一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年07月

第535日

【原文】
学人徒に訓註の朱子を是非して、道義の朱子を知らず。言語の陸子を是非して、心術の陸子を知らず。道義と心術とは、途(みち)に両岐無し。


【訳文】
一般の学者達は、経書の訓詁注釈的な面における朱子を批判するが、道義的な面における朱子を存知していない。末梢的な言語の面で陸子を批評するが、心理的な面における陸子を存知していない。道義的な面と心理的な面とは、本質的には一つなのである。


【所感】
世間の学者たちは、やみくもに朱子の訓詁註釈的な面の是非ばかりに終始して、道義・道徳面の朱子の論説を理解しない。また陸象山の言語の末節ばかりに注目し、心・精神面の論説を理解しない。道義・道徳と心・精神とは、一本の道なのだ、と一斎先生は言います。


世の学者先生たちは、ある先哲の特徴的な一面だけをクローズアップして、他の側面を見落としがちであると一斎先生は同業者の傾向を嘆いています。


また、自説を主張する余り、他人の説をよく吟味もせずに否定をしたりすることも大いなる問題点だと捉えているようです。


ところで、これは論説だけに留まることではありませんね。


どんな人にもその人なりの性格的な特徴はあるものの、必ず良い面と悪い面を持っています。


ところが人の上に立つリーダーが、メンバーの欠点ばかりに目をやり、良い点を見逃してしまうことがあります。


『論語』為政第二篇に以下のような言葉があります。


【原文】
子曰わく、君子は周して比せず。小人は比して周せず。


【訳文】
先師が言われた。
「君子は、誰とでも公平に親しみ、ある特定の人とかたよって交わらない。小人は、かたよって交わるが、誰とも親しく公平に交わらない」(伊與田覺先生訳)


本日、人間塾 in 東京の特別企画として開催された映画「日本一幸せな従業員をつくる」上映会および柴田秋雄さんの講演会に参加しました。


赤字だった弱小ホテルを、人に投資することで見事に立て直し、黒字化した伝説の経営者である柴田さんの言葉は『論語』そのものでした。


柴田さんはホテルで働く社員さん、契約社員さん、アルバイトさんをすべて従業員と呼び、一対一、個と個で接しました。そこにはまったくかたよりがありませんでした。


経営者(総支配人)が徹底的に従業員さんの幸せを考えて行動することで、結局、従業員さんたちはお客様を大切にするようになり、多くのファン、リピーターを獲得しました。


偏見を捨てること、美点を凝視すること。


この2点の大切さは、本章の一斎先生の言葉からも、『論語』からも、そして本日の柴田秋雄さんのご講演からも感じ取ることができました。


実は小生も個対個が重要であるとの思いから、勤務先の営業社員さん約100名の日報を毎日チェックし、その4割ほどのメンバーにコメントを入れています。


毎日3時間程度要します。


正直に言って、最近はしんどさを感じてしまい、チェックする日報対象者を直属のメンバーだけに限定しようかと考えていました。


しかし、柴田さんの講演を聞き、そしてこの一斎先生のお言葉を読んで、意を新たにし、引き続き全員の日報を見続け、極力コメントを入れていこうと心に誓いました。

第534日

【原文】
朱・陸の異同は、無限・太極の一条に在り。余謂(おも)えらく、「朱子の論ずる所、精到にして易(か)う可からずと為す。然るに、象山尚往復数回にして已まざれば、又交遊中の錚錚たる者あり」と。但だ疑う、両公の持論、平昔(へいせき)言う所と各々異なるを。朱子は無を説き、陸子は有を説き、地を易うるが如く然り。何ぞや。


【訳文】
朱子と陸子との見解の相違は、無極・太極の一条にある。自分が思うには、朱子の論説は精細にして、これをかえることはできない。しかるに、陸象山は往復の論弁数回にわたったのは、さすが朱子の親友中の優れた人物である。ただ自分が疑問に思うのは、両子の見解が平常と異なっていて、朱子が無を説いたり、陸子が有を説いたりして、その立場が変ったように思われる点である。これはどうしたことだろうか。


【所感】
朱子と陸子との論説の相違は、無極と太極の見解にあるといえる。私は「朱子の説は、精緻でかつ変更する必要のないものである。しかし、陸象山はなんども論説を戦わせて飽くことがなかったのは、朱子の交遊の中でも特出した人物であった証であろう」と思っている。ただ疑問に思うのは、朱子と陸子の論説は、普段主張しているところと異なっていることである。朱子は無を説いて、陸子が有を説くのは、その立場が逆転しているようである。これはどういうことだろうか、と一斎先生は言います。


ここまで深く二先生の論説に切り込むには、小生の知識はまったく不足しております。


現在、朱子学については複数本を取り寄せて勉強を始めておりますが、陸象山先生の論説についてはまったく手つかずです。


本章については、小生の力及ばずとして、スルーさせて頂き、陸象山先生についても学びを深めた暁には、もう一度この章を味わってみたいと思います。


ただ、一点だけこの章を読んで思うのは、どんな人でも主義主張が終生一貫している人はいないだろうということです。


またフレキシブルな思考をする人からすれば、一極に拘ることこそ野暮だということかも知れません。


壮にして学べば、老いて衰えず。


と一斎先生もおっしゃっています。


バランスの良い読書をしてフレキシブルな思考回路を保ちたいですね。

第533日

【原文】
周子・程伯子は道学の祖たり。然るに門人或いは誤りて広視豁歩(かっぽ)の風を成せしかば、南軒嘗て之を病む。朱子因て矯むるに、逐次漸進の説を以てす。然り而して後人又誤りて支離破砕を成すは、恐らく朱子の本意と乖牾(かいご)せん。省す可し。


【訳文】
周濂渓と程明道とは、道学(宋代の道徳学)の元祖である。しかるに、門弟の中にはその真意を誤解して、自由奔放な風を醸し出したので、朱子の親友、張南軒がこれを心配した。朱子はこの放胆な風を矯正するために、徐々に説き諭した。これをも後世の人々は理解せずに、かえってめちゃくちゃにしてしまったことは、恐らく朱子の本意にもとるものであろう。この点よく反省すべきである。


【所感】
周濂渓と程明道とは、道学(宋代の儒学)の始祖である。しかし、弟子の中にはその真意を誤解して、悟ったつもりで実地の学問をおそろかにする雰囲気を醸し出したので、張栻(南軒)がこれを心配した。朱子はこれを矯正するために、少しずつ前に進む説を立てた。しかしこれをも後世の人々は理解せずに、字句に拘泥してしまったのは、恐らく朱子の本意からは大きく背き逆らったものであろう。よく反省すべきである、と一斎先生は言います。


この章を読んで、一番に感じるのは、創業者の想いは代を経ていくうちに、いつしか薄れていくという怖さを秘めている、ということでしょうか。


創業の理念は、つねに創業の物語と共に語り継ぐことが必要なのだと思います。


小生が勤務する会社も創業80年を超えております。


実質の創業者である二代目社長の社に懸けた想いを大切にしつつ、変革すべきところは大胆に変革することが必要です。


不易と流行


つねにそのバランスを意識して社の運営に携わっていく必要性を感じます。


ところで、小生が主査している潤身読書会も足掛け3年目を迎えています。


もしかすると小生自身の心にも変化が兆し、立ち上げ当初の想いが薄れてきているのかも知れなません。


古典を若者につなぐ橋渡しをしたい。


それが読書会を立ち上げた最大の狙いであったことをもう一度思い返し、古典を現実の生活の中で活学するきっかけ作りを続けていきます。

第532日

【原文】
明道の定性書は、精微にして平実なり。伊川の好学論は平実にして精微なり。伊・洛の源は此(ここ)に在りて、二に非ざるなり。学者真に能く之を知らば、則ち異同紛紜(ふんうん)の論息(や)む可し。


【訳文】
兄の程明道の「定性書」は、極めてくわしく細やかであって、しかも平明着実である。弟の程伊川の「好学論」は平明着実であって、しかも精細である。二程子の学の根源はここに存していて、二つあるのではない。学問に志す者は、よくこのことを了解すれば、二程子の学説についての、ごたごたとしたその異同の論争は止めるべきである。


【所感】
程明道の「答横渠先生定性書」は、非常に細やかで平明である。程伊川の「顔子所好何学論」は、平明であって、細やかである。程兄弟の学問の源流はこのようであって、別々のものではない。学問をする者は、このことを知って、見解の相違に基づく様々な論争をやめるべきである、と一斎先生は言います。


ここで言われていることは、学問をする目的をどこに置くかが大切だということでしょう。


孔子もこうおっしゃっています。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


学問の目的が本来の目的である自己修養のためであるなら、学説の細かな際に一つひとつ拘る必要などないはずです。


まして哲学書のような類は、そこからどんな前向きな課題を見つけ出すかがポイントなのではないでしょうか?


小生が最近勉強している石田梅岩先生は、以下のような姿勢で学問を行い、商業の発展に寄与されました。


梅岩にとって、儒学も神道も、同じく誠の道を実践する「手助け」となるものだった。どちらが正しいのか、という議論になるぐらいならば、共に捨てればいい。これが、彼のスタンスである。彼は常に、宗教や思想の先にある、性を知るという目標を見据えていた。(『石田梅岩 峻厳なる商人道徳家の孤影』森田健司著、かもがわ出版)


人間は一生涯勉強すべきだと言われますが、その目的は日常生活において「誠の道」を実践するためでなければいけないのですね。

第531日

【原文】
徳性を尊ぶ、是を以て問学に道(よ)る。問学に道るは、即ち是れ徳性を尊ぶなり。先ず其の大なる者を立つれば、即ち其の知や真なり。能く其の知を迪(ふ)めば、則ち其の功や実なり。畢竟一条路の徃来のみ。


【訳文】
人々は本来具足している徳性(本性)を尊重すべきである。この徳性の尊い所以を発揮するには学問による。学問によるということは、すなわち本具の徳性を尊重するということである。まず大切なことは真知を得ることである。真知を究明すれば実効を挙げることになる。真実無妄の理体(実体)たる誠を体得するには尊徳性と道問学の二つの方法があるが、結局、誠に至る向上の一路を往ったり来たりしているに過ぎない。


【所感】
人が本来備えている徳性を尊ぶ、そのためには学問を修めねばならない。学問を修めることは、すなわち徳性を尊ぶことである。まず最も大事な点をあげれば、真の知を得ることである。知を窮めれば、その効果は実り多きものになる。徳性を尊ぶ、あるいは学問を修めるという二つの方法は、結局はひとつの道を往復するようなものである、と一斎先生は言います。


徳性を磨こうと思えば、必然的に学問を行うことになるし、正しい学問を修めるならば、自然と徳性は磨かれるということでしょう。


つまり、徳性が磨かれないような学問は真の学問ではないということです。


真の学問とは、真実の知を掴むことであり、真実の知を実践すれば、効果は絶大である、すなわち徳性の高い人、さらに言い換えれば、生まれながらに人間が有している徳性を発揮できる人になる、ということでしょう。


かなり以前に紹介しましたが、伊與田覺先生は、


人間学とは徳性・習慣を磨くこと

時務学とは知識・技術を修得すること


と定義づけされています。


本章でいう真の学問とは、もちろん人間学を指します。


社会人となって、まず学ぶべきは製品の知識や営業スキルなど学ぶ時務学でしょうが、成長するにつれて人間学を学ばなければ、最終的に立派な社会人にはなれません。


小生はようやく四十代後半にそのことに気づき、慌てて人間学を学んでいるという、やや手遅れな人間です。


せめて若い社員さんには、早いうちに人間学の大切さを知って欲しいとの思いで、社内研修においては、小生の学びをお伝えしております。


若い人こそ、人間学を学んでいただきたい。


しかし、小生のような手遅れ世代であっても、自分のためというより後世・後進のために、人間学を学び伝えていく責任があるはずだと信じて、日々学び、若者と共に成長していきます。
プロフィール

れみれみ