【原文】
吾人の工夫は、自ら覔(もと)め自ら覰(うかが)うに在り。義理混混として生ず。物有るに似たり。源頭来処を認めず。物無きに似たり。
【訳文】
われわれの精神修養の工夫は、自分自らが求めて体認することにある。かくして、正しい道理が、あたかも水が混々と流れ出るように出て、そこに何物かが存在するようである。しかしながら、その源がどこにあるのかがわからないので、何物も無いように思われる。
【所感】
私たちの学問の工夫は、自ら求め、考究することにある。世の中の正しい道理は水が湧きだすように次々と生じている。まるで何物かが存在しているようであるが、その始源の場所は見つけることができない。まるで何物も存在していないようである、と一斎先生は言います。
人は生まれながらに天から正しい性を与えられているといいます。
中江藤樹先生はそれこそが「良知」であり、学問の工夫は「致良知」すなわち「良知を致す」ことにあるとおっしゃっています。
ここで一斎先生が述べておられることも同様のことでしょう。
自分が踏み行う道は、外界に見い出すのではなく、自らの心に求め、探求していくことでしか極められないということです。
とはいえ、良知を致すためには、それなりの準備が必要です。
ただ闇雲に模索してもたどり着けるものではないでしょう。
その準備こそが古典を学ぶことなのだと小生は理解しています。
古典を学び、己の心に本来あるはずの正しい性(良知)を目覚めさせ、正しい道を淡々と実践していく。
それこそが人間が天から与えられた使命なのかも知れません。