一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年11月

第291日

原文】
凡そ大硬事(こうじ)に逢えば、急心に剖決(ぼうけつ)するを消(もち)いず。須らく姑く之を舎(お)くべし。一夜を宿し、枕上に於いて粗(ほぼ)商量すること一半にして思を齎(もたら)して寝(い)ね、翌旦(よくたん)清明の時に及んで、続きて之を思惟すれば、則ち必ず恍然として一条路を見ん。就即(すなわ)ち義理自然に湊泊す。然る後に徐(おもむろ)に之を区処すれば、大概錯悞(さくご)を致さず。


【訳文】
総て非常に困難な事に出会ったならば、心をあせらせて解決してしまう必要はない。しばらくそのままにしておかなければいけない。一晩そのままに留めおいて、寝て枕もとでざっと半分くらい考え、そのことを考えながら寝て、翌朝心がさっぱりしてさわやかな時になって、引き続いてこれを考えてみると、必ずぼんやりと一条の解決の道が見えてくる。そうなると、困難な事の筋道(道理)が自然に心の中に集まってくるものである。それから、ゆっくりと難問題を一つ一つ処理して行けば、たいていは間違いを起さない。


【所感】
全て困難なことに直面したときは、急いで解決しようとすべきではない。しばらくはそのままに、しておくのが良い。一晩そのままにして寝て、枕元でざっと考えて考え事を中断したまま眠りに就き、 翌朝清々しさのなかで続きを考えれば、必ず一すじの光を見出すであろう。つまり正しい道理は自然にひとつに帰結するのである。それからゆっくりと一つひとつ処理していけば大概のことは間違いなく処理できるものだ、と一斎先生は言います。


『孟子』告子篇には、


平旦の気(夜気ともいう)すなわち夜明けの清明な気があり、それがつまり良心である、という意味の文があります。


また、王陽明先生の『伝習録』巻下六八条にも、


良知は夜気に発するに在りては、方にこれ本体、その物欲の雑なきを以てなり。


とあります。(『日本思想体系 佐藤一齋・大鹽中齋』より)


一斎先生は、これら古典の解釈をベースにしてこの章を書いているようです。


ここで重要なことは、夜明けの気には人間の良知を引き出す力があるから、それを存分に活用するべきである、ということです。


人間は寝ている間も脳が思考を止めることはありません。


難しい本を読んで寝ると目覚めが良くないのは、睡眠中も脳は本の内容について考え続けるからなのだそうです。


これを読んで思い出すのは、過去に何度も紹介しております坂村真民先生のルーチンです。


坂村真民先生は、毎日真夜中に起床し、雨の日も風の日も重信川(愛媛県)のほとりまで出向き、地面に額をつけて自然のパワーを享受した後、詩を書いていたそうです。


おそらくは真民先生も、夜気を存分に活用されていたのでしょう。


難問解決の際には、あまり早急な解決を求めず、せめて一夜くらいは間を置いて、夜気(夜明けの気)の力を存分に活用してみるのも良いのかも知れません。

第290日

原文】
下情に通ずるの三字は、当に彼我の両看を做(な)すべし。人主能く下情に通達す。是れ通ずることに我れに在り。下情をして各おの通達するを得せしむ。是れ通ずること彼に在り。是(かく)の如く透看すれば、真に謂わゆる通ずるなり。


【訳文】
下情(下々の人情や風俗)に通ずるというこの三字(通下情)は、彼と我れとの両方について見なければいけない。上の者がよく下の事情に通じているという「通」は我れの側にあるので、下の事情を各々我れに通ぜしめるという「通」は彼の側にあるのである。


【所感】
通下情という三文字は、相手と自分との双方を念頭に置かなければならないということを意味している。人の上に立つ者がよく下の事情に通じるというときの「通」は我の側にあり、下の事情をそれぞれ我に通じさせるというときの「通」は相手の側にある。このように理解するのであれば、相手と自分との見透しがついて、真の意味で下情に通じているといえるであろう、と一斎先生は言います。


やや難解な章です。


組織論に置き換えてみましょう。


リーダーがメンバー各々の個別事情をよく把握しているという組織は、いわゆる風通しの良い組織といえるでしょう。


しかしここで大事になってくるのは、リーダーがメンバーの事情を聴きに行くのではなく、自然とメンバーからリーダーに相談が上がってくる環境にあるかどうかです。


そもそもメンバー一人ひとりに興味を持たないようなリーダーではどうしようもありませんが、意外と分かっているつもりで分かっていないのが実情ではないでしょうか。


またリーダー自身が自ら胸襟を開いて、己を開示することも重要です。


こちらの腹の内は隠しておいて、メンバーをうまく働かせようなどと考えていれば、それはメンバーに見透かされて、メンバーも心を閉じてしまうはずです。


下情に通じる、という言葉ひとつを取り上げる場合でも、多面的に捉えることが必要だということを、ここで一斎先生は教えてくださっているのでしょう。

第289日

原文】
養生の道は、只だ自然に従うを得たりと為す。養生に意有れば、則ち養生を得ず。之を蘭花(らんか)の香に譬う。嗅げば則ち来らず、嗅がざれば則ち来る。


【訳文】
心身を養い長寿を全うする方法は、ただ自然のままに任せておくのが得策である。もしも養生をしようとする意志がはたらくと、かえって養生にはならない。これを譬えていえば、蘭の花の香のように、香を嗅ごうとすると匂うて来ないし、嗅ごうとしないと自然に匂うてくるようなものである。


【所感】
養生の道は、ただ自然に任せておくことである。もし養生をしようとする意志があると、かえって養生にならない。これは、蘭の花の香りは 嗅げばかえって匂って来ないが、 嗅がないと自然に漂ってくるということと同じである、と一斎先生は言います。


身体を健康に保つ秘訣について書かれた章です。


ここは暴飲暴食をしても構わないというとり方ではなく、健康志向が強すぎるのも良くない、と理解すればよいでしょう。


小生も数年前に突然健康増進に目覚め、体重を落とすためにジムに通い、1年間毎月ルームランナーの上で100kmを走り続けました。


ところが最初は健康のためにと始めたトレーニングも、徐々に自分の中で義務となってしまい、なんとか1年間走り切ったところで、それ以上モチベーションが続かなくなり、結局トレーニングそのものを止めてしまいました。


卑近な例で恐縮ですが、これなどはまさに一斎先生のご指摘のとおりで、恥ずかしさを禁じえません。


一斎先生は終始一貫、大自然の法則との一致を唱えられています。


つまり、大自然(天)の声を聴け、ということでしょう。


そう考えますと、私のトレーニングも室内ではなく、外を走っていたなら、大自然の声と会話を楽しみつつ続けることができていたのかもしれませんね。

第288日

原文】
「直を以て怨に報ゆ」とは、善く看るを要す。只だ是れ直を以て之に待つ。相讎(そうきゅう)せざるのみ。


【訳文】
『論語』に孔子がいった「公平無私(直)をもって怨みに報いる」ということは、十分吟味して見なければならない。ただこれは公平無私をもってこれにあたるのであって、互いに仇敵(あだかたき)とするものではないだけである。


【所感】
『論語』にある孔子の言葉「公平無私(直)をもって怨みに報いる」については、よく吟味する必要がある。これは公平無私の態度で人に接するということで、恨みを晴らせということではない、と一斎先生は言います。


まず『論語』憲問第十四篇の該当章を引用します。


【原文】
或ひと曰わく、徳を以て怨に報いば何如(いかん)。子曰わく、何を以てか徳に報いん。直きを以て怨に報い、徳を以て徳に報いん。


【訳文】
ある人が「徳を以て怨みに報いるという言葉がありますが、先生はどうお考えになりますか」と尋ねた。
先師が答えられた。
「それでは何を以て徳に報いればよいのか。まっ直ぐな正しさで以て怨みに報い、徳を以て徳に報いるのがよいと思う」


この章句の意味を誤解するな、と一斎先生は警鐘を鳴らします。


つまり、怨みという感情に真っ向から対抗してはいけない。
ただ真っ直ぐに正しいと思うことを貫け、という意味なのだと一斎先生は仰っているのです。


怨みの感情を無理に和らげようとしたり、上から押さえつけようとすれば、それはかえって逆効果になります。


怨みに対して徳で報いるとは、相手からすれば、どうしても上から押さえつけられ、説き伏せられるる印象を持つものではないでしょうか。


よって孔子は、怨みに対しては徳で報いるなと仰っているのです。


相手の怨みの感情が自分に向けられている場合、もし自分が正しいことをしたと確信がもてるなら、ただ淡々と己を貫けばよい。


しかし、もし自分に否があると認めるならば素直に謝罪をせよ、ということでしょう。


ところで自分の言動や行動が正しいかどうかということを客観的に判断するのは大変難しいことです。


修養の目的は、己の徳を磨くことであり、結局徳を磨くとは、つねにブレない自己を築き上げることなのでしょう。


一斎先生の『論語』読みの深さに感銘を受けます。

第287日

原文】
 (しょうせん)出でて明衰え、鈔銭盛んにして明亡ぶ。


【訳文】
紙幣が発行され出してから明朝は次第に衰え始め、その紙幣が盛んに乱発され出して遂に明朝は滅亡した。


【所感】
紙幣が出されてから明は衰えはじめ、その紙幣が乱発されるに及んで明はついに滅亡してしまった、と一斎先生は言います。


明という王朝は、結局紙幣の乱発によって経済的混乱に陥り、滅亡を早めてしまったようです。


国に限らず企業においても、財政をいかに健全に保つかということが、経営における最重要事項と言っても良いでしょう。


古来、入るを測りて出を制す、と言われます。


この言葉の出展は『礼記』です。
その部分を引用しておきます。


【原文】
三十年の通を以て、国用を制し、入るを量りて、以て出ずるを為す。(王制第五) 


【訳文】
三十年間の平均で、国の予算を組み立てるようにし、まず収入を抑えてから支出の計画を立てるようにする。


実はこの教訓は個人の仕事の成果にもそのまま適用できるのではないでしょうか?


インプットなくしてアウトプットなし


です。


自分がどれだけのインプット(学習)をしているかをよく把握した上で、何ができるかを見定めなければ、ただ闇雲に仕事をしても結果が芳しいものにならないのは当然のことです。


以上のように、この章句は自分の分(分際)を弁えよ、という教えであると捉えれば、より応用範囲の広い箴言となりそうです。

第286日

原文】
余明記(みんき)を読むに、其の季世に至りて、君相其の人に匪(あら)ず。宦官宮妾(かんがんきゅうしょう)事を用い、賂遺(ろい)公行し、兵馬衰弱し、国帑(こくど)は則ち空虚となり、政事は只だ是れ貨幣を料理するのみ。東林も党せざるを得ず、闖賊(ちんぞく)も蠢(しゅん)せざるを得ず。終に胡満(こまん)の釁(きん)に乗じ夏を簒(うば)うことを馴致す。嗟嗟(ああ)、後世戒むる所を知らざる可けんや。


【訳文】
私は中国の明の歴史書である『明記』を読んだが、その明の末期になると、主君も宰相もその人を得なかった。宮中に仕える宦官や女官らがはびこって事を構え、賄賂が公然と行なわれ、軍隊は弱くなり、国庫は空っぽになり、政事といっても、ただ金銭のやりくり算段だけであった。それで、東林に集まった学者や官吏らも党派を作らざるを得ず、そして無頼の賊もうごめかざるを得なくなった。ついには、北方の胡がその隙に乗じて明朝を亡ぼすに至ったのである。ああ、後世の人々は、この明朝の滅亡に鑑みて戒める所のあるあことを十分知るべきである。


【所感】
私が明の歴史書を読んだところでは、明の末期になって、皇帝や宰相に人物が輩出せず、宮中に宦官や女官がはびこり、賄賂が公然と行なわれ、軍隊も弱体化し、国庫も空となり、政治は貨幣を乱発して財政をやりくりするだけとなってしまった。やがて東林党が組織され、やくざ者がうごめくようになって、遂には満州族が中国内紛の隙に乗じて国を略奪することに無感覚となってしまった。後世の人はこれを教訓としなければならない、と一斎先生は言います。


中国大陸における王朝存亡の歴史は、常に此処に挙げたような末路を辿っているようです。


明が清にとって代わってしまった要因がいくつも挙げられていますが、結局は、皇帝や宰相に人財を欠いたことが最も大きな要因とみて間違いないでしょう。


国の政治が徳治もしくは法治によって執り行われていれば、宦官や女官がはびこり、賄賂が横行することはありません。


同じく国の政治が正しく行われておれば、庶民も税をしっかりと収めるので、国庫が枯渇することもないでしょう。


国にしても、企業にしても、要するにトップ自らが襟を正すか、あるいはトップを堂々と諌めることができるブレーンを有しておれば、少なくとも存亡の危機に陥ることはないはずです。


あなたが組織のトップであるなら、自らの徳で治める経営を目指しましょう。


あなたがブレーンであるなら、勇気をもってトップを諌める覚悟を持ちましょう。


孔子は、


己に如かざる者を友とすること無かれ(学而第一、子罕第九)


と仰っています。


これは自分より劣る者を友とするな、という意味に解されることが多いようですが、本当の意味はそうではありません。


自分の周りにイエスマンばかりを集めるな、というのが本当の意味のようです。


トップとなっても諫言を受け入れる度量をもつためには、トップとなる前に、自らが諫言を提言する経験を積んでおくことが何より必要ではないでしょうか。

第285日

原文】
其れ難じ其れ慎まば、国家に不慮の患(かん)無く、惟れ和し惟れ一なれば、朝廷に多事の擾(じょう)無し。


【訳文】
何事にも心を配って慎重であれば、国家に思いがけない禍は起こらないであろうし、また万人が和合し一致協力しておるならば、朝廷に多事に煩わされることは起ってこないであろう。


【所感】
平生から大事をとって軽率にせず、慎み深くしていれば、国家に思いがけない禍が生じることはなく、万民が和合し、一つになっておれば、朝廷が多事に患わされるようなことない、と一斎先生は言います。


一斎先生は国や朝廷について書かれていますが、これはもちろん会社組織や家庭においても活かすことのできる教訓となっています。


リスクを想定し、無駄を省き、軽はずみな行動を控える。


組織のメンバーは日頃から心をひとつにして互いに信頼感で結び付いている。


このような組織であれば、たしかに大きな災難に苛まれることはないでしょう。


なお、この章句は『書経』咸有一徳からの引用ですので、その一部を掲載しておきます。


【原文】
臣上(かみ)の爲にするには徳を爲(な)し、下の爲にするには民の爲にす。其れ難(かた)んじ其れ慎み、惟れ和し惟れ一(いつ)になれ。徳に常師無く、善を主とするを師と爲す。善に常主無く、克(よ)く一なるに協(かな)ふ。


【訳文
臣たるものは、上のためには徳を行なうようにし、下のためには人民のことを謀るようにするものです。だから、君主は任用を軽々しくせず、慎重にするようにし、互いに和合するようにし、均一であるようにしなければなりません。徳にはきまった師はなく、善を拠り処にするものを師とするのです。善にはきまった拠り処はなく、よく純一にかなうようにするだけです。(小野沢精一先生訳)


この言葉は殷の湯王の宰相であった伊尹(いいん)が年老いて役職を退くにあたり、湯王の子太甲に徳に関する意見を述べた件で出て来る言葉です。


よって本来の趣旨は、各部門を率いるリーダーは、徳のある人間でなければならないのであるから、トップはその任用を軽率にしてはいけないし、トップとリーダーはお互いを信頼し合い、一枚岩でなければいけないということを諭している言葉になります。


一斎先生は、これを断章取義(作者の本意や詩文全体の意味に関係なく、その中から自分の役に立つ章句だけを抜き出して用いること)的に採用して、国家や朝廷の在り方への戒めとしていると見て良さそうです。


いずれにしても、組織がその存在意義を発揮するためには、リスクヘッジを考慮することと組織のメンバーが一枚岩となって事に臨む体制を作り上げるという2点が重要である。


そう理解して、組織運営を行なう際に十分に留意したい箴言だと捉えておきましょう。

第284日

原文】
一の字、積の字、甚だ畏る可し。善悪の幾も初一念に在りて、善悪の熟するも、積累の後に在り。


【訳文】
一という字と積という字は、特に畏れ慎まなければいけない。善も悪もそのきざしというものは、最初の一念(ふと心に思い出すこと)によるものであり、また善や悪が固まるのも、最初の一念が積み重なった後に結果として成るわけである。


【所感】
一と積という字は大いに畏れ慎むべきである。善悪の兆しは最初の一念にあり、善悪はその一念が積み重った後に定着するものだ、と一斎先生は言います。


積という字に関しては、『易経』文言傳、坤に有名な言葉があります。


【原文】
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。


【訳文】
善行を積み重ねてきた家は、孫子の代にいたるまで幸せに恵まれる。不善を積み重ねてきた家は、のちのちまで必ず禍を受ける。(守屋洋先生訳)


善悪の積み重ねの結果は、我が身一代では終わらず、子孫にまで影響を及ぼすものであるから、善行を積み重ねなければいけない、という教えです。


本日の一斎先生のお言葉は、最初が肝心であることと継続することの大切さと怖さを説いたものと解して良いでしょう。


善いことをしたとしても、それが一回で終わるようではいけないし、仮に悪いことをしたとしても、それを続けなければ大きな災いにはならないということです。


原始儒教は行動を旨とする学問ですから、言より行で、まず行動をすることを求めます。


頭で行動しなければならないと分っていても、実際に行動しないのであれば、それは理解していないことと同じです。


そしていざ行動を起したら、あとは何としても最後までやり抜く覚悟をもって続けなければなりません。


逆に、心に間が差して不善を行なってしまったなら、絶対に繰り返さないという覚悟をもつべきです。


一斎先生のメッセージをしっかりと受け留め、善行(世の中のためになること)を継続していかなければなりません。

第283日

原文】
人は地に生まれて地に死す。畢竟地を離るる能わず。故に人は宜しく地の徳を執るべし。地の徳は敬なり。人宜しく敬すべし。地の徳は順なり。人宜しく順なるべし。地の徳は簡なり。人宜しく簡なるべし。地の徳は厚なり。人宜しく厚なるべし。


【訳文】
人間はこの大地で生まれ、そして大地で死んで土となる。つまり、この大地から離れることはできない。それで、人間はこの大地の徳(恩恵)をよく考えるがよい。地の徳には次の四つがある。すなわち、地の徳は敬であるから、人は敬(己を慎み人を恭(うやま)う)を守るのがよい。地の徳は順であるから、人は順(柔順)であるのがよい。地の徳は簡であるから、人は簡(単純・大まか)であるのがよい。地の徳は厚であるから、人は人情を厚くするのがよい。


【所感】
人は地上で生まれ地上で死ぬ。最後まで地上を離れることはない。よって人間は地の四つの徳を身につけるべきである。四つの徳とは敬・順・簡・厚である。つまり人間は、よく慎み、よく従順であり、よくおおらかあり、よく温厚であるべきである、と一斎先生は言います。


易経において、天は乾の卦、地は坤の卦として表わされます。


そして坤の卦の説明として、様々な箇所に分散しておりますが、ここにあげるような敬・順・簡・厚がその特徴として記載されています。


大地は天からの恵みを受けるところであることから、地の利とは相手を立てる徳を指すとみて良いでしょう。


敬とは、己を空しうすることであり、順とは相手に対して従順であること、さらに何事も複雑に考えずにおおらかであって、人に対して温厚であるという四つの徳こそが地の徳だと、一斎先生は仰っております。


この地の徳を発揮するには、積極的な受け身の姿勢で相手と接することが重要ではないでしょうか。


積極的な受け身とは、相手の良い点だけを見て、それを丸受けに受け取って我が身に活かす姿勢です。


この姿勢を貫くことができれば、相手を敬し、従順でいることも可能になるでしょうし、おおらかに人情厚く接することも可能になるはずです。


吉田松陰先生のお言葉に、


地を離れて人なく、人を離れて事なし。


とあります。


常に大地の恩恵を受ける有難さを噛みしめつつ、大地のように人と交わる人間でありたいと思います。

第282日

原文】
人は往往にして不緊要の事を将(もっ)て来り語る者有り。我れ輒(すなわ)ち傲惰(ごうだ)を生じ易し。太(はなは)だ不可なり。渠(かれ)は曾て未だ事を経ず、所以に閑事(かんじ)を認めて緊要事と做(な)す。我れ頬を緩め之を諭すは可なり。傲惰を以て之を待つは失徳なり。


【訳文】
人のなかには時々さほど重要でない事を持って来て話す人がある。そうした時には、自分はいつも威張って先方を侮る態度になりがちであるが、これは大変よくないことである。その人はまだ経験も浅く、そのために急でないつまらぬ事を大切な事と思いこんでいるのである。そのような時には、穏やかな顔をし、色々喩を引いて諭してやるのがよい。威張った態度で彼に応対することは、自分の徳を損うことになるわけである。


【所感】
得てしてそれほど重要でないことを語る人がいると、私はその人を傲慢で馬鹿にしたような態度をとってしまうが、これは非常に良くないことである。その人はまだ経験が不足しているために、つまらぬ事を重要なことだと理解してしまっているのである。そういう人にはなごやかに諭してあげるべきである。傲慢な態度を取ることは、己の徳を失うことなのだ、と一斎先生は言います。


リーダーにとっては耳の痛い章句ではないでしょうか?


森信三先生もこう仰っています。


すべて人間というものは、目下のものの欠点や足りなさというものについては、これを咎めるに先立って、果たしてよく教えてあるかどうか否かを顧みてみなくてはならぬのです。したがって目下の物の罪を咎め得るのは、教え教えて、なおかつ相手がどうしてもそれを守らなかった場合のことです。


もちろん社会人ともなれば、教えてもらっていないから許されるということではいけませんが、指導する側の人間は矢印を自分に向けるという意味で、こうした箴言を学んでおくべきなのでしょう。


若い社員さんには多くの経験を積んでもらう必要があります。


小生は勤務先にて、リーダーから新卒社員さんまでの全営業社員さんを5つの階層に分けて毎月一回研修を実施しています。


昨日の若手社員研修(入社4年目〜6年目の社員さん対象)でのテーマが「挑戦」でした。


この研修で小生は、


「失敗を恐れるなというけれど、それは無理だよね」


「だから、『やる』・『やらない』で迷った時は、『やる』という選択肢を無条件で選ぼう」


「そして、『やる』と決めたとしたら、まず何から始めるべきかを考えて、すぐにそれを実行に移そう」


といった話をしました。


リーダーの役割のひとつが、このメンバーに挑戦の機会を与え、背中を押すことだと思います。


そして経験不足が原因で失敗をしたのであれば、一斎先生の仰るように、優しく和やかに諭してあげればよいのでしょう。


そうすれば失敗から多くのことを学び、挑戦し続ける社員さんとなってくれるはずです。
プロフィール

れみれみ