一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年08月

第556日

【原文】
自得は畢竟己に在り。故に能く古人自得の処を取りて之を鎔化(ようか)す。今人自得無し。故に鎔化も亦能わず。


【訳文】
自分が悟り得た所のものは、つまり自分のたえざる努力にあるのである。それで、自得した人は、よく昔の人の自得した所のものを会得してこれを自分のものとするが、今の人は自得する所が無いから、古人の自得したのを、自分のものとすることもできないのである。


【所感】
悟りを得るということは、結局自分自身にかかっている。それゆえ、自得した人は、昔の人が自ら悟り得たことを更に溶かし込んで自分のものとする。ところが今の人は自ら悟ることがない。それゆえに昔の人が自得したことを溶かし込んで自分のものにすることができないのだ、と一斎先生は言います。


『論語』の比較的有名な章句にこうあります。


【原文】
子曰わく、学びて思はざるは則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。(為政第二)


【訳文】
先師が言われた。
「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない」(伊與田覺先生訳)


一斎先生がこの章で言わんとしていることは、この孔子の言葉でいえば「思う」こと、すなわち深く考えるということをしない人が多いという嘆きなのではないでしょうか。


たとえば古典からある言葉を学んだとして、その言葉の意味やその言葉発せられた状況などを深く考え、自分の言葉で人に伝えられるレベルにまで落とし込むことができなければ、本当に学んだことにはならないのでしょう。


鎔化する、とは自分の言葉で人に伝えることができるまでに理解する、と捉えてみました。


自分の体験やオリジナルの言葉より、古の偉人の言葉を借りた方が説得力は増します。


しかし借り物の言葉をそのまま伝えても、そこにどうしても薄っぺらさが生じてしまいます。


借り物の言葉に自分自身の体験事例を付け加えて伝えることで、聴く人の肚に落ちる話ができるはずです。


そういう意味では、この「一日一斎」というブログも、一斎先生の『言志四録』の言葉を深く考える良い機会を頂けているということになりそうです。


「考える」という作業に時間を割かなければなりませんね。

第555日

【原文】
独得の見は私に似たり。人其の驟(にわ)かに至るを驚く。平凡の議は公に似たり。世其の狃(な)れ聞くに安んず。凡そ人の言を聴くには、宜しく虚懐にして之を邀(むか)うべし。苟くも狃れ聞くに安んずる勿くば可なり。


【訳文】
その人だけが会得している(独特の)見解(識見)というものは、私的な偏見のように見える。それで、人々は急に耳にするので驚いてしまうのである。これに対して、普通一般的な議論というものは、公論(公平な議論)のように見える。世間の人々は聞きなれて安心しているからである。大体人の言を聴く場合には、虚心坦懐(何のわだかまりもなく、広く平らか)な心で受けとめるのがよい。かりにも、聴きなれた説に安んじていなければ、それでよい。


【所感】
その人独自の見解というのは私見のようにみえる。人はそれを突然聞いて驚いてしまう。一方、世間一般の議論は公的な見解のようにみえる。世間は聞き慣れていることで安心するものである。概して人の意見を聞く際には、虚心坦懐な心で相対するべきである。仮にも慣れ親しんだ意見に安心するようなことではいけない、と一斎先生は言います。


人は変化を嫌うものです。


いつも通りが好きです。


だから、誰かが新しいことにチャレンジすると、必ずそれを潰そうとする人が現れます。


そんなとき我々は安易に大勢側についてはいけないのだと、一斎先生は警告をされています。


そのとき重要なのが自分自身の中にある軸(基準)です。


たとえば小生が属する営業職においては、その基準は常に「それはお客様にとって善いことか」という点におかねばなりません。


そしてできることなら自分独りだけであっても、正しいと信じた道を突き進みたいものです。


国民教育者で哲学者の森信三先生は、こうおっしゃっています。


九十九人が、川の向こう岸で騒いでいようとも、自分一人はスタスタとわが志したこちら側の川岸を、わき目もふらず川上に向かって歩き通す底の覚悟がなくてはなるまい。


もし川向こうを独りで進む人を見つけ、その人の志に義を感じたなら、こちら側で文句を言って騒ぐ側につくのではなく、川を渡って、その人と手を取って突き進む人になりたいものですね。

第554日

【原文】
宇宙間に一気斡旋す。先を開く者は必ず後を結ぶ有り。久しきを持する者は必ず転化有り。抑える者は必ず揚り、滞る者は必ず通ず。一隆一替(いちりゅういったい)、必ず相倚伏(いふく)す。恰(あたか)も是れ一篇の好文辞なり。


【訳文】
この宇宙間には一つの気がたえず循環している。先に開いたものは後でそれが結合し、久しく持ち続けたものは必ずそこに変化が現われ、抑えると必ず揚り、滞れば必ず通ずるものである。そのように気は盛んになったり衰えたりして起伏を繰り返している。これはあたかも一篇の好文章の如きものである。


【所感】
宇宙の間には気があって調和を保っている。始めがあるものは後で必ず終わりがくる。長く持続したものは必ず変転する。抑えつければ必ず揚り、滞ればいつかは通じる。このように盛んになることと衰えることは、常に交互に繰り返されている。これはまるで一篇の優れた文章のようである、と一斎先生は言います。


宇宙の摂理を一篇の文章に喩えるというのは、凡愚な小生にはまったくない発想でした。


いわゆる起承転結を気の斡旋の中に見たということでしょうか。


滞る者は必ず通ず。


良い言葉ですね。


降りやまない雨はない。


とも言います。


宇宙の摂理を擬人化したものが神(あるいは天)だとすれば、滞っても諦めない人には、神は必ず次の機会を与えてくれるのでしょう。


小生が敬愛する伝説の営業人、中村信仁さんは


しんみん先生は宇宙の摂理を詩にしたためた詩人だ


として、しんみん先生の詩を激賞しております。


最後に、久しぶりにしんみん先生の詩を掲載しておきます。


すべては光る

光る
光る
すべては
光る

光らないものは
ひとつとしてない

みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る


自ら光を放てないときだってあります。


でも、そんなときは誰かが自分に光を当ててくれます。


だから自ら光れない人がいたら、


光を当ててあげる存在になりたいですね。

第553日

【原文】
王文成の抜本塞源論・尊経閣記は、古今独歩と謂う可し。陳龍川の酌古論、方正学の深慮論は、世を隔てて相頡頏(けっこう)す。並びに有識の文と為す。


【訳文】
王陽明の『抜本塞源論(ばっぽんそくげんろん)』と『尊経閣記(そんけいかくき)』とは、昔から今にわたってたぐいなく優れている高著である。南宋の陳龍川の『酌古論』や明初の方考孺の『深慮論』は、王陽明と時代がかけ離れてはいるが、それに匹敵する名著である。どれも識見の高い文である。


【所感】
王陽明の「抜本塞源論」と「稽山書院尊経閣記」とは、古今を通じて他に類を見ないほど優れた文章である。陳亮の「酌古論」や方考孺の「深慮論」は、王陽明とは時代を異にしていながら、甲乙つけ難いものである。これらはみな有識者の文章といえよう、と一斎先生は言います。


これまた一斎先生による書評です。


このうち「抜本塞源論」は、王陽明先生の代表作『伝習録』に収められており、名文とされていることは小生も承知しています。


抜本塞源という言葉の意味ですが、本を抜き源を塞(ふさ)ぐということで、問題を解決するには抜本的な対策をすべきだ、という意味になります。


ただし、ここに掲載されたその他の名文については、勉強不足で存じておりません。


そこで「抜本塞源論」の中から大変有名な箴言を取り上げて、本章の徒然の感想とさせてください。


事上磨練


修養というものは、読書をしたり、あるいは何か特別なことをすることではなく、日常の行動・実践を通じて磨いていくべきものだ、という考え方です。


実践を重視する王陽明先生らしい言葉ですよね。


小生は約25年間、営業職を続けています。


たしかに営業という職業から学ぶことは非常に多くあります。


もちろん営業職に限らず、どんな職業であっても、本気で仕事に打ち込むならば、多くの学びを得ることができるはずです。


家庭と職場、この二つのフィールドで我が為すべきことを徹底することこそ、自分自身を磨く最善の方法なのでしょう。

第552日

【原文】
文詞は以て其の人と為りを見る可し。況や復た留貽(りゅうい)するをや。宜しく修辞立誠を以て眼目と為すべし。


【訳文】
文章によって、その人の性質(人柄)を見ることができる。ましてそれが後世までも残るものであるから、文字の使い方をよく工夫し、誠実な心を表現することを眼目とすることが望ましい。


【所感】
文章を通して、それを書いた人の人間性をみることができる。ましてやそれが後世まで残るものであるから、言葉を修めて誠を立てることを最大の目的としておかねばならい、と一斎先生は言います。


小生は昨年、福井県にある永平寺を訪れた際に、宝物殿で道元禅師の直筆の書(『普勘坐禅儀』 ) を拝見しました。


今から約800年も前に書かれたとされるその書は、見事な文字で書かれており、小生は10分ほどその場から動けませんでした。


その文字を拝見しただけで、道元禅師というお方がどれほど己に厳しく修業をされたのかが分かるような気がしました。


修辞立誠 


とても良い言葉ですね。


この言葉の出典は『易経』です。


【原文】
子曰く、君子は徳に進み業を修む。忠信は徳に進む所以なり。辞を修めその誠を立つるは、業に居る所以なり。(乾卦文言伝)


【訳文】
先生が言った。
「立派な人は徳を磨き、自分の仕事を修めるものだ。忠(己のやるべきことをやり切る)と信(人に嘘をつかない)とは徳を磨くためのものだ。言葉を正しくし、誠意を立てるのは、自分の仕事を完成させるために必要なことである。」(小生訳)


ここでは、忠と立誠、信と修辞が対をなしていますね。


つまり、忠と立誠は己の心の在り様であり、信と修辞とは外に表れたもの、すなわち他人に対する在り方を指しているのではないでしょうか。


心を磨くだけでは中途半端であり、言葉を磨くことによって己の心を正しく表現できるようになるのです。


言葉(文字も含めて)を磨く必要性はここにあったのですね。

第551日

【原文】
文は能く意を達し、詩は能く志を言う。此の如きのみ。綺語麗辞、之を佞口(ねいこう)に比す。吾が曹の屑(いさぎよ)しとせざる所なり。


【訳文】
文章は自分の考えや思想が人に通ずればよいし、詩は心の向う所を表現すればそれでよい。巧みに飾った綺麗な言葉や文章は、人に媚びへつらうようなもので、われらが心地よいものとは思わない。


【所感】
文章は自分の思いが伝わればよく、詩は自分の心の在り様が伝わればよい。ただそれだけである。みだりに美しく飾った言葉や文章は、こびへつらいのようなもので、我が門においては必要のないものである、と一斎先生は言います。


原始儒教においては、言葉や表情を飾ることは良くないことでした。


【原文】
子曰わく、巧言令色鮮(すく)なし仁。(学而第一)


【訳文】
先師が言われた。
「ことさらに言葉を飾り、顔色をよくする者は、仁の心が乏しいものだよ」(伊與田覺先生訳)


ここで「鮮なし」としているのは、ほとんどないといった意味で、ほぼ完全否定とみて良いでしょう。


したがって、『論語』における孔子の言葉はいつも簡潔です。(それが後世において、様々な解釈を生む要因にもなっているのですが)


では、どんな態度が求められたのでしょうか?


【原文】
剛毅木訥仁に近し。(子路第十三)


【訳文】
人の気質には剛といって強くて何物にも屈しないものがあり、毅といって忍耐力が強くて操守の堅固なものがあり、木といって要望が質樸で飾りのないものがあり、訥といって口を利くことが下手で遅鈍なものがある。この四つは皆質が美しくて仁に近いものである。(宇野哲人先生訳)


言葉を飾る暇があったら、実践(行動)せよ。


これが原始儒教の重んじた道でした。


しかし、実は簡潔な文章を書くことこそ、最も難しいことなのです。


それが証拠に、文章の下手な人ほど、文章を長くだらだらと書く傾向があります。


簡潔な文章を書くための鍛錬としては、詩を読むことが最適かも知れません。


こんなことをつらつらと書いてきて、はたと思ったことがあります。


孔子が息子の鯉や他の弟子達に常に『詩(詩経)』を読めと諭したのは、簡潔な文章表現の鍛錬のためでもあったのですね。


本章を読んだことで、今更ながらにそんな大切なことに気づくことができました。

第550日

【原文】
文詞筆翰(ひつかん)は芸なり。善く之を用うれば、則ち心学においても亦益有り。或いは志を溺らすを以て之を病むは、是れ噎(えつ)に因りて食を廃す。


【訳文】
文章や詩歌をつくることは、一つの芸である。これを善用すれば、精神修養の学としても益がある。ところが、文章詩歌に熱中すると志を失うといって、心配するのは、ちょうど、むせぶのがいやだといって、食事をしないようなものである。


【所感】
詩歌や文章や書をつくることは一つの芸である。これを善い方向に用いれば、心を養う上において有益である。しかし志を惑溺させることを恐れてこれを用いないのは、小さい障害のために肝心なことをしないようなものである、と一斎先生は言います。


噎(えつ)に因りて食を廃す、とは『淮南子』という古典にある以下の言葉から取られているようです。


【原文】
噎を以て死する者有りて、天下の食を禁ずれば則ち悖る。(説林篇)


【訳文】
むせて死んでしまった人がいるからといって、世の中から食事することを禁止すれば道理にそむくことになる。(小生訳)


現在、小生は勤務先の営業社員さん約100名の日報を毎日読み、その半数弱にコメントをしています。


特に若い社員さんに向けたコメントの中で最も多いのが、実は誤字・脱字の指摘です。


営業パーソンにとって、正しい文章が書けるかどうかは非常に重要です。


メール文化となった現代において、日本語も大きく乱れはじめていますが、そうした環境下で正しい日本語の文章を書けることは、お客様の信頼を勝ち取るための大きな武器になります。


しかし、30歳を越えた営業パーソンが不適切な日本語の文章を書けば、それだけで信頼を失うことになります。


だからこそ若いうちに間違った文章を訂正してあげることも、小生の重要な任務のひとつと心得、小姑のように毎日指摘をしています。


一斎先生も仰っているように、正しい日本語の文章が書けるようになれば、それだけで人格も磨かれるのではないでしょうか。


正しい日本語を後世に伝えていきましょう。

第549日

【原文】
著書は只だ自ら怡悦(いえつ)するを要し、初めより人に示すの念有るを要せず。


【訳文】
書物を著述することは、ただ自分自身が悦びを感ずればよいので、最初から人に示すような心持をいだく必要はない。


【所感】
書物を著述するのは、ただ自ら悦び楽しむめば良いのであって、人に誇示するという思いを抱いてはいけない。


もちろん小生は本を書いたことはありませんが、思うにこれはとても難しいことなのではないでしょうか?


本を書く目的はいろいろとあるでしょうが、ただ自分の喜びとすることを目的に本を書いている人がどれだけあるでしょうか?


本を書く以上は、著者は出来る限り多くの人に読んでもらいたいと思って書くはずです。


時代背景の違いであると片付けて良いのでしょうか?


さて、考えてみると小生が毎日書いているこのブログも、目的をどこに置くかを明確にしておかねばなりません。


もちろん多くの方に読んでもらいたいという思いは強いのですが、最大の目的は、3年間毎日続けることによる自己修養です。


そういう意味では、反応の有る無しに一喜一憂すのではなく、毎日書き続けられることを喜びとしなければなりません。


あらためて軸を正していただけるお言葉です。

第548日

【原文】
朱子は『春秋』伝を作らずして、『通鑑綱目』を作り、『載記(たいき)』を註せずして、『儀礼経伝通解』を編みしは、一大識見と謂う可し。『啓蒙』は欠く可からず。『小学』も亦好撰なり。但だ『楚辞註』と『韓文考異』は有る可く無かる可きの間に在り。『陰符』と『参同』に至りては、則ち窃(ひそ)かに驚訝(きょうが)す、何を以て此の泛濫(はんらん)の筆を弄するかと。


【訳文】
宋代の大儒朱子は『春秋』の義解を作らずに、『資治通鑑項目』を作り、『載記』(『礼記』)に註釈をせずに、『儀礼経伝通解』を編集したのは、一大見識というべきである。『易学啓蒙』は欠くことのできないものである。朱子が指示して編集させた『小学』も立派な著作である。ただ『楚辞集註』と『韓文考異』は有っても無くてもよいものである。さらに兵家の『陰符』と仙家の『参同契』に手を着けたのは不審に思っている。どうしてこのようなものにまで無駄な著述をしたのであろうか。


【所感】
朱熹が『春秋』の註解を作らずに、『資治通鑑項目』を作り、『礼記』を註釈せずに、『儀礼経伝通解』を編集したのは、一大見識というべきである。『易学啓蒙』は欠くことができない。朱子が劉子澄に編纂を指示した『小学』も好著である。ただ『楚辞集註』と『韓文考異』は有っても無くてもよい。道家の『陰符』と『周易参同契 』の註釈書である『陰符経考異』と『周易参同契注』を編纂したことについては、どうしてこのようなとりとめのない著述をしたのであろうかといぶかるところである、と一斎先生は言います。


この章は、朱熹の著作に対する一斎先生の評論です。


なぜ、孔子が編集したとされる魯の歴史書である『春秋』ではなく、戦国時代の始まりから北宋建国前までの歴史書である『資治通鑑』への註釈を良しとするのか。


あるいは三礼(『周礼』・『儀礼』・『礼記』)のうち、なぜ礼についての所説を掲載した『礼記』ではなく、士階級の礼制度について書かれた『儀礼』を解釈したことが一大識見なのか。


いずれも小生には理解しかねるところです。


ちなみに『楚辞』とは、中国戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩を集めた詩集の名前、「韓文」とは唐の韓愈の文章、『陰符経』は黄帝撰あるいは周の太公撰とされる道家の書、『周易参同契』は漢の魏伯陽の撰で、周易の爻象を借りて道家の煉養の義を論じた書だそうです。


これらの書物についてはこれ以上の知識は持ち得ません。


小生に朱熹の著作をどうこう批評するほどの学識はありませんので、本章についてはこれでお許しください。


ただ『小学』は好著であるとのことですので、昨日の『書経』同様、『小学』 ついても学びを深めたいと思います。

第547日

【原文】
経書は講明せざる可からず。中ん就く易・書・魯論を以て最も緊要と為す。


【訳文】
儒教の根本経典である四書・五経は、これを講じて明らかにすべきである。殊に『易経』・『書経』・『論語』が最も肝要なものである。


【所感】
経書すなわち四書五経は講義をしてその真理を明らかにしなければならない。中でも『易経』・『書経』・『論語』については真っ先に取り組むべきである、と一斎先生は言います。


以前にも書いたのですが、現在の我が国において、『論語』と易経』についてはかなりの数の本が出版されており、また全国各地で学ぶことができます。


それと比較して『書経』だけは、解説本も限られており、気軽に学ぶのが難しくなっています。


つねに古典を通じてリーダーシップを学ぶことを最大の目的としています小生にとっても、これは非常に残念なことです。


古来、リーダーシップを帝王学と同じと考えるならば、この帝王学の経典としては、『書経』と『貞観政要』の2冊が重んじられてきました。


小生ごときに何ができるかはわかりませんが、この一日一斎を終えた暁には、『書経』に取り組んでみたいと考えております。


これまでに買い集めた『書経』関連の本としては、

全釈漢文大系『尚書』
新釈漢文大系『書経』上下
中国古典新書『書経』
『書経の帝王学』(守屋洋先生)

などです。


もし本ブログをお読みいただいている方々の中で、よい『書経』の解説本をご存知の方がいらっしゃいましたらご示唆いただきたく存じます。
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れみれみ