一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年01月

第353日

【原文】
人の事を做すに、目前に粗脱多く、徒らに来日の事を思量す。譬えば行旅の人の齷齪(あくさく)として前程を思量するが如し。太(はなな)だ不可なり。人は須らく先ず当下を料理すべし。居処恭しく、事を執るに敬し、言は忠信、行は篤敬に、寝ぬるに尸(し)せず、居るに容(かたち)づくらず、一寝一食、造次顚沛(てんぱい)に至るが如きも、亦皆当下の事なり。其の当下を料理して、恰好(かっこう)を得る処、即ち過去将来を并(あわ)せて、恰好を得んのみ。


【訳文】
人が物事をする時には、眼前の事に手ぬかりが多いのに、むやみに将来の事を考えめぐらすものである。それは譬えると、旅人があくせくして行先のことを考えるようなもので、甚だよろしくないことである。人はまず眼前の事を処理すべきである。すなわち、平素家にいる時は礼儀正しくし、仕事をする時は過失の無いよう慎み、言葉は真実で偽りが無く、行いは真面目で慎み深く、寝る時は死人のような寝姿をなさず、平常ひまな時はことさらに行儀を正しくせず、寝る時も食事の時も道に違うこと無く、わずかの間でも仁を離れないなどは、総て当面なすべき事である。その時その時の事柄を処理して、丁度うまく行くようにすると、過去から将来まで、自然にほどよく事を処理することができるものである。


【所感】
人が事を行うときには、目の前の事にてぬかりが多く、それでいてまだ来ぬ将来のことを考えるものである。たとえば旅人があくせくとこれからの道のりを考えるようなものである。大変よろしくないことである。人とは総じてまず目先のことを処理すべきである。家でくつろぐ時のいずまいは恭しく、事を行うときは敬を持って行い、言葉にうそ偽りはなく、行いは誠実で慎み深く、寝る時は死んだように眠らず、家に居る時は緊張をほぐしてゆったりとしており、寝る時も食事の時も、わずかの間も仁から離れないというようなことは、当面やるべき事である。当面やるべき事を適切に行えば、過去から未来におけるまで、適切な状態を保つことが出来るのだ、と一斎先生は言います。


この章の趣旨は、非常にシンプルで理解し易いですね。


とにかく先のことを考えずに、目先のことに全力を尽すことが肝要である、と一斎先生は仰っているようです。


ところで、成功を夢見ない人などは居ないはずです。


ただし、成功を夢見ているだけでは、成功を手に入れることはできません。


成功を手に入れるためには、まず今目の前にある仕事に全力を尽して、期日を遅らせることなく仕上げることです。それ以外に方法はありません。


つまり、誠を尽すことです。


小生の師匠である中村信仁さんは、


今の仕事に一所懸命に取り組めば、次のステージが迎えに来てくれる


と仰っています。


成功という夢のステージも、みずからそのステージを求めるのではなく、今目の前にあるやるべき事に精一杯取り組むことで、成功の側から迎えに来てくれることを待つべきなのでしょう。


この章で一斎先生がまず為すべき事ととして取り上げているのは、仁者であるための姿勢や行動です。


お気づきのことと思いますが、それらはすべて己自身がなすべき事のみであって、他人を変えようだとか、他人から評価を得ようといったことは一切挙げられていません。


つねに矢印を自分に向けて、自己修養に励むことが儒教の精神であることを改めて理解し、少しでも実践できるように日々鍛錬を続けたいですね。

第352日

【原文】
心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之を道心と謂う。性の体なり。其の体軀に渉るよりすれば、則ち之を人心と謂う。情の発するなり。故に道心能く体軀を主宰すれば、則ち形色其の天性の本然を失わず。唯だ聖人能く精一の功を用いて、以て其の形を践むのみ。然れども此の功を知覚するも、亦即ち道心の霊光にして、二に非ざるなり。


【訳文】
道心と人心のあることを述べたが、心に二つの心が存在するものではない。心の本体(性)を道心というのであって、これは本性を指していうのである。それが身体に関係する所からいえば、これを人心というのであって、これは人間の情が外に現われたのをいうのである。(性の発動したものが情で、性情は体用の関係にある)それで、心の本体である道心がよく身体を統御するならば、形体や顔色は天から受けたありのままの純なる姿を失わない。この事は、ただ聖人だけが、よく純真な心の作用を以てして、耳目など各性能を十分に全うすることができる(普通の人にはむずかしいことである)。この純真な心の働きを知覚できるのも、道心の霊妙な作用であって、道心と人心とは別個二つのものではないのである。


【所感】
道心と人心という二つの心があるわけではない。天性の心を道心というのである。本性が表れた状態である。それが身体に作用したものが人心である。人情が表れた状態である。したがって、道心が人間を支配すれば、耳目がよく視聴するように天性のはたらきを失うことはない。ただ聖人と呼ばれる人だけが純粋に専一にそのはたらきを全うしている。(つまり人心を制御している)しかし、そのはたらきを知覚するのも道心の霊妙な作用であるので、道心と人心とは二つ別々のものではないのである、と一斎先生は言います。


引き続き、道心と人心についての章句です。


何度もこの言葉を目にし、読み込むうちに少しずつ、この道心と人心についても理解が進んだように思われます。


聖人と呼ばれる人だけが、完璧に人心をコントロールできるのであって、凡人にはなかなか難しいことだ、と一斎先生は仰っています。


以前にも書きましたが、小生のような凡愚な人間は、間違っても欲を無くそうなどと思ってはいけないのでしょう。


まずは欲に打ち克つことを目指すべきです。
まさに克己です。


欲を我慢しようなどと考えるのも浅はかです。


欲に打ち克つとは、その欲望を忘れられるほど仕事に打込むことです。


孔子が天命と呼んだものは、そうした己が全霊を尽して打ち込むことができる仕事を指しているのではないでしょうか?


己の道心を発揮して、人心を抑え込むためにも、天命を知ることが大切なようです。


小生も今年50歳となりますが、未だ「天からの封書」を空けきれておりません。


小生が、潤身読書会を主査したり、この一日一斎を毎日書き続けているのも、天命探しのあがきの姿だと言えそうです。

第351日

【原文】
人は当に自ら我に軀(み)有るを認むべし。軀は何物たるか。耳は天性の聡有り、目は天性の明有り、鼻口(びこう)は天性の臭味有り、手足は天性の運動有り。此の物や、各おの一に専にして、而も自ら主たる能わざれば、則ち其の物と感応して、物の外自(よ)り至る、或いは耳目を塗し、鼻口を膠(こう)し、其の牽引する所と為りて、以て其の天性を拗する有り。故に人の善を為すは、固より是れ自然の天性にして、悪を為すも亦是れ拗後(ようご)の天性なり。其の体軀に渉り、是(かく)の如きの危を以て、呼びて人心と做(な)す。


【訳文】
人は自ら自分に身体が具わっていることを認識しなければいけない。身体とは何物なのか。耳には生まれつきよく聞こえる鋭敏さがあり、目には生まれつきよく物を見る明敏さがあり、鼻や口には生まれつきよく匂をかぎ、よく物の味を知る働きがあり、手足には生まれつきよく運動する機能を具えている。これらの器官は各々一部分を受持つものであって、全体を司どることはできないから、外界の物に感応し、物が外から至れば、耳や目が塗りつぶされたり、鼻や口がにかわで張られたり、外物のために引き寄せられて、生まれつきの自然な機能がおさえられて自由に働かなくなってしまうものである。それ故に、人が善をなすのは、元来、天然自然の本性によるものであるが、悪をなすのもまた、外物におさえられるという天性の機能によるものである。天性の機能は身体の各部分に及んでいて、外物の悪い影響受ける危険性があるからして、これを人心というのである。


【所感】
人は自ら自分に身体があることを認めるべきであろう。身体とは何物であろうか。耳はうまれつきの聡く聴き分ける能力があり、目には生まれつきのはっきり見分ける能力があり、鼻と口には生まれつき匂いをかぎ、味を感じる能力があり、手足は生まれつき自由に動かすことができる。これらはそれぞれが専門の領域をもっているが、主体とはなれないものであるから、外からの物に反応して、時には耳や目を塞がれ、鼻や口を覆われ、外からの影響によって(私利私欲が起こり)、その生まれつきの機能が阻害されてしまう。したがって、人が善を行うことは、元来自然の生まれつきの行為であって、悪事を行うことは外物からの影響を受けてはいるがこれも生まれつきのはたらきなのである。身体全体にこうした危険性を秘めているので、これを称して人心というのである、と一斎先生は言います。


天から授けらた人間の身体には、本来善を行うためのはたらきが具わっている。それは目鼻口といった各器官は、それぞれ最善のはたらきをするはずであるが、外からの刺激によって、本来の機能が害われてしまうことになるので、よく気をつけておかねばならない、と一斎先生は仰っています。


そしてこのような人間の弱い心を人心と呼ぶのでしょう。


一斎先生のご指摘を受けて考えてみると、確かに現代は五官にとって悪となるものが蔓延っているとも言えそうです。


小生が子供の頃は、テレビ(映像)や音楽は家で楽しむものでした。


ところが今は、いつでもどこでも、歩きながらでも楽しむことができます。


またゲーム機もポータブルとなって、子供たちは公園に行っても、鬼ごっこをするのではなく、ひざを突き合わせてゲームに興じているという有様です。


こうした外からの刺激から、いかに一定の距離を置いて読書をする時間を創ることができるか。


これは現代の非常に重大で深刻な問題なのではないでしょうか?


我が家の高校一年生になる倅も、家にいるときは一日中スマホをいじっております。


家内は倅に対して、ストレートに小言を言っては、言い争うという状況です。


こんなとき父親は何をすべきなのでしょうか?


せめて仕事から帰って食事を済ませたら、読書をする後姿を見せ続けようと思う今日この頃です。

第350日

【原文】
人は当に自ら我が軀(み)に主宰有るを認むべし。主宰は何物たるか。物は何れの処にか在る。中を主として一を守り、能く流行し、能く変化し、宇宙を以て体と為し、鬼神を以て迹と為し、霊霊明明、至微(しび)にして顕、呼びて道心と做(な)す。


【訳文】
人は自分の身体に自分を支配(統御)するところのものが存在していることを知らなければならない。その支配するものとは一体何物であるのか。またその物はどこにあるのか。それは中正の道を専一に守り、あまねく行きわたり、よく変化し、この宇宙を以て本体とし、鬼神のような行動をし、霊妙にして明らかであり、極めて微細にしてしかも顕著なものである。人はこれを呼んで道心といっている。


【所感】
人は自分の体を主宰するものがあることを知るべきである。主宰とは何か。それはどこに存在するのか。中庸を主としてこれを守り、よく行き渡り、よく変化し、宇宙万物と一体となり、陰陽二気を働かせており、霊妙で明らかであり、非常に微細であって顕著である。それこそ即ち道心と呼ばれるものである、と一斎先生は言います。


またまた難解な言葉が続きます。


ここは、『書経』大禹謨にある以下の言葉からインスパイアされているものと思われます。


【原文】
人心惟れ危うく、道心惟れ微なり。惟れ精、惟れ一、允(まこと)に厥(そ)の中を執れ。


【訳文】
人の心はすこぶる不安定であり、道の心はまことにほのかで捉えがたいものだ。だからおまえは心を純粋にして、なによりも中庸の道を取り行なわねばならない。(尾崎雄二郎先生他)


万物の霊長である人間は、天の最高の創造物であり、当然ながら天によって支配されているものだ、と一斎先生は捉えておられるようです。


そして、それは人間の内部にあっては心が主宰となり、常に天地・陰陽とのバランスを取りながら働いているもので、通常これを道心と呼ぶのだ、とされております。


人間の心は無形でありながら、しかし確実に存在しています。


すでに何度も学んできたように、心の置き所は、「中」にあります。


常にバランスの取れた、偏りのない心とは、人間が生まれ出たときに天から授けられた純真無垢な心を意味します。


歌手で俳優の武田鉄矢さんは、その著『西の窓辺へお行きなさい』(小学館)の中で、人生を登山に例え、人はある程度の年齢に達したら山を降りなければならない、と書かれています。


武田さんは大病を期に、以下のごとく考えるようになったそうです。


人生の登り道はひとつだけど、降る道は人それぞれの数だけある。自分らしく降りていくにはどうすればいいのか。


生きていくうちに、人の心にはたくさんの汚れがこびりついていきます。


では、そんな心の汚れを取り除くためには、何をすべきなのか?


小生は、これまでの学びから以下のように考えています。


これまで手にして来たものを少しずつ捨てていかねばならない。


見事に山を下り切り、余分なものはすべて捨て去って、生まれたときと同じきれいな心に戻して天にお返しする。


そんな最期を迎えたいものです。

第349日

【原文】
心に中和を得れば、則ち人情皆順い、心に中和を失えば、則ち人情皆乖(そむ)く。感応の機は我に在り。故に人我一体、情理通達して、以て政に従う可し。


【訳文】
心が平静で偏らずに正しければ、人の気持がみな自分の方へ従ってくるが、心に中和を失っておれば、人の気持はみな自分にそむいて離れて行くものである。人が感応するきっかけは自分の方にあるからして、人も我も一体であると考え、人情にも道理にも通ずる人であって、はじめて政治に関与することができる。


【所感】
心に中和を持っていれば、人の気持ちはすべてこれに順じ、心が中和を失えば、人の気持ちはそむいてしまう。人が感応するのはすべて自分の側にその働きがあるのだ。だからこそ他人も自分と一体となって、気持ちを通じ合うようになって、政治に関与することが可能になるのだ、と一斎先生は言います。


すでに何度も登場している「中和」と政治との関係を説いた章です。


まだ兆しの段階で物事を見きわめる心の力である「中」と、いざ発現した後に適切に対処できる心「和」の両面を有しているのであれば、人の心をこちらに向けることは容易である。


すべて矢印を自分に向け、人に接することができれば、政治を執ることも容易になるのだ、と一斎先生は仰っているようです。


毎度の視点とはなりますが、これは政治に限定した話ではないでしょう。


組織運営においても、リーダーが中和の心を有していれば、メンバーとの信頼関係は強固となり、目指す目標に向かってチーム一体となって取り組んでいけるはずです。


これはいわゆる徳治政治、徳治経営と呼ばれるものです。


『論語』にもこうあります。


【原文】
子曰わく、政(まつりごと)を為に徳を以てすれば、譬(たとえ)えば北辰其の所に居りて、衆星之に共(むか)うが如し。 (為政第二)


【訳文】
先師が言われた。 仁の心から発する恕(おもいやり)の政治を行えば、たとえば北極星が真北に在って動かずに、多くの星がそれに向ってくるように、その徳を慕って集まってくるものだ。(伊與田覺先生訳)


リーダーに徳があれば、メンバーはまるで北極星に向かって頭を下げる星たちのように、リーダーに対してくれると読み換えても良いでしょう。


なにかあるとすぐにハラスメントだと言われてしまう今のご時勢ですから、今こそリーダーは徳を磨くことが求められているのかも知れません。

第348日

【原文】
道は固より活き、学も亦活く。儒者の経解において、釘牢縄縛(ていろうじょうばく)して、道と学とを并(あわ)せて幾(ほとん)ど死せしむ。須らく其の釘を抜き、其の縛を解き、蘇回(そかい)するを得しめて可なるべし。


【訳文】
道は元来活きているものであり、学問もまた活きているものである。しかるに、儒者が経書を解釈する場合に、その活きた学問を釘で堅く打ちつけにしたり、縄でしばって身動きができないようなやり方をしている。それで、活きた道も学問も、ほとんどが死んだと同然である。だから、早くその釘を抜き去り、縄を解いて生き返らせてやるのがよい。


【所感】
本来、道は活きているものであり、学問もまた活きている。ところが儒者が経書を解釈する際には、まるで釘で打って牢屋に閉じ込めたり、縄で縛って自由が効かないようにして、道も学問も共にほとんど死んだも同然となっている。その釘を抜き、縄を解くことでもう一度蘇生してあげなければならない、と一斎先生は言います。


この章句は、実は大変興味深いものがあります。


一斎先生は江戸幕府の藩校である昌平黌の儒官(総長)であった人であり、幕府の正規の学問は朱子学です。


ご存知のように朱子学とは南宋時代の儒学者朱熹によって立て直された儒教であり、どちらかというと知識重視の学問だと言えます。


この朱子学に対して、知行合一を唱え、儒教とはそもそも行動を重視するものだとしたのが、明の儒学者である王陽明でした。


ここで、一斎先生が指摘されているような、釘で打ちつけ、縄で縛りつけたような窮屈な学問とは朱子学を指しているように思われます。


すでに何度か記載したとおり、一斎先生は非常に柔軟な姿勢で学問をされているため、その門下からは朱子学者だけでなく、幾多の陽明学者も輩出しており、その代表ともいえる人物が佐久間象山先生であり、その弟子に吉田松陰先生が連なるわけです。


この章を読むと、一斎先生は朱子学とか陽明学といった学者の間で議論するような小さな括りでは学問を考えていなかったことが見て取れます。


むしろそこには、朱子学であろうと陽明学であろうと、良い教えには従い、良くない教えは却下するという断固とした姿勢を感じます。


学者に限らず、一般的なビジネスマンであっても、年齢と共に多くの既成概念が積み上げられて柔軟な発想ができなくなるものです。


既成概念を打破せよ。
くだらない派閥争いなどで自分を小さくするな、と一斎先生は励ましてくださっているのでしょう。

第347日

【原文】
聖人は事を幾先に見る。事の未だ発せざる自(よ)りして言えば、之を先天と謂い、幾の已に動く自りして言えば、之を後天と謂う。中和も一なり。誠敬も一なり。


【訳文】
聖人は物事のまだ起らない先を見通して物事を処理する。物事がまだ現れない未発の所からすれば、これを先天と言い、これが誠である。機(きざし)がすでに発動した所からすれば、これを後天と言い、これが敬である。未発の中と既発の和は一つのものであり、従って誠と敬も一つのものである。


【所感】
聖人は物事が兆す前に見る。事がまだ発現する前ということで言えば、これを先天と言い、兆しが既に発現した後ということで言えば、これを後天と言う。未発の中も既発の和もひとつのものであり、誠も敬もやはり一つである、と一斎先生は言います。


難解な章が続いています。


この章は、誠と敬三則の第三番目にあたります。


第306日(『言志後録』第60条)のところでも説明しましたとおり、未発の中と既発の和は、下記の『中庸』にある言葉です。


【原文】
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節(せつ)に中(あた) る、これを和(か)と謂う。中は天下の大本(おおもと)なり。和は天下の達道(たつどう)なり。中和(ちゅうか)を致して、天地位(くらい)し、万物育つ。


【訳文】
喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない精神状態はどちらにも偏っていないので、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってもそれがすべて節度に従っている時には、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。


一斎先生は、これらを以下のように捉えています。


先天:未発・誠

後天:既発・敬


一斎先生は、さらにこれをまとめて、偏りのない中、作為の無い誠と節度をたもっている和、乱れの無い敬は、その現われ方や動静に違いはあれど、天理に即しているという意味ではひとつだ、と断じております。


聖人は事が発する前にその兆しを見つけることができるので大きな間違いはない。


しかし我々凡人であっても、兆した後にそれに対して節度のある対応ができるならば、同じく間違いは少なくなるのであるから、禍福終始を知って惑わない己であるための鍛錬を怠るな、と一斎先生はメッセージを送ってくださっていると理解しておきましょう。

第346日

【原文】
為す無くして為す有る、之を誠と謂い、為す有りて為す無き、之を敬と謂う。


【訳文】
物事を為そうとする意思が無くて、物事が自然にでき上がってしまうのを誠というのである。物事を為しても、それが為さないようなのを敬というのである。


【所感】
作為的にすることなく、本性の自然より行うことを誠といい、本性の自然から何かを行ってしかも乱れないことを敬という、と一斎先生は言います。


これまた難解な章です。


本章と第306日(『言志後録』第60条)および次の第357日(『言志後録』第101条)とを併せて「誠と敬三則」と呼ばれているようです。


その第306日のところでも触れましたが、小生はこれまでの学びから、誠と敬については、以下のように捉えております。


誠 = 忠(己を尽くすこと)
敬 = 恕(己を尽くした結果を人に施すこと)


この章でいえば、誠とは為さざるを得ないことに己を尽くすことだと言えそうです。


有名な吉田松陰先生の歌


かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂


が思い起こされます。


また、ひとたびやると決めたことは、功を誇らずに何事もなかったかのように処理することが敬なのだそうです。


世の為人の為になる行為であっても、それを誇ったり、声高に宣言しているようでは駄目だ、ということを仰っていると理解しておきましょう。


ただ心の赴くままに実行して、それが結果的に社会的な善行となる。


まさに目指すべき君子の在り様です。

第345日

【原文】
古往今来、生生息(や)まず。精気は物を為すも、天地未だ嘗て一物をも増さず。游魂は変を為すも、天地未だ嘗て一気をも減ぜず。


【訳文】
昔から現在に至るまで、生々として休むことなく、天地の精気は万物を生成しているが、この天地の間に、いまだ何一つ物を増したということはない。生物は死んで魂気は離散したが、この天地の間に、いまだ一気を減じたこともない。


【所感】
太古から現在に至るまで、生々として休むことなく、陰陽は相和合して万物を生み続けているが、いまだ嘗て何一つとして物を増やしてはいない。精気は衰えてやがて万物はその命を失うが、いまだ嘗て一つとして気を減らしてはいない、と一斎先生は言います。


小生には難解過ぎる章です。


この章句は、『易経』 繋辞上篇にある、


精気物と為(な)り、游魂変を為す。


をベースにしていることは間違いないでしょう。


該当部分の『易』における本田濟先生の解説を引用します。


精気は生命体を構成する vaitality 。精は官能、陰に属し、魄ともいう。気は呼吸、陽に属する。魂と言いかえられる。生きている間は、魂と魄と結合しているが、死ぬと分離する。魂は軽くて天に昇り、魄は重くて地中に降る。游魂は昇り切らずに浮游せる魂。


万物はこの陰と陽をなす精気の集散に過ぎないのであるから、何物も増えることはなく、また減ることもない、という理解をすれば良いのでしょうか?


さらには、人間といえども魂魄の合体物に過ぎないのであって、一たび死ねば魂魄は分離して、魂は天に魄は地へと帰っていく、ということのようです。


そのように考えてみると、人間も天(あるいは神)の力によって生かされているのだ、という感を強くします。


天によって生かされているならば、その天から使命、すなわち天命を与えられているはずです。


自分にしかできないことは何か?


森信三先生はこう仰っています。


真の誠とは、その時その時の自己の「精一杯」を尽しながら、しかも常にその足らざることを嘆くものでなくてはならぬ。


人生80年とすれば、小生に残された期間はあと30年です。


誠を尽し切って最期を迎えたいものです。

第344日

【原文】
人は皆身の安否を問うを知りて、心の安否を問うを知らず。宜しく自ら問うべし。能く闇室を欺かざるや否や、能く衾影(きんえい)に愧じざるや否や。能く安穏快楽を得るや否やと。時時是(かく)の如くすれば、心便ち放(ほしいまま)ならず。


【訳文】
人は皆体の安らかであるかどうかを問うことは知っているが、心の安らかであるかどうかを問うことを知っていない。次のように自分の心に問うて見るがよい。「暗い室の中でも良心を欺くような行ないがないかどうか、また独り寝たり独り行ったりする時に、自分の夜具や自分の影に恥じることはないかどうか、さらに自分の心が安らかに穏やかであるかどうか、気持ちよく楽しんでいるかどうか」と。時折りこのようにわが身を反省することができれば、心は決してわがままな状態になることはない。


【所感】
人はみな身体が健全かどうかについては心配をするが、心が安からであるかどうかを心配しないものである。次のように自らに問いかけてみるがよい。「人に知られない暗い場所にいても自分を正しく持しているかどうか、独りのとき自らの夜具や影に恥じることはないか、そして自分の心が安らかで愉快であるかどうか」と。常にこの問いかけを発し続ければ、心が放たれ失われてしまうようなことはないであろう、と一斎先生は言います。


この章は、日常における心の在り様についての一斎先生からのアドバイスだと受け取ってよいでしょう。


こう問いかけられてみると、常日頃、自分の心のケアについては随分疎かにしているように思います。


自分の見せかけ(外面)だけを飾ることに一所懸命で、本性(心、内面)を磨くことを忘れているというのが現代人の姿なのかも知れません。


ストレスの多い現代社会に暮らしていると、いつの間にか心に曇りが生じてきます。


定期的にこの心の曇りを磨いてあげないと、ひどい場合にはメンタル低下でうつ病や自律神経失調症へと追い込まれてしまいます。


あるいは利己主義が過ぎて、周囲の人から疎まれてしまうかも知れません。


そうならないためにも、定期的に独りを慎め(慎独)、と一斎先生は仰っているのです。


これまでも学んできたように、独りを慎むときに相手にするのは、他人ではなく天(神、サムシング・グレートetc)であるべきでしょう。


それにしても、夜具に恥じることはないか、という考え方は面白いですね。


人生の1/3あるいは1/4の時間を共にする夜具には、何一つ恥じることなくその身を横たえたいということなのでしょうか。
プロフィール

れみれみ