一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年02月

第362日

【原文】
人は多く己の好む所を話し、己の悪む所を話さず。君子は善を好む、故に毎(つね)に人の善を称す。悪を悪む、故に肯(あえ)て人の悪を称せず。小人は之に反す。


【訳文】
世の人はたいてい自分の好むところの事を話すが、自分が忌み嫌うところの事は話さぬものである。しかし、君子は元来、善を好むからして、常に人の善言・善行を称賛する。また君子は悪を忌み嫌うからして、人の悪事・悪行を称賛するようなことはしない。小人はこれとは相反するものである。


【所感】
人の多くは自分の好きなことを話し、自分が嫌いなことは話さない。君子と呼ばれる立派な人は善を好むので、いつも人の良い点を称賛する。また悪事を憎むので、敢えて人の悪い点を論(あげつら)うことはしない。ところが凡人はこの逆であることが多い、と一斎先生は言います。


この章句からは『論語』の有名な一節が想起されます。


【原文】
子曰わく、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。(顔淵第十二)


【訳文】
先師が言われた。
「君子は人の美点を伸ばし、人の悪い所は抑えようとするが、小人はその反対である。(伊與田覺先生訳)


また陽貨第十七篇でも孔子は、


人の悪を稱する者を悪む。


つまり、人の悪を人に吹聴する者を憎む、と仰っています。


対人関係を円滑に行う上では、つねに美点凝視で対するのが秘訣だと言われています。


以前に記述しましたが、森信三先生は、この美点と欠点をプラスマイナスしないことを推奨されています。


せっかく美点を見つけても、欠点と相殺してしまうと、やや美点が勝るかあるいは欠点が勝ってしまい、その人のトータル評価を下げてしまうからでしょう。


しかし、聖人と呼ばれる人でもない限り、完璧な人はいません。


したがって、美点はあくまでも美点として評価することが重要だということです。


ところが小人と呼ばれる人は、自分の好きな話しや自慢話ばかりするかと思えば、一転して他人の誹謗中傷を行うと一斎先生は嘆いておられます。


なんとも耳の痛いご指摘です。。。

第361日

【原文】
聖人は万物に順(したが)いて情無し。情無きに非ざるなり。万物の情を以て情と為すのみ。


【訳文】
聖人は万物に対しては愛・憎の情をいだいていない。決して情が無いのではない。ただ万物の情をもって情としているだけである。


【所感】
聖人と呼ばれる人は万物に対して特別な情をもたない。情がないわけではない。万物の情をそのまま受け入れて情としているのだ、と一斎先生は言います。


この言葉は程明道の『定性書』という書物にある、「聖人の常なるは、その情万物に順ひて而も情なきを以てなり」をベースにしています。


この言葉に続いて、こうあります。


聖人の喜ぶは、物の當に喜ぶべきを以てし、聖人の怒るは、物の當に怒るべきを以てす。是れ聖人の喜怒は、心に繋らずして、物に繋るなり。是れ則ち聖人豈物に應ぜざらんや。烏んぞ外に從う者を以て非と爲して、更に内に在る者を求めて是と爲すを得んや。


要するに、聖人と呼ばれる人は、外物に対してはありのままに対処し、自らの心を動かされることはなく、つねに主体を失うことがない、ということでしょうか。


人間の情は発するのは容易ですが、制御するのは非常に難しいものです。


我々のような凡人と聖人との違いは、このように外的な刺激に対して、すぐに心を動かされるか否かにあると言えそうです。


学問をする最大の目的は、禍福終始を知って惑わない心を手に入れることです。


決して人間としのて情をすべて無くすのではなく、禍福すなわち喜びや悲しみを過度に表わすことなく、喜びのときにはその喜びがいつか終わることを悲しみ、哀しみのときにはその哀しみがいつかは終わることを楽しみに待ちながら、その時自分にできることを手を抜かずにやり抜く人であれ。


小生はこの章句からそんな一斎先生のメッセージを読み取りたいと思います。

第360日

【原文】
大学は、誠意に好悪を説く自(よ)り、平天下に絜矩(けっく)を説くに至る。中間も亦忿懥(ふんち)四件、親愛五件、孝弟慈三件、都(すべ)て情の上に於いて理会す。


【訳文】
『大学』という書物は、誠意や好悪の情を説くことから始めて、家国や天下を治めることや己の心をもって人心を推し度(はか)る「恕」まで説いている。その中間においては、感情について忿怒(ふんど)・恐懼・好楽・憂患の四件、親愛・賤悪・畏敬・哀矜・敖惰(ごうだ)の五件、孝・弟・慈の三件などを説いているが、それらは総て情の上から説いたものといえる。


【所感】
儒学の経典である『大学』という書物には、意を誠にすることや悪臭を悪(にく)み好色を好むことから始めて、天下を平らかにするには国を治めるべきことや自分の心を尺度として人の心を知ることまでが説かれている。その間には、身を修めるために正すべき忿怒・恐懼・好楽・憂患の四件があること、家を斉(ととの)えるためには、親愛・賤悪・畏敬・哀矜・敖惰の五件によって心が偏ることのないようすること、また国を治めるには孝・弟・慈の三件が必要であることを説いている。これらはすべて情の面からとりあげられている、と一斎先生は言います。


四書五経のひとつであり、儒学の重要な経典のひとつである『大学』の冒頭部分に触れた章句です。


ご存知のように二宮金次郎少年が背中に薪を背負って歩きながら読んでいた本がこの『大学』だと言われています。


格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下の八つの項目は、『大学』の八条目と呼ばれており、特に後半の四つ、修身・斉家・治国・平天下は儒教の根本理念として広く知られています。


すなわち、世の中を平らかにするためにはまず国を治めることが必要であり、国を治めるためにはその前に家を斉えることが必要であり、家を斉えるためにはその前に己の身を修めることが必要であるとして、修身の重要性が説かれているのです。


ここに挙げられた忿懥四件、親愛五件、孝弟慈三件などは、この修身・斉家・治国・平天下の解説の中で出てくるものです。


国を治め、世の中を泰平に導くといった大きな仕事も結局は人間の情(心)をいかに正しく保つことができるかどうかに懸かっているのだ、と一斎先生は看破しておられます。


組織マネジメントにおいても、メンバーの心を正しい方向に導くことが最重要課題であり、そのためにはリーダー自身がまずその身を修めることから始める以外に良い方法はありません。


修身こそ世の中のあらゆる仕事を成功に導くための最も優れた、そして最も難易度の高い取り組みだということでしょう。


『論語』と共に『大学』も、現代のリーダー諸氏必読の書だと言えます。


まだ読まれていないという方は急ぎお読みください!

第359日

【原文】
古往今来、一塊の堪與(かんよ)は皆情の世界なり。感応の幾(き)此(ここ)に在るも、而も公私有り。政(まつりごと)を為す者宜しく先ず其の公情を持して以て物を待ち、人をして各々其の公情を得せしむべきのみ。然れども私情も亦恕として達せしめ碍(さわり)無かる可き者有り。事に臨み其の軽重を酌みて可なり。


【訳文】
昔から今に至るまで、この天地は人間の情の世界である。それで、相互いに感じ合うという機微な人間関係も、この情の世界においてなされるのであるが、ここに公的な情と私的な情とがある。それで、政事をする者は、先ず公的な情をもって物に対し、人々をしてその公情を得させるにある。しかし、私的感情でもまたこれを許し達せしめて、別に差し支えがないものもある。政事をする場合には、その物事の軽重をよく参酌して処理することが大切である。


【所感】
昔から今日に至るまで、この世界はすべて情の世界である。相感じる心の機微もそこにあるが、しかも公私の別がある。政治を行う者はまずはその公的な情を保持して物事に対処し、庶民にもその公的な情を得させるべきである。しかし私情についても寛容に受け入れて、特別障害とならないようなものをあろう。物事に対処する上ではその軽重を鑑みて処理すればよい、と一斎先生は言います。


政治家は言うに及ばず、組織の長たるリーダーであっても、組織メンバーに対しては常に公的な感情で対応する必要があります。


組織が崩壊するときには、必ず身近なところから綻びが生じるものです。


たとえばリーダーがいわゆるイエスマンだけを可愛がるようなことがあれば、組織運営に私情が混じることとなり、そこから組織崩壊の序曲が始まるものです。


孔子も『論語』の中でこう言っています。


忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。(学而第一


古来、この「己に如かざる者」という言葉の解釈には諸説がありますが、ここでは、「能力の劣る者」と解するのではなく、「自分の思うままに動く者」と解釈し、自分より能力のある者をあえて遠ざけて、そうした人物だけを身の周り置くことを戒めた言葉であると捉えたいと思います。


権力を手に入れると、ある程度人事権を掌握することができますので、世のリーダー諸氏にとって大いに箴言となる言葉だと思います。


ところが、人の上に立つのは難しいもので、公情を意識するあまり、杓子定規にマネジメントを行うと、これに対しても不平不満が出るから困りものです。


白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき


過去にも何度かご紹介した狂歌ですが、この歌は、田沼意次の贈収賄にまみれた政治に嫌気がさしたはずの庶民が、次に出た元白河藩主であった松平定信のあまりにクリーンな政治を目の当たりにして、これでは却って窮屈で、これなら田沼の時代の方がよかったと嘆いたという歌です。


ある意味で、メンバーは勝手なものです。
厳しすぎても、緩すぎても文句を言います。


そういう意味では、この「事に臨み其の軽重を酌みて可なり」という一斎先生の教えには、大いに肯けるものがありますね。

第358日

【原文】
不苟(ふこう)の字、以て過を寡くす可し。不愧(ふき)の字、以て咎(きゅう)に遠ざかる可し。


【訳文】
何事をするにも、軽々しくしないという「不苟」の字をもってするならば、過失(失敗)を少なくすることができる。なお、良心に恥じないという「不愧」の字をもってするならば、人から非難を受けることから遠ざかることができる。


【所感】
物事を軽々しく行わないという「不苟」の字、これをいつも心に思って禍を少なくするべきである。また、物事に充分対処できていて恥じることがないという「不愧」の字、これをいつも心に抱いて、人から咎められることのないようにすべきである、と一斎先生は言います。


不苟不愧、これも心に沁みることばです。


「不苟」という言葉は、おろそかにしないという意味だそうです。(小生もはじめて知りました)


確かに営業の世界では、手を抜いたときは必ず悪い結果となって自分に帰ってきます。


手抜きとは準備不足です。


小生の師匠は、常々こう我々に語りかけてくれます。


自信のない人は、自分自身が手を抜いていることを誰よりも分かっているから自信を持てないのだ。


つまり、準備が不足していれば、まだ本当はやらなければいけないことがあるにも関わらず本番に臨む訳ですから、自信をもてる筈はないということです。


何事もおそろかにせず、準備万端整えて一切恥じるところがないと言い切れる仕事をしているか?


手を抜きたくなったとき、この「不苟不愧」を思い起こせば、もう一度ギアを入れなおすことができそうです。

第357日

【原文】
寛懐(かんかい)にして俗情に忤(さから)わざるは和なり。立脚して俗情に堕ちざるは介なり。


【訳文】
心持がゆったりとしていて、俗世間の流れに逆らうことをせず、それに順(したが)って行くことが「和」である。自分の立場をしっかり守って、世俗の流れに巻き込まれないのが「介」である。


【所感】
心広くゆったりとしていて世の中の流れに逆らうことがないのが「和」である。自己の主張を明確にしていながら世の中の流れに飲み込まれないのが「介」である、と一斎先生は言います。


ここでは「介」という字がポイントになりそうです。


『日本思想大系』によると、この「介」とは、「節がかたいこと。動じないこと」と解釈されています。


この章句を読んで、小生の頭の中に想起されるのは、『論語』のこの一節です。


【原文】
子曰わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。(子路篇)


【訳文】
先師が言われた。
「君子は、誰とも仲良くするが、強いて調子を合わせたりしない。小人は誰とも調子を合わせるが、心から仲良くしない」(伊與田覺先生訳)


ここでいう「同」の逆の概念が「介」だと言えそうです。


人は人間という文字のとおり、人の間でしか生きられません。


その中ではまず「和」を大切にすることが第一条件なのでしょう。


しかし人と和していく中でも、自己を確立しておくことは重要です。


己が確立していなければ、世間に流されて、いつしか己を失ってしまうかも知れません。


一方、自己主張が強すぎても、和を乱し、いつしか浮いた存在、他人から疎まれる存在となってしまいかねません。


このように、和することと介することのバランスを取ることは容易なことではなさそうです。


日々の生活の中で、自分は今「和」しているだろうか、「介」しているだろうか?と三省することを忘れないようにしましょう。

第356日

【原文】
羊を牽(ひ)きて悔亡ぶ。操存(そうそん)の工夫当に此(かく)の如くすべし。


【訳文】
羊は性剛躁(ごうそう)なるものであるから、羊を前へ牽き進めるには、その躁心を強く制止するならば悔が無くなる。存心の修養(存養)もそのように牽羊(けんよう)の心持ですればよい。心の修養には、まず邪念・妄想を払拭することが肝要である。


【所感】
羊を進ませるのに、前から引っ張れば、かえって後ずさりして前に進まず悔いを残すが、後ろに下がって後ろから羊を追えば、かえって前に進んで先ほどの悔いはなくなるものである。同様に己の修養というものも、このように工夫をすることが重要である、と一斎先生は言います。


人間の修養というものも、一筋縄ではいかないということでしょうか。


さあやるぞ!と新たな気持ちで取り組んだことも、時間の経過とともに倦んできて、ついサボりがちになったり、止めてしまったりするのが凡人の定めですね。


そこでは羊を前から牽かずに、後ろから追うことで前に進ませるように、自らの心を前に進める工夫が必要になってくる、と一斎先生は仰っております。


いつでも「べき論」で己を縛ると、逃げ出したくなるものです。


いかに楽しんで続けられるかが重要なポイントになります。


孔子も『論語』のなかでこう仰っています。


【原文】
子曰わく、之を知る者は、之を好む に如かず。之を好む者は、之を楽しむ に如かず。


【訳文】
先師が言われた。
「知る者は、好んでやる者には及ばない。好んでやる者は、楽しんでやる者には及ばない」


かつて小生も体重を落とすことを思い立ち、「ジムで一年間、毎月100km走る」という目標を立てました。


なんとか一年間、毎月100km走破は達成したものの、日々義務感との戦いで、途中からは全く楽しめませんでした。


その結果、一年間やり切った後に走ることを止めてしまいました。


いかに楽しみながら自己修養に励むか。


これは非常に難しい課題だと思いますが、工夫と試行錯誤で継続しなければなりませんね。

第355日

【原文】
百年再生の我無し。其れ曠度(こうど)すべけんや。


【訳文】
自分という者は、百年経ったら再びこの世に生まれて来るというのではないから、空しく過ごしてよかろうか。一日一日を有意義に過ごさなければいけない。


【所感】
私という人間は百年で生まれ変わりはしない。したがって、空しく日々を過ごすようではいけない、と一斎先生は言います。


ご存知のように、哲学者で教育者の森信三先生は、


人生二度なし。


であり、


人生というのは、ただ一回のマラソン競争である。


とも仰っております。


皇紀2676年2月2日、小生にとって49歳の2月2日は、二度と再び経験することはできません。


さらに森先生は、


人生の価値は、その長さにあるのではなく、どれだけ深く生きたかというその深さにある。


とも言われております。


小生の平日の睡眠時間は3~4時間です。


それでは長生きしないよ、とよく言われます。


しかし最近はこう考えるようになりました。


毎日8時間寝る人と小生とでは、起きて活動している時間は、1日で4時間、1年では1460時間も変わってきます。


1460時間は、24時間で換算すると約60日です。8時間寝る人であれば実働は16時間ですから、1460を16で割ると、約90日、つまり3ヶ月余分に生きている計算になります。


すこしぐらい早く死んだとしても、1年につき3ヶ月前倒しで生きたことになるので、それで良しとしようではないか、と。


ただし問題はその時間をいかに深く過ごせるかです。


小生の場合、毎日1時間程度のネットサーフィン時間がありますので、これでは駄目ですね。


人生を深く生きるとは、志つまり天命に全精力を傾けることに外なりません。


百年再生の我無し。


この言葉も深く胸に刻んでおかねばなりません。

第354日

【原文】
老人は衆の観望して矜式(きょうしょく)する所なり。其の言動は当に益々端(たん)なるべく、志気は当に益々壮なるべし。尤も宜しく衆を容れ才を育するを以て志と為すべし。今の老者、或いは漫(みだり)に年老を唱え、頽棄に甘んずる者有り。或いは猶お少年の伎倆(ぎりょう)を為す者有り。皆非なり。


【訳文】
老人は多くの人が仰ぎ見て、敬いのっとる所のものであるからして、その言語や動作は益々端正にしなければならないし、その意気は益々壮大でなければならない。そして、多くの人々を包み入れる度量をもち、才能のある者を育成することをその志とすることが最もよい。ところが、今時の老人達は、むやみに年をとったといって、自分を役に立たぬすたれ者としてそれに満足している者がおるかと思うと、いまだに少年達がするような幼稚なことしかしない者がいる。それらは宜しくないことである。


【所感】
老人は多くの人が仰ぎ見て、お手本とする存在である。その言葉や行動は老いて益々端正になり、志は益々荘厳になるべきである。とりわけ適格に多くの人を受け容れ、その才能を育てることを志とすべきである。ところが今の老人は、むやみに老いたことを歎き、老いて衰えることをよしとしている者もいる。あるいは、いまだに年少者レベルのことをしている者もある。ひじょうに宜しくないことである、と一斎先生は言います。


小生のまわりには、言葉は少々失礼にあたりますが、老いて益々盛んな方がたくさんいらっしゃいます。


それらの方に共通して言えるのは、笑顔がとても自然で素敵であるということであり、常に謙虚で、小生のような若輩者の話しにも真剣に耳をかたむけてくださいます。


小生も営業という生き方をはじめて20年を超えておりますので、ある程度顔を見ただけでその方の生き様を推測できるようになりました。


精進の足りていない方は、見事にそれが顔相に現われていますし、なにより笑顔が素敵ではないのです。


一方、小生がご縁を頂いた方々の笑顔には神々しさをさえ感じてしまいます。


矜式(きょうしょく)、とは慎んでお手本とすることを意味する言葉のようです。


この言葉はこの章を読んで初めて知りましたが、まさに小生はそれらの方々をお手本として、その方々のような老後を迎えたいと心から思い、精進を重ねておるつもりです。(他人さまのご評価は存じませんが。。。)


少年老い易く、学成り難し


とは、南宋の学者であり、儒教中興の祖である朱熹のことばだと言われております。


小生も気が付けばあっという間に50を迎えようとしています。


まさに、学成り難しを実感する今日この頃です。


還暦までの残り10年を大切に、学び、気づき、実践して、お手本とさせて頂いている方々に少しでも近づきたいと心より願っております。
プロフィール

れみれみ