一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年09月

第596日

【原文】
軍旅にも又礼楽有り。


【訳文】
軍隊は厳格で規律正しくあるべきであるが、また一面、礼儀も必要だし、心を和らげる音楽的なものも欠くことはできない。


【所感】
軍隊にも礼儀や音楽が必要である、と一斎先生は言います。


兵は詭道なり


とは有名な『孫子』の言葉です。


その意味は、「戦争は騙しあいである」ということです。


しかし、いかに敵を 欺くかが重要であるとはいえ、味方の軍においては礼がなければ、秩序を守ることができないし、楽がなければ一致団結することはできないでしょう。


軍歌の中でもとりわけ有名な『同期の桜という歌の歌詞を読むと、戦争に向けて味方の心をひとつにする工夫を読み取ることができます。


さて、戦争となると物騒ですので、企業競争に置き換えてみます。


企業間競争もある意味では詭道であって、競合企業を出し抜くために戦略を練ります。


その一方で組織内では、リーダーはメンバーをねぎらい、メンバーはリーダーを敬うという上下間の礼が尽くされます。


また会社であれば社歌をつくることもありますし、組織においては行動指針を毎朝読み上げるなどで、組織の心をひとつにする取り組みがなされます。


そう考えてみると、武田信玄が掲げた「風林火山」の幟もここでいう楽の役目を果たしていたのかも知れません。


戦争においてすら礼楽が必要だというのですから、平穏な日常を過ごす我々においては礼楽を整えることは当然の責務なのでしょう。

第595日

【原文】
形は方を以て止まり、勢は円を以て動く。城陣・行営、其の理は一なり。


【訳文】
形は四角にして置き、動く時には円滑にする。城郭や陣営などは同じ道理で変りはない。


【所感】
形は四角に正しく整え、勢いをもって動くときは円形になって動く。城や陣屋、行軍・兵営などの道理はこれと同じである、と一斎先生は言います。


この章はどのように理解すればよいのでしょうか?


小生は以下のように理解してみました。


何事も型(ただしい形)を覚えなければならないが、いざ実戦となれば柔軟に対応しなければ成功は覚束ない。


守・破・離でいうところの、守にあたるのが「方」で、破・離にあたるのが「円」ということになるでしょうか。


あるいは、もっとシンプルに、


厳しさの中にも優しさを持て


という教えでしょうか?


いずれにしてもここ数日の教えは、バランスの大切さ、一方に偏らないことの重要さを言葉や事例を変えて教えてくれているようです。


孔子も、


過ぎたるは猶及ばざるが如し


つまりやり過ぎも慎重過ぎもイカンよ、と仰っています。


年齢と共に学びを修め、中庸の人を目指さねばなりません。

第594日

【原文】
乙を甲に執り、甲を乙に蔵(かく)す。之を護身の堅城と謂う。


【訳文】
柔を剛に執り、剛を柔に蔵す。このように柔と剛を互いに兼ねるようにすることが、身を護る堅固な城といえる。


【所感】
柔は剛に執り、剛を柔に隠す。何事も一方に偏らないようにすることが我が身を守る堅い城となる、と一斎先生は言います。


かつて、十干のうち、乙(きのと)、丁(ひとの)、己(つちのと)、辛(かのと)、癸(みずのと)にあたる日を柔日といい、甲(きのえ)、丙(ひのえ)、戊(つちのえ)、庚(かのえ)、壬(みずのえ)にあたる日を剛日といったのだそうです。


また『礼記』曲礼篇には、


外事は剛日をもってし、内事は柔日を以ってす。


とあります。


外事とは出征狩猟を、内事は冠婚葬祭などをいうそうです。(『言志四録(三) 言志晩録』(川上正光訳、講談社学術文庫より)


以上のようなことから、一斎先生は甲乙を柔剛の意味で使っているようです。


本章において、一斎先生は一方に偏することの非を説いています。


『三略』という兵法書には有名な、


柔能く剛を制し、弱能く強を制す。 


という言葉もあります。


しかし、柔ばかり、弱ばかりでは戦いには勝てません。


時には剛、時には柔を臨機応変に使い分けてこそ、戦いに勝利することができるはずです。


仕事においても同様です。


強者は強者の戦略を、弱者は弱者の戦略を講じてこそ、厳しい企業間競争を勝ち抜くことができます。


この場合、例えば弱者の戦略とは、弱一本槍ではなく、弱のなかに強を秘めたしたたかな戦略でなければなりません。


強者の戦略の場合も、その行動は剛であっても、リーダーの頭は柔である必要があるでしょう。


もっとシンプルにいえば、


押してもダメなら引いてみな、引いてもダメなら押してみな 


ということです。


そんな柔軟な着想がわが身を助けるということかも知れませんね。

第593日

【原文】
刀槊(とうさく)の技、怯心(きょうしん)を懐く者は衄(じく)し、勇気を頼む者は敗る。必ずや勇怯を一静に泯(ほろぼ)し、勝負を一動に忘れ、之を動かすに天を以てして、廓然太公(かくぜんたいこう)なり。之を静にするに地を以てして、物来り順応す。是の如き者は勝つ。心学も亦此に外ならず。


【訳文】
剣術や槍術の試合には、臆病な心を持った者は敗れ、勇気を頼む者も敗れる。勇気や臆病という考えを一つの静の中に融合し、勝敗を一つの動の中で忘れ去り、自然のままに動き、わだかまりなく実に公明正大である。静なるは、あたかも地の寂然不動なるが如くであり、物来たればこれに応じて対処する。このような者は必ず勝利を得る。心を修養する学問もこれにほかならない。


【所感】
剣術や槍術の試合では、臆病な心を持つ者は敗れ、勇気だけを頼りにする者も敗れるものだ。必ず勇気や恐怖心を心の静けさの中に消し去り、勝敗を動きの中で忘れ去り、天意のままに動き、心にわだかまりがなく公明正大であるべきだ。心を静なる状態にするときは、まるで大地が静寂不動であるかのようにして、ひとたび物が来ればこれに順応する。この様にする者は必ず勝つ。心を修養する学問もこれと同じである、と一斎先生は言います。


この言葉は、程明道先生の『定性書』にある以下の言葉が下敷きになっているようです。


君子の学は廓然として太公、物来たりて順応するに若くはなし


「廓然」とは、心が広くわだかまりがないこと、「太公」とは私心がなく公正なことです。


立派な人の学問というものは、すこしも私というものがなく常にゆったりとしていて、相手に応じて最善の行動を取るということのようです。


つまりは動静どちらか一方に偏るのではなく、まるで天地自然のように変幻自在にわが心を外物に対応させるということでしょう。


一斎先生はこれを武道の試合に喩えて説明をされています。


天地の心は万物に具わっており、当然人間すなわち私にも具わっている。


したがって我が心の持ち様は、武道であっても学問であっても同様で、外物とわが心を区別せず、 天地自然に委ねるように対処すればよい。


非常に哲学的ですが、本章はこのような趣旨ではないかと思われます。


これを仕事に応用すれば、


無理に心を落ち着けようとするのでもなく、また外の出来事に一喜一憂するのでもなく、ただ自分がやるべき事に全力を尽くせばよい


ということになるでしょう。


これはいくら技術を磨いても達し得ない境地です。


心を磨くしかありません。

第592日

【原文】
前人(ぜんじん)謂う、「英気は事を害す」と。余は則ち謂う、「英気は無かる可からず」と。但だ圭角を露わすを不可と為す。


【訳文】
前人(程子)は「優れた気象は、やり過ぎるので、ややもすれば、物事をなすにあたって禍を招く」といった。しかし自分は「すぐれた気象は無くてはならないものである」と考える。ただ、角張った言動はよくない。


【所感】
昔の聖人は、「優れた気象は時には事をなすに当たって禍を招く」と言った。しかし私は言いたい、「優れた気象はなくてはならないものである」と。ただし、とげとげしい言動はよろしくない、と一斎先生は言います。


この「英気は事を害す」という言葉は、久須本先生は程子の言葉だとされていますが、『日本思想大系』では朱子の『孟子序説』からの引用であるとしています。小生にはその真偽のほどは分かりかねます。


ここで一斎先生が言わんとすることは、あくまでも心には熱いものを持つべきであるが、それを容易に表に出すことは控えよ、ということでしょう。


何ごとを為すにも熱い志がなければ、それが成就することはないはずです。


ただし、冷静さを失うことなく、特に言動は大いに慎むべきだと一斎先生は教えておられます。


『易経』繋辞上伝に、


言行は君子の枢機なり


という言葉があります。


言葉は君子にとって最も大切なものだ、という意味です。


小生などは心に熱いものがあるときは、言葉まで荒々しくなるという典型的な小人です。


不言実行が君子の条件であることを忘れずに、日々精進します。

第591日

【原文】
国乱れて身を殉ずるは易く、世治まって身を韲(さい)するは難し。


【訳文】
国が乱れている場合、国のために身を捧げるということは困難なことではないが、しかし国が泰平でよく治まっている場合、国のために身をこなごなにして滅私奉公するということは困難なことである。


【所感】
国が乱れている時に自分の身を国に捧げるということは難しいことでない。泰平の世の中において粉骨砕身して我が身を捧げることは難しい、と一斎先生は言います。


国が対象となるとあまりにも話が大きくなって、小生などの小人には想像の域を超えてしまいます。


そこで、少しスケールを落として、会社や家族に置き換えてみましょう。


例えば、会社が倒産の危機に瀕したとなれば、確かに小生でも自分の首を懸けて窮地を救おうと行動するかも知れません。


まして、家族の危機となれば、我が身を捨てることなど決して厭わないはずです。


ところが会社が安泰のときには立身出世や社内の評価などを気にして、粉骨砕身仕事に尽くすということは難しいでしょう。


また、日常生活においても小生などは、平日は仕事で遅くに帰宅し、休日になれば各種勉強会などに参加して、家族との会話の時間などほんの僅かという有様です。


要するに、人は誰でも、艱難辛苦に遭えば覚悟を決められるものなのでしょう。


しかし、平時においてはどうしても気持ちに隙ができてしまいます。


有名な『葉隠』の一文


武士道といふは、死ぬ事と見附けたり


とは、常に死を意識して平時の生を尽くすことを意味しています。


つまり、いつ死が訪れても、武士として恥ずかしくない死に方をすべく準備をしておくということです。


平時こそ、然るべき時に備えて、心を磨いておけ。


心が緩んだとき、いつも一斎先生は厳しくも暖かいメッセージを送ってくれます。

第590日

【原文】
士にして文に志すは、是れ武に居て文を学ぶなり。虚文にして以て柔惰(じゅうだ)なること勿れ。虚武にして以て躁暴(そうぼう)なること勿れ。


【訳文】
武士であっても文芸に志すものは、武士という身分で文芸を学ぶのである。実のない空虚な文を作って、柔弱怠惰になってはいけない。実力が無いのに虚勢を張っていばる武士となって、乱暴するようなことがあってはいけない。


【所感】
士の身分で文学に志すということは、すなわち武士が文学を学ぶということである。内容のない文章や詩歌を作って軟弱かつ怠惰になってはいけない。また虚勢を張って騒々しく乱暴になるようなこともいけないことだ、と一斎先生は言います。


江戸時代、士農工商という階級制度において最上位に置かれた武士であるからこそ、人間的にも優れていることが求められました。


このため、全国に藩校が設置されています。


一斎先生が儒官(今でいえば学長)を務めた昌平黌(昌平坂学問所。幕府の最高学府)においても、四書五経を中心とした儒学(朱子学)を学ぶことが奨励されました。


下級武士の中には、切捨て御免として、罪も無き庶民に刀を向ける者もいたようですが、当然ながらこのような行為は、虚武にして以て躁暴として蔑まれたのでしょう。


当時の高名な武士達は、概ね漢文を読む素養があり、西郷南洲翁などは見事な漢詩を多数残しています。


本章もまたリーダーシップ論として読むならば、


人の上に立つリーダーは読書をせよ


というメッセージとして受け取ることができないでしょうか。


リーダーに任命されてから本を読むようでは遅いのです。


これはあくまでも私論ですが、ビジネスマンであれば、40歳を迎えるまでに最低でも500冊の本は読破しておくべきではないでしょうか。


推理小説ばかりでは困りますが、この500冊はあまりジャンルに拘らなくても良いでしょう。


そして不惑の年を迎えたならば、いよいよ古典を学ぶべき時です。


小生は、少しでも時間があれば読むことができる本として、以下の3冊を強くお奨め致します。


『論語』・『言四志録』・『修身教授録』


この3冊を毎日読み続ければ、決して虚文にして以て柔惰になることはあり得ないでしょう。

第589日

【原文】
凡そ士君子たる者、今皆武士と称す。宜しく自ら其の名を顧みて以て其の実を責め、其の職を務めて以て其の名に副うべし。


【訳文】
大体、学徳のある士・君子を、今はみな武士と称している。これらの人々は各自、世間の名声を顧みて、武士たるの実を挙げているかどうか自ら反省して、自分の職務に励んで、武士の名に副うよう心得るがよい。


【所感】
人の上に立つ士君子とされる人は、今は皆武士と称している。それらの人はよくその名声を鑑みて自分の実績を反省し、その職を全うしてその名にふさわしい人物となるべきである、と一斎先生は言いまう。


現代に武士は存在しませんので、ここは武士をリーダー(指導者)と置き換えて読んでみます。


会社にあっても、あるいはプライベートのスポーツや読書会などの集まりにおいても、ある程度の年齢となれば、人をリードする立場になるものではないでしょうか?


小生も勤務先では、営業企画室長であり、プライベートでは、永業塾名古屋ステージリーダー、人間塾名古屋塾頭などで、曲がりなりにもリーダー的な立場を任されています。


では果たして指導者と呼ぶにふさわしい実績を残しているのか? と問われると、堂々と諾とは言えません。


『列子』という古典にこうあります。


【原文】
吞舟(どんしゅう)の魚(うお)は枝流に游(およ)がず。


【訳文】
舟を丸吞みにするような大魚は、小さな流れでは泳がないものだ。(守屋洋先生訳)


つまり大人物とは高い志を持っているので、つまらない人間と交わることもないし、枝葉末節に拘らない、ということでしょう。


いつも大流(王道)を歩む吞舟の魚でありたいですね。

第588日

【原文】
余は好みて武技を演ずるを観る。之を観るに目を以てせずして心を以てす。必ず先ず呼吸を収めて、以て渠(かれ)の呼吸を邀(むか)え、勝敗を問わずして、其の順逆を視るに、甚だ適なり。此も亦是れ学なり。


【訳文】
自分は武道の試合を観るのが好きで、これを観る場合に、目で観ることをせずに、心で観るのである。必ず最初に呼吸を調整して、その演技者の呼吸を窺い、勝敗のことは気にせず、その試合のやり方が正しいか正しくないかの点を観るのであるが、この観方はよく的中している。これも一つの学問といえる。


【所感】
私は武道の試合を観戦することが好きである。その際は、目で観るのではなく、心で観ることを意識している。必ず最初に呼吸を整えて、選手の呼吸をつかみ、勝敗を問うことなく、呼吸や心の動きを観るのだが、これでその結果を当てることができる。これもまた学問といえるかも知れない、と一斎先生は言います。


一斎先生のご指摘のとおりで、武道あるいはスポーツ全般から学ぶことは非常に多いですね。


ちょうど少し前にリオでオリンピック・パラリンピックが開催されましたが、小生も多くの感動と勇気をもらい、そして学びを得ました。


特に女子レスリングや女子バドミントンでの日本選手の逆転劇には多くの感動をもらいました。


最後の一秒まで、最後の一点を取られるまでは決して諦めないという姿勢は、仕事においてもとても重要なことですよね。


そしてこれは日本人特有の長所ではないでしょうか?
欧米の選手などは早々と結果を諦めてしまうこともありますよね。


ただし、試合になってから諦めない姿勢を貫くだけで勝てるほど、世界のレベルは低くありません。


試合当日までに技術面を徹底的に磨いていたからこそ、良い結果につながったのでしょう。


そういう意味では、昨日の準備の大切さにもつながるところです。


そして、最近の一流のスポーツ選手は、精神面においても鍛錬を積んでいるようです。


この章で一斎先生が観察するという呼吸などは、どちらかといえば精神面での充実度を図る指標となるでしょう。


一斎先生ほどの達人ですから、その呼吸をひと目見れば、どちらが優位に立っているかがわかったのでしょう。


中国の兵法書である『孫子』にはこうあります。


【原文】
古えの善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。
故に善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わざるなり。(形篇)


【訳文】
昔の戦いに巧みといわれた人は、勝ちやすい機会をとらえてそこでうち勝ったものである。戦いに巧みな人は、不敗の立場にあって敵の(体勢が崩れて)負けるようになった機会を逃さないのである。


心と技術の両面を鍛えることで、より勝ち易きに勝つことが可能になるのでしょう。

第587日

【原文】
満を引いて度に中れば、発して空箭(くうせん)無し。人事宜しく射の如く然るべし。


【訳文】
弓を十分に引きしぼって的にあてれば、あたらない空矢はない。人間社会の物事でも、弓を射るように、よく考えてよく準備した上で断行すれば、失敗することはない。


【所感】
弓を目一杯引き絞って的を射れば、矢が当たらないということはない。人生の出来事もこの射的と同じであるはずだ、と一斎先生は言います。


先日、小生が私淑する中村信仁さんの講演で、信仁さんのお師匠さんである日高晤郎さんの言葉、


準備も仕事のうち


をご紹介されていました。


一斎先生がご指摘のように、我々が行う何事も、準備でその成否の80%は決まってしまうのではないでしょうか?


本日、小生の勤務先では、今年何度目かの採用面接を実施しました。


小生はここ数年、試験官に任命されており、そこで学生さんにちょっと意地悪な質問をしました。


「これまでに10社ほど面接試験をパスできなかったということですが、それはどこに原因があると思いますか?」


この質問をすると、ほとんどの学生さんが緊張してうまく話せなかったと答えます。


本当にそうでしょうか? 


前述の中村信仁さんは、


自信がないということは、自分自身が手を抜いていることに気づいているからだ。


と言われています。


つまり、面接に通らない学生さんというのは、面接をパスした学生さんよりも準備が不足していただけなのではないでしょうか? 


もちろん人それぞれに得手不得手がありますので、不得手のことを実施する際には、得意な人に比べて何倍もの準備をする必要があるでしょう。


それでも、これで大丈夫と思える準備をして臨むことが大切です。


これはそのまま我々の仕事にも当てはまりますね。
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れみれみ