一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2015年11月

第271日

原文】
人の一生遭う所には、険阻有り、坦夷(たんい)有り、安流有り、驚瀾(きょうらん)有り。是れ気数の自然にして、竟(つい)に免るる能わず。即ち易理なり。人は宜しく居りて安んじ、玩びて楽しむべし。若し之を趨避(すうひ)せば、達者の見に非ず。


【訳文】
人が一生の間に出遭う所には、これを道路に譬えていえば、険しい所もあり、平坦な所もあり、またこれを水の流れに譬えていえば、穏やかな流れもあり、荒波の立つ所もある。これは自然の成行きで、結局、免れることのできない所のものである。すなわち、これは易で説く道理である。それで、人は自分の境遇に居て安んじ、これを玩んで楽しむがよい、もしもこれを恐れて走り避けようとする如きは、決して達人の見識ではなく小人の見識である。


【所感】
人が一生で出会うことには、険阻な道や平坦な道のようなものもあれば、穏やかな流れや急流に似たものもある。これは自然の成り行きであって、結局避けて通ることはできない。これは易の道理である。人はこれに対処するのに、そのまま受け入れて心を安らかに保ち、あえてそこにぶつかって楽しむくらいでよい。もしここから逃げようなどと考えれば、それは立派な人の行為ではない、と一斎先生は言います。


この章句を読んですぐに小生の心に浮かんできたのは、「最善観」という考え方です。


この言葉は『修身教授録』の中で森信三先生が仰った言葉であり、一般的には「楽天主義」と呼ばれるものですが、哲学の世界では「最善観」と呼ばれているそうです。


長くなりますが、『修身教授録』にある該当箇所を引用しておきます。


今この信念に立ちますと、現在の自分にとって、一見いかにためにならないように見える事柄が起こっても、それは必ずや神が私にとって、それを絶対に必要と思召されるが故に、かくは与え給うたのであると信ずるのであります。

すなわち神とは、この大宇宙をその内容とする根本的な統一力であり、宇宙に内在している根本的な生命力である。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶわけです。

かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、ここにそのようにわれわれに対して起きるのである。かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、その一つひとつが、神の思召であるという宗教的な言い現し方をしても、何ら差し支えないわけです。

そこで、今私がここで諸君に申そうとしているこの根本信念は、道理そのものとしては、きわめて簡単な事柄であります。すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。

それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。


佐藤一斎先生が本日の章句において言わんとしていることが、ここにすべて書かれているように思います。


小生は失意の中にあるとき、この言葉に救われました。


今の出来事が必然だと言われるのはわかる、そういう考え方は過去にも学んだ。
しかし、この出来事が自分にとってベストなのだ、とはどういうことなのか?
どう捉えたらいいのか?


自問自答を繰り返すうちに、そのように出来事を捉え直すことで、現実をプラス思考で捉えることができることに気づきました。


起きてしまったことは仕方がない。


それをどう反省して今に活かすかだ。


目の前にある現実を誰か他人のせいにしても何も変わらない、というあまりにも当たり前の真理にたどり着き、そして心が軽くなりました。


そこには、一斎先生も仰っているとおり、すべてのものは移り変わる(流行)が、そこにある真理だけは変わらない(不易)という易の真理を見ることができます。


先日学んだ『臨在録』のことば、


随所に主と作(な)れば、立処皆真


も同じことを説明しているのではないでしょうか?


主体的に現実を受け入れ、その現実に体当たりしていくことで、今というときを楽しめるようになります。


たとえそれが逆境だとしても。

第270日

原文】
真の功名は、道徳便(すなわ)ち是れなり。真の利害は、義理便(すなわ)ち是れなり。


【訳文】
本当の功名(功績・名誉)というものは、道徳に則したものであって、はじめて真の功名といえる。本当の利害(損得)というものは、義理(人道)に則したものであって、はじめて真の利害といえる。


【所感】
本当に功成り名遂げるとは、道に適ってこそそう言えるのであり、本当の利益とは義理に適って得たものである、と一斎先生は言います。


何をもって成功とするかは、なかなか難しい問題ですが、仮に世の中で一般に考えられているように、成功を功績を上げることや有名になること、あるいはお金持ちになることとすれば、それはすべて道義に適っているものでなければならない、と一斎先生は仰っています。


道義に適うとは、より具体的にいえば私でなく公であり、利己ではなく利他が優先されているかどうかということです。


出世するためにと自分の意思を曲げてまで上役に従ったり、法の網の目を掻い潜って私腹を肥やすなどという行為はすべて道義に反しているので、本当の成功とは呼べません。


既に何度か取り上げている稲盛和夫さんの有名なことば


動機善なりや、私心なかりしか


は、まさにこの動議をベースに物事を考えなければならないことを教えてくれます。


仕事であろうと、プライベートであろうと、何か事を起すときには、この一斎先生のお言葉や稲盛和夫さんの言葉を己自身に問いかけ、確認を怠らないようにしたいものです。


昨日、本日と続けて読んできてお分かりのように、儒教は決してお金儲けを否定していません。


正しい道を踏んだお金儲けをむしろ奨励していると言ってもよいでしょう。


多くの人々が働いて稼ぐ喜びを感じることができるように、大いに稼いで雇用を促進していきましょう。

第269日

原文】
君子も亦利害を説く。利害は義理に本づく。小人も亦義理を説く。義理は利害に由る。


【訳文】
徳の高い人でも利害(損得)を説くが、それは利害が義理(人道)に基づくものである。得の低い小人でも、義理を説くが、それは義理が自分の利害に由るものである。


【所感】
立派な人も利害を説く。ただしその利害は義(正しい道)に基づいている。小人も義について語るが、その義よりも己の利が優先される、と一斎先生は言います。


道元禅師は徹底的に金儲けを否定しましたが、儒教は金儲けを否定はしません。


孔子の高弟である子貢は、金儲けの才に優れていたと言われており、孔子一行の経済的支援はこの子貢によってなされたとされています。


ただし、孔子は『論語』憲問第十四篇では、成人であれば利を見ては義を思うとし、里仁第四篇では以下のように述べておられます。


【原文】
子曰わく、利に放(よ)りて行えば、怨多し。


【訳文】
先師が言われた。
「自分の利益のみを思うて行えば、やがて互いに怨みあうようになることが多い」(伊與田覺先生訳)


孔子は、「義は利の本である」として、利を得ることを否定していないのです。


日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一翁は、『論語』と経済の両立を見事に成し遂げられ、『論語と算盤』という名著を残した他、『論語』の講義本も出版されています。


まさに義を本にして利を成した典型的な人物とみて間違いないでしょう。


ところが我々のような一般人は、頭で理解していても、いざ目の前に利益がちらつくとすぐに心が揺れ動いてしまいます。


まずは、いつでも利に優先する己にとっての義、すなわち自分独自のものさしをしっかりと確立しなければなりません。

第268日

原文】
心に中和を存すれば、則ち体自ら案舒(あんじょ)して即ち敬なり。故に心広く体胖(ゆた)かなるは敬なり。徽柔懿恭(きじゅういきょう)なるは敬なり。申申夭夭(しんしんようよう)たるは敬なり。彼の敬を視ること、桎梏(しっこく)・徽纆(きぼく)の若く然る者は、是れ贋敬にして真敬に非ず。


【訳文】
人はいつも感情が偏らず万事宜しきを得るという中和の心を持っておれば、身体は自然と落ち着いてのびのびしてくる。これが、すなわち敬である。それで、『大学』に「心広く平らかであれば、身体は常にゆったりとしている」といっているのも敬である。『書経』に文王の徳を称賛して「善く柔らかく美(うるわ)しく、恭しく」といったのも敬である。『論語』に孔子の容貌について「ゆったりとして、おだやかである」といったのも敬である。しかるに、敬を、手かせ足かせや縄で縛ったように窮屈なものと見るならば、それは偽物の敬であって真の敬ではない。


【所感】
心が常に中の状態であれば、体はゆったりとして安らかである。これがすなわち敬(つつしみ)である。『大学』伝の六章にある「心は広くして体は胖かなり」というのも敬である。『書経』(無逸)にある文王の人となりが「よく従順で、大変つつましやか」といったのも敬である。『論語』述而第七篇において孔子の態度を「のびのびとされ、にこやかな顔をされていた」というのも敬である。敬とは手かせ足かせであり、縄で縛られたようなものと見る者は、ニセモノの敬であって、ホンモノの敬ではない、と一斎先生は言います。


孔子の高弟であり、孔子が自らの後継者とみなして、もっとも愛した顔回(顔淵)について、以下のような記述が『論語』にみえます。


【原文】
子曰わく、賢なるかな回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂いに堪えず、回は其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。(雍也第六篇)


【訳文】
先師が言われた。
「顔回は、何と立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮らしをしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境にあっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物なんだろう回は」(伊與田覺先生訳)


『論語』において、この顔回だけは常に孔子から称賛されています。


しかし貧しい生活が祟ったのか、顔回は不幸にして41歳の若さで亡くなります。


傍からみれば貧しい長屋暮らしは不幸に思えたかも知れませんが、顔回はそれを楽しんでいたというのです。


顔回こそまさに一斎先生の仰る敬を体現している人物であると言えるのではないでしょうか。


詰まるところ、ホンモノの敬すなわち慎みとは、何かを無理に我慢することではなく、心の偏りを除き、ゆったりとして、身の回りに起きる出来事をすべてありのままに受け入れていく態度を指すということになりそうです。


仮に慎ましい生活をしていても、そこに我慢の気持ちがあったり、苦しいと感じているうちは、ニセモノの敬でしかないということになります。


ホンモノの敬を身につけるためには、禍福終始にあって惑わない己を作るべく学びと実践を続けるしかないようです。

第267日

原文】
礼儀を以て心を養うは、即ち体躯を養うの良剤なり。心、養を得れば、則ち身自(おのずか)ら健なり。旨甘(しかん)を以て口腹を養うは、即ち心を養うの毒薬なり。心、養を失えば、則ち身も亦病む。


【訳文】
人は日常の起居動作を以て、精神の修養をすることは、身体を養うのに良い薬といえる。精神を修養すれば、身体が自然に健全となる。うまい食べ物で身体を養うことは、精神を修養する上において毒薬といえる。精神の修養をしなければ、身体もそれにつれて衰弱して病気になる。


【所感】
礼儀を重んじて心を修養することは、結局は自らの体躯を養う良薬となるのだ。心を修養すれば、体は自然と健康体となる。おいしいものや甘いものばかりでお腹を満たすことは、心にとっては毒薬と同じである。心の修養を怠れば、体は病に侵されてしまうだろう、と一斎先生は言います。


この章句は、すんなりと理解できますね。


心と体、どちらを先に養うかという問題です。


そしてその答えは、心であると。


では、心を養うとは具体的に何をすべきかといえば、その答えは読書に如くはなしとなるでしょう。


森信三先生は、「読書は心の食物である」と仰っています。


長くなりますが、読書に関する『修身教授録』の該当部分を引用しておきます。


読書が、われわれの人生に対する意義は、一口で言ったら結局、「心の食物」という言葉がもっともよく当たると思うのです。つまりわれわれは、この肉体を養うために、平生色々な養分を摂っていることは、今さら言うまでもないことです。実際われわれは、この肉体を養うためには、一日たりとも食物を欠かしたことはなく、否、一度の食事さえ、これを欠くのはなかなか辛いとも言えるほどです。

ところが、ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。からだの養分と比べて、いかにおそろかにしているかということは、改めて言うまでもないでしょう。

ところが、「心の食物」という以上、それは深くわれわれの心に染み透って、力を与えてくれるものでなくてはならぬでしょう。

われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいと言えましょう。

ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らねば、かえって人々を損なうようなものです。同様に人生の深刻切実な経験も、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう。


皆さん、心の栄養は足りていますか?


小生は最近、体重は右肩上がりの割りには、読書量は減少傾向にあります。


大いに反省しつつ、今日から心の食物摂取に励みます。

第266日

原文】
宇は是れ対待の易にして、宙は是れ流行の易なり。宇宙は我が心に外ならず。


【訳文】
宇とは無限の空間的な広さを意味し、そこには万物が互いに交わり会って対立して存在している。宙とは悠久な時間的な長さを意味し、それには万物が絶えず流行し化変し続けている。かかる無限な宇宙は、すなわち我が心にほかならない。


【所感】
宇とは処によって変化して各々その宜しきを得ることをさし、宙とは時によって変化して各々その宜しきを得ることを指す。結局宇宙はわが心の中にあるのだ、と一斎先生は言います。


『淮南子』斉俗訓には


往古今来、これを宙と云い、四方上下、これを宇と云う。


とあります。


つまり、宇とは天地四方上下の無限の空間を指し、宙とは古より今を通じて流れる無限の時間を指すということです。


これを受けて一斎先生は、宇を空間的な変化を含むもの、宙を時間的な変化を含むものとして、上記のようなお言葉を述べられたのでしょう。


これはある意味で、禅的な考え方と合致していると言えるのではないでしょうか。


つまり、空間的なことであろうと、時間的なことであろうと、それを捉えるのは主体である自己であって、自己を失ってしまえばそこに過去も未来も「いまここ」という概念も消えうせてしまうのだということでしょう。


心が大自然の法則に従うならば、あらゆる変化に対応することが可能となる。


よって心を磨き、心を研ぎ澄ましなさい。


すべてはあたなの心の在り方次第ですよ、と一斎先生はお示しになられたのでしょう。


最後に、『荘子』(逍遥遊篇)にある箴言をご紹介しましょう。


【原文】
至人は己なく、神人(しんじん)は功なく、聖人は名なし。


【訳文】
至人は自分にこだわらない。神人は功績にとらわれない。聖人は名誉に関心を示さない。(守屋洋先生訳)


心を磨いて大自然の法則と一体になるとは、己をなくすことだとも言えるようです。

第265日

原文】
心を霊と為す。其の条理の情識に動く、之を欲と謂う。欲に公私有り。情識の条理に通ずるを公と為し、条理の情識に滞るを私と為す。自ら其の通滞を弁ずる者は、即便(すなわ)ち心の霊なり。


【訳文】
心というものは霊妙なものである。正邪善悪の条理(筋道)を判別する理性が、感情・意識によって動くのが欲望である。欲には公欲と私欲がある。感情・意識が理性を通して支配される場合が公欲であり、逆に理性が感情・意識に支配されて、理性的判断が滞ってなされない場合が私欲である。この通ずるか通じないかを弁別するのが、昭明霊覚な心体(心性・霊性)のはたらきである。


【所感】
心は霊妙である。その心の中にある理性が感情によって影響を受けると欲が生まれる。欲には公欲と私欲がある。感情が理性によって適切に抑制されているときは公欲となり、感情が理性で制御できていない状態が私欲となる。この二つをいかに区別できるかは心の霊妙な働きによるものである、と一斎先生は言います。


自分自身の感情を理性によって制御できていなければ、それは私欲であるという一斎先生の言葉に小生はハッとさせられました。


小生は過去に部下育成で大きな挫折を経験しています。


それに対し小生は、この出来事はメンバーをなんとか戦力として育成したいという思いから引き起こしたものであり、思いそのものには間違いはなく、やり方に問題があったのだと自己分析していました。


しかし、感情を理性によって制御できずに、非常に厳しい言葉でメンバーに接していたことを思うと、それは単なる小生の私欲に過ぎなかったのだと気付かされました。


孔子もこう仰っています。


【原文】
子曰わく、其の身正しければ、令せずして行われ、其の身正しからざれば、令すと雖も従わず。(子路第十三篇)


【訳文】
先師が言われた。
「上にある者が、品行正しければ命令しなくともよく行われ、正しくなければ、どんなに厳しい命令を下しても、民はついてくるものではない」(伊與田覺先生訳)


森信三先生が萩に旅行に行った際、直接お弟子さんから聞いたところによると、吉田松陰先生は決して声を荒げるようなことはなかったそうです。


小生はその出来事以降、やり方を変えるためにと森信三先生や佐藤一斎先生の書物や『論語』などの古典を繙いてきました。


しかし結局は、やり方を改めたいなら心を改めなければならないのだということに今ようやく気付くことができました。

第264日

原文】
閑想客感は、志の立たざるに由る。一志立てば、百邪退聴せん。之を清泉湧出すれば、旁水(ぼうすい)の渾入するを得ざるに譬う。


【訳文】
暇にまかせてつまらないことを考えたり、また環境に対してくだらぬことを感じたりすることは、まだしっかりと志が確立していないからである。一つの志が確立しておれば、多くの邪念妄想がことごとく退散して服従するようになる。これを譬えてみると、清らかな泉が湧き出ると、その傍らの水はそれに混入することができないようなものである。


【所感】
つまらないことを考えたり、くだらない感情を抱くのは、その人に志が立っていないからである。志が立てば、そうしたばかげた妄想邪念は起こってもすぐに消えうせるものである。それは例えば、清らかな泉が滾々と湧き出ていれば、傍流の水が入り込む余地がないのという情景のようなものだ、と一斎先生は言います。


孔子はわずか15歳にして学に志し、30歳にして志を立てたと自ら振り返っておられます。


国民教育者で哲学者の森信三先生も、遅くとも二十歳までには志を立てねばならないとご指摘されています。


確かに歴史を振り返れば、偉人と呼ばれた人たちは、ほぼ例外なく幼少の頃に自分の志を立てて、その道をひたすら突き進んできた人達です。


現代においても、ビル・ゲイツ氏や故スティーブ・ジョブズ氏などもその典型でしょう。


一方で小生などはすでに50歳をすぐ目の前に控えて、未だ明確な立志もできぬままに、まさに閑想客感日々を過ごしております。


もうこの年齢から世の中を変えるような大きなことはできないでしょうが、それでも自分自身の周囲にいる人たちに良い影響を与えていくということは不可能ではないでしょう。


さらには、そうした悔恨の思いを自分の後に続く者たちに再び経験させぬよう、メッセージを発信していく必要もあるでしょう。


おそらくこのブログの読者の皆さんの中に、十台の若者は皆無でしょう。


小生と同じ40台、50台といった世代の方が多いのではないかと思います。


人間、始めるのに遅すぎるということはない、とも言われます。


一灯照隅の想いをもって、いま自分にできる精一杯を尽くしていきましょう。


そして皆さんのそばにいる青少年たちに、もう一度強い日本の再生を託すべく、古典や神話を幼少期に学ぶことが出来る教育環境の実現を目指しましょう。

第263日

原文】
過は不敬より生ず。能く敬すれば則ち禍自ら寡し。儻(も)し或いは過たば則ち宜しく速やかに之を改むべし。速やかに之を改むるも亦敬なり。顔子の過を弐(ふたた)びせず、子路の過を聞くを喜ぶが如きは、敬に非ざる莫きなり。


【訳文】
過失というものは慎まない事から起るものである。よく慎んでおれば、過失というものは自然に少なくなるものである。もし過失をしたならば、早速改めるがよい。速やかに過失を改めることも、また慎む(敬)ということである。徳行第一といわれた顔回が、同じ過失を二度と繰り返さなかったのも、また、勇を好んだ子路が、自分の過失を注意してくれるのを喜んで聞いたのも、どちらも敬でないものはない。


【所感】
人の過ちは慎まないことから生じる。慎むことを忘れなければ禍は自然と少なくなるものだ。もし過ちを犯したならば、すぐにこれを改めるべきである。すぐに改めることもまた慎みなのだ。顔回が同じ過ちを犯すことはなかったということや、子路が自分の過ちを指摘されることを悦んだという話などは、慎みをもつことの最たるものだ、と一斎先生は言います。


ここに『論語』及び『孟子』に掲載されているエピソードが掲載されています。


まずはそれを見てみましょう。


【原文】
哀公問う、弟子孰れか學を好むと爲(な)す。孔子對えて曰わく、顔回なる者有り、學を好めり。怒を遷さず、過を貳たびせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かざるなり。


【訳文】
哀公(魯の君主)が「弟子の中で誰が本当に学を好むと思うか」と尋ねられた。
先師が答えられた。
「顔回というものがおりました。彼は怒りを自分に関係のない者にまでうつさず、過ちを二度と繰り返しませんでした。しかし不幸にも若死にをして、もうこの世には居りません。それからは、本当に学を好む者はいないようでございます」


【原文】
孟子曰く、子路、人之に告ぐるに過有るを以てするときは則ち喜ぶ。(公孫丑上)


【訳文】
孟子が言った。
「子路は人が過ちであることを注意すると喜んだ」


このふたつのエピソードは、いずれも孔子の高弟であった顔回や子路の慎みの深さを例示しています。


ここでこの慎み深さはどこから来ているのかと考えてみると、それはこの二人の高弟が共にすべての出来事において矢印を自分に向けているからだと見ることができます。


人間関係において何か問題が発生したならば、相手を非難したり、相手を変えようとする前に、まず自分の側に非はなかったか、自分の何を変えれば関係を修復できるだろうかと考え、解決策が見つかればすぐに実践する。


それこそが慎み深さなのだと、一斎先生は仰っています。


したがって、常にこうした態度で日々の生活や仕事に接しているならば、大きな災いが降りかかることはないのだと断言しておられます。


小生のような凡人は、すぐに矢印を相手に向けがちです。


すべてのできごとが自分自身にとって必然で最善だとするならば、まず矢印を自分に向けて、なすべきことを即今着手で実行するしかありませんね。

第262日

原文】
人或は謂う「外物累を為す」と。愚は則ち謂う「万物は皆我と同体にして、必ずしも累を為さず。蓋し我れ自ら累するなり」と。


【訳文】
人は「外物(富貴名利)のために煩わされてうるさい」というが、私は「天地間の万物はことごとく自分と一体の関係にあるからして、別に必ずしも煩いをなさない。煩いをするというのは、外物でなくて、自分自身がなしているのである」と思う。


【所感】
人はときに「富貴名利などの外物に煩わされる」という。私は言う「すべての物は皆自分と一体であって、必ずしも煩いをなすものではない。思うに、己が自ら思い悩むだけである」と。


この章で一斎先生が仰りたいことは、意を誠にすれば内外一致して万物と一体となり、外物に煩わされることはない、ということのようです。


ちなみに「意を誠にす」とは、自らを欺かないことであると、『大学』に述べられています。


つまり自らを欺かず、宇宙の法則に逆らうことなく日々を過ごすならば、何があっても煩わされることはない、ということでしょう。


確かに考えてみれば小生は、本当の自分ではない自分であろうとするとき、つまり背伸びをしているときに、思い悩んできたのかも知れません。


『荘子』に下記のような言葉があります。


【原文】
古(いにしえ)の真人は、生を説(よろこ)ぶことを知らず、死を悪むことを知らず。その出づるも訴(よろこ)ばず、その入るも距(こば)まず。翛然(ゆうぜん)として往き、翛然として来たるのみ。


【訳文】
「道」を体得した人物は、生に執着するでもないし、死を忌避するでもない。この世に生を受けたからといって喜ぶこともなく、この世を去るからといって悲しむでもない。ただ、無心に来て、無心に去っていくだけである」(守屋洋先生)


無心となればもはや悩むことなどないはずです。


結局は、外に原因はなくして内に原因あり、と認識するところから君子の道はスタートするということでしょう。
プロフィール

れみれみ