一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年10月

第261日

原文】
凡そ人の宜しく急に做(な)すべき所の者は、急に做すことを肯(がえん)ぜす、必ずしも急に做さざる可き者は、卻(かえ)って急に做さんことを要(もと)む、。皆錯慮(さくりょ)なり。斯(こ)の学の如きは、即ち当下の事、即ち急務実用の事なり。「謂う勿れ、今日学ばずとも来日有り」と。讌(えん)を張り客を会し、山に登り湖に泛(うか)び、凡そ適意遊観する事の如きは、則ち宜しく今日為さずとも猶お来日有りと謂う可くして可なり。


【訳文】
およそ、人は急になさなければならない事を、急いでやろうとせずに、必ずしも急いでやらなくてよい事を、かえって急いでしようとする。これはどちらも間違った考である。しかし、斯学(聖人の学問)は、ただちに今なるべき事、すなわち急いで務むべき所の実際に役立つ事である。「今日学ばなくとも、明日という日がある」などと思って、ぐずぐずしていてはいけない。酒宴を催したり、客を集めたり、山に登ったり、湖水に舟を浮かべたりするような、総て思いのままに遊び歩いて見物する事などは、今日なさなくとも、明日という日があるからと言ってもよろしい。


【所感】
大概、人は急ぎでやるべき事は急いでやろうとしない。必ずしも急ぐ必要のない事を先にやろうとする。まるで反対のことをしている。儒学はいまここに急務とすることを処理する学問である。朱子は『今日学ばずとも明日があると言うな』と言っている。酒宴を催したり、客を集めたり、山に登ったり、湖に舟を浮かべたりするような、総て思いのままに遊び回るようなことは、今日なやらなくても、明日があると言っても良いだろう、と一斎先生は言います。


優先順位と劣後順位の問題です。


これは以前にもご紹介しましたが、やるべきことをやる前に、まずやらなくて良いことを思い切って捨てるという劣後順位の考え方が重要です。


仕事を処理する場合、得てしてやるべきことをすべてピックアップしようとして、本来後回しでも良いことまで順位付けをしていることはよくあることではないでしょうか?


まず思い切って捨てる、という発想は常に大切にしておくべきでしょう。


森信三先生は『修身教授録』の中で、仕事の処理のステップについて、以下のようにまとめておられます。


1.劣後順位を決める。(やらなくて良い仕事を捨てる)
2.優先順位を付ける。(何から着手するかを決める)
3.やると決めた仕事にすぐに着手する。
4.拙速主義で八十点の仕上げで良いので、一気に仕上げる。


その上で、以下のように仰っています。


一日の予定を完了しないで、明日に残して寝るということは、畢竟人生の最後においても、多くの思いを残して死ぬということです。つまりそういうことを一生続けていたんでは、真の大往生はできないわけです。

真の大往生を遂げようとすれば、まず今日一日の大安眠を得なければならぬでしょう。ところが、今日一日の大安眠を得る途は外にはなくて、ただ今日一日の予定の仕事を仕上げて、絶対に明日に残さぬということです。


一斎先生も、森信三先生も、今日やると決めたことを明日に残してはいけないと語り掛けてくれています。


最後に、本文で一斎先生が引用した朱熹(朱子)の
『勧学の文』にある言葉の全文を掲載しておきます。


謂う勿れ、今日学ばずとも来日ありと。
謂う勿れ、今年学ばずとも来年ありと。
日月逝けり、歳、我と延びず。
嗚呼、老いぬる哉(かな)、これ誰の愆(あやまち)ぞ。

第260日

原文】
官に居るに、好ましき字面四有り。公の字、正の字、清の字、敬の字。能く之を守らば、以て過無かる可し。好ましからざる字面も亦四有り。私の字、邪の字、濁の字、傲の字。苟も之を犯せば、皆禍を取るの道なり。


【訳文】
官職にある者にとって好ましい文字が四つある。公・正・清・敬の四字である。公は公平無私を、正は正直を、清は清廉潔白を、敬は敬慎を意味する。よくこの四つの事を守っていけば決して過失(あやまち)を犯すことはない。また、好ましくない文字が四つある。私・邪・濁・傲の四字である。私は不公平を、邪は邪悪を、濁は不品行を、傲は傲慢(おごりたかぶる)を意味する。かりにもこの四つの事を犯したならば、みな禍を招くことになる。


【所感】
官職に就く者にとって好ましい文字が四つある。公・正・清・敬の四字である。この四つを守れば、過ちを犯すことはないであろう。また好ましくない文字も四つある。私・邪・濁・傲の四字である。かりにこの四つのいずれかを犯せば、みな禍を招くことになるであろう、と一斎先生は言います。


この章は比較的理解の容易な章です。


ここに挙げられている好ましい四字を守ることは、官職のような公的な職に就く人にとっては、大変重要な教えとなるでしょう。


ところがどんな徳目でも、あまりにやり過ぎるとかえって禍を招きかねません。


公平で敬い慎むというところは問題ありませんが、正邪・清濁ということになるとどうでしょうか?


あまりにも正攻法ですべてを完璧に治めようとすれば、かえって反感を買うこともあるでしょう。


白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき


という狂歌は以前にも何度かご紹介しました。


クリーンで倹約を重んじた白河公こと松平定信公の政治が度を越していたため、庶民は窮屈さを感じ、田沼意次時代の賄賂が横行した腐敗政治がかえって懐かしく感じてしまう、という趣旨の歌です。


孔子も政治を行う時の要諦として、以下のような言葉を遺しています。


【原文】
子曰わく、千乗の國を道(みちび)くに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。 (学而第一篇)


【訳文】
先師が言われた。
「兵車千台を有するような諸侯の国を治めるには、政事を慎重にして民の信頼を得、国費を節約して民を愛し、民を使うのは、農閑期を利用するように心掛ける」(伊與田覺先生訳)


古来、この「敬事而信」、「節用而愛人」、「使民以時」を三事といい、敬・信・節・愛・時を五要といって、治国の要道はこの三事五要に尽きると言われてきました。


庶民(組織であれば社員さん)を愛し、使う時を大切にする心がなければ、仕組みを作ってもそれを活かすことはできないということでしょう。


世のリーダー諸氏は、一斎先生の言われる四字を大切にしつつ、一方で三事・五要を忘れずにマネジメントを行う必要があるようです。

第259日

原文】
小吏有り。苟(いやしく)も能く志を職掌に尽くさば、長官たる者、宜しく勧奨して之を誘掖すべし。時に不当の見有りと雖も、而も亦宜しく姑(しばら)く之を容れて、徐徐に諭説すべし。決して之を抑遏(よくあつ)す可からず。抑遏せば則ち意阻み気撓(たゆ)みて、後来遂に其の心を尽くさず。


【訳文】
下の小役人が、自分の職務に一生懸命精を出すならば、その上役の者は、励まし勧めて指導するがよい。時には道理に合わない見解があっても、しばらくこれを認めいれて、おもむろに諭していくがよい。決して頭から抑えつけてはいけない。抑制すると、元気がくじけ、たるんで、それから後は、真心を尽して職務に精を出さなくなってしまう。


【所感】
下級役人が仮にも志をもって職務に励んでいるならば、上役の者はこれを励ましながら、力を貸して導いてあげるべきである。ときには正しくない見解もあろうが、それでもしばらくはそのまま容認しつつ、徐々に教え諭していくべきである。決して上から抑えつけるようなことはしてはいけない。抑圧すればやる気を失い、心にもゆるみが出て、職務に精進することを怠るようになるであろう、と一斎先生は言います。


この章句はストレートに小生の心に突き刺さってきます。


かつてメンバーの育成に失敗した小生は、まさに抑圧スタイルの上司でした。


一斎先生は、リーダーたるもの、清濁併せ呑み、少々の間違いには目をつぶって、とにかく志(モチベーション)を高く維持させることに力点を置くべきである、と教えてくださいます。


仕事は能力(技術)が必要であるけれども、最終的には志(心)が高く保たれなければ良い成果は生まれないということですね。


小生の師匠が常に仰っているように、


心が技術を超えない限り、技術は生かされない


ということでしょう。


孔子も、弟子の仲弓から政治の要道を訪ねられた際に、以下のように答えています。


【原文】
子曰わく、有司を先にし、小過を赦し、賢才を擧(あ)げよ。(子路第十三篇)


【訳文】
先師が答えられた。
「それぞれの係の役人を先に立てて働かせ、小さな過失は大目に見て、知徳の優れた人物を挙げ用いよ」(伊與田覺先生訳)


人にはそれぞれに分(分際)があります。


つまり発揮できる能力にははじめから差異があるのは当然のことなのです。


日頃からメンバーと直接会話を交わすことで、メンバー個々の分を見極め、一人ひとりが最善を尽くしていけるように力を貸して導いていく。


それがリーダーの責務であるということを改めて教えていただきました。

第258日

原文】
誘掖(ゆうえき)して之を導くは、教(おしえ)の常なり。警戒して之を喩は、教の時なり。躬行して以て之を率いるは、教の本なり。言わずして之を化するは、教の神なり。抑えて之を揚げ、激して之を進むるは、教の権にして変なり。教も亦術多し。


【訳文】
子弟のそばにいて助け導くことは教育の一般的なやり方(常道)である。子弟が邪道に陥ろうとするのを、戒め諭すことは教育の時宜を得たやり方である。自分がまず実践して子弟を指導することは教育の根本的なやり方である。口先に出して言わず、己が徳を以て教化することは教育の最上の窮極的なやり方である。一度抑えつけて、そしてほめ、激励して道に進ませることは、教育の一時的にして臨機応変なやり方である。教育にもまた、このように幾多の方法があるのである。


【所感】
力を貸し導いてあげることは、教育の常道である。戒めて諭していくのは、教育の時宜を得た方法である。実践して自ら背中を見せることは、教育の根本である。言葉に出さずに感化することは、教育の神技である。抑えたのち褒め上げ、激励して進めることは、教育の臨機応変さを意味する。このように教育もまた様々な手法があるものだ、と一斎先生は言います。


教育のスタイルにも様々なタイプがあるということを示された章句です。


ここでまず頭に浮かんでくるのは、かの有名な山本五十六の名言


やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ


でしょう。


実はこれには続きがあるそうです。


話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず


やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず


と、3つでひとつの言葉となっているようです。


この3つの言葉の最後にある、ほめる、任せる、信頼するという行為こそが、教育の最大のポイントであるように感じます。


これにプラスして、一斎先生も最後に挙げられている教育における臨機応変さは、実は個性を伸ばすという観点からも見逃せないもうひとつのポイントです。


すでに何度か記載しておりますが、孔子は弟子に応じて言葉を適切に選びます。


その弟子にもっとも欠けている部分に、自ら意識を向けさせるような答えをするのです。


一例を挙げてみましょう。


【原文】
子遊(しゆう)、孝を問う。子曰わく、今の孝は是(こ)れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養うあり。敬せずんば何を以て別(わか)たんや。(為政第二篇)


【訳文】
子遊が孝について尋ねた。先師が答えられた。
「今では、親に衣食の不自由をさせないのを孝行というが、犬や馬に至るまで皆よく養っているではないか。敬わなければ、何によって犬や馬と区別しょうか」(伊與田覺先生訳)


ここでは孔子の弟子の子遊が孔子に「孝」について尋ねています。


ここでの孔子の答えは、ただ食事を与えるだけでは孝行とは言えないよ、敬する気持ちが大切なんだよ、というものです。


これは恐らく子遊が親に接する態度に、敬する部分が欠けていることを孔子が感じ取っていたからこそ生まれた答えなのです。


教育における臨機応変さ。


あらためて自分自身の指導方法を振り返らねばなりません。

第257日

原文】
「寧ろ人の我に負(そむ)くも、我は人に負く毋れ」とは、固(まこと)に確言と為す。余も亦謂う、「人の我に負く時、我は当に吾の負くを致す所以を思いて以て自ら反りみ、且つ以て切磋砥礪(せっさしれい)の地と為すべし」と。我に於いて多少の益有り。烏(いずく)んぞ之を仇視すべけんや。


【訳文】
「たとえ、人が自分の恩義に背くようなことがあっても、自分は恩義に負くようなことはしない」ということは、誠に確かな言葉といえる。私もまた「人が自分に負くような時には、自分が背かれなければならない理由をよく考えて反省し、そのことを、自分の学徳を磨く土台となすべきである」という。このようにすれば、自分には沢山益することになる。どうしてその人を仇敵と見なすことができようか。


【所感】
「たとえ人が自分を裏切っても、自分は人を裏切ることはしない」という言葉は確かな言葉である。私もまた言おう、「人が私を裏切るとき、私はなぜそうなったのかの理由を思って自らを反省し、自らを磨き上げる土台とすべきである」と。私には大変有益なことであって、どうしてこれを敵視する必要があろうか、と一斎先生は言います。


最初に出てくる言葉は、陸宣公(唐の徳宗の頃の人)の奏議文にある言葉だそうです。


人は独りでは生きられない生き物ですから、どうしても他人の評価や対応に意識が向いてしまうものではないでしょうか。


しかしながら他人を自分の思い通りの人に変えることはできないのも事実です。


そうであるならば、変えることができない他人について思い悩むより、矢印を自分に向けて、己を省みるべきだと、一斎先生は仰っています。


省みるということについて、『論語』には有名な言葉があります。


【原文】
曽子曰わく、吾日に吾が身を三省(さんせい)す。人の爲(た)めに謀(はか)りて忠ならざるか、朋友(ほうゆう)と交りて信ならざるか、習わざるを傳(つた)うるか。 (学而第一篇)


【訳文】
曽先生が言われた。
「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいておる。人の為を思うて、真心からやったかどうか。友達と交ってうそいつわりはなかったか。まだ習得しないことを人に教えるようなことはなかったか」(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子である曽子の言葉です。
(ちなみに書店の三省堂さんは、ここから社名を採っていることはご存知の方も多いでしょう。)


ここで注意すべき点は、曽子はこの3つの反省項目すべてにおいて他人との関わりに主眼を置きつつ、その反省の矢印はすべて自分自身に向けられているということにあります。


他人と常に交わる人間の理想的な態度であると共に、その実践は小生のような凡愚の身には大変むずかしいことでもあります。


なお、この『論語』の章句に関する解説において、安岡正篤先生はこの「省」という字には、「かえりみる」という意味だけでなく、「はぶく」という意味も含有していることに気付かねばならないとご指摘されています。


つまり他人との関わりを省みて、自分自身の中に改善すべき点を見出したならば、積極的に省いていかねばならないということです。


日々、人との交わりを反省(かえりみて、はぶく)することで、余分な雑念を捨てていくならば、君子となる日がくるかもしれません。

第256日

原文】
天地間の霊妙、人の言語に如(し)く者莫し。禽獣の如きは徒(ただ)に声音有りて、僅かに意嚮(いこう)を通ずるのみ。唯だ人は則ち言語有りて、分明に情意を宣達す。又抒(の)べて以て文辞と為さば、則ち以て之を遠方に伝え、後世に詔(つ)ぐ可し。一に何ぞ霊なるや。惟(た)だ是の如く之れ霊なり。故に其の禍階を構え、釁端(きんたん)を造(な)すも亦言語に在り。譬えば猶お利剣の善く身を護る者は、輒(すなわ)ち復た自ら傷つくるがごとし。慎まざる可けんや。


【訳文】
天地の間で霊妙不可思議なものといえば、人の言葉に及ぶものはない。鳥や獣はただ音声を出すだけで、それによって、やっと相互の意思を通じ合うだけである。ただ人間だけは、言葉があって、はっきりと自分の感情や意思をのべ伝えることができる。また、心に思うことをのべて文章にするならば、これを遠方の人々にも送り伝え、後世の人々にも告げ知らせることができる。どうしてこんなに霊妙不可思議なものなのだろうか。ただこのように霊妙不可思議なものであるから、禍や争(あらそい)の起る発端をつくるのもまた言葉である。譬えてみれば、鋭利な剣は身を護るものではあるが、容易にまた己(おの)が身を傷つけるようなものである。それで、言葉は、慎まなければならない。


【所感】
天地の間にあって、人間の言葉ほど不可思議なものはない。禽獣はただ音を発してわずかに意思を通じ合うだけである。ところが人には言葉があって、意思を明確に伝えることができる。また言葉を文字にすれば、遠方の人に伝えることや後世に残すことも可能である。なんと不可思議なものではないか。このように霊妙であるから、禍や人間関係の不和の兆しをつくるのもまた言葉である。例えてみれば、鋭い剣は我が身を護るが、逆に我が身を傷つけるものでもあることに似ている。大いに慎まねばなるまい、と一斎先生は言います。


小生は師匠から、言葉は釘のようなものであるから、言葉を発する前によく考えなければならないと教えて頂きました。


釘は一度打ち付けてしまえば、仮にそれを抜いたところでそこにできた釘穴を元に戻すことはできないように、言葉も相手の心に届いた後は、いかに訂正しても完全に修復することはできない、ということです。


小生はずっと我が身を営業の世界においてきておりますので、言葉という武器を活用しないわけにはいきません。


しかし、だからこそ言葉で上辺を飾るようなことをするのではなく、心の在り様を言葉に乗せて伝えていかなければなりません。


つまりは心を磨かなければ、いかに言葉を飾ったところで、お客様は簡単にその真偽を見破ってしまうものだということです。


理想的には、そもそも心に禍や不和の基となるような思いが生まれてこなければ、それを言葉にすることもないでしょう。


ところが小生のような修業の身では、日々そうした邪念が心に湧き起ってくるのも事実です。


そこにも学問をすることの意味が見出されます。


『論語』にも下記のような箴言が掲載されています。


【原文】
子曰わく、君子は言(ことば)に訥(とつ)にして、行(おこない)に敏(びん)ならんと欲す。(里仁第四篇)


【訳文】
先師が言われた。 「君子は、たとえ口は重くても、行はきびきびしようと思うものだよ」(伊與田覺先生訳)


【原文
子曰わく、(やく)れを(すくな)し。(里仁第四篇)


【訳文】
先師が言われた。
「つつましくして、行き過ぎないように心掛けて、失敗する者は少ない」
(伊與田覺先生訳)


言葉の大切さを理解した上で、慎みの心をもって、言葉より行いを速やかにすることを心掛けていくことが大切なようです。

第255日

原文】
人の世に処する、多少の応酬、塵労、閙擾(とうじょう)有り。膠膠擾(こうこうじょうじょう)として起滅すること端(たん)無し。因って復た此の計較(けいこう)、揣摩(しま)、歆羨(きんせん)、慳吝(けんりん)、無量の客感妄想を生ず。都(すべ)て是れ習気之を為すなり。之を魑魅、百怪の昏夜(こんや)に横行するもの、太陽の一たび出づるに及べば、則ち遁逃(とんとう)して迹を潜むるに譬う。心の霊光は、太陽と明(ひかり)を並ぶ。能く其の霊光に達すれば、即ち習気消滅して之が嬰累(えいるい)を為すこと能わず。聖人之を一掃して曰く、何をか思い何をか慮らんと。而して其の思は邪(よこしま)無きに帰す。邪無きは即ち霊光の本体なり。


【訳文】
人間がこの世に処して行くには、多少とも、人との交際もしなければならないし、煩悩のために迷うこともある。色々な事が動き乱れ、起きたり無くなったりして限りがない。よって、計り較べたり、推量したり、羨みねたんだり、けちってみたり、実に限りなく周囲の環境から起る感情や妄念が色々と生じてくる。これらはことごとく、世間の慣習のなすところのものである。色々な妖怪が、夜の暗闇の中で勝手気ままに振舞っているが、太陽が出て明るくなると、逃げかくれて、迹形も無くなってしまうように、心の霊妙な光は、太陽と明るさを同じくしている。心が霊妙に達したならば、妄念邪気は消え去って、それらがわずらいをなすことはできない。聖人は、これを掃(はら)いのけて言うには、「何を思おうか、何を考えようか(何も思考する所はない)」と。つまり、われわれの思いに、邪念が無くなればそれでよいことになる。この邪念の無いということが、心の霊光の本体なのである。


【所感】
人がこの世で生きていくためには、多少の交際もあれば、煩悩に悩まされることもあり、また騒ぎに巻き込まれることもあろう。様々に動き乱れ、起こったり消滅したりして限りがない。よって比較してみたり、推量したり、うらやんだり、貪ったりけちったりして、限りなく妄想を生じさせる。これらはすべて世間の慣習によって起こるものである。例えてみれば、妖怪が闇夜の中で好き勝手に振舞っていても、太陽が昇れば逃げ隠れて跡形もなくなってしまうのと同じである。心の霊妙な光は太陽の明るさと同等である。心がその霊妙な光に達したならば、世間の慣習によって引き起こされる妄想も消え去って悪さを起こすことができない。聖人はこれらを一掃して言う。何を思うか、何を慮ろうかと。結局それは、わが思いに邪(よこしま)なところがなくなる、ということである。邪な心がないということこそ、心の霊妙な光の本体なのだ、と一斎先生は言います。


何をか思い何をか慮らん


とは『易経』繋辞下にある言葉で、一斎先生は『周易欄外書』の中で、


天下何をか思ひ、何をか慮らんとは、無心の感を謂ふなり。


と注記しているそうです。


また、


思は邪無し


とは、元々は『詩経』にある言葉ですが、孔子が『論語』で取り上げたことで有名な言葉となっています。


【原文】
子曰わく、詩三百、一言以て之を蔽う。曰わく、思邪無し。(為政第二篇)


【訳文】
先師が言われた。
「詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』ということである。(伊與田覺先生訳)


これについても、一斎先生は『論語欄外書』の中で、


邪無しとは、誠なるなり。思邪無しとは、即ち思誠なるなり。思誠の外に学無し。


と記述しています。


つまりこの章で一斎先生が仰っているのは、聖人君子のごとく、心から霊妙な光を発するようになるためには、心を無心にし、ただ己の誠を尽くすのだ、ということのようです。


しかし小生のような凡人にとっては、人と比べて悩んだり、けちな気持ちが沸き起こるのを制することは、並大抵のことではありません。


そこで小生が今現在、森信三先生のお言葉


一切の悩みは比較より生ず


を肝に銘じて、人と比べない人生を歩むことに重点を置いています。

第254日

原文】
人は当に往時に経歴せし事迹(じせき)を追思すべし。某の年為しし所、孰れか是れ当否、孰れか是れ生熟、某の年謀りし所、孰れか是れ穏妥、孰れか是れ過差と。此れを以て将来の鑑戒(かんかい)と為せば可なり。然らずして、徒爾(とじ)に汲汲営営として、前途を算え、来日を計るとも、亦何の益か有らん。又尤も当に幼穉(ようち)の時の事を憶い起すべし。父母鞠育乳哺(きくいくにゅうほ)の恩、顧復懐抱(こふくかいほう)の労、撫摩憫恤(ぶまびんじゅつ)の厚、訓戒督責の切、凡そ其の艱苦して我を長養する所以の者、悉く以て之を追思せざる無くんば、則ち今の自ら吾が身を愛し、肯(あえ)て自ら軽んぜざる所以の者も、亦宜しく至らざる所無かるべし。


【訳文】
人は過去において自分が経験した事柄を思い出してみるべきである。ある年に自分がなした事は、どちらが正しかったか、正しく無かったか、どちらが不十分であったか、十分であったか、ということを考え、さらに、ある年に自分が計画した事は、どちらが穏当であったか、出過ぎていたか、ということを考えて見る。こうして将来の手本とし戒めとするのが望ましい。そうせずに、ただ徒らにこせこせとあくせくして、まだ来ない先ざきの事を考え計算したとて、それが何の益になろうか、まったくむだなことである。また、人は自分が幼少であった時の事を思い出してみるべきである。父母が自分を養い育てたり乳を飲ませてくれた恩、何度も振り返って自分をいたわってくれたり、懐に入れたり、抱いてくれたりした苦労、撫でさすってくれたり、可愛がってくれたりした厚い情、教えさとし戒めてくれたり、責めなじったりしてくれた親切志など、およそ父母が艱難辛苦を重ねて、自分を成長させ養育してくれた事なで総てを思い出してみるならば、いま自分がわが身を大切にし、軽はずみなことをしないということも、また十分に行き届かない所が無いようになるだろう(十分行き届くようになる。)


【所感】
人は過去に経験した事柄を思い起こすべきである。ある年に自分がしたことはどれが正しく、どれが間違っていたのか。どれが十分でどれが不十分だったのか。ある年に自分が計画したことは、どれが穏当で、どれが過ちであったのかと。そうすることで将来への戒めとすれば良いことである。ところがそうではなくて、ただせわしなく慌しくして、未来を勝手に予測したり計画したところでなんの益があろうか。また人は特に幼少期を思い起こすべきである。父母が自分を養い乳を与えてくれた恩、子を案じて何度も振り返り抱きかかえてくれた労力、なでたりさすったり、不憫がっていつくしんでくれた厚情、教え諭したり、いましめただしてくれた切実な思いなど、父母が艱難辛苦して自分を養い育ててくれたことなどをすべて思い出してみれば、現在我が身を愛し、軽んじることことのないようにすることも、当然のこととして捉えることができるであろう、と一斎先生は言います。


これは非常に重要な教えではないでしょうか。


まだ来てもいない、あるいは来ないかも知れない未来を憂いても無意味なだけである。


そんなことをするくらいなら、過去に自分が何を行い、何を得たかを考え、またいかに父母が自分のために尽くしてくれたかを思い、今なすべきことに己を尽くせ、と一斎先生は熱いメッセージを送ってくださっているのです。


『論語』の中では常に孔子に厳しく叱責を受けている宰予という高弟がいます。


言語には宰我・子貢


と称えられた立派な弟子でありながら、『論語』ではいつも叱られています。


あるとき宰予は、親の死に対する服喪の期間を三年とするのは長すぎはしないかと孔子に訴えます。


それに関して問答をした後、孔子はお前がそうしたいなら好きにしなさいと突き放します。


そして宰予が去った後に、寂しさをこらえてこう言うのです。


【原文】
子曰わく、予の不仁なるや。子生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪(つうも)なり。予や、三年の愛其の父母に有るか。


【訳文】
先師が居合せた門人達に言った。
「宰予はなんと不仁なことよ。子が生まれて三年、漸く父母の懐をはなれるのである。一体三年の喪は、世の中の人が誰もやっている共通の喪である。宰予も三年の父母の保育の愛情を受けた筈なのに、忘れてしまったのであろうか」(伊與田覺先生訳)


親の心子知らず


とは昔からよく言われることです。


小生も親になってみて、子供たちの親を思う気持ちに寂しさを感じることもあります。


しかし一斎先生は、「お前自身が、まったく同じ事を両親にしてきたのではないか?」と小生に問いかけられておられるようです。


返す言葉もありません。


幸いにして両親とも健在である小生です。


我が身の将来をああでもない、こうでもないと考える前に、父母への恩返しをしっかりとすべきですね。


森信三先生が敬愛してやまなかった西晋一郎先生の言葉に


父母の恩の有無厚薄を問わない。父母即恩である。


という至言があります。


父母の存在そのものが恩の対象なのだ、というこの言葉をもう一度かみ締めてみたいと思います。

第253日

原文】
聖人は清明躬に在りて、気志神の如し。故に人の其の前に到るや、竦然(しょうぜん)として敬を起し、敢て褻慢(せつまん)せず、敢て諂諛(てんゆ)せず。信じて之に親しみ、尽く其の情を輸(いた)すこと、鬼神の前に到りて祈請するが如きと一般なり。人をして情を輸さしむること是の如くならば、天下は治むるに足らず。


【訳文】
聖人の身体には、清くて明らかな心が宿っていて、その心持は神のようである。それ故に、人が聖人の面前に出ると、恐れ慎んで自然と念を起し、あえて慣れあなどることもせず、またあえて媚びへつらうこともしない。心から信頼して親愛の情をいだき、真心を捧げ尽くすのである。それはあたかも、鬼神の前に出てお祈りをするのと同様である。人をしてこの様に真情を捧げ尽くさせるようになると、天下を治めることは、なんの造作もなく容易である。


【所感】
聖人は清く明るい気を身に充満させ、その気のはたらきは霊妙で神のようである。それゆえ人がその前に立てば、おそれ慎んで尊敬の態度を示し、間違ってもなれなれしかったり、媚び諂うような態度をとるようなことはない。その人を信頼してよく懐き、その真情を発露するのは、鬼神の前で祈りを捧げるのと同じである。このように人の真情を発露させることができれば、天下を治めることなどたやすいものだ、と一斎先生は言います。


儒教の経典である四書のひとつ『大学』には有名な『大学』の八条目があります。


すなわち、


格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下


がそれです。


この中の後半の4つの条目は特に有名であり、要するに世の中を太平に治めたいと思うのであれば、まずは己の身を修めることから始めよ、という教えです。


本日の一斎先生のお言葉は、まさにこれを述べておられるようです。


つまり、我が身を清明に保つことができれば、特別な指示などせずとも、人々は勝手に敬意を抱き、親しみ、真心を尽して各自のなすべきことをやってくれるものであるから、天下を治めたいと欲するならば、聖人のように我が身を清明に保つべし、と仰っているのです。


『論語』にも以下のような教えがあります。


【原文】
子曰わく、其の身正しければ、令せずして行なわれ、其の身正からざれば、令すと雖も従わず。(子路第十三篇)


【訳文】
先師が言われた。
「上にある者が、正しければ、命令しなくともよく行われ、正しくなければ、どんなに厳しい命令を下しても、民はついてくるものではない」


これがいわゆる孔子の徳治主義です。


かつての小生は、これと真逆のマネジメントをしていました。


厳しいルールを課し、時に怒鳴りつけることで、メンバーを無理に従わせてきたのです。


そんなやり方をしていれば、必ず最後は破たんを来たします。


我が身を清明に保つことは容易なことではありませんが、君子(立派な人)を目指すのであれば、常に意識しておくべきことであることは間違いありません。

第252日

原文】
吾人は須らく自重を知るべし。我が性は天爵(てんしゃく)なり、最も当に貴重すべし。我が身は父母の遺体なり、重んぜざる可からず。威儀は人の観望する所、言語は人の信を取る所なり、亦自重せざるを得んや。


【訳文】
われわれは、ぜひ自重(身を慎んで軽率に行動しない)ということを知るべきである。わが本性は、天から与えられた美徳で自然に尊いものであるから、最も大切にしなければならない。わが身体は、父母から遺されたものでであるからして、重んじなければならない。自分の立居振舞いは、人の見る所のものであり、言葉は人から信用を受ける所のものであるから、これもまた、どうして自重しないわけにいこうか、自重しないわけにはいかない。


【所感】
われわれは自らを慎むことを知るべきである。人間の本性は天から与えられたものであり、一番重視すべきものである。また自分の身体は父母の遺体といってよく、当然尊重しなければならない。自身の起居行動は人が観察するところであり、言葉は人がそれをもって信頼するかどうかを判断するものであり、慎まないわけにはいかない、と一斎先生は言います。


この章の元となった『孟子』の章句を引用しておきます。


【原文】
孟子曰く、天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠信にして、善を楽しんで倦まざるは、これ天爵なり。公卿大夫は、これ人爵なり。天爵を脩(おさ)めて、人爵はこれに従う。


大切なのは地位や名誉ではなく、仁義忠信を重んじ、ただ善を求めて生きるという人間の本性だ、と孟子は仰っています。


だからこそ天賦の徳性をもつ我が身自身を大切にせよ、と一斎先生も仰っているのです。


さらに、一斎先生は「我が身は父母の遺体」という『礼記』の中の曾子の言葉を引用されて、我が身を尊重すべきもうひとつの理由を説いています。(第211日参照)


そして、人はひとりでは生きられず、つねに人の間で生きていくべきであるから、行動と言葉を慎むことが何より重要なことだと締めくくっているのです。


つまり天性の発揮や父母(祖先)への敬意を抱くという自身の内面を慎むとともに、態度や言葉といった外面をも慎むことで、己をつねに修養していくことの大切さを語っている章であると、小生は理解をしています。

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れみれみ