一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年02月

第372日

【原文】
胸中に物無きは、虚にして実なるなり。万物皆備わるは、実にして虚なるなり。


【訳文】
心中に一物も存しない境地になれば、そこは真理そのものの世界であるからして、「虚にして実」といえる。また、孟子が「万物皆備わる」というのは、陸象山の言葉を借りるならば、「吾が心は即ち宇宙」であるが、しかし我は空虚なものであるから、「実にして虚」なるものである。


【所感】
心の中に一物すらない状態のときは、本来のありのままの心の状態であるから、何もないようでいてそれこそが実なのである。孟子がいう「万物皆備わる」というのは、わが身と万物とが一体であるということはで、それは実を伴うようでいて、むしろ虚なのである、と一斎先生は言います。


これまた難解ですね。


禅の言葉に、


無一物無尽蔵


とあります。


人間の本来の状態は無一物であるから、そこに戻ることによって、逆にそこから一切が無尽蔵に出現する、という意味のようです。


よくスポーツ選手が好結果を出したときの心境を、無心の境地であったと語るのを耳にします。


心が余計なことを考えないからこそ、最大の力を発揮することが可能となるということでしょうか。


かなりの趙訳となることを承知で、小生は本性を以下のように捉えておきたいと思います。


成功をして何もかも備わっている状態は、一見幸せそうでいて、物に囚われ煩わされている状態であって、実は不幸であるのかも知れない。
一方、心に何ものも持ち得ない状態とは、生まれたときの本来の自分に戻ることでもあるから、そこからどんな結果をも導き得るのだ。


それにしても、まだまだ朱子学の理解が不足していることを痛感いたします。。。

第371日

【原文】
感を寂に収むるは、是れ性の情なり。寂を感に存するは、是情の性なり。


【訳文】
動的な感情を寂静不動な処に収めるのが、静的な本性から発動したる情の作用である。これに対して、寂静を動的な感情の中に存するのは、動的な情の作用の中に静的な本性が現われているといえる。


【所感】
常に揺れ動く感情を寂静不動のうちに収めるのは、性の中に情のはたらきが含まれるからである。感情のなか静寂が保存されて失われないのは、情のはたらきの中に性が存在するからである、と一斎先生は言います。


『朱子学入門』(垣内景子著、ミネルヴァ社)のなかに、性と情について非常にわかりやすく解説していただけている箇所がありますので、ここでご紹介しておきます。


朱熹はまず「心」を二つのレベルに分けて説明する。「性」と「情」である。あらゆるものごとを「理」と「気」で説明する朱熹の理気二元論で言うならば、「心」というものごとの「理」の側面が「性」と呼ばれ、「気」の側面が「情」と呼ばれるということだ。


いわば、「情」が心の現実の姿であるのに対して、「性」とは心の本来の姿であり、かつ理想の状態を意味するのであった。


心がまだ動く前が性であり、すでに動いた後が情である。(中略)欲とは情が発して出て来たものだ。心を水にたとえるならば、性は水の静かな状態、情は水の流れ、欲は水の氾濫である。


第347日の項でも記載しましたが、心が動いた結果である感情をうまく押さえるのは、「既発の和」であり、心に静寂を保ち感情を外に表さない状態が「未発の中」と呼ぶものです。


一斎先生がここで言わんとされているのは、垣内先生の表現をお借りするなら、以下のようにまとめられるでしょうか。


① 理想的には心を常に静寂に保ってみだりに感情を露出しないのが良い。(未発の中)

② しかし人間である以上、感情を完全に外に現さないことは難しいので、感情を他の人の迷惑とならぬように、ある程度コントロールする必要がある。(既発の和)

③ 決して、おのれの欲を露にしてはいけない。


感情に流され易い小生などは、これらの教訓を実践できるかは甚だ自信がありませんが、しかしこの三ヶ条を学んだことで、少なくとも③の状態にならない様に努めることはできそうです。

第370日

【原文】
山嶽も亦昼夜を舎(や)めず。川流も亦寂然として動かず。


【訳文】
不動の山岳は昼も夜も止むことなく四季毎に色々と変化させている。流動している川の流れは常に流動して止むことがないが、川は物静かにして不動の状態である。


【所感】
山はじっとして動かないようでいて、昼も夜も休むことなく活動している。川の水は常に流れているが、川そのものはひっそりとして動かない、と一斎先生は言います。


最初のことばは『論語』子罕第九篇にある以下の言葉を念頭においているようです。


【原文】
子、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯の如きか。晝夜(ちゅうや)を舎(お)かず。


【訳文】
先師が川のほとりにあって言われた。
「時の流れはこの水のようなものであろうか。昼も夜も休まない」(伊與田覺先生訳)


また、後半のことばは『易経』にあることばのようです。


【原文】
易は思ふことなきなり、為すことなきなり。寂然として動かず、感じて遂に天下の故に通ず。(繋辞上)


【訳文】
易は無作為に、ひっそり動かぬまま、却って自然の変化に対応して、あらゆることに通ずる。


さて、本章については、講談社学術文庫の『言志四録』で川上正光先生が解説されているように、静中の動、動中の静についての教えだと理解して良いでしょう。


一斎先生は、『周易欄外書』の中で、


寂然不動は、静中に動をふむ、至精なり。感じて遂に天下の故に通ずるは、動中に静を存す、至変なり。変の翕(あつま)る処、これを精と謂ひ、精の闢(ひら)く処、これを変と謂ふ。精変合一、これ至神たり・・・。


と書かれております。(『日本思想大系』より)


動中の静は静中の動に通じるという意味で、結局はひとつであるということでしょうか。


物をよく見極めれば、万物の中に動中の静・静中の動を観ることができるのかも知れません。


常にこうした観察眼をもって、日々の修養を怠るな、ということが最終的に一斎先生がここでお伝えしたかったメッセージなのでしょうか?

第369日

【原文】
山は実を以て体と為し、其の用は虚なり。水は虚を以て体と為し、其の用は実なり。


【訳文】
山は岩石や草木などの実体をもってできあがっているが、しかしその山の働きは別に何もない。これに対して、水は山の如くこれが実体であるとすべきものはまったく無いが、その働きは広くゆき渡っていて充実している。


【所感】
山というものは土、岩、草木などから出来ており実体のあるものであるが、その働きとしてはこれといったものがない。一方、水は無味かつ無色透明であって実体としての存在は希薄であるが、その作用は幅広く万物を潤しており、大いに役立っている、と一斎先生は仰っています。


ここで一斎先生が言わんとしていることは何でしょうか?


焦点が山ではなく、水に当てられていることは間違いないでしょう。


水は一見すると、無味であり、また無色透明であって、自らその存在を主張しません。


しかし、水がなければすべての生物は生きられません。


水は万物を潤す多くの作用を有しているのです。


水についての記載がありましたので、ここでご存知とは思いますが、黒田如水の作といわれる有名な水五則(訓)を掲載しておきます。


第一則 みずから活動して、他を動かしむるは、水なり。

第二則 常におのれの進路を求めてやまざるは、水なり。

第三則 障害にあって、激しくその勢力を百倍し得るは、水なり。

第四則 みずから潔(きよ)うして他の汚濁を洗い、清濁あわせいるる量あるは、水なり。

第五則 洋々として大海をみたし、発しては露となり、雨雪と変じ、霰(あられ)と化す。凍っては、玲瓏たる鏡となり、しかも、その性を失わざるは、水なり。


また、この黒田如水の名前の由来となった『老子』の言葉も掲載しておきましょう。


【原文】
上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。


【訳文】
最も理想的な生き方は、水のようなものである。水は万物に恩恵を与えながら相手に逆らわず、人の嫌がる低いところへと流れていく。だから「道」のありように似ているのである。(守屋洋先生訳)


この章で一斎先生が伝えたかったメッセージは、人は水と同じく、平生は自らを主張せずに過ごし、火急のときにはその力を存分に発揮するような人物たれ、ということでしょう。


あらためて、我々は水に学ばなければいけませんね。

第368日

【原文】
名利は固より悪しき物に非ず。但だ己私の累(わずら)わす所と為る可からず。之を愛好すと雖も、亦自ら恰好の中を得る処有り。即ち天理の当然なり。凡そ人情は愛好す可き者何ぞ限らん。而して其の間にも亦小大有り軽重有り。能く之を権衡(けんこう)すれば、斯(ここ)に其の中を得るは、即ち天理の在る所なり。人は只だ己私の累を為すを怕(おそ)るるのみ。名利豈果たして人を累せんや。


【訳文】
名誉や利益というものは、元来、悪いものではない。ただこれを、自分のためにするのはよくない。誰も名利を愛し好むけれども、各自に似合った中ほどの処を得るのがよい。それが天の道理に合うのである。だいたい人物として名利を愛し好むのには限度がない。しかしその間に大小があり軽重がある。この釣合をよくして中正を得れば、これが、すなわち天の道理に合うのである。ただ名利が自分に禍をもたらすことを恐れている人がいるが、名利がどうして人に禍をもたらすものであろうか。決してそうではない。


【所感】
名利は元来それ自体が悪いものではない。ただこれに自らを煩わされてはいけない。名利を好むことは構わないが、自分に適した所に留まるべきである。それが天の道理に適うのである。人情というものをどうして制限することができようか。しかしその間には大小や軽重がある。そこで自分の分に応じた所に落ち着くことこそが、天の道理に適うということだ。人はただ名利を私しないことを恐れるべきである。名利そのものが人を煩わせるわけではないのだ、と一斎先生は言います。


一斎先生は、名誉や利益を得ること自体を否定していません。


ただし自分の実力をよく弁え、その実力に応じた地位や財産を得ることを常に心掛けるべきだと仰っているのでしょう。


人は少しでも高い地位を求め、少しでも多くの財産を持つことを望みます。


これは人情であって、その思いを完全に失くすことはできません。


ここで大切なのは地位や名誉や財産を得ることを目的にしてはいけないということでしょう。


まずは目の前の仕事に己の誠を尽すことを優先すべきであり、その結果として地位や財産がついて来るということであるべきでしょう。


国民教育者の森信三先生は、『修身教授録』第一部第14講「真実の生活」の中で以下のように仰っております。少し長くなりますが引用させていただきます。


私は社会上の地位を、一段でも上へ上へと登っていこうとする人は、たとえばここに、様々な鉱石の層よりなる大きな絶壁があるとして、そしてその絶壁は、上へいくほどよい金属の鉱石があるとしてみましょう。するとその場合、先にのべた社会上の地位を、一段でも上へ上へと登ろうとする人は、いわばかような絶壁へ梯子をかけて、上へ登るほど、そこには立派な鉱石があるからといって、一段でも上の梯子段へ登ろうとあがいているようなものです。

もし梯子段を上へ登ることばかり考えて、そのどこかに踏みとどまって鉱石を掘ることに着手しない限り、一番上の段階まで登って、たとえそれが金脈のある場所だとしても、その人は一塊の金脈すらわが手には入らないわけです。

これに反して、仮に身は最下の段階にいたとしても、もしそれまで梯子段の上の方ばかりにつけていた眼の向きを変えて、真っすぐわが眼前の鉱石の層に向かって、力の限りハンマーをふるって掘りかけたとしたら、たとえそれは金鉱や銀鉱ではないとしても、そこには確実に何らかの鉱石が掘り出されるわけであります。すなわちその鉱石の層が鉛ならば、そこに掘り出されるものは鉛であり、またその鉱石の層が鉄鉱ならば、そこには確実に鉄鉱を掘り出すことができるわけであります。

なるほど鉄や鉛は、金銀と比べればその値段は安いでしょう。しかしまた世の中というものは、よくできたもので、鉛は鉛、鉄は鉄と、それぞれでなくては用をなさないところもあるものです。いかに金銀が尊いからといって、金銀の太刀では戦争はできません。いわんや梯子段をただ形式的に上へ登ることばかり考えている人間は、仮に金銀鉱のところまで達したとしても、実は一物をも得ずして、梯子段をさらに一段上へ登ろうとする人間です。

お互い人間として最も大切なことは、単に梯子段を一段でも上に登るということにあるのではなくて、そのどこか一ヵ所に踏みとどまって、己が力の限りハンマーをふるって、現実の人生そのものの中に埋もれている無量の鉱石を、発掘することでなくてはならぬからであります。


さて、明日からまた新しいウィークデーが始まります。


しっかりと今の仕事に真正面から取り組み、ハンマーを振るっていきましょう。

第367日

【原文】
虚羸(きょるい)の人は、常に補剤を服す。俄に其の効を覚えざるも、而も久しく服すれば自ら効有り。此の学の工夫も亦猶お是(かく)の如し。


【訳文】
身体の虚弱な人は、いつも身体を強壮にするための薬を服用している。その薬は服用して、すぐに効果が現われるものではないが、長らく続けて服用していると自然に効能が現われてくるものである。心を修める学問の工夫も、これと同じで、絶えず努力していけば、必ず効用が現われて立派な人格を形成さすことができるものである。


【所感】
身体の虚弱な人は、つねに栄養剤を服用している。すぐにその効能は発揮されないが、長く服用し続けると効果が出てくるものである。儒学という学問の工夫もこれと同じように継続することで、己の身を修めることができるようになるのだ、と一斎先生は言います。


昨日も記載しましたが、朱子学における「工夫」とは、いまだ聖人ではない人間がみずからの可能性を信じて、現実を克服すべく、長い時間をかけて学問・修養・実践に努力する営み全般を意味します。


何事も継続は力なりです。


何事も成就するまでには、努力と時間が必要なのです。


ところが最近は、即効性を求める人が多すぎますね。


即効性のある薬、いわゆる特効薬というものは、どこかで身体に負担を掛けるものです。


同じように、努力と時間を惜しんで何かをやろうとすれば、必ずどこかに齟齬を生じてしまいます。


松下幸之助翁は、素直の初段になるのに30年を要したと仰っています。


何事も30年やり続ければ道になると言われます。


百年再生の我無し


です。


仕事でも趣味でも、これをやるぞと決めたことには、もっともっと工夫と努力を費やし、時間を惜しまずに挑戦していきましょう。


小生の『論語』および儒学の学びはようやく丸2年が経ったところです。


この「一日一斎」もコツコツと毎日書き続けて一年が過ぎました。


老いて衰えず、死して朽ちない人間となるために、学び続けます。

第366日

【原文】
艮背(ごんはい)の工夫は、神(しん)其の室を守る。即ち敬なり。即ち仁なり。起居食息、放過す可からず。空に懸け影を捕うるの心学に非ず。


【訳文】
艮背の工夫というのは、一境に精神を専任して無我・無心の境地になることで、この心を専一にすることが、すなわち敬であり、それは最上善の所で、すなわち仁である。起居や飲食や休息など、生活の総ての面において、心を外境に馳せないようにしなければならない。これが心を存養する工夫であって、架空的なそして影法師を追うようなことをする心学(心を修める学問)ではないのである。


【所感】
内奥に精神を統一する修養法である「艮背の工夫」を行うと、精神が集中し安定する。これが即ち敬であり、また仁である。起居するとき、食事のとき、休息のときのいずれであっても心を放縦してはいけない。空中に物を懸けたり、影を捕らえるように捉えどころのない心の学問ではないのだ、と一斎先生は言います。


ここでは、艮背の工夫という言葉の理解が不可欠です。


野村英登先生は、この「艮背の工夫 」について以下のように解説されております。


人間の雑念が発揮されるのは、人間の意識が身体の前面、すなわち耳目鼻口といった感覚器官にあって、外物との接触によって乱されるからである。
そこで意識を背面に移動させることによって、外部からの感覚を遠ざけ、雑念を消すことができる。
このように精神を背中に移動させる技法を「艮背の工夫」と呼ぶ。


ちなみに、朱子学において「工夫」とは、いまだ聖人ではない人間がみずからの可能性を信じて、現実を克服すべく、長い時間をかけて学問・修養・実践に努力する営み全般を意味します。(『朱子学入門』垣内景子著、ミネルヴァ書房)


一斎先生は、このように常に「艮背の工夫」を行うことで、敬の心、さらには仁の心を保つことが可能になると仰っています。


よって一時たりとも気を抜かずに、意識を背部に留めておくことを推奨されております。


現代の我々には容易に理解できる内容ではありませんが、いわゆる開口部である耳目鼻口から意識を遠ざけておくことで、外からの刺激に過敏に反応することから自らを守るということは、感覚的にイメージができるようにも思えます。


さて、今日からは時々自分の意識を背中に持っていき、そこに留めておく鍛錬を開始してみるのも良いでしょう。

第365日

【原文】
弊を矯(た)むるの説は、必ず復た弊を生ず。只だ当に学は己の為にするを知るべし。学は己の為にするを知る者は、必ず之を己に求む。是れ心学なり。力を得る処に至れば、則ち宜しく其の自得する所に任ずべし。小異有りと雖も、大同を害せず。


【訳文】
弊害を矯正(ためなおす)するという考えは、必ずまた弊害を生ずるものである。ただ学問というものは、自分の修養のためにするものであることを知らなければならない。学問は自分のためにするものであるということを知る者は、必ずこれを自分に求めるものである。これが心を修養する学問なのである。この修養の力ができた場合には、自分の心の悟る所に任すがよい。そうしたならば、少しの違いくらいはあっても、別に大した支障を来たすものでもない。


【所感】
弊害を矯正する説は、結局また別の弊害を生むものである。学問というものはただ自分自身のためにするものであることを知るべきである。学問は自分のためにするということを知っている者は、必ず学んだこと(ここでは弊害の矯正)を自分自身に求めるものだ。これが心の学問である。自分自身のために学問をする力を会得したならば、自分の悟る所に任せればよい。そうしたところで、小さな違いはあったとしても、大きな問題とはならないであろう、と一斎先生は言います。


『論語』にもこうあります。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四篇)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


また『孟子』 にはこうあります。


【原文】
孟子曰く、「人の患は、好んで人の師と爲(な)るに在り。(離婁章句上)


【訳文】
孟子「人の通弊とするところは、好き好んで人の師となろうとすることだ」(宇野精一先生訳)


この『孟子』の章句について、吉田松陰先生は『講孟箚記』の中でこう解説されています。


【原文】
人の師とならんことを欲すれば、学ぶ所己が為に非ず。博聞強記、人の顧問に備るのみ。而して是学者の痛患なり。我輩尤も自ら戒むべし。凡そ学をなすの要は、己が為にするにあり。己が為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり。而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自ら人の師となるべし。人の為にするの学は、人の師とならんと欲すれども遂に師となるに足らず。故に云はく、「記聞(きぶん)の学は以て師となるに足らず」と。是なり。


【訳文】
人の師となりたいと思うと、その学問が自分自身を磨くためのものでなく、ただ広い知識を得て他人の顧問となり、人が使ってくれるのを待つものになってしまう。そして、このような学問になることこそ、学者共通の欠患であり、われわれが強く自身に戒むべきところである。いったい、学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある。自己を磨くためにする学問は君子の学であり、人の役に立つためにする学問は小人の学である。そして自己を磨くためにする学問は、人の師となることを好むものでないのに、自然に人から尊敬されて師となるものであり、人に役立つためにする学問は、人の師となりたいと思うものの、結局、師となる資格が身につかない。それ故に「知識だけの学問では、師となる価値がない」というのである。(近藤啓吾先生訳)


誰かに教えるための勉強は本当の勉強ではなく、自分を練磨する勉強こそが真の勉強である、ということでしょう。


吉田松陰先生の仰るように、自らを究めていく先に、人から請われて指導するという局面も拓けてくるのかも知れません。


これが小生の師匠が言う、「次のステージが迎えに来る」ということなのですね。


そして一斎先生が仰るように、すべての出来事に対して自分に矢印を向けることができるようになれば、孔子が七十にして到達した境地である、


己の欲する所に従えども、矩を踰えず。


となって、自分の思いのままに行動しても、大きな過ちを起すことがなくなるのでしょう。


己の為に学ぶ。
自分に矢印を向ける。


学ぶ上において最も意識すべきはこの二項目のようです。

第364日

【原文】
門面を装うこと勿れ。家儻(かとう)を陳(つら)ぬること勿れ。招牌(しょうはい)を掲ぐること勿れ。他物を仮りて以て誇衒(こげん)すること勿れ。書して以て自ら警(いまし)む。


【訳文】
家の門構えを立派に飾り整えるな。家財道具を自慢ぶって陳(なら)べるな。看板をでかでかと掲げるな。他人の物を借りて誇りに思うな。これらを書いて戒めとする。


【所感】
家の外観を飾るな、一家の財産を陳列するな、看板を掲げるな、他人の物を借りて見せびらかすな、これらを書して自らの警告とせよ、と一斎先生は言います。


これは一斎先生自らへの戒めか、あるいはお弟子さん達へのメッセージなのでしょうか?


要するに学者たるもの中身で勝負せよ、ということなのでしょう。


人は成功してお金が入ると、立派な家に移り住み、ガレージには何台もの外車を、お屋敷には高級な絵画や陶器を陳列したくなるようです。(小生は幸い?にもそこまでの財産がありません)


そのように飾り立てられた物を見た人は、この家の人はきっと大いに成功したのだろうと想像します。


それを狙って、敢えて借金をしてまで店構えを立派にし、高級な家具を設置し、大きな看板を出してお客さんを誘おうとする輩がいます。これは古今東西変わらないようです。


西郷南洲翁は、明治維新後高級官僚となった後も、雨漏りのするボロ宿に住み続け、自らもこう仰ったそうです。


命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。


命も惜しまず、地位や名誉や金に踊らされることのない人でなければ、国家の大事業は成し遂げられないのだ、ということです。


これは政治家に向けた言葉ですが、小生のような凡人にとっても道を踏み誤らないための有難い箴言と言えそうです。


どうせあの世に地位も名誉も金も持ってはいけないのですから、いっそのこと仕末に困る人となって、外見を飾ることなく、中身で勝負する人間でありたいものです。

第363日

【原文】
誣(し)う可からざる者は人情にして、欺く可からざる者は天理なり。人皆之を知る。蓋し知って而も未だ知らず。


【訳文】
偽ることのできないのは人情であって、欺くことのできないのは天理(天然自然の道理)である。人は誰でもこれを知っている。おそらく、これを知っているようではあるが、しかしまだ本当に会得していない。


【所感】
偽ることのできないものは人情であり、欺くことのできないのは天理である。人は皆そのことを理解している。思うに、理解をしているがしかし実は未だに理解できていないのだ、と一斎先生は言います。


「誣う」とは、事実を曲げていう、ありもしないことを言う、といった意味です。


言うは易し、行うは難し、ということでしょうか。


「人の心を偽ること、天の道に外れることは良いことだろうか?」と問えば、誰しも「否」と答えるはずです。


そこで、「では、あなたは人を欺いたり、天道から外れたことはないのですね?」と重ねて問えば、これまた「否」と答えるでしょう。


陽明学の始祖である王陽明先生は、


知行合一(ちこうごういつ)


つまり、本当に知るとは実践を伴ってはじめて知ると言えるのだ、ということを提唱しました。


本来人は天の道を正しく踏み行うための「良知」をもって生まれてくる。


よって、ただ只管(ひたすら)己の良知を実行に移す、つまり良知を致せば良い、と王陽明先生は仰っています。


昔から、『論語』を読んで分かったつもりになっている人を「『論語』読みの『論語』知らず」と謂います。


小生などは、差し詰め「『言志四録』読みの『言志四録』知らず」と言えそうです。(語呂が悪すぎますが)


常に謙虚に、己の誠の足らざるを憂う気持ちを忘れないようにしたいものです。
プロフィール

れみれみ