一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年10月

第251日

原文】

凡そ教えは外よりして入り、工夫は内よりして出づ。内よりして出づるは、必ず諸を外に験し、外よりして入るは、当に諸を内に原(たず)ぬべし。


【訳文】
だいたい、教えというのは外から入ってくるものであり、工夫(知恵)というのは時分の内部から出るものである。それで、自分の内部から色々と考え出したものは、必ずこれを外部において確証すべきであり、また、外から入ってくる教え(知識)は、ぜひこれをよく自分で調べて当否を考究すべきである。


【所感】
総じて教えというものは外から入ってくるものであり、創意工夫は自身の内部から生まれてくるものである。自身の内部から生まれてきたものは、必ず教えに照らし、外から入ってくるものは、必ず自身の中で実行すべきものかどうかを判断するべきである、と一斎先生は言います。


この章句を読んですぐに小生の頭に浮かんできたのは、以下の『論語』の言葉でした。


【原文】
わく、びてわざれば(くら)く、うてばざれば(あやう)し。


【訳文】
先師が言われた。
「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない」


つまり善や徳を踏み行うためには、まずインプットが必要であり、それをすぐにアウトプットするのではなく、熟成させることが必要だということです。


一斎先生もこれをご指摘されているのではないでしょうか?


小生などは、良い言葉や教えを聞くと、すぐに人に話してしまいます。


これでは熟成されていませんので、自分のモノ(ことば)になっていないまま伝えてしまうことになり、結果として思いは伝わらないはずです。


常に心を空しうして、教えに耳を傾け、深く思索した後にはじめて言葉として音に乗せる。


そうした言葉こそ、あたかも熟成されたワインのように薫り高く人々の心に深く沁みこんでいくのかもしれません。

第251日

原文】

凡そ教えは外よりして入り、工夫は内よりして出づ。内よりして出づるは、必ず諸を外に験し、外よりして入るは、当に諸を内に原(たず)ぬべし。


【訳文】
だいたい、教えというのは外から入ってくるものであり、工夫(知恵)というのは時分の内部から出るものである。それで、自分の内部から色々と考え出したものは、必ずこれを外部において確証すべきであり、また、外から入ってくる教え(知識)は、ぜひこれをよく自分で調べて当否を考究すべきである。


【所感】
総じて教えというものは外から入ってくるものであり、創意工夫は自身の内部から生まれてくるものである。自身の内部から生まれてきたものは、必ず教えに照らし、外から入ってくるものは、必ず自身の中で実行すべきものかどうかを判断するべきである、と一斎先生は言います。


この章句を読んですぐに小生の頭に浮かんできたのは、以下の『論語』の言葉でした。


【原文】
わく、びてわざれば(くら)く、うてばざれば(あやう)し。


【訳文】
先師が言われた。
「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない」


つまり善や徳を踏み行うためには、まずインプットが必要であり、それをすぐにアウトプットするのではなく、熟成させることが必要だということです。


一斎先生もこれをご指摘されているのではないでしょうか?


小生などは、良い言葉や教えを聞くと、すぐに人に話してしまいます。


これでは熟成されていませんので、自分のモノ(ことば)になっていないまま伝えてしまうことになり、結果として思いは伝わらないはずです。


常に心を空しうして、教えに耳を傾け、深く思索した後にはじめて言葉として音に乗せる。


そうした言葉こそ、あたかも熟成されたワインのように薫り高く人々の心に深く沁みこんでいくのかもしれません。

第250日

原文】
孔子の学は、己を修めて以て敬するより、百姓を安んずるに至るまで、只だ是れ実業実学なり。四を以て教う。文・行・忠・信。雅(つね)に言う所は詩書執礼。必ずしも耑(もっぱ)ら誦読を事とするのみならざるなり。故に当時の学者は、敏鈍の異有りと雖も、各おの其の器を成せり。人は皆学ぶ可く、能と不能無きなり。後世は則ち此の学堕ちて芸の一途に在り。博物多識、一過して誦を成すは芸なり。詞藻縦横、千言立ち所に下るは、尤も芸なり。其の芸に堕つるを以ての故に、能と不能有りて、学問始めて行儀と離る。人の言に曰く、某の人は学問余り有りて行儀足らず、某の人は行儀余り有りて学問足らずと。孰(いずれ)が学問余り有りて行儀足らざる者有らんや。繆言(びゅうげん)と謂う可し。


【訳文】
孔子の学問は、わが身を修め、敬う心を養うことから、万民を安らかしめるに至るまで、どれも実際の事についてなす実学である。「文(書物)を学ぶこと、学んだことを実行すること、真心を尽すこと、偽りの無いこと」の四つの事柄を人に教えた。「常に口にするのは、詩経・書経のことや礼を守ること」であって、必ずしも詩を誦し書を講ずる事だけを専一とはしなかった。故に当時の学問をした者は、才能の点で敏(さと)い者、敏くない者の差異はあったが、各々その器を大成さすことができたのである。このように人は昔、道を学び得るのであって、人によって能・不能の別があるのではない。ところが、後世になって、この孔子の学問の道は、堕落して芸の一道だけになってしまった。物語に博識で、一度目を通すと、すぐ暗誦してしまうなどというのは芸である。詩文の才能があって、自由自在に千言のものも、立ち所に書き下すなどに至っては、優れた芸である。このように、学問が芸に堕してしまったので、能・不能(できる、できない)の差異が生じてしまった。ここにおいて、学問は実践と離れるに至った。世間の人は「某は学問は十分であるが、行動面が欠けて足らないとか、某は行ないは十分であるが、学問が足らないとか」と言っている。しかし、孔子の学問に志す者で、学問が十分で行ないが欠けて足らない者があろうか、そのようなことは無い。世間の人の言うことは誤まっているというべきである。


【所感】
孔子門下の学問は、修身によって他者を敬する気持ちを育て、人々の気持ちを安らかにすることまで、すべて実践重視の実学・活学である。それを以下の四つの項目にって行うのだ。すなわち文(古の経書を読むこと)、行(篤実な行いをすること)、忠(おのれの本分を尽くすこと)、信(約束を違わないこと)である。つねに孔子が述べているのは、『詩経』や『書経』などの経書を読み、礼をとり守ることであった。必ずしも読み書きだけを学問とは捉えていなかったのだ。それゆえ当時の学者はそれぞれ能力の差はあったものの、それぞれの本文を発揮できたのだ。このように人は誰でも学ぶことができ、能力のある者とそうでない者といった差はないのである。ところが後世(もちろん現代も)はこの学問は堕して芸事のようになってしまった。なんにでも詳しく、一度読めばすべて覚えてしまうのは芸である。詩の才があり、数え切れないほどの文字をあっという間に書き写すなどというもの芸である。このように芸と堕したことによって能力のある者とそうでない者が生まれてしまい、学問が実践とかけ離れてしまったのだ。人の言葉に「ある人は学はあるが実践に疎く、ある人は行動力は十分だが学に欠ける」とある。しかし孔子の学問を学んだのであれば、どこにいったい学問は十分だが実践が不足しているなどという者があろうか?この言葉は大きな間違いだと言わざるを得ない、と一斎先生は言います。


第248日の章句同様、ここでも一斎先生は儒学とは実践躬行の学問であることを強調されております。


ここでも『論語』の章句が散りばめられております。
いくつかご紹介してみましょう。


【原文】
子路、君子を問う。子曰(のたま)わく、己を脩(おさ)めて以て敬す。曰(い)わく、斯くの如きのみか。曰わく、己を脩めて以て人を安んず。曰わく斯くの如きのみか。己を脩めて以て百姓を安んず。己を脩めて以て百姓を安んずるは堯・舜も其れ猶諸を病めり。(憲問十四篇)


【訳文】
子路が君子の条件について尋ねた。
先師は「自分の身を修め、人をうやまうことだ」と答えられた。
子路は更にそれだけでしょうかと尋ねた。
先師は「自分の身を修め、人を安んずることだ」と答えられた。
子路なお、それだけでしょうかと尋ねた。
先師は「自分の身を修めて天下万民を安んずることとだ。天下万民を安んずることは、堯、舜のような聖天使でも頭を悩まされたことだ」と答えられた。(伊與田覺先生訳)


【原文】
子、四(よつ)を以て教う。文行忠信。(述而第七篇)


【訳文】
先師は、常に四つの教育目標を立てて弟子を指導された。典籍の研究、実践、誠実、信義がそれであった。(伊與田覺先生訳)


【原文】
子の 雅(つね)に言う所は、詩書執礼皆雅に言うなり。(述而第七篇)


【訳文】
先師が、常に標準語で言われたのは、詩経、書経及び礼の書物であった。(伊與田覺先生訳)


この章から学びとりたいのは、人は各々の分に与えられた個性(器)を尽くせば良いのであって、本来人に甲乙はないのだ、という点でしょう。


学問で明確に優劣を付けるようになったのは、中国は宋の時代から始まった科挙制度に起因しているのではないでしょうか。


現代のわが国においても、受験戦争を勝ちあがった人に案外仕事が出来ない人が散見されるのも同様の現象と見てよいようです。


学ぶとは本来、己の分を知り、その分を発揮するためにあるのだという、一斎先生の教えをしっかりと受け留めたいものです。


ところがこのことは孔子の時代にもその傾向はあったようで、孔子のこんな言葉が『論語』に収録されています。最後にこれを見ておきましょう。


【原文】
子曰わく、古(いにしえ)の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問十四篇)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている。」伊與田覺先生訳)


立身出世のために、否、立身出世のためだけに学ぶのはやめましょう。

第249日

原文】
自彊不息の時候、心地光光明明なり。何の妄念遊思か有らん。何の嬰累罣想(えいるいけいそう)か有らん。


【訳文】
人が自ら休まず勉め励んでいる時には、心は常に光り輝いていて明るく、みだらな考えや遊びに耽るような気持ちはまったく無く、またまといつく憂いや気にかかるような思い悩みなども無いものである。


【所感】
人が自ら休まず勉め励んでいる時には、その心は明るく光り輝いている。どこにもみだらな思いや遊びたいという思いなどはありはしない。また心に引っ掛かるような患い事や悩み事などもありはしない、と一斎先生は言います。


これは誰にも思い当たるところがあるでしょう。


いわゆる三昧境というものです。


森信三先生は、『修身教授録』の中で以下のようなことを仰っています。


われわれが真に、自己の充実を覚えるのは、自分の最も得意としている事柄に対して、全我を没入して三昧の境にある時です。そしてそれは、必ずしも得意のことではなくても、一時に没入すれば、そこにおのずから一種の充実した三昧境を味わうことができるものです。 

 これに反してわれわれが、同時に二つ以上の事柄に対して、そのどちらを採ったものかと、その取捨に迷うている間は、そこに悩みがあり迷いがあるわけです。つまり取捨に迷うということが、すなわち迷いそのものです。 

そもそも迷うと言うことは、人間が一つのことに没頭できなくて、あれこれと取捨の決定に躊躇することを言うわけです。ですから、人間一たん取捨に迷い出すと、どんなに自分の得意な事柄でも、苦痛となり悩みとなってくるものです。そしてイライラして来て、自分の空虚感を感ぜずにはいられなくなるものです。否、人間の悩みと苦痛とは、その場合、自分の得意とする事柄であればあるほど、かえって深刻になるのが常です。


昨日、自彊不息は天の道であり、君子の道であるという一斎先生のお言葉を紹介しました。


この言葉と森先生のお言葉を共に考え合せてみますと、君子と言われる人と小生のような小人との違いは、結局得意のことでないものに没頭できるかどうかの違いとも言えそうです。


仕事であろうと趣味であろうと遊びであろうと家事であろうと、「いまここ」に没入できること、すなわち三昧境に入ることができるよう、日々精進をしなければなりません。

第248日

原文】
自ら彊(つと)めて息(や)まざるは天の道なり。君子の以(な)す所なり。虞舜の孳孳(じじ)として善を為し、大禹の日に孜孜せんことを思い、成湯の苟(まこと)に日に新たにし、文王の遑暇(こうか)あらざる、周公の坐して以て旦を待てる、孔子の憤を発して食を忘るるが如き、彼の徒らに静養瞑坐を事とするのみなるは、則ち此の学脈と背馳(はいち)す。


【訳文】
昼夜の別なく勉めて休むことなく続けているのは天の道であり、またこれが君子の道なのである。喩えてみると、聖王舜が朝早く起きて善をなそうと勤めたのも、夏の禹王が日々善をなそうとしたのも、殷の湯王が「日々その徳を新たにせん」といったのも、周の文王が善をなす以外は寸暇がなかったのも、周公(周代の礼楽制度を定めた聖人)が善政を行なうため夜中良い考えが浮ぶと夜明けを待って実行に移したのも、孔子が道を修めるため発憤して食事まで忘れたのも、皆自ら彊めて息まない天道に従ったものである。かのいたずらに静かに心身を養い眼をつぶっている事だけをなすべき事とするのは、この学問の流派とは相反するものである。


【所感】
自ら勉めて休むことなく動いているのが天の道である。そしてそれは君子の踏むべき道でもある。たとえば、舜帝が朝から晩まで善行をなそうとしたのも、夏の禹王が日々一所懸命に善を尽くそうとしたのも、殷の湯王が日々徳を新たにすると記したことや、周の文王が朝から晩まで食事をする暇がなかったということや、周公旦が夜中に良いことを思いついたときは、朝を待って即実行に移したことや、孔子が学ぶことのために発憤して食事をするのも忘れて努力したということなどは、その例といえるであろう。ただ徒に静かに心身を養い、眼を閉じて坐っているだけで良いとする考え方は、吾々の学はとは全く相容れないものなのだ、と一斎先生は言います。


この章では、儒教は行動の学問、実践の学問だということを一斎先生が宣言しています。


ここで掲載されている各聖人のエピソードは、『孟子』・『書経』・『論語』から取られています。


今回はボリュームの都合上、孔子と孔子のアイドルである周公旦のエピソードをここに掲載します。


【原文】
孟子曰く、禹は旨酒を惡んで、善言を好む。湯は中を執り、賢を立つること方無し。文王は民を視ること傷つけるが如く、道を望むこと未だ之を見ざるが而(ごと)し。武王は邇(ちか)きに泄(な)れず、遠きを忘れず。周公は三王を兼ね、以て四事を施さんことを思う。其の合せざる者有れば、仰ぎて之を思い、夜以て日に繼(つ)ぐ。幸ひにして之を得れば、坐して以て旦を待つ、と。


【訳文】
孟子がいうに、「禹王は美酒を悪んで善言を好んだ。湯王は過不及のない中庸の徳を執り守り、賢者をとり立てるについては、その身分などを問わず、賢徳のある者は誰でもとり立てた。文王は民を視ることあたかも傷つける者をあわれみいたわるようであり、また正しい道を望むことは、まだ見ない者を見ようと願うがようであった。武王は、親近者だからと言って、狎れて粗略に扱うようなことはなく、また遠い所の者だからと言って、忘れて放っておくようなことはしなかった。周公は、以上の禹・湯・文・武の三代の王を一人で兼ね合わせ、これら四聖王のやられたことを、自分の天下に施そうと思った。そして四聖王のやられたことの中に、当時の社会には合わないものがある時には、どうして適合させようかと、天を仰いでこの事を思い考え、夜を日に継いで考えた。こうした結果、幸いにしてその方法を見出した時には、早くそれを実行しようとして、坐ったままで夜の明けるのを待ったほどである。」と。(内野熊一郎先生訳)


【原文】
葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路對えず。子曰わく、女(なんじ)奚(なん)ぞ曰わざる、其の人と爲(な)りや、憤を發(はっ)しては食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らざるのみと。


【訳文】
葉公(楚の葉県の長官)が、先師の人柄について子路に尋ねたが、子路は答えることができなかった。
先師はそれを聞かれて言われた。
「お前はどうしてこのように言わなかったのか、『道を求めて得られないちときには自分に対していきどおりを起して食事を忘れ、道を会得しては楽しんで心配事も忘れ、そこ迄老いが迫っているのも気付かないような人だ』とね」(伊與田覺先生訳)


この二つの文章を読むだけで、孔子の情熱やひたむきさと何故周公に憧れを抱くのかがわかるように思います。


さてこうした事例を挙げた上で、本来の儒教というものはただ心静かに目を閉じて坐っているような学問であってはいけない、と一斎先生は断じます。


このとき一斎先生が批判の対象としているのは朱子学だと、相良亨先生・溝口雄三先生はご指摘されています。(『日本思想大系 佐藤一・大鹽中齋』より)


すでに何度も記載しておりますが、一斎先生は今でいう東京大学に当る幕府の最高学府である昌平黌のトップだった人です。


そして幕府の正規の学問は朱子学です。


あえて朱子学が頭でっかちの行動を伴わない学問となることに警鐘を鳴らしている言葉なのです。


ここに一斎先生の教育に対する覚悟を読み取ることができます。


こうした学問に対する真摯な姿勢、また逆風をも恐れない覚悟があったからこそ、その門下から佐久間象山ら陽明学派の大人物を輩出しています。


一斎先生のこの覚悟があったからこそ、明治維新はもたらされたと考えても決して行き過ぎではないでしょう。


トップに立つ者、特に教育や政治といった中庸の徳が特に重んじられる世界で人の上に立つ人は、この一斎先生の姿勢を大いに見習わなければならないはずです。

第247日

原文】
此の学は、吾人一生の負担なり。当に斃れて後已むべし。道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し。孔子は志学より七十に至るまで、十年毎に自ら其の進む所有るを覚え、孜孜として自ら彊(つと)め、老の将に至らんとするを知らざりき。仮(も)し其れをして耄(ぼう)を踰(こ)え期に至らしめば、則ち其の神明不測なること、想うに当に何如と為すべきや。凡そ孔子を学ぶ者は、宜しく孔子の志を以て志と為すべし。(文政戊子重陽録す)


【訳文】
この学(儒学)は、われらが一生涯身に背負っていかなければならないことであるから、死ぬまで努力しなければならない。道は元来、窮りの無いものであり、堯や舜のような聖人の至極の善行でも、道の全体を尽くすことができなかった。孔子が十五歳から七十歳になるまで、十年毎に進境あるのを自覚し、努め励んで、年を取っていくのに気付かなかった。もしも孔子をして、八十、九十を越えて百歳までも長生きをさせたならば、その智徳は益々進んで、神明の域に達して人智ではとても測り難く、想像に余りある所であろう。およそ、孔子を師として学ぶ者は、この孔子の自ら努めてやまない志をもって自分の志となすべきである。(文政十一年、九月九日録す。一斎時に五十七歳)


【所感】
儒学は我々が一生背負っていくべきものである。まさに死ぬまで学びをやめることがあってはならないのだ。道というものは当然極まることがなく、聖人尭や舜の善行でさえ極め尽くすことはできなかった。孔子は十五歳から七十歳に至るまで、十年単位で自らの進むべき道を定め、ただひたすら努め励み、老いが迫っていることすら気づかないほどであった。もし仮に孔子が八十、九十を超えて、百歳まで生きたならば、神のごとくすべてに明るく、人がとても測り知ることのできない境地へと到達したであろうことは、想像に難くない。孔子を学ぶ者は、みなこの孔子の志をしっかりと心に留めて自らの志としなければならない、と一斎先生は言います。


さて、本日より『言志後録』に入っていきます。


この『言志後録』は、一斎先生が57歳から67歳までの間に書き溜められた言葉を収録したものです。


その冒頭は、儒者としての覚悟を示した言葉で始まります。


一生儒教を学ぶ身としては、常に孔子の志こそが拠り所である、というメッセージでしょう。


ここでは大変有名な『論語』為政第二篇の言葉が引用されております。ここにその全文を掲載しておきましょう。


【原文】
子曰く、吾十有五にして學に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず。


【訳文】
先師が言われた。
「私は、十五の年に聖賢の学に志し、三十になって一つの信念を以て世に立った。然し世の中は意のままには動かず、迷いに迷ったが、四十になって物の道理がわかるにつれ迷わなくなった。五十になるに及び、自分が天のはたらきによって、生まれ、又何者にも代えられない尊い使命を授けられていることを悟った。六十になって、人の言葉や天の声が素直に聞けるようになった。そうして七十を過ぎる頃から自分の思いのままに行動しても、決して道理をふみはずすことがなくなった」(伊伊與田覺先生訳)


不惑の四十歳という言葉の出典がこれです。


ちなみにここから、十五歳を「志学」、三十歳を「而立」、五十歳を「立命」、六十歳を「耳順」、七十歳を「従心」と呼ぶようになったようです。


孔子が十五歳のときに志した学とは、単に勉強しようというようなことではありません。


森信三先生は、孔子はこのとき「大学の道」を志したのだと言われております。


大学の道とは言うまでもなく、「修身斉家治国平天下」を意味しており、己の身を修めることをもって世の中を平らかにする(世界平和の)道をスタートさせたということです。


そして孔子は春秋末期という乱世の中で、理想とした周王朝初期の礼楽制度、すなわち孔子のアイドルである周公旦が整えたと言われる礼楽の制度を復活させることによって世の中を導こうと、まさに死ぬまで努力したのです。


当初は自らが政治に携わることによってそれを目指し、晩年は教育によって弟子たちをして政治に当たらせ礼の復活を夢見たのです。


儒学の根本はこの「修身」にあり、常に孔子をお手本とし、一生かかっても実現し得ないほどの大志を抱いて生きていくことなのだ、と一斎先生はここに宣言をされているのです。


孔子は七十三歳(一説には七十四歳)で亡くなりました。


七十歳にしてわが心の欲するままに行動しても道を踏み外すことのなかった孔子が、もし仮に百歳まで生きていたならば、生きながらにして神になったであろうという一斎先生の推測はきっと間違ってはいないのでしょう。


実際に孔子は死後2500年経った今でも、『論語』やその他の書物を通して世界中の人々の心の中に生き続けています。


それはもう神と言っても過言ではないでしょう。


ただし、実際の孔子という人物は、本当に人間くさい人だったようです。


それは『論語』をしっかりと読めば、誰にでも理解できることです。


決して窮屈で理屈一辺倒の聖人ではなかったのだ、ということは小生も強く主張しておきたいと思います。


ぜひ、皆様も『論語』を読みましょう。

第246日

原文】
数は一に始まって十に成り、十復た一に帰る。大にして百千万億、小にして分釐毫糸(ふんりんごうし)、皆一と十との分合にして、以て無窮に至るなり。易は太極よりして起り、四象に至りて数略(ほ)ぼ具わる。其の一二三四の積始めて十を成すを以てなり。十中に就きて、老陽位の一を除けば、則ち九を余す。故に九を老陽の数と為す。十中に就きて、少陰位の二を除けば、則ち八を余す。故に八を少陰の数と為す。十中に就きて、少陽位の三を除けば、則ち七を余す。故に七を少陽の数と為す。十中に就きて、位の四を除けば、則ち六を余す。故にの数と為す。又一より十に至るの積は則ち五十五を成す。之を天地の数と謂う。今試みに五指を屈伸して之を数うるに、先ず大指より屈して一と為し、食指を二と為し、中指を三と為し、無名指を四と為し、小指を五と為し、再び小指より伸ばして六と為す。六と五とは則ち十一。無名指を七と為す。七と四とは即ち十一。中指を八と為す。八と三とは即ち十一。食指を九と為す。九と二とは即ち十一。大指を十と為す。十と一とは即ち十一。一指毎に皆十一なり。五指を合して五十五を成せば、天地の数は蓋し既に掌中に具われり。又天地の数に就き、其の五十を以て蓍(めとぎ)の数に充て、五を余し、之を虚しくして以て卦位に擬す。卦位は六虚なり。五にては則ち一足たらず。蓍は四十九を用う。五十にては一余り有り。並に未定なり。筮(占う)する時に方(あた)り、蓍は其の一を虚にす。蓋し其の余り有るを去りて、之を足らざるに帰す。是れ感応の幾なり。乃ち蓍の数退きて四十九を為し、卦位進みて六虚を具え、以て六十四を待つ。数是に於いて定まる。蓍の徳は円にして而して神なり。故に其の七を七にす。卦の徳は方にして以て智なり。故に其の八を八にす。七を用い八を求め、九と六とを得て、以て吉凶悔吝(かいりん)の趨く所を推す。凡そ是れ数理の秘なり。独り易を然りと為すのみならず、万物の数も亦此れに越えず。


【訳文】
(本条は、易理によって万物化変の過程を述べた「数理の秘」であるが、極めて長文にして、特に修養や生き方や処世などの資とすべきものでもないから、語釈と通釈は省く)


【所感】
この章については、小生が所有している書籍の中に訳文を掲載しているものがありません。


よって大変申し訳ございませんが、小生もここの解説は割愛させて頂きます。


これで佐藤一斎先生の『言志録』はすべて掲載したことになります。


一日一信でほぼ毎日なんとか継続することができました。


コツコツと始めたこの「一日一斎」も、現在ではブログとFacebookページを合せますと100名以上の方にご覧頂いており、時には暖かいコメントを頂戴しております。


まだまだ『言志四録』の旅は終わりません。


ようやく全1133章のうち五分の一を終えたに過ぎません。


明日からは『言志後録』を掲載して参ります。


引き続きご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

第245日

原文】
凡そ事を作(な)すには、当に人を尽くして天に聴(まか)すべし。人有り、平生放懶怠惰(ほうらんたいだ)なり。輒ち人力もて徒らに労すとも益無し。数は天来に諉(ゆだ)ぬと謂わば、則ち事必ず成らず。蓋し是の人、天之が魄(たましい)を奪いて然らしむ。畢竟亦数なり。人有り、平生敬慎勉力なり。乃ち人情は尽くさざる可からず。数は天定に俟つと謂わば、則ち事必ず成る。蓋し是の人、天之が衷(ちゅう)を誘(みちび)きて然らしむ。畢竟亦数なり。又人を尽くして而も事成らざるもの有り。是れ理成る可くして数未だ至らざる者なり。数至れば則ち成る。人を尽くさずして而も事偶(たまたま)成るあり。是れ理成る可からずして、数已に至る者なり。終には亦必ず敗るるを致さん。之を要するに皆数なり。成敗の其の身に於いてせずして其の子孫に於いてする者有り。亦数なり。


【訳文】
人が何か事をなすには、人力の限りを尽くして後に天運にまかすべきである。ここに人がいるが、この人は平生わがままで怠け者である。「どれだけ働いてもなんの益も無い。運命は天にまかす」といっていては、何事も成功しないことはきまっている。思うに、このような人は、天がこの人から魂を奪い取って、このようにさせたので、つまり、これもまた定まった運命である。ここにまた人がいるが、この人は、平生とても慎み深く勤勉である。「人のなすべき道理は、どんな場合でも尽くさなくてはいけない。運命は天の定めに従う」といっているので、何事も必ず成功する。思うに、このような人は、天がその人の心を誘い導いてこのようにさせたので、つまりこれも運命である。しかしながら、人事を尽くしても成功しないことがある。これは道理の上からいえば成功すべきであるが、まだ天運が至らないからであって、天運が到来すれば成功するのである。これと反対に、人事を尽くさなくとも、偶然にも成功することがある。これは道理の上からいえば成功しないはずであるが、運命がすでに到来していたのであって、そういうのは、終には必ず失敗するのである。


【所感】
何か事をなすには、人事を尽くして天命を待つべきである。 ある人間はは平生だらしなくて怠け者であった。一所懸命に力を用いてもなんの益も無い。運は天にまかせるといっていては、何事も必ず不成功に終わる。思うに、このような人は、天がこの人から魂を奪い取って、このようにさせたのであり、これもまた運命である。別のある人は、平生とても慎み深く勤勉である。人としてなすべき道理は、どんな場合でも尽くさなくてはいけない。ただし運は天の定めに従うといっているので、何事も必ず成功する。思うに、このような人は、天がその人の心を誘いだしてこのようにさせたので、つまりこれも運命である。しかしながら、人事を尽くしても成功しない人もいる。この人は道理の上からいえば成功すべきであるが、まだ天運が来ていないからであって、天運が到来すれば成功するのである。これと反対に、人事を尽くさなくとも、たまたま成功することがある。これは道理の上からいえば成功しないはずであるが、運がそこに来たのであって、そんな人は、最後は必ず失敗するものだ。要するにみんな運命なのである。事の成敗がその人の代には表われないで、その人の子孫の代になってから、表われることもある。これも又運命である、と一斎先生は言います。


一昨日、昨日に引き続き運命と立命のお話です。


幸運は準備と機会が巡り合ったときに訪れる。


とは、セネカの言葉ですが、一斎先生も同じ事を仰っているようです。


つまり成功には二つの要素、準備(努力)と機会(天運)とが必要であるということです。


それではいくら努力しても無駄ではないか、という人がいるかも知れませんが、まずは努力をしてはじめて成功という宝くじにエントリーできるということです。


仮に自分自身の一生のうちには、幸運が訪れなくとも、その死後に子孫が繁栄するという場合もあるので、短い期間で幸か不幸かを判断してはいけないのでしょう。


『易経』坤、文言伝には人口に膾炙した下記のようなことばがあります。


【原文】
積善の家には必ず余慶有り。積不善の家には必ず余殃有り。


【訳文】
善行を積み重ねた家には必ず(先祖の良い行いの結果が子孫に及ぶ)幸せが訪れる。不善を重ねた家には必ずその報いとして(先祖の悪い行いの結果が子孫に及ぶ) 不幸が訪れる。


昨日も記載しましたが、私たちがなすべきことは、まずは己の誠を尽くすことです。


その上で天命を待つのです。


天命は必ず訪れるのですが、それが自分自身の死後であるかも知れないということは、しっかりと心に刻んでおかないといけませんね。

第244日

原文】
世に君子有り、小人有り。其の迭(たが)いに相消長する者は数なり。数の然らざるを得ざる所以の者は即ち理なり。理には測る可きの理有り、測る可からざるの理有り。之を要するに皆一理なり。人は当に測る可きの理に安んじ、以て測る可からざるの理を俟つべし。是れ人道なり。即ち天理なり。


【訳文】
世の中には、徳のある立派な君子がいるかと思うと、つまらない小人もいる。彼らが互いに栄えたり衰えたりするのは運命なのである。運命がそのようにならざるを得ないわけは理である。この理には、予測できる理と予測できない理とがある。要するに、皆一つの理である。それで、人は予測でき得る理に安んじて、予測でき得ない理を俟つようにすべきである。これが人の取るべき道であり、とりもなおさず天命なのである。


【所感】
世の中には立派な人もいれば、そうでない人もいる。彼らが互いに名を成したり失墜したりするのは運命である。そのようになるのには道理がある。この道理には予測可能なものと、不可能のものがある。要は皆ひとつの道理であるには違いないのだ。人間は予測可能な道理に心を安心させて、予測不可能な道理の到来を待つべきである。これが人の道であり、すなわち天の道理なのだ、と一斎先生は言います。


ここは昨日の続きと言える章句です。


人間が自分の分際を弁えて、その分に相応の生き方をすることが重要だということでしょう。


そのためには、予測しうる道理に心を安んじるべきであって、予測不可能な道理については甘んじて受け入れるしかないと一斎先生は仰っています。


予測しうる道理に心を安んじるとは、簡単にいえば今目の前のことに手を抜かずに取り組むということです。


いまやるべきことに己の誠を尽くすということです。


己を尽くしても結果が伴うとは限りません。


しかし、そこに悔いはないはずです。


つまり人間は未来を予測し、未来をコントロールすることはできないのです。


ただできることと言えば、今という時を精一杯生きて活かすことでしょう。


己の誠を尽し切ったとき、新しいステージが迎えに来てくれるはずです。


このことをリーダーとメンバーの関係に置き換えてみましょう。


人間は結果をコントロールできないのですから、リーダーはメンバーのアウトプット(結果)だけを見てその人を判断してはいけないということになります。


それよりもメンバーのプロセスをよく観て、ベストを尽くしているかどうかを見極めるのです。


そして、ベストを尽くしているのであれば、そのプロセスを「ねぎらう」のです。


小生の友人であり、ねぎらい伝道師として知られる兼重日奈子先生はいつも仰っています。


世の中に頑張っていない人はいない


と。


アウトプットよりプロセスをしっかりと見てあげられるリーダーでありたいですね。

第243日

原文】
天定の数は、移動する能わず。故に人生往往其の期望する所に負(そむ)きて、其の期望せざる所に趨(おもむ)く。吾人試みに、過去の履歴を反顧して知る可し。


【訳文】
天が定めた運命(天運)というものは、人の力でこれを変えたり動かしたりすることはできない。それで、人の一生が時折り期待し願望していたこととは正反対に、予期もしない望んでもいない方向に行ってしまうことがある。我れ我れは、試みに自分の過去の経歴を振り返って、その事を知ることができる。


【所感】
天が定めた運命は、人の力ではどうすることもできない。人生が時に期待し望む結果とは反対の方向へと進んでしまうのもそのためである。試みに自身の過去を振り返ってみればそれを知ることができるであろう、と一斎先生は言います。


さて運命については、大変有名な『陰騭録』のお話を引いて考えてみましょう。


あるとき袁氏(袁了凡;陰騭録(いんしつろく)の作者)は仕事で南京付近のお寺に滞在しました。その寺の雲谷という禅師がつくづくと彼を見て、感に堪えぬように聞きました。

「あなたはお歳に似合わずできている。どういう修行をして、そこまでの風格になられたのか」

「いや、特別の修行などしていません。実は少年のときに占いの翁に人相を観てもらったことがあって、いろいろと予言をされました。それが一つも狂っていないのです。それからは余計な煩悶やあがきは一切やめました。それだけのことです」

占い師によると、袁氏は科挙に合格し、官途につく運命であり、五十三歳で亡くなり、子供はできないと言われたそうです。

そして実際に占い師の言ったとおりの順位で科挙に合格したのだそうです。

すると、雲谷禅師は大笑いして言い捨てました。

「何だ、そういうことか。それなら君は誠にくだらん人間だ」

袁氏が驚いて、どういうことかと聞くと、雲谷禅師の答えはこうでした。

「人間の運命が初めから定まっているなら、釈迦や孔子がどうして苦労したのか。偉大な人が大変苦労をして学問修養をしたのは、それによって人間を創ることができるからだ。」

「確かに命というものは存在する。だが、人間はその命を知り、命を立てることができる。これは他の動物には不可能な、人間だけにできることなのだ。どうすればどうなるかを研究し、それによって自らを創造することができる。宿命や運命を立命に転換していくことができる。人間の万物の霊長たる所以は、実にそこにある。運命は我より作(な)すものなのだ」

袁氏は愕然とし、そして目覚めます。彼は発奮し、禅師の教えに従って、謙虚、積善、改過(過ちを改める)といった道徳的精進を積んでいきました。

するとどうでしょう。あの老人の予言がことごとく外れ出します。五十三歳で死ぬはずが七十四歳まで生きました。子に恵まれないはずなのに一子をもうけることもできたのです。(『小さな人生論』「先達に学ぶ」より)


「運命は我より作すものなのだ」という言葉は強烈です。


これはつまり運命は自分で切り開いていくものだ、ということです。


占い師に会った後、袁氏は人生はすべて出来レースだと思い込み、諦念(=あきらめ)を抱きます。


これは自分の命を「宿命論」で捉えた結果と言えます。


ところが、そんな袁氏を、雲谷禅師はくだらない人間だと看破します。


運命を受け入れるとは、未来を諦めることでは決してありません。


むしろ現状をしっかりと受け止め、そこから運命を立命へとどう転換していくか、その課題と解決方法を見つけ出すことを意味するのです。


ここでの一斎先生のお言葉も、人生はあらかじめ決まっているということを仰りたいわけではないはずです。


宇宙(天)の法則というものは厳然と存在し、それに逆らおうとすることは無駄な労力を使うことになると言われているのです。


しかしながら、一度しかない人生ですから、天からの封書を開き、志をもって誠を尽くして生き抜いていくのだという覚悟を持たなければいけません。


そのためにも日々の修養を怠らず、学び、実践するというサイクルを回し続けることで、逆境を乗り越え、運命を切り開いていきたいと思います。
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れみれみ