一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年07月

第535日

【原文】
学人徒に訓註の朱子を是非して、道義の朱子を知らず。言語の陸子を是非して、心術の陸子を知らず。道義と心術とは、途(みち)に両岐無し。


【訳文】
一般の学者達は、経書の訓詁注釈的な面における朱子を批判するが、道義的な面における朱子を存知していない。末梢的な言語の面で陸子を批評するが、心理的な面における陸子を存知していない。道義的な面と心理的な面とは、本質的には一つなのである。


【所感】
世間の学者たちは、やみくもに朱子の訓詁註釈的な面の是非ばかりに終始して、道義・道徳面の朱子の論説を理解しない。また陸象山の言語の末節ばかりに注目し、心・精神面の論説を理解しない。道義・道徳と心・精神とは、一本の道なのだ、と一斎先生は言います。


世の学者先生たちは、ある先哲の特徴的な一面だけをクローズアップして、他の側面を見落としがちであると一斎先生は同業者の傾向を嘆いています。


また、自説を主張する余り、他人の説をよく吟味もせずに否定をしたりすることも大いなる問題点だと捉えているようです。


ところで、これは論説だけに留まることではありませんね。


どんな人にもその人なりの性格的な特徴はあるものの、必ず良い面と悪い面を持っています。


ところが人の上に立つリーダーが、メンバーの欠点ばかりに目をやり、良い点を見逃してしまうことがあります。


『論語』為政第二篇に以下のような言葉があります。


【原文】
子曰わく、君子は周して比せず。小人は比して周せず。


【訳文】
先師が言われた。
「君子は、誰とでも公平に親しみ、ある特定の人とかたよって交わらない。小人は、かたよって交わるが、誰とも親しく公平に交わらない」(伊與田覺先生訳)


本日、人間塾 in 東京の特別企画として開催された映画「日本一幸せな従業員をつくる」上映会および柴田秋雄さんの講演会に参加しました。


赤字だった弱小ホテルを、人に投資することで見事に立て直し、黒字化した伝説の経営者である柴田さんの言葉は『論語』そのものでした。


柴田さんはホテルで働く社員さん、契約社員さん、アルバイトさんをすべて従業員と呼び、一対一、個と個で接しました。そこにはまったくかたよりがありませんでした。


経営者(総支配人)が徹底的に従業員さんの幸せを考えて行動することで、結局、従業員さんたちはお客様を大切にするようになり、多くのファン、リピーターを獲得しました。


偏見を捨てること、美点を凝視すること。


この2点の大切さは、本章の一斎先生の言葉からも、『論語』からも、そして本日の柴田秋雄さんのご講演からも感じ取ることができました。


実は小生も個対個が重要であるとの思いから、勤務先の営業社員さん約100名の日報を毎日チェックし、その4割ほどのメンバーにコメントを入れています。


毎日3時間程度要します。


正直に言って、最近はしんどさを感じてしまい、チェックする日報対象者を直属のメンバーだけに限定しようかと考えていました。


しかし、柴田さんの講演を聞き、そしてこの一斎先生のお言葉を読んで、意を新たにし、引き続き全員の日報を見続け、極力コメントを入れていこうと心に誓いました。

第534日

【原文】
朱・陸の異同は、無限・太極の一条に在り。余謂(おも)えらく、「朱子の論ずる所、精到にして易(か)う可からずと為す。然るに、象山尚往復数回にして已まざれば、又交遊中の錚錚たる者あり」と。但だ疑う、両公の持論、平昔(へいせき)言う所と各々異なるを。朱子は無を説き、陸子は有を説き、地を易うるが如く然り。何ぞや。


【訳文】
朱子と陸子との見解の相違は、無極・太極の一条にある。自分が思うには、朱子の論説は精細にして、これをかえることはできない。しかるに、陸象山は往復の論弁数回にわたったのは、さすが朱子の親友中の優れた人物である。ただ自分が疑問に思うのは、両子の見解が平常と異なっていて、朱子が無を説いたり、陸子が有を説いたりして、その立場が変ったように思われる点である。これはどうしたことだろうか。


【所感】
朱子と陸子との論説の相違は、無極と太極の見解にあるといえる。私は「朱子の説は、精緻でかつ変更する必要のないものである。しかし、陸象山はなんども論説を戦わせて飽くことがなかったのは、朱子の交遊の中でも特出した人物であった証であろう」と思っている。ただ疑問に思うのは、朱子と陸子の論説は、普段主張しているところと異なっていることである。朱子は無を説いて、陸子が有を説くのは、その立場が逆転しているようである。これはどういうことだろうか、と一斎先生は言います。


ここまで深く二先生の論説に切り込むには、小生の知識はまったく不足しております。


現在、朱子学については複数本を取り寄せて勉強を始めておりますが、陸象山先生の論説についてはまったく手つかずです。


本章については、小生の力及ばずとして、スルーさせて頂き、陸象山先生についても学びを深めた暁には、もう一度この章を味わってみたいと思います。


ただ、一点だけこの章を読んで思うのは、どんな人でも主義主張が終生一貫している人はいないだろうということです。


またフレキシブルな思考をする人からすれば、一極に拘ることこそ野暮だということかも知れません。


壮にして学べば、老いて衰えず。


と一斎先生もおっしゃっています。


バランスの良い読書をしてフレキシブルな思考回路を保ちたいですね。

第533日

【原文】
周子・程伯子は道学の祖たり。然るに門人或いは誤りて広視豁歩(かっぽ)の風を成せしかば、南軒嘗て之を病む。朱子因て矯むるに、逐次漸進の説を以てす。然り而して後人又誤りて支離破砕を成すは、恐らく朱子の本意と乖牾(かいご)せん。省す可し。


【訳文】
周濂渓と程明道とは、道学(宋代の道徳学)の元祖である。しかるに、門弟の中にはその真意を誤解して、自由奔放な風を醸し出したので、朱子の親友、張南軒がこれを心配した。朱子はこの放胆な風を矯正するために、徐々に説き諭した。これをも後世の人々は理解せずに、かえってめちゃくちゃにしてしまったことは、恐らく朱子の本意にもとるものであろう。この点よく反省すべきである。


【所感】
周濂渓と程明道とは、道学(宋代の儒学)の始祖である。しかし、弟子の中にはその真意を誤解して、悟ったつもりで実地の学問をおそろかにする雰囲気を醸し出したので、張栻(南軒)がこれを心配した。朱子はこれを矯正するために、少しずつ前に進む説を立てた。しかしこれをも後世の人々は理解せずに、字句に拘泥してしまったのは、恐らく朱子の本意からは大きく背き逆らったものであろう。よく反省すべきである、と一斎先生は言います。


この章を読んで、一番に感じるのは、創業者の想いは代を経ていくうちに、いつしか薄れていくという怖さを秘めている、ということでしょうか。


創業の理念は、つねに創業の物語と共に語り継ぐことが必要なのだと思います。


小生が勤務する会社も創業80年を超えております。


実質の創業者である二代目社長の社に懸けた想いを大切にしつつ、変革すべきところは大胆に変革することが必要です。


不易と流行


つねにそのバランスを意識して社の運営に携わっていく必要性を感じます。


ところで、小生が主査している潤身読書会も足掛け3年目を迎えています。


もしかすると小生自身の心にも変化が兆し、立ち上げ当初の想いが薄れてきているのかも知れなません。


古典を若者につなぐ橋渡しをしたい。


それが読書会を立ち上げた最大の狙いであったことをもう一度思い返し、古典を現実の生活の中で活学するきっかけ作りを続けていきます。

第532日

【原文】
明道の定性書は、精微にして平実なり。伊川の好学論は平実にして精微なり。伊・洛の源は此(ここ)に在りて、二に非ざるなり。学者真に能く之を知らば、則ち異同紛紜(ふんうん)の論息(や)む可し。


【訳文】
兄の程明道の「定性書」は、極めてくわしく細やかであって、しかも平明着実である。弟の程伊川の「好学論」は平明着実であって、しかも精細である。二程子の学の根源はここに存していて、二つあるのではない。学問に志す者は、よくこのことを了解すれば、二程子の学説についての、ごたごたとしたその異同の論争は止めるべきである。


【所感】
程明道の「答横渠先生定性書」は、非常に細やかで平明である。程伊川の「顔子所好何学論」は、平明であって、細やかである。程兄弟の学問の源流はこのようであって、別々のものではない。学問をする者は、このことを知って、見解の相違に基づく様々な論争をやめるべきである、と一斎先生は言います。


ここで言われていることは、学問をする目的をどこに置くかが大切だということでしょう。


孔子もこうおっしゃっています。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


学問の目的が本来の目的である自己修養のためであるなら、学説の細かな際に一つひとつ拘る必要などないはずです。


まして哲学書のような類は、そこからどんな前向きな課題を見つけ出すかがポイントなのではないでしょうか?


小生が最近勉強している石田梅岩先生は、以下のような姿勢で学問を行い、商業の発展に寄与されました。


梅岩にとって、儒学も神道も、同じく誠の道を実践する「手助け」となるものだった。どちらが正しいのか、という議論になるぐらいならば、共に捨てればいい。これが、彼のスタンスである。彼は常に、宗教や思想の先にある、性を知るという目標を見据えていた。(『石田梅岩 峻厳なる商人道徳家の孤影』森田健司著、かもがわ出版)


人間は一生涯勉強すべきだと言われますが、その目的は日常生活において「誠の道」を実践するためでなければいけないのですね。

第531日

【原文】
徳性を尊ぶ、是を以て問学に道(よ)る。問学に道るは、即ち是れ徳性を尊ぶなり。先ず其の大なる者を立つれば、即ち其の知や真なり。能く其の知を迪(ふ)めば、則ち其の功や実なり。畢竟一条路の徃来のみ。


【訳文】
人々は本来具足している徳性(本性)を尊重すべきである。この徳性の尊い所以を発揮するには学問による。学問によるということは、すなわち本具の徳性を尊重するということである。まず大切なことは真知を得ることである。真知を究明すれば実効を挙げることになる。真実無妄の理体(実体)たる誠を体得するには尊徳性と道問学の二つの方法があるが、結局、誠に至る向上の一路を往ったり来たりしているに過ぎない。


【所感】
人が本来備えている徳性を尊ぶ、そのためには学問を修めねばならない。学問を修めることは、すなわち徳性を尊ぶことである。まず最も大事な点をあげれば、真の知を得ることである。知を窮めれば、その効果は実り多きものになる。徳性を尊ぶ、あるいは学問を修めるという二つの方法は、結局はひとつの道を往復するようなものである、と一斎先生は言います。


徳性を磨こうと思えば、必然的に学問を行うことになるし、正しい学問を修めるならば、自然と徳性は磨かれるということでしょう。


つまり、徳性が磨かれないような学問は真の学問ではないということです。


真の学問とは、真実の知を掴むことであり、真実の知を実践すれば、効果は絶大である、すなわち徳性の高い人、さらに言い換えれば、生まれながらに人間が有している徳性を発揮できる人になる、ということでしょう。


かなり以前に紹介しましたが、伊與田覺先生は、


人間学とは徳性・習慣を磨くこと

時務学とは知識・技術を修得すること


と定義づけされています。


本章でいう真の学問とは、もちろん人間学を指します。


社会人となって、まず学ぶべきは製品の知識や営業スキルなど学ぶ時務学でしょうが、成長するにつれて人間学を学ばなければ、最終的に立派な社会人にはなれません。


小生はようやく四十代後半にそのことに気づき、慌てて人間学を学んでいるという、やや手遅れな人間です。


せめて若い社員さんには、早いうちに人間学の大切さを知って欲しいとの思いで、社内研修においては、小生の学びをお伝えしております。


若い人こそ、人間学を学んでいただきたい。


しかし、小生のような手遅れ世代であっても、自分のためというより後世・後進のために、人間学を学び伝えていく責任があるはずだと信じて、日々学び、若者と共に成長していきます。

第530日

【原文】
惺窩・羅山は其の子弟に課するに、経業は大略朱子に依る。而して其の取舎する所は、則ち特(た)だ宋儒のみならず、而も元明諸家に及べり。鵞峰も亦諸経に於いて私考有り。乃(すなわ)ち知る、其の一家に拘(かかわ)らざる者顕然たるを。


【訳文】
惺窩や林羅山がその子弟に授ける経書研究の仕事は、大体朱子に依っていたが、ただ宋代の儒学だけではなく、元代や明代の諸家の説にも及んでいたのである。羅山の第三子林鵞峰(がほう)もまた諸経書について『私考』や『別考』の著作がある。これによっても、これらはただ一家の学に拘泥していなかったことは明らかであることがわかるであろう。


【所感】
藤原惺窩や林羅山がその子弟に課した経書解釈は、概ね朱子に依っていた。ただそこに取捨選択を加える場合には、宋代の儒学だけではなく、元代や明代の諸家の説にも及んでいた。羅山の子の林鵞峰(がほう)もまた諸経書について『周易本義私考』や『大学或問私考』などの著作がある。これによっても、これらの先人達はただ一派の学に拘泥していなかったことが明確に理解できよう、と一斎先生は言います。


昨日も記述しましたが、『論語』などの古典を解釈する場合には、まずは誰か一人の先達を決めて学ぶことが重要である一方で、それで終えずに他の学者先生の解釈にも触れるべきだと思います。


潤身読書会では『論語』に関して25冊以上の本を読み比べています。


小生の場合は最初に岩波文庫の『論語』で金谷治先生の解釈で一読しました。


しかし文庫というサイズによる字数制限もあるのでしょうか、いくつのか章句の意味を理解することは不可能でした。


現在は以下の書籍を参考書籍として、多角的に『論語』を読んでおります。


『仮名論語』(伊與田覺先生)、『論語解義』(簡野道明先生)、『新訳論語』(穂積重遠先生)、『経書大講』(小林一郎先生)、『論語』(吉川幸次郎先生、中国古典選)、『論語』(金谷治先生、岩波文庫)、『論語』(加地伸行先生、講談社学術文庫)、『論語の活学』(安岡正篤先生)、『論語の人間学』(守屋洋先生、プレジデント社)、『現代語訳 論語』(宮崎市定先生、岩波現代文庫)、『論語新訳』(宇野哲人先生、講談社学術文庫)、『新釈漢文大系 論語』(吉田賢抗先生)、『論語講義』(渋沢栄一先生)、『論語の講義』(諸橋轍次先生)、『全釈漢文大系 論語』(平岡武夫先生)、『論語人物考』(諸橋轍次先生:以下人物考)、『論語解釈の疑問と解明』(合山究先生)、『論語のはなし』(伊與田覺先生)、『論語に学ぶ』(安岡正篤先生②)、『論語』(貝塚茂樹先生、中公文庫)、『男の論語』(童門冬二先生)、『思想史家が読む論語』(子安宣邦著、岩波書店)、『現代訳 論語』(下村湖人訳、PHP)、『論語』(木村英一、講談社文庫)、『論語』(桑原武夫、ちくま文庫)など。


幸いこの読書会のスタイルは、参加していただく皆さんから好評を博しております。


古典の学び方に正解はありませんが、これはひとつの古典理解の手法だと確信しております。


一家に拘わらざる、という意識は学問に限らず、仕事を行う上においても大変重要な視点ではないでしょうか。

第529日

【原文】
博士の家は古来漢唐の注疏(ちゅうそ)を遵用(じゅんよう)す。惺窩先生に至りて、始めて宋賢復古の学を講ず。神祖嘗て深く之を悦び、其の門人林羅山を挙ぐ。羅山は師伝を承継して、宋賢諸家を折中し、其の説は漢唐と殊に異なり。故に称して宋学と曰うのみ。闇斎の徒に至りては、則ち拘泥すること甚だしきに過ぎ、惺窩・羅山と稍同じからず。


【訳文】
博士といわれる家では、昔から漢唐の古註に従ってこれを用いてきた。惺窩先生になってはじめて、宋代の儒学者達が唱えた孔孟の教えに復えろうとする復古の学問を講じた。家康公はこれを心から喜ばれ、先生の門人林羅山を挙用された。羅山は師の伝えた所のものをうけ継いで、宋代の儒学者達の説を折衷し、その説く所は漢唐の説とは異なっていた。それでこれを宋学(性理学・程朱学)と称したのだ。山崎闇斎やその学徒に至っては、それにこだわり過ぎて、惺窩や羅山の説とやや異なっている。


【所感】
博士と呼ばれる学者の家系では、代々漢や唐の時代の古註を遵奉して用いてきた。藤原惺窩先生になって、はじめて宋の時代の儒者による復古の学問を講じるようになった。徳川家康公はこれを大変お喜びになって、その門下生である林羅山を登用した。羅山は師の伝えを継承し、宋儒諸家の説を折衷し、その説は漢や唐の学者の説とは異なっていた。これを称して宋学というようになった。山崎闇斎らに至っては、そこに拘り過ぎて、かえって惺窩先生・羅山先生とは異なった説となっている、と一斎先生は言います。


引き続き宋学の日本導入の歴史が語られています。


小生は『論語』のことしか詳しくわかりませんが、『論語』においても古註と新註があります。


古註とは、何晏(かあん)らによってまとめられた『論語集解(ろんごしっかい)』のことであり、新註とは、朱熹の書いた『論語集注(ろんごしっちゅう)』のことです。


この古註と新註には、かなりの章において解釈の違いがあります。


小生の個人的な見解に過ぎませんが、古註に比べて新註の方が、やや孔子を完璧な人物と捉え、古註にあった孔子の人間臭さが減じられているという印象を持ちます。


ただし、家康公が宋学を採用したことによって、ある意味新註にあるような厳しさが江戸泰平の世の中を精神的に支えることになったのも事実でしょう。


小生としては、新註だけでなく、古註も併せて読むことで、学べることも多いように感じます。


先日読んだ書籍『入門 朱子学と陽明学』(小倉紀蔵著、ちくま新書)に、こんな記載がありました。


儒学のおもしろさというのは原典に対する注を読み比べることにあるのであり、その注の解釈にこそ、儒家的哲学思考が凝縮されているのである。


これは小生が毎月主査している潤身読書会における『論語』の読み方そのものですので、大変に勇気をもらいました。


古典の解釈に正解はありません。


学者先生の注を参考にしながら、自分なりの(前向きな)理解をして実践する。


これで良いのではないでしょうか。

第528日

【原文】
惺窩藤公は林羅山に答えし書に曰く、「陸文安は天資高明にして措辞渾浩(そじこんこう)なり。自然の妙も亦掩(おお)う可からず」と。又曰く、「紫陽は篤実にして邃密(すいみつ)なり。金渓は高明にして簡易なり。人其の異なるを見て、其の同じきを見ず。一旦貫通すれば、同じか異なるか。必ず自ら知り、然る後已まん」と。余謂う「我が邦首(はじめ)に濂・洛の学を唱うる者を藤公と為す。而して早く已に朱・陸を并(あわ)せ取ること此の如し」と。羅山も亦其の門より出ず。余の曽祖周軒は学を後藤松軒に受け、而して松軒の学も亦藤公より出ず。余の藤公を欽慕する、淵源の自(よ)る所、則ち有るか爾(しか)り。


【訳文】
藤原惺窩先生が高弟の林羅山に答えた書に、「陸象山は天性が見識高く智慧明敏にして、字句の使い方が博大で、自然の妙趣もかくし難いものが備わっておる」と述べたが、また「朱子は誠実にして、奥深く精密である。陸子は識見高く鋭敏にして直截簡明である。人々は両者の文章の異なる所を見て、その同じ所を見ない。一度その根本の所に至れば、同異がわかる。わかればそれだけのことである」と言った。自分は「わが国で初めに周子と程明道の学を唱えたのは藤原惺窩先生である。早くすでに朱・陸の学を兼ね取り入れたことについては返書の通りである」と思っている。林羅山も惺窩先生の門弟である。自分の曾祖、周軒は後藤松軒に学んだが、その松軒の学も惺窩先生から出ている。自分が惺窩先生を敬慕する所以は実にここに存するのである。


【所感】
藤原惺窩公が弟子の林羅山に答えた書には、「陸象山は天性が見識高く明敏であって、文章が流麗で雄大である。自然の妙趣もかくし難いものがある」と述べている。また、「朱子は篤実であり、奥深く精密である。陸象山は見識が高く明敏であって、簡明平易である。人々はその相違点ばかりに着目して、共通点を見ない。一度その思想の根本をたどれば、異なるか同じかは自ずとわかるもので、論ずるまでもないことである」とも述べている。私はこう言いたい、「わが国で最初に周濂渓と二程子の学を唱えたのは藤原惺窩先生である。先生は早くもその当時、朱子と陸象山の学を兼ね備えておるということは、この書をみれば明らかである」と。林羅山も惺窩先生の弟子である。自分の曾祖、周軒は後藤松軒に学んだが、その松軒の学も惺窩先生から出ている。自分が惺窩先生を深く敬慕する理由はまさにここにある、と一斎先生は言います。


ここは我が国における儒学の大本は、藤原惺窩先生がその根源であることを称えた章のようです。


これまでにも述べてきたように、朱子学と陽明学には根本における相違はなく、互いの良い点をとるべきとするのが、一斎先生のお考えであり、それは結局藤原惺窩先生の教えでもあるとうことが分かります。


そもそも佐藤一斎先生は、ここに記載されている林羅山先生の林家に養子として入った林述斎先生に近侍し、共に昌平黌(昌平坂学問所)に入門し、儒官(総長)となった林述斎先生と共に塾長として門弟の指導に当たってこられた人です。


その後、林述斎先生が他界したのを機に、儒官に就任し生涯を終えています。


ともすると今現在も朱子学と陽明学はその相違点ばかりがクローズアップされる傾向があるように思われます。


朱子学も陽明学も元は周濂渓・程明道・伊川兄弟の学に端を発し、中興された儒学であって、共通点の方がはるかに多いはずです。


物事の本質を見極める目を磨かないと、学者先生の主張に載せられて、不必要な弁明をすることになってしまいます。


小生は学者先生を目指すわけではありませんので、この二つの学派の共通点をよく理解して、実践に役立てていきます。

第527日

【原文】
朱・陸同じく伊洛(いらく)を宗とす。而も見解稍異なる。二子並びに賢儒と称せらる。蜀・朔の洛と各黨せるが如きに非ず。朱子嘗て曰く、「南宋以来、著実の工夫を理会する者は、惟(た)だ某と子静と二人のみ」と。陸子も亦謂う、「建安に朱元晦無く、青田に陸子静無し」と。蓋し、其の互いに相許すこと此の如し。当時門人も亦両家相通ずる者有りて、各々師説を持して相争うことを為さず。明儒に至り、白紗・篁墩(こうとん)・余姚・増城の如き、並びに両家を兼ね取る。我が邦の惺窩藤公も、蓋し亦此の如し。


【訳文】
南宋の朱子と陸象山とは、共に北宋の二程子の学を宗旨としているが、その見解は稍相異している。朱・陸二子は共にすぐれた儒学者といわれ、その両者の論争は、かの蘇東坡の蜀党や朔党が明道の洛党と論争したようなものではない。朱子はかつて「宋(高宋)が都を江南に遷して以来(1138)、熱心に学問修養に精を出しておるのは、ただ自分と陸象山だけである」といった。陸子もまた「建安(朱子の生地)には、もう朱子のような人はおらないし、青田(陸子の生地)にも陸象山はおらない」といった。思うに、両者がお互い許し合ったことはこのようであった。なお、当時の門人達も互いに両家に出入りして、各々師説を固辞して論争し合うようなことはしなかった。明代の学者になってからも、白沙(はくさ)の陳献章(号白沙)、篁墩(こうとん)の程敏政(ていびんせい)、余姚の王陽明、増城の湛甘泉などの儒学者は、共に朱・陸両家の説を兼ね合わせている。わが国の大儒、藤原惺窩先生も同じであろう。


【所感】
南宋の朱熹と陸象山とは、同じく北宋の二程子(程明道・程伊川の兄弟)の学説を本としているが、やや見解は異なっている。朱熹・陸象山の二先生は共にすぐれた儒者だとされている。その両者は、蘇軾を領袖とする蜀党や劉摯らの朔党が程明道の洛党と論争したような関係にはない。朱子はかつて「宋が都を江南に遷して以来(これ以前を北宋、以降を南宋とする)、教学の理解に懸命に力を注いでいるのは、ただ自分と陸象山だけである」といった。陸象山もまた「建安(朱子の生地)には、もう朱子のような人はおらないし、青田(陸子の生地)に陸象山はいない」といった。両者がお互いを認め合っていたことがここからわかるだろう。当時の門人達も互いに両家に出入りして、互いに師説を固辞して論争し合うようなことはなかった。明代の儒者の頃も、陳献章(号白沙)、程敏政、王陽明、湛若水などは、共に朱・陸両家の説から自説を得ている。わが国における藤原惺窩先生も同じであろう、と一斎先生は言います。


この章句からは、なぜ孔子・孟子を始祖とする同じ学問であるはずの儒学に派閥が生じ、互いに争う必要があるのか、との一斎先生の嘆きを感じ取ることができます。


我が国の歴史を振り返ってみても、江戸の泰平が続いたことの大きな理由のひとつに、朱子学を中心とした学問によって国を治め得たことが挙げられるでしょう。


中国大陸とは違い、我が国においては寺子屋などの存在によって、儒教思想が一部官僚だけのものとならず、孝を中心とする修身の教えとして、いわゆる平民層にまで普及していました。


江戸末期、諸列強による侵攻が始まると、今度は陽明学を中心とした実践主義によって見事に明治維新を成し遂げ、有色の国では唯一ともいえる独立を保ち得ました。


このように我が国においては、つねに儒教思想が大きな役割を果たしてきたと見ることができます。(もちろん神道の影響も重要であることは承知していますが。。。)


では、朱子学と陽明学とは相対立する思想なのでしょうか? 


これは断じて否でしょう。


たとえてみれば富士山を北から観るか南から観るかといった違いであり、どちらの富士山も富士山であることには変わりがない様に、朱・陸の説には、孔孟の教えの解釈における微妙な相違があるに過ぎません。


我が国はもともと萬の神を崇拝する多神教の国です。
もともと一神教のように他の神(説)は排斥するという考え方が希薄だとみることができます。


こうした思想のバックボーンがあるからこそ、一斎先生は、両思想の良き教えをバランスよく採用した講義を行ない、多くの優秀な門下生を輩出したのでしょう。


突然話が卑近な例となって恐縮ですが、かつての小生は、全国のマネージャーが集まる会議で自説を主張する際、他のマネージャーの説を徹底的に叩き潰すことを考えていました。


自説が採用されれば会社は発展するという確信があったからこそ、そうした言動をとったのですが、他のマネージャーの主張も同じく会社を成長させようとする熱い想いが込められていることに気づいていませんでした。


自説を固辞するのではなく、他者の説にも真摯に耳を傾ければ、学ぶことは大いにあるのだということに50歳手前でようやく気づくことができました。

第526日

【原文】
孔・孟は是れ百世不遷の祖なり。周・程は是れ中興の祖、朱・陸は是れ継述の祖、薛(せつ)・王は是れ兄長の相友愛する者なり。


【訳文】
孔子と孟子は百世にわたっても変ることのない聖学(儒学)の始祖である。降って北宋の周濂渓と二程子(明道・伊川の兄弟)は聖学の中興の祖であり、南宋の朱晦庵(しゅかいあん)と陸象山はその後を受けついで聖学の祖述に尽くした継承者であり、明代の薛敬軒(せつけいけん)と王陽明は、親しい兄弟のような者といえる。


【所感】
孔子と孟子は永遠不滅の儒教の始祖といえる。周濂渓と程明道・伊川の兄弟は儒教中興の祖であり、朱熹と陸象山は中興された儒学を集大成した人であり、薛敬軒と王陽明は実の兄弟のように親愛の仲である、と一斎先生は言います。


中国における儒学の歴史といえる記述です。


孔子が儒教の始祖であることは疑いようがありませんが、一斎先生が孟子も含めて始祖としている点は興味深いところです。


その後、儒教の学者の間では、字句の解釈にああでもない、こうでもないと必要以上に拘ることに終始するようになります。


そこで儒教の教学をもう一度整理しようと立ち上がったのが、北宋時代の周濂渓と程兄弟です。


朱熹と陸象山は互いに切磋琢磨しながら、北宋の儒学を集大成していきます。朱熹は孔子や孟子の言葉の真意を見つめなおし、陸象山は実践に重きを置きます。


そして明代になって、王陽明が陸象山の学問を集大成して陽明学を完成させます。(薛敬軒については小生はまったく知識がありません)


考えてみれば、長命な国家も百年企業も同じような過程をたどっているのではないでしょうか?


つまり創業者が熱い志をもって立ち上げた国(企業)は、時代の変化に適応できずに危機を向かえますが、中興の祖と呼ばれる人が出て国(企業)を建て直し、再興された理念のもとに再び繁栄します。


ただし時に有能なトップが時を同じくして複数頭角を現すと、両雄並び立たずとなって、分裂するということもよく耳にします。


儒教もこのような流れを経て、今があります。


戦後、わが国において儒教は教育の表舞台からは姿を消しましたが、今なお武士道と共に日本人のDNAに深く刻まれているはずです。


小生は自業自得から大きな失敗をし、そこで『論語』にめぐり合いました。


今は『論語』をベースにした儒教の教えを、現状に適応させて取り入れ、マネジメントに活かしていこうと模索しています。


9月17日(土)には、小生が所属する永業塾のイベント(第2回ワンデー永業塾大名古屋大会)にて、『「論語」とリーダーシップ』と題して、学びと実践の一端をお披露目させていただきます。


お時間のある方はぜひお越しください。
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