【原文】
自得は畢竟己に在り。故に能く古人自得の処を取りて之を鎔化(ようか)す。今人自得無し。故に鎔化も亦能わず。
【訳文】
自分が悟り得た所のものは、つまり自分のたえざる努力にあるのである。それで、自得した人は、よく昔の人の自得した所のものを会得してこれを自分のものとするが、今の人は自得する所が無いから、古人の自得したのを、自分のものとすることもできないのである。
【所感】
悟りを得るということは、結局自分自身にかかっている。それゆえ、自得した人は、昔の人が自ら悟り得たことを更に溶かし込んで自分のものとする。ところが今の人は自ら悟ることがない。それゆえに昔の人が自得したことを溶かし込んで自分のものにすることができないのだ、と一斎先生は言います。
『論語』の比較的有名な章句にこうあります。
【原文】
子曰わく、学びて思はざるは則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。(為政第二)
【訳文】
先師が言われた。
「学ぶだけで深く考えなければ、本当の意味がわからない。考えるのみで学ばなければ、独断におちて危ない」(伊與田覺先生訳)
一斎先生がこの章で言わんとしていることは、この孔子の言葉でいえば「思う」こと、すなわち深く考えるということをしない人が多いという嘆きなのではないでしょうか。
たとえば古典からある言葉を学んだとして、その言葉の意味やその言葉発せられた状況などを深く考え、自分の言葉で人に伝えられるレベルにまで落とし込むことができなければ、本当に学んだことにはならないのでしょう。
鎔化する、とは自分の言葉で人に伝えることができるまでに理解する、と捉えてみました。
自分の体験やオリジナルの言葉より、古の偉人の言葉を借りた方が説得力は増します。
しかし借り物の言葉をそのまま伝えても、そこにどうしても薄っぺらさが生じてしまいます。
借り物の言葉に自分自身の体験事例を付け加えて伝えることで、聴く人の肚に落ちる話ができるはずです。
そういう意味では、この「一日一斎」というブログも、一斎先生の『言志四録』の言葉を深く考える良い機会を頂けているということになりそうです。
「考える」という作業に時間を割かなければなりませんね。