一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年06月

第504日

【原文】
吾人の工夫は、自ら覔(もと)め自ら覰(うかが)うに在り。義理混混として生ず。物有るに似たり。源頭来処を認めず。物無きに似たり。


【訳文】
われわれの精神修養の工夫は、自分自らが求めて体認することにある。かくして、正しい道理が、あたかも水が混々と流れ出るように出て、そこに何物かが存在するようである。しかしながら、その源がどこにあるのかがわからないので、何物も無いように思われる。


【所感】
私たちの学問の工夫は、自ら求め、考究することにある。世の中の正しい道理は水が湧きだすように次々と生じている。まるで何物かが存在しているようであるが、その始源の場所は見つけることができない。まるで何物も存在していないようである、と一斎先生は言います。


人は生まれながらに天から正しい性を与えられているといいます。


中江藤樹先生はそれこそが「良知」であり、学問の工夫は「致良知」すなわち「良知を致す」ことにあるとおっしゃっています。


ここで一斎先生が述べておられることも同様のことでしょう。


自分が踏み行う道は、外界に見い出すのではなく、自らの心に求め、探求していくことでしか極められないということです。


とはいえ、良知を致すためには、それなりの準備が必要です。


ただ闇雲に模索してもたどり着けるものではないでしょう。


その準備こそが古典を学ぶことなのだと小生は理解しています。


古典を学び、己の心に本来あるはずの正しい性(良知)を目覚めさせ、正しい道を淡々と実践していく。


それこそが人間が天から与えられた使命なのかも知れません。

第503日

【原文】
曾晳は齢老ゆ。宜しく老友を求むべし。卻って冠童を求め、幽寂を賞せずして、卻って豔陽(えんよう)を賞す。既に浴し且つ風するも、亦老者の事に似ず。此等の処、須らく善く狂者の心体を討(たず)ね出すべし。


【訳文】
曾晳は既に老境(当時は四十歳頃)に入っていた。それで、老人の友達を求めるのがよいのに、若い者を連れ出し、老人の好む静寂さを愛せずに、かえってはなやかな晩春の景色を愛で、沂(き)の温泉に入浴し、舞雩(ぶう)の高台で涼風に吹かれるなど、老人のすることではない。曾晳がこのようなことをしたのは、志が大きくて、進取の気象のある狂者の心の持主というべきである。


【所感】
曾晳は老齢に達していた。それゆえ本来なら老友を求めるべきところを、友に若者を求め、ひっそりとした静けさを愛さずに、はなやかな晩春の時節を愛した。ゆあみして夕涼みをするのも、また老人のすることではない。こうしたことから、曾晳には狂者の心があることを探求せねばならない、と一斎先生は言います。


昨日の『論語』先進篇に対する一斎先生の解釈の続編です。


曾晳はあの曾子(曾参)の父親で、孔子の弟子だった人です。


曾子の父親ですから、それなりに立派な人だったのでしょう。


『論語』先進篇の言動からも、老いてなお若者を感化しようとする意図があったことが窺われます。


孟子の評価は狂者であったとしても、老いて尚若者を感化せんとする曾晳には頭がさがります。


小生の周囲にも、老いて益々輝き、若い人たちの素晴らしいお手本となっている方が幾人か居られます。


まさに、老いて衰えない方々です。


そうした方とご縁をいただいたことで、小生自身も老後を楽しみに思えるようになりました。


小生も、『論語』を楽しく語るおじいちゃんとして、若者に刺激を与える存在でありたいと願っています。

第502日

【原文】
狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有り。子路・冉有・公西華は、志進取に在り。曾晳は独り其の撰を異にす。而るに孟子以て狂と為すは何ぞや。三子の進取は事に在り。曾晳の進取は心に在り。


【訳文】
狂者は、志が大きくて粗放ではあるが進取の気象がある。狷者は、頑固で恥を知って不義なことはしないが、進取の気象に欠けているといわれている。ところが、孔子が門人の子路・冉有・公西華ならびに曾晳(そうせき)に各自その抱負をいわせたところ、前三者は進取的であったが、ひとり曾晳だけは「晩春の好時節に春服に着換えて、青年や童子を連れて郊外に散歩し、温泉に浴し涼風に吹かれ、歌でも詠じながら帰って来たい」といったのに対して、孔子は「わしも曾晳の仲間入りをしたい」と賛成した。しかるに、孟子が曾晳を前三者と同様に狂者といったのはどういうことであろうか。前三者の進取というのは事柄上でのことであって、曾晳の進取というのは心の上でのことである。


【所感】
『論語』に「狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有り」とある。孔子の弟子の子路・冉有・公西華は、その志が進取の気象に富んでいたが、同じく孔子の弟子の曾晳だけは少し違った意見を持っていた。それにもかかわらず孟子が曾晳を狂者としたのは何故であろうか。それは、前三者の進取の気象は事柄の上のことであり、曾晳の進取の気象は心の上のことにあったということであろう、と一斎先生は言います。


ここは『論語』がベースの話題となっています。


まず子路篇から掲載します。


【原文】
子曰わく、中行(ちゅうこう)を得てこれに與(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者(きょうしゃ)は進みて取り、狷者(けんしゃ)は為さざる所あるなり。


【訳文】
先師が言われた。
「中道を歩む人と交わることができなければ、必ず狂狷の人と交わりたい。狂者は、高い目標に向って、まっしぐらに進もうとする者であり、狷者は、節操が固く悪いことは断じて行わない者だからである」(伊與田覺先生訳)


続いて、比較的有名な先進篇にある師弟問答のシーンです。かなりの長文ですが全文を掲載します。


【原文】
子路、曽皙、冉有、公西華、侍坐す。
子曰わく、吾一日爾(なんじ)より長ぜるを以て、吾を以てすること無かれ。居れば則ち曰わく、吾を知らずと。如(も)し爾を知る或(あ)らば、則ち何を以てせんや。 子路率爾(そつじ)として對(こた)えて曰わく、千乘の國、大國の間に攝(はさ)まれて、之に加うるに、師旅を以てし、之に因るに飢饉を以てせんに、由や之を為(おさ)めて、三年に及ぶ比には、勇有りて且つ方(みち)を知らしむべきなり。夫子之を哂(わら)う。 求、爾は何如。對えて曰わく、方六七十、如(もし)くは五六十、求や之を為め、三年に及ぶ比には、民を足らしむべきなり。其の禮楽の如きは、以て君子を俟(ま)たん。 赤、爾は何如。對えて曰わく、之を能くすと曰(い)うには非らず。願わくば学ばん。宗廟の事、如くは會同に端章甫して願わくは、小相たらん。 點、爾は何如。瑟(しつ)を鼓(ひ)くこと希なり。鏗爾(こうじ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、對えて曰わく、三子者の撰に異なり。 子曰わく、何ぞ傷まんや、亦各々其の志を言うなり。曰わく、莫春(ぼしゅん)には春服を既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風じて、詠じて帰らん。 夫子喟然(きぜん)として歎じて曰わく、吾點に與(くみ)せん。三子者出ず。    曽皙後れたり。曽皙曰わく、夫の三子者の言は何如。 子曰わく、亦各々其の志を言えるのみ。曰わく、夫子、何ぞ由を哂うや。 曰わく、國を為むるには禮を以てす。其の言譲らず。是の故に之を哂う。唯(こ)れ求は則ち邦に非ずや。安(いずく)んぞ方六七十如しくは五六十にして邦に非ざる者を見ん。唯れ赤は則ち邦に非ずや、宗廟會同は諸侯に非ずして何ぞや。赤や之が小相たらば敦(たれ)か能く大相たらん。


【訳文】
子路、曽皙、冉有、公西華、が先師のお側でくつろいでいた。
先生が言われた。
「私がお前たちより少し年上だからとて、遠慮はいらない。お前たちは、平生よく自分を知って挙げ用いてくれないと嘆いているが、若し知って用いてくれたら、どういうふうにするかね」
すると子路はいきなり答えて言った。
「千乗の国が、大国の間に挟まれて、戦争をしかけられ、その上に飢饉が起こって困窮している時に私が治めたら、三年に及ぶころには、勇気があって更に人の道を知らせることができます」と、先師がにやっと笑われた。
次いで「求(冉有)お前はどうかね」と尋ねられた。
求はこれに答えて言った。
「六七十里、或は五六十里四方程度の国でしたら、私が治めて三年に及ぶころには、人民の生活を安定させることができます。礼楽というようなことになりますと高徳の人にまたなければなりません」
更に「赤(公西華)お前はどうかね」と先師が尋ねられた。
赤は「私は充分できるというのではありませんが、礼楽を学んで宗廟の祭りや、諸侯の会合の時、礼服や礼冠をつけて補佐役くらいの役目につきたいと思います」と答えた。
最後に「點(曽皙)お前はどうかね」と尋ねられた。
彼は大琴を時々思い出したようにひいていたが、かたっと大琴を床において立ち上がり「私は三人の意見とは違いますので」とためらって言った。
先師は「ただ皆がそれぞれの志を気楽に言ったまでだから何も気を遣うことはいらないよ」と言われた。
そこで彼は、「晩春のよい季節に新しく仕立てた春服を着て、青年五六人少年六七人と沂の川のほとりでゆあみをして、舞雩台の涼しい風にあたり、詩を歌いながら帰りたいものだと思うくらいであります」と答えた。 先師はああと深いため息をつかれて言われた。
「私は點の意見に賛同しよう」
三人が出て行き、曽皙が後に残った。
彼は先師に「あの三人の言ったことをどうお聞きになられましたか」と尋ねた。
先師は言われた。
「ただそれぞれが自分の志を遠慮なく言ったまでのことだ」
彼は「それではどうして由を笑われたのですか」と重ねて尋ねた。
先師が答えられた。
「国を治める上に於いては礼が大切であるが、由の言葉には、へりくだりやゆずるところが感じられなかったので笑ったのだよ。求の場合も国を治めることを言ったのではないか。どうして方六七十里もしくは五六十里で国でないものがあろうか」
「遠慮はしているがね。赤の場合も同じことではないか。宗廟や会同の儀式は国の大事な行事である。これもまた国の政治だよ。赤は大変謙遜して補佐役ぐらいのところを引き受けたいと言っていたが、彼が補佐役だったら、誰も彼の上に長官になれる者はないだろう」(伊與田覺先生訳)


小生が大好きな子路をはじめとする三人の弟子は、政治についての志をそれぞれの性格を前面に出して述べたのに対し、曽皙だけは心のやすらぎについて触れ、それが孔子の心を打ったというシーンです。


一見すれば、前三者は進取の気象があるが、曽皙 にそれがないかのように思われます。


しかしながら、孟子は『孟子』尽心下篇で、曽皙も狂者であるとしています。


一斎先生はその解釈として、前の三者は政治という事柄において新しい境地を開きたいとしたが、曽皙も自分の心境の面で新境地を開きたいとしているのであるから、どちらも進取の気象に富んでいるのだと説明されています。



ところで本来は、狂者とは行いはともわないがきわめて志が高い人であり、者は知識は足りないが節操に固い人を指します。


孔子も本当なら中庸の人が良いのだが、そういう人がいないならばという条件をつけた上で狷の人と交わりたい、と述べられています。


そんな見地から見れば、ここに挙げた四人の弟子たちはまだまだ孔子に比較すると巧言令色であるとも言えそうです。

第501日

【原文】
学を為すの緊要は、心の一字に在り。心を把りて以て心を治む。之を聖学と謂う。政を為すの著眼(ちゃくがん)は情の一字に在り。情に循い以て情を治む。之を王道と謂う。王道・聖学二に非ず。


【訳文】
学問をするのに最も大切なことは、心という一字にある。自分の心をしっかり持って、心を修養していくのを聖人の学(儒学)というのである。国を治めていくのに第一に眼を著けなければならない点は、情という一字にある。仁愛の情に従って治めていくのを王者の政道というのである。この王者の政道と聖人の学とは一つであって二つではない。


【所感】
学問をする上で最も大切なものは、心の一字にある。自分の心をしっかりと把握して、心を修養する。これを聖人の学(儒教)という。政治を行う上で最も着目しなければならないのは、情の一字である。人情の機微にしたがって人の情を治めていく。これを王道という。王道も聖人の学もその実はひとつであって二つのものではない、と一斎先生は言います。


孔子もこうおっしゃっています。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


本来、学問とは自分自身の修養のためにあります。


そしてその目的は己の心を磨くことです。


一方、政治を行う目的は天下の民を安らかにすることです。


それはすなわち人々の情を裕にすることではないでしょうか。


そうだとすれば、学問と政治との違いは、自らの心を治めるか、人の情を治めるかの違いであって、まったく別のことではないのだ、と一斎先生はおっしゃっているのでしょう。


ところで王道政治とは徳と礼で治める政治であり、これに対して覇道政治とは法と刑とで治める政治をいいます。


本来人の心情を治めることが政治の目的であるなら、王道政治が理想であることは疑いようがありません。


そしてそれはマネジメントにおいても同じでしょう。


リーダーはまず己の心を磨き、メンバーの情を裕に保つようなマネジメントを心がけねばなりませんね。

第500日

【原文】
濂・洛復古の学は、実に孔孟の宗と為す。之を承くる者、紫陽・金谿及び張・呂なり。異同有りと雖も、而も其の実は皆純全たる道学にして、決して俗儒の流に非ず。元に於いては則ち静修・魯参(斎?)、明には則ち崇仁・河東・余姚・増城、是れ其の選なり。亦各々異なる有りと雖も、皆一代の賢儒にして、其の濂・洛に遡洄(そかい)するは則ち一なり。上下千載、落落として唯だ此の数君子有るのみ。吾取りて之を尚友し、心に楽しむ。


【訳文】
濂渓の周茂叔(号濂渓)と洛陽の程明道・程伊川兄弟らによる復古の新儒学は、実に孔子や孟子を宗(もと)としている。これを承け継ぐ者は、南宋の朱晦庵(紫陽)や陸象山(金谿)および張南軒・呂祖謙などである。これらは異同があるけれども、純然たる道学(新儒学)であって、決して平凡な学者ではない。元代においては、劉静修と許魯斎、明代においては、呉康斎・薛敬軒・王陽明・湛甘泉などがその代表である。これらは各々異なる所があるけれども、皆その時代のすぐれた儒学者であって、宋学の祖、周濂渓や二程子にさかのぼれば、その源流は一つである。過去千年の間、かかる儒学者はまばらであって、ただ数君子がおるだけで実にさびしい。自分はいま挙げたこれらの古人(諸儒)を友とすることによって、心に楽しみを得ている。


【所感】
周敦頤(とんい)と程明道・程伊川兄弟らによる儒学の新しい解釈は、孔孟の宗旨を伝えたものといえる。それを受け継いだのは朱熹や陸九淵および張南軒・呂祖謙であった。これらの学問の間には相違点もあるが、みな純粋に儒学に新たな息吹を与えており、いわゆる俗儒ではない。元代においては、劉因と許衡、明代においては、呉康斎・薛敬軒・王陽明・湛甘泉などが優れている。彼らも相違点はあれども、周敦頤や程兄弟を淵源としている点では一致している。千年もの間、こうした学者はまばらで、わずかに数人の君子がいるのみである。私はこれらの古人を友として、心に楽しみを得ている、と一斎先生は言います。


儒学再興の立役者が列記されています。一斎先生から更に150年程を経た現代においては、手軽に学ぶことができるのは、朱熹と王陽明の二先生くらいでしょうか。


あくまでも個人的な自負ではありますが、今は小生も儒者の端くれだと思っております。そういう意味でも朱熹と王陽明の二氏の思想を学び、実践していく所存です。


一斎先生の思想を足がかりに、朱子学については山崎闇斎先生、陽明学については中江藤樹先生などを中心に学んでいくという予定でおります。


ところで、小生にはこれら先人を批評するだけの学もありませんので、尚友と呼ぶにはおこがましい所もありますが、孔子と森信三先生を秘かに心の師として私淑しております。


生き方や仕事の進め方で迷ったときに、その判断のヒントを求めるのは、いつも『論語』と『修身教授録』の2冊です。


こうして『言志四録』を読んできて、あまり雑多な読書をしている時間も暇もないことを痛感しております。今は古典を中心とした読書を自らに課して、日々精進しております。


さて、これにて『言志後録』は終了となります。


明日からは、『言志晩録 』に入っていきます。
プロフィール

れみれみ