひとりそれぞれに別の人格があります。


リーダーは、定期的に個人面談を行ったり、食事に誘うなどして、日ごろから一人ひとりを知る努力を惜しんではいけません。


いまいるメンバーがベストメンバーであり、そのパフォーマンスを100%発揮してもらうためにも、リーダーは平時の努力こそが重要だということを教えてくれる章句です。

第221日

原文】
私欲は有る可からず。公欲は無かる可からず。公欲無ければ、則ち人を恕する能わず。私欲有れば、則ち物を仁する能わず。


【訳文】
利己的な欲心は有ってはいけないが、公共的な欲心は無くてはならない。公共心が無ければ、同情心を他人に及ぼすことはできない。利己心があれば、慈愛の心を以て他人に物を与えることはできない。


【所感】
私欲はあってはいけない。社会のためにという公的な欲はなければならない。公的な欲がなければ、人におもいやりを施すことはできない。私欲があれば、仁を施すことはできない、と一斎先生は言います。


森信三先生は『修身教授録』の中で、以下のように述べておられます。


人間が真に欲を捨てるということは、実は自己を打ち越えた大欲の立場にたつということです。すなわち自分一身の欲を満足させるのではなくて、天下の人々の欲を思いやり、できることなら、その人々の欲をも満たしてやろうということであります。


つまり、人間がこの世に生まれた使命を果たすためには、この私欲を捨てて、公欲すなわち大欲をしっかりと胸に抱くということです。


大欲とは言いかえれば、志でしょう。


自分の保身や処遇にばかり意識を向けているようでは、大きな仕事はできません。


しかしそれを理解するためには、学問が必要です。


小生のような世代は、これから日本を背負って立つ若者たちに、学問をする機会を与えていかなければならないのではないでしょうか。
プロフィール

れみれみ