一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年02月

第382日

【原文】
静坐の功は、気を定め神を凝らし、以て『小学』の一段の工夫を補うに在り。要は須らく気の容は粛、口の容は止、頭の容は直、手の容は恭にして、神を背に棲ましめ、儼然(げんぜん)として敬を持し、就(すなわ)ち自ら胸中多少の雑念・客慮・貨色・名利等の病根の伏蔵するをそう出して、以て之を掃蕩すべし。然らずして徒爾(とじ)に兀坐瞑目(ごつざめいもく)して、頑空(がんくう)を養成せば、気を定め神を凝らすに似たりと雖も、抑(そもそも)竟(つい)に何の益あらん。


【訳文】
静坐の功夫(工夫)というものは、気持を落ちつけ、精神を一つに集中して、作法を説いた『小学』の教えを一段と補うことにある。つまり、呼吸を正しく整え、口元を一文字にしめ、頭を真直ぐにし、手を乱れずにし、精神を背の方に置き、おごそかに敬虔な気持をもって、心中の色々な雑念や妄想や、そして金銭のことや名利などのかくれている心の病根を探し出して払い除かなければいけない。それをせずに、いたずらに坐って目を閉じ、かたくなでうつろな心(偏った空)を養成するならば、気を落ちつけ、心を集中しているようであるけれども、結局、何の得るところもないことになる。


【所感】
静坐の工夫は、気持を落ちつかせ精神を凝集して、『小学』にある修身・礼儀の道を行う上での一段の工夫を補うことにある。その要点は、呼吸を整え、口を閉じ、頭を真直ぐにして、手をきちんと揃えて、精神を背中に集中させ、厳かな態度で敬虔の念をもって、胸中にある雑念や妄想、あるいは金銭のことや名利といった迷いの根を見つけ出し、それを除去すべきである。そうせずして、いたずらに坐って目を閉じ、囚われの心を養成するようでは、気持を落ちつけ、精神を凝集しているようで、実際にはなんの効果も得ることができないであろう、と一斎先生は言います。


今日は静坐の工夫についてのアドバイスです。


静坐の要諦は、しっかりと精神を集中させ、型を整え、只管(ひたすら)内観することにある、ということでしょうか。


そして、己を見つめ直し、雑念や妄想、特に欲望の根元に迫り、それを少しずつ除去していくことができるならば、それこそが静坐の効用なのでしょう。


ここで学ぶべきは、型と魂の両面を充実させなければならないということでしょう。


特に武道においては、この型から入って、徐々に技を磨くというステップを踏みます。
坐禅もその点はまったく同じであるということのようです。


『論語』学而第一第十二章(有若が礼と和について述べた章)の解説の中で、武内義雄博士は、以下の様に述べられております。


礼の精神は人の和にある。しかし人の和は礼の形式を蔑視しては得られない。


これも型と魂についての名解説だと思います。


さて、忙(せわ)しない日々を過ごしていると、どうしても自分を見つめ直す時間や、自分と向き合う時間を創ることができず、心身ともに疲弊し消耗してしまいます。


ちょうど先日、小生がご指導を頂いている池田光さんの最新刊『中村天風 心が強くなる坐禅法』(池田光著、イースト・プレス)が発売になりました。


この本はCDブックですので、音声ガイド付きで天風式坐禅法の実践をサポートしてくれます。


一日10分の坐禅で良いと書かれておりますので、早速実践してみます。

第381日

【原文】
読書は宜しく澄心端坐して寛(ゆる)く意思を著(つ)くべし。乃ち得ること有りと為す。五行並び下るとは、何ぞ其の心の忙なるや。作文は宜しく命意立言して、一字も苟(かりそめ)にせざるべし。乃ち瑕(きず)無しと為す。千言立ちどころに成るとは、何ぞ其の言の易(い)なるや。学者其れ徒らに顰(ひん)に才人に効(なら)いて、以て忙と易とに陥ること勿れ。


【訳文】
読書の場合には、よく心を安静にし、正坐して、ゆったりした心持でするがよい。そうすれば得る所があるであろう。世間には一時に五行も読み下すほどの人がおるが、なんと気忙しい事なのか。また、文章を作る場合には、よく考え練って文字に書き記し、一字でもおろそかにしないようにするがよい。そうすれば、欠点のない文章ができ上る。千字もあるほどの長い文章も即座に作るというのは、なんと作文が容易なことか。学問をする者は、いたずらに才人の真似をして、気忙しく読書したり、容易に作文するというような弊害に陥るようなことがあってはいけない。


【所感】
読書をするにはよく心を澄ませて正坐してゆったりと考えをめぐらすのがよい。それによって得るものは有るはずである。一度に五行を読み下すというのは、なんとも心が忙しないことである。文章を作るにはテーマを決めて自分の意思を述べ、一文字といえども疎かにしてはいけない。そうすれば、欠点のない文章が出来上がるであろう。千文字を瞬く間に作るとは、なんと安易な発言であろうか。学問をする者は、無批判に才人の真似をして、忙しなく読書をしたり、安易に文章を作るような弊害に陥ってはならない、と一斎先生は言います。


今日は、読書と作文についての一斎先生からのアドバイスです。


読書はゆったりと寛いで、姿勢を正して読むべし、と一斎先生は仰っています。


そして、速読の弊害を述べられております。


小生もかつて年間100冊の読書を宣言して、本を読むことが目的となってしまったことがありました。


また、最近は寝転がって本を読んでいるうちに、そのまま寝落ちしているということもしばしばです。


そういう経験がありますので、この言葉は非常に肚に落ちるものがあります。


また、作文に関しては、まさにこの「一日一斎」を日々書き綴っていく中で、じっくりと文章を推敲する時間を惜しんで、安易に作り上げてしまった日も多々あります。


読書も作文も共に人間を完成させるために必要なことです。


そうであるならば、我が師が常々仰っているように、「三秒の道」を求めず、じっくりと取り組まねばなりません。


何事も成果を急がず、じっくりと取り組むべきであり、それでこそ多くの学びがあるのだということを、一斎先生に改めてご指導いただいた思いです。

第380日

【原文】
酒は是れ水・火の合せるものにて、其の形を水にして、其の気を火にするなり。故に体軀之を喜ぶ。烟・茶は近代に起る。然るに人も亦多く之を好む。茶は能く水の味を発し、烟は能く火の味を和するを以てなり。然るに多く服す可からず。多く服すれば則ち人を害す。況や酒に於いてをや。害尤も甚だし。余は烟・茶を嗜む。故に書し以て自ら戒む。


【訳文】
酒というものは水と火が合してできあがったもので、その形は水であって、その気は火のようなものである。それで、人間の身体は酒を好むのである。煙草や茶は近代に用いられるようになったが、人はこれも大変好んで用いている。茶はよく水の味を現わし、煙草はよく火の味に和するからである。しかし沢山飲んではいけない。沢山飲めば人体を害する。まして酒においてはなおさらのことで、その害は甚だしい。自分(一斎)は、平生煙草を吸い、お茶を飲んでいる。それで度を過ごさぬよう以上のことを記して自戒としている。


【所感】
酒は水と火との合作物であり、形は水で、気は火のようである。それ故に人間の身体は酒を喜ぶ。煙草や茶は近代になって用いられるようになったが、人の多くがこれを好む。茶は水の味を現し、煙草は火の味と和す。しかしながら多く飲んではよくない、多く飲めば必ず人間を害す。まして酒においては最も甚だしい。私は煙草や茶を嗜むが、だからこそこれを記述して戒めとしているのだ、と一斎先生は言います。


嗜好品についての一斎先生の見解です。


小生は幸いと言いましょうか、酒も煙草も嗜みません。
あえて言えば、コーヒーを日に3〜5杯飲みますので、これが上記の茶に該当するでしょうか。


一斎先生が仰るまでもなく、これら嗜好品が身体によくない影響を与えることは衆知の事実です。


なかでも煙草はよろしくないですね。


副流煙によって周囲の人の身体にまで悪影響を与えるわけですから。


一方、お酒については、


酒は百薬の長


とも言われます。


小生のような下戸は、酒を楽しむことができませんので、もしかしたら人生の大いなる悦楽を逸しているのかも知れません。


『菜根譚』という古典に次の有名なことばがあります。


【原文】
花は半開を看、酒は微酔に飲む。


【訳文】
花を観るなら五分咲き、酒を飲むならほろ酔いかげん。このあたりに最高の趣がある。(守屋洋先生訳)


何事もほどほどが一番良いようです。

第379日

【原文】
人物は水火を凝聚(ぎょうしゅう)して此の体軀を成す。故に水火に非ざれば生活せず。好む所も亦水火に在り。但だ宜しく適中して偏勝(へんしょう)せざらしむべし。水勝てば則ち火滅し、火勝てば水涸れ、体軀も亦保つ能わず。


【訳文】
人間の肉体は水と火が凝り固まり集まって形成されている。それで、水と火が無ければ生活してゆくことはできない。人間が好むものも水と火である。ただ、両方の釣り合いをよく保って、偏ることのないようにするのが望ましい。水が勝てば火が消えて無くなるし、火が勝てば水が涸れて無くなってしまう。人間の身体も、この水と火の調和を失ってしまったら保つことができなくなる。


【所感】
人間の身体は水と火から形成されている。したがって、水と火が無ければ生活できない。人間が好むものも水と火である。ただ、両方のバランスをよく保って、極端に一方に偏ることのないようにすべきである。水が勝てば火は消えてしまうし、火が勝てば水は涸れてしまう。人間の身体も、この水と火のバランスを失えば保つことはできない、と一斎先生は言います。


ここでは、昨日の章に引き続き、人間の身体も易の陰陽二元論に即して説明しているのだと捉えておけば良いでしょう。


人間の身体が水からできていることは、科学的にも立証されていますが、ここで一斎先生が水と火からできているとしているのは、一体どういうことなのでしょうか?


川上正光先生は、以下のように解釈されています。


気質が水と火からなるというならば少しは理由があるように思う。即ち、人の気質には水のような静かな落ちついた、また清浄なものと、火のような激しさとを内蔵していて、これらがよくバランスがとれていなければならない。こういうことなら多少納得がゆくように思う。


水は方円の器に従う


と言います。


通常は、水の様に臨機応変に物事に対処し、やらねばならない時が来たら、まるで烈火のごとく、我が魄を焦がして戦う。


そんな捉え方で本章を理解しておきます。

第378日

【原文】
震巽(しんそん)の感を気と為す。坎離(かんり)の交を精と為す。艮兌(ごんだ)の合を形と為す。是れ男女精を構うの理なり。


【訳文】
震は動にして雷、巽は順にして風、これが相互いに感応して男女の気となる。坎は水にして離は火・日、これが相互いに交わって男女の精となる。艮は山にして兌は沢、これが相互いに合して男女の形となる。これが男女の精を構える天理というものである。


【所感】
『易経』にある震の卦は雷・動であり男性の気性を表し、巽の卦は風であり女性の気性を表す。この二つがは男女の気の交換をあらわす。また同じく坎の卦は水であり男性を、離の卦は火であり女性を表す。この二つのは男女の精の交わりをあらわす。さらに艮の卦は山であり兌の卦は沢を表す。これらが互いに合わさって形が生まれる。このように男女が精を交えて万物が化育するのは自然の理である、と一斎先生は言います。


『易』についての知識に乏しい小生には、一斎先生が何を言わんとしているのかが解読できません。


いくつかの解説やネットで調べてみますと、これは男女の交わり、すなわち性の本能は易の摂理に基づいた自然の行動であることを示しているようです。


男女の交わりがなければ家系は途絶え、子孫は繁栄しないことを考えれば、これはある意味では当然のことでしょうが、一斎先生はそれを易の観点から見ても自然だと捉えておられます。


過去に何度か取り上げておりますが、ここでもう一度、『修身教授録』の中の森信三先生のお言葉を掲載しておきましょう。


性欲の微弱なような人間は、真に偉大な仕事をすることはできないと言ってもよいということです。ですから、むかし釈尊の教団においては、性欲の萎縮したものは、これを入れなかったと言われていますが、これは実に意味深いことだと言えましょう。


つまり、性欲が衰えた人間には大きな仕事はできないが、かといって濫りに性欲を漏らす人間もまた立派な仕事はなし得ない、ということのようです。


最近は草食系などと呼ばれる若者が増えているようです。


本章の一斎先生のお言葉から判断すれば、それは自然の摂理に反していると言えそうです。


次代の日本をしっかりと担っていく若者を育成するためにも、真の(異性の)パートナーと出会うことは、とても重要なことなのではないでしょうか。

第377日

【原文】
静を好み動を厭う、之を懦(だ)と謂い、動を好み静を厭う、之を躁と謂う。躁は物を鎮むる能わず、懦は事を了する能わず。唯だ敬以て動静を貫き、躁ならず懦ならず、然る後能く物を鎮め事を了す。


【訳文】
静を好んで動(静中の動)を嫌がる者は、これを臆病者とも怠者(なまけもの)ともいう。その反対に、動を好んで静(動中の静)を嫌う者は、これを慌者(あわてもの)とも騒がしく落着かぬ者ともいう。慌者は物事を鎮静させることはできないし、怠者は物事を成就させることはできない。ただ、恭敬な態度で、動にも静にも偏らず、慌者でもなく怠者でもない者が、はじめて物事を鎮め物事を成就することができるのである。


【所感】
静を好んで動を嫌うことを懦すなわち臆病者と呼び、動を好んで静を嫌うことを躁すなわち慌て者と呼ぶ。躁は物事を鎮めることができず、懦は物事を完了することができない。ただ動のときも静のときも慎み深い心をもって、躁にも懦にも偏らないことが大切で、その後にはじめて上手に物事を鎮め、完了させることが可能となるのである、と一斎先生は言います。


みなさんは、静を好み動を嫌う傾向が強いですか?
それとも動を好み静を嫌う傾向が強いですか?


小生はどちらかといえば、前者の傾向が強いので、一斎先生のご指摘によれば臆病者となる恐れが高いようです。


たしかに何かを始める際には、先に結果を考えすぎて自らの既成概念との格闘を強いられることが多いように思います。


さて、ここでもまた両極に振れるのではなく、真ん中を取るという中庸の教えが説かれています。


『論語』の大変有名な一節をご紹介します。


【原文】
子貢問う、師と商と孰(いずれ)か賢(まさ)れる。子曰わく、師や過ぎたり。商や及ばず。曰わく、然(しか)らば則ち師愈(まさ)れるか。子曰わく、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。(先進第十一)


孔子の高弟であり、孔子教団を財政面で支えた子貢という弟子が、ある時孔子に後輩の弟子である子張(師)と子夏(商)についての評価を尋ねます。

孔子は子張にはやり過ぎる面があり、子夏には足りない面がある、と答えます。

そこで子貢は、それでは子張の方が子夏に勝るということですね?と確認します。

孔子は答えます。

「過ぎた者は足りない者と同じである」と。


つまり孔子は、慌て者の子張と臆病者の子夏のどちらもまだまだである、ということを答えているわけです。


それでは、孔子が理想とし、また本章で一斎先生が仰っているような、どちらにも偏らない人とはどんな人なのでしょうか?


小生は以下のように理解しておきます。


有事のときは積極的に動いて人の先頭に立つが、平時のときは穏やかで人を立てる人。


まさに「君子ならずや」ですね。

第376日

【原文】
精神を収斂して、以て聖賢の書を読み、聖賢の書を読みて、以て精神を収斂す。


【訳文】
心を引き締めて聖人や賢人の書物を読み、聖人や賢人の書物を読んで心を緊張させるべきである。


【所感】
心を研ぎ澄まして聖人賢人の書を読みl聖人賢人の書を読んで精神を磨き上げるのだ、と一斎先生は言います。


読書には二つの効能があると言えそうです。


ひとつは、心を研ぎ澄ますため、あるいは心を開放するため。


もうひとつは、自らの言行や心の緩みを是正するため。


特に最初の点は、意外と忘れがちなものではないでしょうか。


そもそも読書をするときには、批判的に読むよりも、一旦丸受けするつもりで読む方が効果的であると言われています。


森信三先生は、バケツの中にきれいな水を充たすためには、まずバケツの中にある汚れた水を捨てなければならないと仰っています。


そしてこのバケツの中の汚れた水を捨てること、つまり心にたまった垢を落とすという作業こそが、読書をする前に心掛けねばならぬことであるのではないでしょうか。


心を空にして読書をし、そしてそれによって自らの来し方を思い、是正すべきは是正して己を律する。


あらためて読書の大切さを教えてくれる箴言ですね。

第375日

【原文】
竺氏は仏書を尊奉す。太(はなは)だ好し。我が学を為す者、卻って或いは経書を褻慢(せつまん)す。愧ず可く戒む可し。


【訳文】
仏教徒は仏書(お経)を鄭重にいただいて読む習慣があるが、これは大変良いことで見習うべきである。ところが、わが聖賢の学問に志す者は、いただいて読むことなどはせず、かえって経書をけなしあなどる傾向がある。まことに、恥ずべきことであり、また戒むべきことで、仏徒を手本とすべきである。


【所感
仏教徒は仏典を尊重し大切に扱う。これは大変良いことである。ところが儒学者は、かえって経書をあなどり疎かにする傾向がある。恥ずかしく思い戒めるべきことである、と一斎先生は言います。


当時の学者先生にどのような風潮があったのか、その時代背景がわかならいので、ここで一斎先生が仰っていることの真意を測ることは大変難しいですね。


確かに仏教徒は常にお経を唱えることを日課とされていますが、当時の日本の儒者たちは、儒教の経典である四書五経をあまり学ばなかったということなのでしょうか?


ご承知のように、四書五経の四書とは、『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』であり、五経とは、『詩経』・『書経』・『易経』・『礼記』・『春秋』を指します。


これらの経書を古いものだとして、独自の思索を押し進めたのだとすれば、それは大いに危険ですよね。


『論語』に有名な「温故知新」という言葉があります。


故きを温めて、新しきを知る、と読み、その意味は、古い物事をまるでスープをコトコト煮るかのようにじっくりと考察して、そこに新しい意味を発見するということになります。


そのようにじっくりと経書に当ることなく、義よりも利を重視して、人の意表を突くような発言によって庶民の心を扇動しようとした学者先生が多くいたのかも知れません。


仏教におけるお経やキリスト教における聖書のように、迷った時に立ち返ることができるものを持つことは、大きく道を踏み誤らないためには大変重要です。


これは企業でいえば、企業理念あるいは使命(ミッション)に当たります。


我々は何のためにビジネスをするのか、企業の存在価値をどこにおくのか、ということが明確になっていれば、重要な判断を下す際にも、先義後利の考えをもって判断が下せるはずです。
つまり、使命を先にし、利益を後にするという選択が可能になるのではないでしょうか。


学問においても、企業経営においても、迷った時に立ち返ることができる軸を持つことの重要性をこの章から読み取りたいと思います。

第374日

【原文】
孔子の九思、曽子の三省、事有る時は是を以て省察し、事無き時は是を以て存養し、以て静坐の工夫と為す可し。


【訳文】
孔子は修養として省察すべき九ヵ条を挙げ、孝行第一の曽子は自己反省について三ヵ条を挙げているが、われらも事ある時には反省してよく考え、事無き時には良心を失わないようにして本性を養って、静坐をする場合の工夫とするがよい。


【所感】
『論語』には孔子の九思、曾子の三省が掲載されているが、有事のときにはこれを活用してよく察し、事無きときにはこれをもって自らを修養して、静坐をする場合の工夫とすべきである、と一斎先生は言います。


ここに挙げられた「九思」とは、以下の『論語』の章句に掲載されています。


【原文】
孔子曰く、君子に九思有り。視るには明を思い、聴くには聰を思い、色には温を思い、貌(かたち)には恭を思い、言(ことば)には忠を思い、事には敬を思い、疑わしきには問を思い、忿(いかり)には難を思い、得るを見ては義を思う。(季子第十六)


【訳文】
先師が言われた。
「君子に九つの思いがある。見るときには、明らかに見たいと思い、聴くときには、さとくありたいと思い、顔色は、常にあたたかくありたいと思い、姿は、うやうやしくありたいと思い、ことばは、まことでありたいと思い、仕事には、つつしんで過ちがないように思い、疑わしいときには、遠慮せず問うことを思い、怒りの心が起きたときには、あとにくる難儀を思い、利得を前にしては、道義を思うのである」(伊與田覺先生訳)


続けて、「三省」とは、


【原文】
曽子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の爲に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳うるか。(学而第一)


【訳文】
曽先生が言われた。
「私は毎日、自分をたびたびかえりみて、よくないことははぶいておる。人の為を思って、真心からやったかどうか、友達と交わってうそいつわりはなかったか、まだ習得していないことを人に教えるようなことはなかったか」(伊與田覺先生訳)


一斎先生は、有事の時もそうでないときも、つまり平生より常に、孔子の九思と曽子の三省を意識して自らの言動を慎むことを教えられています。


注目すべきは、すべての項目が矢印を自分に向け、自らを修養することを意図して設定されています。


相手を変えようとか、相手に自分の意見や行動を強要しょうとする意図は微塵もありません。


ところが世の中の似非(えせ)君子は、自分のやり方だけが正しいものとの独断に陥り、他人を自分の意見に従えようとします。


小生も、すこし『論語』や儒学を学んだからといって、そんな似非君子とならない様に、この九思・三省を日々唱えて、我が身を省みたいと思います。

第373日

【原文】
知は是れ行の主宰にして乾道(けんどう)なり。行は是れ知の流行にして坤道(こんどう)なり。舎して以て体軀を成せば則ち知行なり。是れ二にして一、一にして二なり。


【訳文】
人間には知と行と二つの機能を具えているが、その知は行を司どるものであるから、地を支配する天道の如きものであるし、その行は知の流行したものであるから、地道の如きものである。この知行の両面が合して身体の機能を形成している。知と行は一心の作用にして、譬えば物の表裏の如くであって、二つのようであるが一つであり、一つであるが二つでもある。


【所感】
知は行いを司るものであるから乾の道すなわち天道のようなものである。行いは知の発揮されたものであるから、坤の道すなわち地道のようなものである。この知と行とが共に宿って人間の身体ができている。知ったことを行ってこそ本当に知ることができ、行ったことをよく検証して知ってこそ本当に行うことができるのであって、この二つは一つであり、また一つのよで二つでもあるのだ、と一斎先生は言います。


この章句は、王陽明先生の『伝習録』にある以下の言葉を下敷きにしているようです。


知はこれ行の主意、行はこれ知の功夫(くふう)。知はこれ行の始、行はこれ知の成。


さらに『日本思想大系』によりますと、一斎先生は『伝習録欄外書』において、この言葉に以下のようなコメントを付けているそうです。


行の分別処よりこれを知と謂ふ、故に主意と曰ふ。知の作為処よりこれを行ふと謂ふ、故に功夫と曰ふ。始の字、これ方始にして初始に非ず。成の字、これ作為にして完成に非ず。若し解して初始完成と為さば、主意功夫に礙あり。


ここでは陽明学の重要な教えのひとつである、知行合一を解説しております。


知行合一を理解するために、自転車に乗ることを例にとってみましょう。


あらかじめどんなに本を読んで乗り方を理解したつもりでいても、いきなり自転車に跨って颯爽と乗り回すことはできません。


実際にハンドルを握り、ペダルを踏むという行動を起こし、本で読んだ知識を加えつつ、実際に手足や身体のバランスを取って知識と行動の試行錯誤をするうちに、ある瞬間から自転車を乗りこなせるようになります。


このように知(知ること・智慧)と行(行動)とは別物のようであって、実際には切り離すことができないものだ、という考え方を知行合一と呼ぶと一般には理解されております。


一般にはと書いたのは、実は王陽明先生が唱えた「知行合一」の真の意味はそうではない、というご指摘があるからですが、これについてはいずれ機会があれば検討してみたいと思います。


いずれにしても、人間の身体には知と行の両面が備わっているのですから、バランスよく両面を発揮して、日々精進していくことが必要だということでしょう。
プロフィール

れみれみ