一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年08月

第566日

【原文】
大に従う者は大人と為り、小に従う者は小人と為る。今の読書人は攷拠瑣猥(こうきょさわい)を以て能事と為し、畢生(ひっせい)の事業此に止まる。又嘆ず可し。此に於いて一大人有り。将に曰わんとす、「人各々能有りて器使す可し。彼をして矻矻(こつこつ)として考察せしめて、我れ取りて之を用いば、我れは力を労せずして、而も彼も亦其の能を効(いた)して便なり」と。試に思え、大人をして己を視て以て器使一輩中の物と為さしむ。能く忸怩たる無からんや。


【訳文】
およそ人がするに際して、高くて大なる所に著眼すれば大人物となり、反対に細かく小さい所に著眼すれば小人物となる。今の読書人はわずらわしい字句の考証や細かなつまらない事をして、自分のなすべき事をなし得た如くに考えている。これでは、一生なすべき事業が、ここで止まってしまうことになる。誠に嘆ずべきことである。ここに一人の大人物がいて、その人が今の読書人に対して次のように言おうとしている。すなわち、「人には各々特有の才能を具えているからして、あたかも道具や器械がそれぞれ特殊な用途があるように、人もその能力に応じて使うことができる。それで、その人をして、その得意とする所を一生懸命に考究させて、その結果を自分が利用すれば、自分は苦労せず、その人もまたその能力を十分に発揮することができる。そうすれば、両者とも得る所があるではないか」と。試みに考えてみるがよい。他の大人物から、自分を一種の道具や器械として使用できる仲間の一人として扱われるとしたならば、学問に志す者として、恥じないでいられようか、恥ずかしい次第である。


【所感】
学問をするに際して、大所高所に目をつける人は大人物となり、細かく小さい所にしか目の届かない人は小人物となる。現代の読書家は瑣末なことをほじくり出して考証することを自分のやるべき事だと理解して満足しているので、大きな仕事ができないのである。嘆かわしいことである。ここに一人の大人物がいて、今の読書家にこのように言う、「人には各々に能力の違いがあり、その能力に応じて用いるべきである。そこで彼に苦労して考えさせて、その結果を自分が活用すれば、私自身は力を労することなく、しかも彼もその能力を発揮することができ、大いに良い結果となろう」と。考えてみよ、大人物から自分が一種の器具として利用される程度の人物だと見なされたならば、学問をする者として誠に恥じ入るべきことではないか、と一斎先生は言います。


読書したことをただ知識として蓄えるだけでなく、仕事に活用して立派な成果を残さなければ、一生を人に使われる身として終えることになり、悔いの残る人生となってしまうぞ、という一斎先生から学問をする後輩達への強烈なメッセージです。


これまでも度々、儒教とは実践の学問であって、知行合一、知ったことは即座に実行できなければ本当の知識ではないのだということを書いてきました。


この章では、一歩踏み込んで、では実践しなければどんな弊害があるのかを、具体的に説明してくれています。


男一匹、社会に出たからには、なにかしらの仕事を残したいものですよね。


多くの社会人が仕事をしながら学び続けているのは、世の中の役に立つ仕事をして、功成り名を遂げるためではないでしょうか。


そうであるなら、学問をする上で、大所高所からの視野をもって学ばねばならないのだと、一斎先生は教えてくださいます。


もちろん一斎先生もおっしゃっているように、人には各々に分際があります。


しかし、自らその分際未満の人物にしてしまっては勿体ないですよね。


以前にもご紹介しましたが、『論語』には孔子と冉求との有名な問答があります。


【原文】
冉求曰わく、子の道を説(よろこ)ばざるに非ず、力足らざればなり。
子曰わく、力足らざる者は中道にして廢(はい)す。今女(なんじ)は畫(かぎ)れり。(雍也第六)


【訳文】
冉求が言った。
「先生の説かれる道を喜ばないわけではありません。ただ何分にも私の力が足りないので行うことが出来ません」
先師が言われた。
「力が足りないかどうかは、力の限り努力してみなければ分からない。力の足らない者は中途でたおれるまでのことだ。今お前は、はじめから見切りをつけてやろうとしない。それではどうにも仕方がない」(伊與田覺先生訳)


はじめから自分に見切りをつけてしまっては、結局他人から正当な評価は得られず、人に甘んじて使われることになってしまうでしょう。


自分の分際を尽くして生きたいものです。

第565日

【原文】
清初、考処の学盛行す。李二曲(顒)・黄黎洲(こうりしゅう)(宗義)・湯潜菴(斌)・彭南畇(定求)・彭樹蘆(士望)の諸輩、竝びに此の学に於いて見る有りと為す。要するに時好と殊に異なり。学者其の書を読みて以て之を取舎するを妨げず。


【訳文】
清朝初期に考証学が盛んに行なわれたが、その間において、特に李二曲(りじきょく)・黄宗義(こうそうぎ)・湯潜菴(とうせんあん)・彭南畇(ほうなんきん)・彭樹蘆(ほうじゅろ)等の学問や著書には診るべきものがある。しかしながら、要するに、彼らは時代の流行(好み)と殊更に相反しているようである。それで、学問に志す者は、彼らの著書を読んで見て、よく取捨選択すべきである。


【所感】
清朝初期に考証学が盛んとなった。李二曲・黄宗義・湯潜菴・彭南畇・彭樹蘆等の学説については見るべきものもある。彼らの学説はその時代の好みとかなり異なっている。学問をする者は、その書を読んだうえで、よく取捨選択すべきであろう、と一斎先生は言います。


昨日に続いて清朝の学説に関する記述です。


ここに掲載されている学者先生の名前については、小生はここではじめて知ったくらいで、その歴史的な評価などはまったく存じておりません。


ここに列挙された学者先生は概ね陽明学派であって、中でも黄宗義や彭樹蘆は、明朝滅亡後に清朝には仕官しなかったようです。(いわゆる考証学派とは一線を画していた学者先生のようです。)


小生が本章から学び得たことは何かといえば、


学問をする者は主体性をもって学ばねばならない


ということでしょうか。


何を目的とし、何を基準にして学ぶのかを常に念頭におき、流行に左右されない学びが必要なのでしょう。


ここでも「不易流行」の不易の部分を探り当て、学びを深めるということが大切だということです。


本物を見極める目を養うためにも、数多くの本物の学問に触れていかなければなりませんね。

第564日

【原文】
漢儒訓詁の伝は、宋賢心学の伝と、地頭同じからず。況んや清人考処の一派に於いてをや。真に是れ漢儒の與たいなり。諸を宋賢の為す所にくらぶるに、夐焉(けんえん)として同じからず。我が党は渠(かれ)の窠臼(かきゅう)に堕つる勿くば可なり。(與たいの「たい」及びくらべるという漢字はワープロ変換できず)


【訳文】
漢代(漢・唐)の儒者が、経書の字句の解釈によって古の聖人の精神を伝えたことと、宋代(宋・明)の賢人達が心学によって聖人の学を伝えたこととは、まったく立場が異なっている。まして、清代の考証学派に至っては、なおさらで、実に漢代儒者の卑しい召使のようなものといえる。これを宋代(宋・明)の儒者がなしたのと比較すると、はるかに隔たっている。わが党の人達が、清朝考証学の陥った弊害を繰り返すことがなければよい。


【所感】
漢・唐の時代の儒者による字句に拘った経書の解釈と、宋・明時代の儒者による性理的な経書の解釈とは、その立脚するところが異なっている。まして清の時代の考証学派においては、まったく異なったものであって、彼らはまるで漢・唐の儒者の奴隷のようなものである。彼らを宋・明の儒者と比較すれば、はるかにかけ離れて異なっている。私と学びを共にする者たちが、彼らと同じような過ちを犯すことがなければ良いのだが、と一斎先生は言います。


この時代別の儒者の傾向といったことについては、小生は大いに勉強不足であって、多くは語れません。


ただ小生は、学問として儒教を学ぼうとするのではなく、あくまで実際の仕事や生活に生かすために読みたいと思っていますので、その点でいえば、あまりに字義の解釈に拘って古典を捉えるというのは無意味なのではないでしょうか。


ただし、例えば四書五経と呼ばれる儒学の経典は、みな二千年以上も前に書かれたものばかりです。


作者や編者すら不明なこれらの古典に書かれた内容を100%正しく理解することは不可能なはずです。


例えば『論語』についても、誰か学者先生をおひとりの解釈だけで読むことは、一斎先生がご指摘される落とし穴とはまた別の穴に堕ちてしまうという恐れもあります。


その危険性を回避するには、複数の学者先生の解釈を読み、自分なりの理解をすることが重要だと思います。


そこで小生が主査する潤身読書会では、現在20冊以上の『論語』の解説書を斜め読みして、様々な解釈を併記し、参加者の皆さんとシェアしながら、実践項目に落とし込もうという努力を続けています。


その結果、時には潤身読書会独自の解釈が生まれる場合もあります。


本章の直接の解釈からは外れてしまいますが、この章を読んで、潤身読書会の進め方についても一斎先生に背中を押して頂いたと、勝手に解釈させていただこうと思います。

第563日

【原文】
心理は是れ竪の工夫、博覧は是れ横の工夫。竪の工夫は則ち深入自得し、横の工夫は則ち浅易氾濫す。


【訳文】
心性を究明することは竪の内面的修養であり、書物を博く見ていくことは横の外面的修養である。この竪の工夫(内面的修養)は深く道理を究めて悟りの境地に至ることができるが、書物による横の工夫(外面的修養)は深みがなく表面的なもので、あまり身のためにはならない。


【所感】
理を心に究めることは縦方向の学問の工夫、広く読書見聞することは横方向の学問の工夫である。縦の工夫は深く心を究めて自ら悟ることを可能にするが、横の工夫は浅い表面的な知識が多いばかりで意味をなさない、と一斎先生は言います。


この章句を読んで思い起こされるのは、東京の篠崎にある一風変った本屋さん「読書のすすめ」の店長、清水克衛さんが提唱する「縦糸の読書」です。


縦糸の読書とは、時代が変っても変らない、世の中を貫く普遍的な法則である真理を学ぶ読書のことだそうです。


一方、横糸の読書とは、時代の流れによって内容が廃れてしまうビジネス本やノウハウ本の読書のことなのだそうです。


一斎先生は常に大自然の法則をつかむ努力をされた方であり、ここでいう竪の工夫というのは、不易、すなわち時代が変っても変らない真理をつかむことなのでしょう。


私が尊敬する伝説の営業人、中村信仁さんは、こうおっしゃっています。


売れる本ではなく、売れ続けている本を読もう。


小生が約3年の間、学び続けている『論語』はまさに読み続けられている古典です。


『論語』を学び、そこから大自然の法則をつかみ、それを日常生活の中で実践していく。


これが小生における竪の工夫ということになりそうです。

第562日

【原文】
今の学者は、隘(あい)に失わずして博に失い、陋(ろう)に失わずして通に失う。


【訳文】
今の学者は、学問や見識が狭いのでしくじるのではなく、かえってその広博なためにしくじるのである。その学問や見識が浅いのでしくじるのではなく、かえって万事に通達しているためにしくじるのである。


【所感】
今の学者先生は、学問が狭くて失敗するのではなく、広すぎるために失敗し、学問が浅いために失敗するのではなく、万事に通じているがために失敗するのである、と一斎先生は言います。


学識は広ければ良いというわけではなく、深ければ良いというものでもない、ということでしょう。


一斎先生もそうですが、儒学の目的は、実践にあります。


学んだことが実践されていなければ、その知識は記問の学といって、知識を詰め込むだけで、消化されて自分のものとなっていないということでしょう。


『論語』の中に、以下のような章句があります。


【原文】
子路、聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わざれば、唯聞く有らんことを恐る。(公冶長第五)


【原文】
子路は、一つの善言を聞いて、まだそれを行うことができないうちは、更に新しい善言を聞くことを恐れた。(伊與田覺先生訳)


孔子の弟子であり、孔子塾塾頭的立場にあった子路は、普段は蛮勇に失して孔子に叱られる場面の多い、愛すべきキャラクターなのですが、実は実直な面も有していました。


それがこの言葉です。


孔子からひとつの教えを受けたならば、それを実践できるまでは、次の教えを受けることを避けたのだそうです。


この子路の態度こそ、ここで一斎先生が述べようとされたことなのではないでしょうか。


博識であることや学問の深さを誇るのではなく、徳目をいくつ実践できているかが重要なのだ、というこの箴言に目が覚める思いです。
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れみれみ