一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年10月

第261日

原文】
凡そ人の宜しく急に做(な)すべき所の者は、急に做すことを肯(がえん)ぜす、必ずしも急に做さざる可き者は、卻(かえ)って急に做さんことを要(もと)む、。皆錯慮(さくりょ)なり。斯(こ)の学の如きは、即ち当下の事、即ち急務実用の事なり。「謂う勿れ、今日学ばずとも来日有り」と。讌(えん)を張り客を会し、山に登り湖に泛(うか)び、凡そ適意遊観する事の如きは、則ち宜しく今日為さずとも猶お来日有りと謂う可くして可なり。


【訳文】
およそ、人は急になさなければならない事を、急いでやろうとせずに、必ずしも急いでやらなくてよい事を、かえって急いでしようとする。これはどちらも間違った考である。しかし、斯学(聖人の学問)は、ただちに今なるべき事、すなわち急いで務むべき所の実際に役立つ事である。「今日学ばなくとも、明日という日がある」などと思って、ぐずぐずしていてはいけない。酒宴を催したり、客を集めたり、山に登ったり、湖水に舟を浮かべたりするような、総て思いのままに遊び歩いて見物する事などは、今日なさなくとも、明日という日があるからと言ってもよろしい。


【所感】
大概、人は急ぎでやるべき事は急いでやろうとしない。必ずしも急ぐ必要のない事を先にやろうとする。まるで反対のことをしている。儒学はいまここに急務とすることを処理する学問である。朱子は『今日学ばずとも明日があると言うな』と言っている。酒宴を催したり、客を集めたり、山に登ったり、湖に舟を浮かべたりするような、総て思いのままに遊び回るようなことは、今日なやらなくても、明日があると言っても良いだろう、と一斎先生は言います。


優先順位と劣後順位の問題です。


これは以前にもご紹介しましたが、やるべきことをやる前に、まずやらなくて良いことを思い切って捨てるという劣後順位の考え方が重要です。


仕事を処理する場合、得てしてやるべきことをすべてピックアップしようとして、本来後回しでも良いことまで順位付けをしていることはよくあることではないでしょうか?


まず思い切って捨てる、という発想は常に大切にしておくべきでしょう。


森信三先生は『修身教授録』の中で、仕事の処理のステップについて、以下のようにまとめておられます。


1.劣後順位を決める。(やらなくて良い仕事を捨てる)
2.優先順位を付ける。(何から着手するかを決める)
3.やると決めた仕事にすぐに着手する。
4.拙速主義で八十点の仕上げで良いので、一気に仕上げる。


その上で、以下のように仰っています。


一日の予定を完了しないで、明日に残して寝るということは、畢竟人生の最後においても、多くの思いを残して死ぬということです。つまりそういうことを一生続けていたんでは、真の大往生はできないわけです。

真の大往生を遂げようとすれば、まず今日一日の大安眠を得なければならぬでしょう。ところが、今日一日の大安眠を得る途は外にはなくて、ただ今日一日の予定の仕事を仕上げて、絶対に明日に残さぬということです。


一斎先生も、森信三先生も、今日やると決めたことを明日に残してはいけないと語り掛けてくれています。


最後に、本文で一斎先生が引用した朱熹(朱子)の
『勧学の文』にある言葉の全文を掲載しておきます。


謂う勿れ、今日学ばずとも来日ありと。
謂う勿れ、今年学ばずとも来年ありと。
日月逝けり、歳、我と延びず。
嗚呼、老いぬる哉(かな)、これ誰の愆(あやまち)ぞ。

第260日

原文】
官に居るに、好ましき字面四有り。公の字、正の字、清の字、敬の字。能く之を守らば、以て過無かる可し。好ましからざる字面も亦四有り。私の字、邪の字、濁の字、傲の字。苟も之を犯せば、皆禍を取るの道なり。


【訳文】
官職にある者にとって好ましい文字が四つある。公・正・清・敬の四字である。公は公平無私を、正は正直を、清は清廉潔白を、敬は敬慎を意味する。よくこの四つの事を守っていけば決して過失(あやまち)を犯すことはない。また、好ましくない文字が四つある。私・邪・濁・傲の四字である。私は不公平を、邪は邪悪を、濁は不品行を、傲は傲慢(おごりたかぶる)を意味する。かりにもこの四つの事を犯したならば、みな禍を招くことになる。


【所感】
官職に就く者にとって好ましい文字が四つある。公・正・清・敬の四字である。この四つを守れば、過ちを犯すことはないであろう。また好ましくない文字も四つある。私・邪・濁・傲の四字である。かりにこの四つのいずれかを犯せば、みな禍を招くことになるであろう、と一斎先生は言います。


この章は比較的理解の容易な章です。


ここに挙げられている好ましい四字を守ることは、官職のような公的な職に就く人にとっては、大変重要な教えとなるでしょう。


ところがどんな徳目でも、あまりにやり過ぎるとかえって禍を招きかねません。


公平で敬い慎むというところは問題ありませんが、正邪・清濁ということになるとどうでしょうか?


あまりにも正攻法ですべてを完璧に治めようとすれば、かえって反感を買うこともあるでしょう。


白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき


という狂歌は以前にも何度かご紹介しました。


クリーンで倹約を重んじた白河公こと松平定信公の政治が度を越していたため、庶民は窮屈さを感じ、田沼意次時代の賄賂が横行した腐敗政治がかえって懐かしく感じてしまう、という趣旨の歌です。


孔子も政治を行う時の要諦として、以下のような言葉を遺しています。


【原文】
子曰わく、千乗の國を道(みちび)くに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。 (学而第一篇)


【訳文】
先師が言われた。
「兵車千台を有するような諸侯の国を治めるには、政事を慎重にして民の信頼を得、国費を節約して民を愛し、民を使うのは、農閑期を利用するように心掛ける」(伊與田覺先生訳)


古来、この「敬事而信」、「節用而愛人」、「使民以時」を三事といい、敬・信・節・愛・時を五要といって、治国の要道はこの三事五要に尽きると言われてきました。


庶民(組織であれば社員さん)を愛し、使う時を大切にする心がなければ、仕組みを作ってもそれを活かすことはできないということでしょう。


世のリーダー諸氏は、一斎先生の言われる四字を大切にしつつ、一方で三事・五要を忘れずにマネジメントを行う必要があるようです。

第259日

原文】
小吏有り。苟(いやしく)も能く志を職掌に尽くさば、長官たる者、宜しく勧奨して之を誘掖すべし。時に不当の見有りと雖も、而も亦宜しく姑(しばら)く之を容れて、徐徐に諭説すべし。決して之を抑遏(よくあつ)す可からず。抑遏せば則ち意阻み気撓(たゆ)みて、後来遂に其の心を尽くさず。


【訳文】
下の小役人が、自分の職務に一生懸命精を出すならば、その上役の者は、励まし勧めて指導するがよい。時には道理に合わない見解があっても、しばらくこれを認めいれて、おもむろに諭していくがよい。決して頭から抑えつけてはいけない。抑制すると、元気がくじけ、たるんで、それから後は、真心を尽して職務に精を出さなくなってしまう。


【所感】
下級役人が仮にも志をもって職務に励んでいるならば、上役の者はこれを励ましながら、力を貸して導いてあげるべきである。ときには正しくない見解もあろうが、それでもしばらくはそのまま容認しつつ、徐々に教え諭していくべきである。決して上から抑えつけるようなことはしてはいけない。抑圧すればやる気を失い、心にもゆるみが出て、職務に精進することを怠るようになるであろう、と一斎先生は言います。


この章句はストレートに小生の心に突き刺さってきます。


かつてメンバーの育成に失敗した小生は、まさに抑圧スタイルの上司でした。


一斎先生は、リーダーたるもの、清濁併せ呑み、少々の間違いには目をつぶって、とにかく志(モチベーション)を高く維持させることに力点を置くべきである、と教えてくださいます。


仕事は能力(技術)が必要であるけれども、最終的には志(心)が高く保たれなければ良い成果は生まれないということですね。


小生の師匠が常に仰っているように、


心が技術を超えない限り、技術は生かされない


ということでしょう。


孔子も、弟子の仲弓から政治の要道を訪ねられた際に、以下のように答えています。


【原文】
子曰わく、有司を先にし、小過を赦し、賢才を擧(あ)げよ。(子路第十三篇)


【訳文】
先師が答えられた。
「それぞれの係の役人を先に立てて働かせ、小さな過失は大目に見て、知徳の優れた人物を挙げ用いよ」(伊與田覺先生訳)


人にはそれぞれに分(分際)があります。


つまり発揮できる能力にははじめから差異があるのは当然のことなのです。


日頃からメンバーと直接会話を交わすことで、メンバー個々の分を見極め、一人ひとりが最善を尽くしていけるように力を貸して導いていく。


それがリーダーの責務であるということを改めて教えていただきました。

第258日

原文】
誘掖(ゆうえき)して之を導くは、教(おしえ)の常なり。警戒して之を喩は、教の時なり。躬行して以て之を率いるは、教の本なり。言わずして之を化するは、教の神なり。抑えて之を揚げ、激して之を進むるは、教の権にして変なり。教も亦術多し。


【訳文】
子弟のそばにいて助け導くことは教育の一般的なやり方(常道)である。子弟が邪道に陥ろうとするのを、戒め諭すことは教育の時宜を得たやり方である。自分がまず実践して子弟を指導することは教育の根本的なやり方である。口先に出して言わず、己が徳を以て教化することは教育の最上の窮極的なやり方である。一度抑えつけて、そしてほめ、激励して道に進ませることは、教育の一時的にして臨機応変なやり方である。教育にもまた、このように幾多の方法があるのである。


【所感】
力を貸し導いてあげることは、教育の常道である。戒めて諭していくのは、教育の時宜を得た方法である。実践して自ら背中を見せることは、教育の根本である。言葉に出さずに感化することは、教育の神技である。抑えたのち褒め上げ、激励して進めることは、教育の臨機応変さを意味する。このように教育もまた様々な手法があるものだ、と一斎先生は言います。


教育のスタイルにも様々なタイプがあるということを示された章句です。


ここでまず頭に浮かんでくるのは、かの有名な山本五十六の名言


やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ


でしょう。


実はこれには続きがあるそうです。


話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず


やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず


と、3つでひとつの言葉となっているようです。


この3つの言葉の最後にある、ほめる、任せる、信頼するという行為こそが、教育の最大のポイントであるように感じます。


これにプラスして、一斎先生も最後に挙げられている教育における臨機応変さは、実は個性を伸ばすという観点からも見逃せないもうひとつのポイントです。


すでに何度か記載しておりますが、孔子は弟子に応じて言葉を適切に選びます。


その弟子にもっとも欠けている部分に、自ら意識を向けさせるような答えをするのです。


一例を挙げてみましょう。


【原文】
子遊(しゆう)、孝を問う。子曰わく、今の孝は是(こ)れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養うあり。敬せずんば何を以て別(わか)たんや。(為政第二篇)


【訳文】
子遊が孝について尋ねた。先師が答えられた。
「今では、親に衣食の不自由をさせないのを孝行というが、犬や馬に至るまで皆よく養っているではないか。敬わなければ、何によって犬や馬と区別しょうか」(伊與田覺先生訳)


ここでは孔子の弟子の子遊が孔子に「孝」について尋ねています。


ここでの孔子の答えは、ただ食事を与えるだけでは孝行とは言えないよ、敬する気持ちが大切なんだよ、というものです。


これは恐らく子遊が親に接する態度に、敬する部分が欠けていることを孔子が感じ取っていたからこそ生まれた答えなのです。


教育における臨機応変さ。


あらためて自分自身の指導方法を振り返らねばなりません。

第257日

原文】
「寧ろ人の我に負(そむ)くも、我は人に負く毋れ」とは、固(まこと)に確言と為す。余も亦謂う、「人の我に負く時、我は当に吾の負くを致す所以を思いて以て自ら反りみ、且つ以て切磋砥礪(せっさしれい)の地と為すべし」と。我に於いて多少の益有り。烏(いずく)んぞ之を仇視すべけんや。


【訳文】
「たとえ、人が自分の恩義に背くようなことがあっても、自分は恩義に負くようなことはしない」ということは、誠に確かな言葉といえる。私もまた「人が自分に負くような時には、自分が背かれなければならない理由をよく考えて反省し、そのことを、自分の学徳を磨く土台となすべきである」という。このようにすれば、自分には沢山益することになる。どうしてその人を仇敵と見なすことができようか。


【所感】
「たとえ人が自分を裏切っても、自分は人を裏切ることはしない」という言葉は確かな言葉である。私もまた言おう、「人が私を裏切るとき、私はなぜそうなったのかの理由を思って自らを反省し、自らを磨き上げる土台とすべきである」と。私には大変有益なことであって、どうしてこれを敵視する必要があろうか、と一斎先生は言います。


最初に出てくる言葉は、陸宣公(唐の徳宗の頃の人)の奏議文にある言葉だそうです。


人は独りでは生きられない生き物ですから、どうしても他人の評価や対応に意識が向いてしまうものではないでしょうか。


しかしながら他人を自分の思い通りの人に変えることはできないのも事実です。


そうであるならば、変えることができない他人について思い悩むより、矢印を自分に向けて、己を省みるべきだと、一斎先生は仰っています。


省みるということについて、『論語』には有名な言葉があります。


【原文】
曽子曰わく、吾日に吾が身を三省(さんせい)す。人の爲(た)めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交りて信ならざるか、習わざるを傳(つた)うるか。 (学而第一篇)


【訳文】
曽先生が言われた。
「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいておる。人の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交ってうそいつわりはなかったか。まだ習得しないことを人に教えるようなことはなかったか」(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子である曽子の言葉です。
(ちなみに書店の三省堂さんは、ここから社名を採っていることはご存知の方も多いでしょう。)


ここで注意すべき点は、曽子はこの3つの反省項目すべてにおいて他人との関わりに主眼を置きつつ、その反省の矢印はすべて自分自身に向けられているということにあります。


他人と常に交わる人間の理想的な態度であると共に、その実践は小生のような凡愚の身には大変むずかしいことでもあります。


なお、この『論語』の章句に関する解説において、安岡正篤先生はこの「省」という字には、「かえりみる」という意味だけでなく、「はぶく」という意味も含有していることに気付かねばならないとご指摘されています。


つまり他人との関わりを省みて、自分自身の中に改善すべき点を見出したならば、積極的に省いていかねばならないということです。


日々、人との交わりを反省(かえりみて、はぶく)することで、余分な雑念を捨てていくならば、君子となる日がくるかもしれません。
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れみれみ