一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年05月

第474日

【原文】
財は天下公共の物なり。其れ自ら私するを得可けんや。尤も当に敬重すべし。濫費すること勿れ。嗇用すること勿れ。之を愛重するは可なり。之を愛惜するは不可なり。


【訳文】
財は天下の公物である。それで、それを私物化することができようか。特に大切にしなければいけない。この公物を無駄使いしてはいけないし、またこれをおしむのもいけない。これを大切にするのはよいが、けちはいけない。


【所感】
財というものは天下の公共物である。けして私服を肥やしてはいけない。この点はもっとも尊重しなければならない。無駄遣いしてはいけないし、けちけちして出し惜しむのもいけない。大切にすることは良いが、惜しんではいけない、と一斎先生は言います。


昨日の続きです。


お金というものは流れていないと、澱んでしまうものです。


かといって無駄遣いをするのでもなく、世の中のために使うという心掛けが大切だということでしょう。


最近の若い人には夢がないとよく聞きます。


先日も、勤務先の研修で若手のメンバーに、「出来る限り大きな夢を語ってください」と伝えて、夢についてアウトプットしてもらったのですが、驚くほど小さい夢ばかりでした。


若いうちは働く目的がお金のためであっても良いと思います。


徐々に、働くことの意味や喜びに気づき、お金以外の目的、いわゆる志をつかんでもらえればよいのではないでしょうか。


お金が天下公共のものと気づいた時に、仕事のステージがワンランク上がるのだと思います。


研修では働く目的は何かについても質問してみました。


皆、遠慮がちに「お金のため」だと答えました。


「皆さん、採用面接のときはひとりもそんなことを言わなかったよね?」


とチクリと嫌味で笑いを取った後、


「ところで、私がもしお金の為に働いていると言ったら皆さんはどう思う?」


と尋ねました。


皆、一様に「それは嫌ですね」


そこで、私、


「でしょ。だからいつか夢を志に変えようね」

第473日

【原文】
財を理(おさ)むるには、当に何の想を著(つ)くべきか。余謂(おも)えらく、「財は才なり。当に才人を駆使するが如く然るべし」と。事を弁ずるは才に在り。禍を取るも亦才に在り。慎まざる可けんや。


【訳文】
財貨をうまく運用するには、どのように考えたらよいのだろうか。自分は「財は才である。それだから才能のある人を使うようにすればよいのである」と思っている。何か事を処理するのも才能であり、禍を招くのも才能である。それで、慎重にしないでよいだろうか。


【所感】
財産を運用するには、どういう考え方に立つべきであろうか。私は思う、「財は才能である。だから才能のある人を使うように取り扱うべきである」と。事を処理するのも才能であり、禍を呼ぶのも才能である。慎まないわけにはいかない、と一斎先生は言います。


誰でもお金持ちになりたいという気持ちはあるでしょう。


しかし、お金というものは、我々がお客様に提供する価値の代償として受け取るものであり、その価値の大きさがそのまま金額の多寡となります。


したがって、お金を得るためには、自分の目の前にある仕事に全力を尽くすことが必要なわけです。


しかし、それだけでなく、その仕事は清浄なものでなければなりません。


日本三大商人のひとつ近江商人(残りは、大阪商人と伊勢商人)は、商売というものは


売り手よし、買い手よし、世間よし


でなければならないとしています。


いわゆる「三方よし」です。


売り手と買い手の双方にメリットがあったとしても、それが賄賂の取引という形でなされたのであれば、世間的にはアウトです。


またお金というものは、私腹を肥やすために溜め込んではダメで、社会のためにどんどん使うことも大切です。


私腹を肥やそうとすれば、自然に悪いことに手を染めることにもなり兼ねません。


そう考えてくると、お金をうまく活用していくということは、一つの才能であるから、あたかも有能な人をうまく活かすかのように取り扱うべきだ、という一斎先生のお言葉は大いに納得できる言葉ではないでしょうか。


小生には、残念ながらその資質はなさそうですが。。。

第472日

【原文】
肝気有る者は多く卞急(べんきゅう)なり。又物を容るること能わず。毎(つね)に人和を失う。故に好意思有りと雖も、完成する耐(あたわ)ず。或(あるひと)謂う、「稍肝気有れば、卻って能く事を了す」と。余は則ち謂う、「肝気悪(いずく)んぞ能く事を済(な)さん。厪(わず)かに一室を灑掃(さいそう)するに足るのみ」と。


【訳文】
よく怒る人はたいてい気短かで落ちつきがなくて、人を容れるような度量をもっていない。平生人と調和することをしない。それで、よい考えがあっても、物事を完成さすということはできない。ある人が「少しは怒気があったのが、かえって物事を成す」というが、自分は「よく怒るせっかちな者がどうして物事を終りまで為し遂げることができようか。できることではない。ただほんの少し室の掃除をするのが精いっぱいだ」といいたい。


【所感】
すぐに怒る人は大概いらいらしてせっかちである。また人を受け容れることができない。つねに人との和を失っている。それゆえに良い考えがあると雖も、それを完成させることができない。ある人が「すこしくらい怒気があった方が、うまく事を成就できる」と言ったが、私は「怒気がどうして事を成すことがあるだろうか。せいぜい部屋を掃除できる程度である」と言いたい、と一斎先生は言います。


短気は損気、ということですね。


実は、小生の最大の課題がこの短気を起こすところなのです。


『孔子家語』という古典に以下のような言葉があります。


【原文】
孔子曰く、藥酒は口に苦きも病に利あり。忠言は耳に逆ふも行ひに利あり。


【訳文】
孔子がこう言った。「薬酒は口に苦いが、病気には効き目がある。真心から出た言葉は耳に痛いが、行いには助けとなる」(宇野精一先生訳)


他人からの真心の言葉であれば、それは必ず自分の行動にとって良い助言となるのであるから、素直な心で受け入れるべきだということです。


相手の心を察することができれば、怒りを覚えるどころか感謝の気持ちで受け容れることができるのかも知れません。


特にリーダーと呼ばれる人は、メンバーや後輩からの指摘や諫言をも「ありがとう」と言って受け容れるだけの度量をもちたいものです。

第471日

【原文】
禹は吾れ間然するところ無し。飲食・衣服・宮室、其の軽重する所を知る。必ず是の如くにして、財も亦乏しからず。


【訳文】
帝王禹のなした事は、一言も非難すべき所が無い。すなわち、自分の飲食は粗末にして、祖先の祭礼には供物を豊富にして孝道を尽くし、日常の衣服は粗末にして、祭服を立派なものにし、住居は質素にして、農耕に力を尽くすなど、よくその軽重を弁えていたことが知られる。必ずこのようにすれば、財もまた不足することがなく、経済面もうまく行く。


【所感】
「禹王の業績については非難の口をはさむ余地が無い」と『論語』にもあるように、禹王は飲食・衣服・宮廷を質素にし、物事の軽重をよく理解していた。このようにしていれば、財貨が不足することはない、と一斎先生は言います。


ここも『論語』からの引用です。


【原文】
子曰わく、禹は吾間然すること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふうべん)に致し、宮室を卑しくして力を溝洫(こうきょく)に盡(つ)くす。禹は吾間然すること無し。(泰伯第八)


【訳文】
先師が言われた。
「禹の人柄については非のうちどころがない。自分の飲食を簡素にして、先祖の霊や天地の神を丁重に祭った。衣服は粗末にして祭礼の時につける前だれとかんむり即ち祭服を美しくした。自分の住居を質素にして、灌漑用の水路の構築に力を尽くした。まことに禹の人柄に対して自分は一点の非のうちどころもない。(伊與田覺先生訳)


伝説の皇帝禹は、聖人として崇められており、特に治水に関して功績があり、舜帝から皇位を譲られて夏王朝を建てたことで知られています。


国を富ましめるには、まず自ら質素な生活を心がけねばならないという教えでしょう。


これを読んですぐに思い出すのが、上杉鷹山公です。


上杉鷹山公は、没落したかつての名門上杉家の再興のために米沢藩の藩主となり、自ら木綿の服をまとい、一汁一菜を奨励、各家の垣にはウコギを植えさせ、飢饉のときにはそれを食べて飢えをしのぐように手を打ったことはご存知のとおりです。


これにより、実際に大飢饉が発生した際にも、米沢藩からはひとりの餓死者も出さなかったと言われています。


そういう意味では名経営者ともいえる上杉鷹山公については、かつてJ・F・ケネディ大統領が最も尊敬する日本人としてその名を挙げたことでも有名ですね。


この教えは、企業のトップに立つ人や、組織のリーダー諸氏の襟を正すのに十分なものでしょう。


全社員さんで、難局を乗り越えようとしているときに、トップが高級料亭で食事をしているようなことではどうしようもありません。


まずわが身を正せ、ということです。


この言葉をあなたに贈ります、舛添要一様。

第470日

【原文】
信を人に取れば、則ち財足らざる無し。


【訳文】
人に信用(信頼)を得るならば、財物に不足するということはない。


【所感】
人から信頼を得ることができれば、財物に不足するようなことはない、と一斎先生は言います。


昨日、『信なくんば立たず』という孔子の名言を紹介しました。


信とは、儒教における五常の徳(仁義礼智信)のひとつであり、人に嘘をつかず、誠実さを守ることです。


この一斎先生のお言葉は、他人に対して誠実かつ正直に接するならば、ご縁が巡り、財物に困窮するようなことにはならない、ということを教えてくれます。


昨日は主に組織運営において「信」が大切であることを記述しましたが、「信」は組織運営のみならず、商売においても大変重要な徳目であることがわかります。


さて問題は信頼をどう勝ち取るかです。


小生の営業経験の中から学んだことを下記に列記します。


お客様の期待 > 営業の提供する価値 = 不信感

お客様の期待 = 営業の提供する価値 = 信用

お客様の期待 < 営業の提供する価値 = 信頼


我々営業人は、お客様の期待値をしっかりと把握し、その期待を超える価値を提供してこそ、信頼を勝ち取れるというのが、小生の持論です。


「おー、そこまでやってくれるの?」とお客様に喜んで頂けることを常に目標にして、営業人は日々精進せねばなりません。


信なくんば立たず。


これは組織内だけでなく、お客様との関係においても大変重要な意味をもつ至言なのです。

第469日

【原文】
今の君の為に利を興さんと欲する者は、焦心苦思せざるに非ず。然れども自利の一念挿(はさ)みて其の間に在ること有らば、則ち君の利は竟(つい)に興すこと能わず。


【訳文】
今の世(徳川末期を指す)に、君主(大名)のために福利を興そうと思っている者は、色々と気をもみ心を苦しませないものはない。しかし、自分の利益を計ろうとする一念がそこに介在するならば、結局、君主のための福利は遂に興すことはできない。


【所感】
現在の君主のために利益をもたらそうとする人は、みな大変苦労をして気をもんでいるものである。ところが、そこに自分の利益のためという気持ちが入り込めば、結局は君主に利をもたらすことは不可能であろう、と一斎先生は言います。


これは自分自身の利益よりも組織の利益を優先せよという教えでしょうか。


小生のような営業に携わる者にとって、組織の長に利益をもたらすということは、とりもかくさずお客様の利益を優先するということになります。


逆にリーダーの立場から考えれば、どうすればメンバーにこうした気持ちで仕事をしてもらえるかを考えねばならないということになります。


これについては、孔子が明快な回答をしてくださっています。


【原文】
子貢、政(まつりごと)を問う。子曰わく、食を足し兵を足し、民これを信にす。子貢が曰わく、必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者(さんしゃ)に於て何(いず)れをか先きにせん。曰わく、兵を去らん。曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者(にしゃ)に於て何ずれをか先きにせん。曰わく、食を去らん。古(いにしえ)より皆死あり、民は信なくんば立たず。(顔淵第十二)


【訳文】
子貢が政治の要道(大切な道)を尋ねた。
先師が答えられた。
 「食(食糧)を豊にし、兵(軍備)を充実し、民に信(道義)を持たせることだ。」
子貢が尋ねた。
「どうしてもやむなく捨てなければならないときに、この三つの中どれを先にすればよいでしょうか」
先師が言われた。
「兵を捨てよう」
子貢が更に尋ねた。
 「どうしてもやむなく捨てなければならないときに、この二つの中どれを先にすればよいでしょうか」
先師が言われた。
「食を捨てよう。昔から食の有無にかかわらず、人は皆死ぬものだ。然し人に信がなくなると社会は成り立たない」(伊與田覺先生訳)


組織マネジメントにおいて最も大切なのは、信であるということです。


信があれば、メンバーは己の利より組織の利を優先して動いてくれるはずです。


組織の存在意義を達成するためにも、お互いの信を大切に育みましょう!

第468日

【原文】
財を運(めぐ)らすに道有り。人を欺かざるに在り。人を欺かざるは、自ら欺かざるに在り。


【訳文】
財貨をうまく運用する要道(大切な方法)は、人を偽らない(信用を得る)ことにある。人を偽らないということは、結局、自己自身を偽らないことである。


【所感】
財を運用するには大切な方法がある。人を欺かないということである。人を欺かないということは、まず自分自身に嘘をつかないということである、と一斎先生は言います。


儒教においては、他人に対して嘘をつかない徳目を「信」と呼び、己自身を欺かないで誠を尽くすという徳目を「忠」と呼びます。


よって、お金を巡らせるためには、忠信を大切にせよという教えだと捉えて良いでしょう。


人と取引や商売をする場合、その人が他人に対して誠実であるかどうかを見極めることは当然ですが、その人の来し方を見るということも怠らない方が良いでしょう。


孔子が人を判断するときの基準は以下のとおりです。


【原文】
子曰わく、其の以(な)す所を視、其の由(よ)る所を観、其の安んずる所を察れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。人焉んぞ廋さんや。(為政第二)


【訳文】
  先師が言われた。
「その人が何をしているのか、その人が何によって行っているのか、そしてその人がどこに安らぎを持っているのか。そういうことを観察すれば、人のねうちはわかるものだ。従って自分をかくそうと思っても、決してかくせるものではない」(伊與田覺先生訳)


視 → 観 → 察 と外面から内面をみていくことが大事であるとの教えです。


逆に言えば、人からはこの三点をみられるということも意識して、日頃から修養に取り組まねばならないとも言えるわけです。


結局、商売繁盛の秘訣は、自分自身が「忠」を守る、すなわち為すべきことをしっかりと為すということである、ということになるのでしょうね。

第467日

【原文】
人の物を我に乞うは厭う勿れ。我の物を人に乞うは厭う可し。


【訳文】
人が自分に対して物乞いを求めた場合には、嫌に思ってはいけない。自分が物を人に乞い求めることは避けるべきである。


【所感】
人が自分に物の提供を求められたときは嫌がってはいけない。しかし自分が他人に物を乞うことは避けるべきである。


掛けた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め


という言葉があります。


情けは人のためならず


という言葉もあります。


いずれにしても、他人から頼りにされたときには出来る限り応えるべきであるが、自分からはすぐに人を頼らないという姿勢が、自主自立を促すということでしょう。


後半部分については、後輩指導の際に特に重要な箴言です。


『論語』述而篇に、以下の名言があります。


子曰く、憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。


この言葉の訳は以下のとおりです。


自分で理解に苦しんで歯がみをする程にならなければ、解決の糸口をつけてやらない。言おうとして言えず口をゆがめる程でなければ、その手引きをしてやらない。(伊與田覺先生訳)


「啓発」という言葉の出典となった『論語』の言葉です。


安易に答えを与えない指導こそが後輩を育てることになるのだと理解して、時間を惜しまず後輩を導いていきたいものです。

第466日

【原文】
名は求む可からずと雖も、亦棄つ可からず。名を棄つれば斯に実を棄つ。故に悲類に交わりて以て名を壊(やぶ)る可からず。非分を犯して以て名を損す可からず。権豪(けんごう)に近づきて以て名を貶(おと)す可からず。貨財に黷(けが)されて以て名を汚(けが)す可からず。


【訳文】
名誉は強いて求めるべきものではないが、いま持っている名誉を棄てるべきものでもない。もし名誉を棄てることになれば、それは実を棄てることになるのである。それで、善くない人と交際して自分の名誉を台なしにしてはいけない。身分不相応なことをして名誉を損じてはいけない。権力があってすぐれた人に近よって、名誉を落としてはいけない。金銭や財物のために節操を汚されて、名誉を傷つけることがあってはいけない。


【所感】
名誉というものは自ら求めるべきものではないが、さりとて敢えて棄てるべきものでもない。名誉を棄てれば実を棄てることになる。だから人の道に外れた人に近づいて名を台無しにしてはいけない。人の分際をこえた非道なことをして名を損じてはいけない。権力や財力のある人に近づいて名を貶めてはいけない。貨財を不正にむさぼって名を汚してはいけない、と一斎先生は言います。


あまりにもタイムリーですが、現在世間をにぎわしている東京都知事の舛添要一さんには、まさにこの言葉をよく反芻して頂きたいものです。


まさしくこれまで積み上げてきた名誉をすべて台無しにしてしまったのではないでしょうか?


孔子もこうおっしゃっています。


【原文】
子曰わく、富(とみ)と貴(たっとき)とは、是れ人の欲する所なり。其の道を以て之を得ざれば、處(お)らざるなり。貧(まずしき)と賤(いやしき)とは、是れ人の惡む所なり。其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。君子は仁を去りて惡(いず)くにか名を成さん。君子は食を終るの間も、仁に違うこと無く、造次(ぞうじ)にも必ず是に於てし、顛沛(てんぱい)にも必ず是に於てす。(里仁第四)


【訳文】
先師が言われた。
「人は一般に裕福になり、高い地位に登りたいと願うものである。然し正しい人の道によって得なければ、それには満足しておらない。貧困にはなりたくなく、低い地位にはおりたくないというのが一般的である。然し正しい道によることがなければ、貧困から逃れようとしてあせらない。君子は、仁の道から離れてどこで有徳の立派な人物だと称えられようか。君子は、食事をする短い間にも仁の行に違うことなく、あわただしい場合でも必ず仁の道により、つまずいてひっくりかえるような時でも、仁の道から離れることはない。」(伊與田覺先生訳)


原始儒教すなわち孔子の本来の教えにおいては、地位や名誉を得ること自体を悪だとは考えません。


現に、孔子自身も仕官の道を志していたことからもそれがわかります。


しかし、不義であり、仁の道から離れてそれを得ることは認めていません。


なにか新しいことを始める際には、以前にも紹介しました稲盛和夫さんのように、


動機善なりや、私心なかりしか


と常に自分自身に問いかけ、Yes であれば堂々と始めればよいのでしょう。


特に若い人たちに地位や名誉を求めるな、というのも酷ですし、納得を得ることはできないでしょう。


それよりも、地位や名誉を求めても構わないが、人の道に外れたやり方でそれを求めるのはいけない。


世の中の役に立つことをするのであれば、大いに地位や名誉を求めて活動しなさい、と背中を押してあげることの方が必要なことなのかも知れません。

第465日

【原文】
「心躁なれば則ち動くこと妄、心蕩なれば則ち視ること浮(ふ)、心歉(けん)なれば則ち気餒(う)え、心忽なれば則ち貌(かたち)惰り、心傲なれば則ち色矜(ほこ)る」。昔人(せきじん)嘗て此の言有り。之を誦して覚えず惕然(てきぜん)たり。


【訳文】
「心が動揺していらいらすると、動作が乱雑になる。心にしまりがないと、見ることも浮ついて落ちつかない。心が満足しないと、気力が衰えてくる。心をおろそかにすると、顔形もしまりがない。心におごる所があると、顔色にも横柄な所が見られる」と王陽明が言ったが、自分はこれを読んで、恐れ慎まなければならないことだと心に痛感した。


【所感】
「心が騒げば動きも乱れる、心にしまりがないと見ることも落ちつきを失い、心が充実していないと気がおとろえ、心がおろそかであると表情もしまらず、心が傲慢であると顔色にも驕りがみえてしまう」昔の人はかつてこう言った。これを暗誦して思わず恐れ慎まざるを得ない、と一斎先生は言います。


行動にも視点にも表情にもすべて心がそのまま映し出されるのだ、と王陽明先生はおっしゃっているようです。


常に心を平静に保つことが何よりも大切だという教えでしょう。


有名な哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズ博士の言葉を思い出します。


心が変われば行動が変わる。
 
行動が変われば習慣が変わる。
 
習慣が変われば人格が変わる。

人格が変われば運命が変わる。


修養とは心を磨くことです。


王陽明先生とウィリアム・ジェームズ博士の言葉を合わせて理解すると以下のようになります。


修養によって心を変えることができれば、行動や言動、表情や態度が変わり、その結果運命までもが変わっていく。


卑近でくだらない事例で恐縮ですが、小生はプロ野球チーム、読売ジャイアンツの大ファンです。


かつてはジャイアンツの試合を見ていて、選手がチャンスに凡退したり、ミスをして相手に得点が入ったりするとイライラして物に当たったりしたものでした。


ところが少しは古典などを学んで心が躁になりにくくなったのか、最近はかなり冷静に試合を観戦できるようになりました。


凡愚な身ですので、この程度のことでも成長したなと感じる今日この頃です。


これからも古典を学び、実践を通して心を磨き、禍福終始にあって惑わない人間となるべく学びを続けていきます。
プロフィール

れみれみ