一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年09月

第586日

【原文】
体は実にして虚、心は虚にして実、中孚(ちゅうふ)の象即ち是なり。


【訳文】
体は形体あるを以て実なれど、本源からすれば虚である。心は形体的でないから虚であるが、しかしこれは体を主宰し活動の本源であるから実である。『易経』の中孚の卦がこれを現わしている。


【所感】
身体は形あるものであり実ではあるが、活動の本源ではないので虚である。心は形ないものであり虚であるが、活動の本源であるから実体である。 『易経の中孚の象はまさにそのことを示している、と一斎先生は言います。


地上の動物はすべて肉体があれど、その肉体そのものがその生物を生かしているわけではありません。


とりわけ人間においては、その活動はすべて心という実態のないものに支配されていると視て良いでしょう。


つまり虚にして実の心をもって、実にして虚の身体を支配しているわけです。


さて、『易経の中孚の卦についてですが、『日本思想大系』にはこう註釈が出ています。


中央の二爻が陰爻。朱子はこれを「虚心を示す」と解する。外側の第二爻・第五爻が陽爻。朱子はこれを「心の充実を示す」と解する。


中孚とは、中なる信(まこと)と訳されます。


この卦は、中にまことがあるから、正しい道を守りさえすれば艱難に当たっても吉であるとされる卦です。


心にまことを持つことができれば、人生と言う荒波に翻弄されることなく、正しく生きていけるということです。


心に誠を納め、言動を修めていきましょう。

第585日

【原文】
治心の法は須らく至静を至動の中に認得すべし。呂涇野謂う、「功を用いる必ずしも山林ならず、市朝も亦做し得」と。此の言然り。


【訳文】
心を治める方法は、極めて静なるもの(静なる心)を、極めて動的なものの中において得なければいけない。明代の呂涇野(りょけいや)は「修養するには、必ずしも静寂な山林でなくても、騒がしい市街(まち)の中でもなすことができる」といったが、誠にこの通りである。


【所感】
心を治める方法は、出来る限り静かな心を極めて忙しい中に認めるべきである。明代の儒者・呂涇野は「精神修養の功を積むのは、必ずしも静かな山林に行かずとも、喧噪の街中でもなし得るものだ」と言った。此の言葉はまったくその通りである、と一斎先生は言います。


中国後梁時代の詩人・杜筍鶴の有名な言葉(詩の一節)に、


安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
心中を滅得すれば火も自ずから涼し


とあります。


意味は以下のとおりです。


坐禅をするのに山中か水辺を選ぶ必要はない。執着心を断ち切って無心に徹して、自分を焼き尽くす猛火の熱さ、恐ろしさに、振りまわされない自分をしっかりと確立しさえすれば、「火も自ずから涼し」ということになる。


静かな場所でなければ、坐禅が組めない様では、心に煩悩がある証拠である、ということでしょう。


本章は、


修養とはどこか特別な場所に籠って体得するようなものではなく、日常生活の中でいくらでも実践体得できるものだ。


ということを意味しているのだと思います。


まさに森信三先生の仰るところの、


真理は現実のただ中にあり


ですね。


結局、自分を成長させるものは思考ではなく、行動です。


日々の仕事や生活を学びの最前線だと捉えて、よりよき行動を心掛けましょう!

第584日

【原文】
霊薬も用を誤れば則ち人を斃し、利剣も柄(へい)を倒(さかさま)にすれば則ち自ら傷(きずつ)く。学術も方(ほう)に乖(そむ)けば則ち自ら戕(そこな)い又人を賊(そこな)う。


【訳文】
大変よく効く薬でも、用法を誤ると人を殺すことになるし、よく切れる刀でも柄を倒にして持てば自分を傷つけることになる。それと同じく、学問や技術でも正しく活用しなければ、自分はもちろんのこと人をも害うことになる。


【所感】
よく効く薬も服用法を誤れば人を殺すことになる。切れ味鋭い刀も柄を逆さまに持てば自分を傷つける。同様に、学問も正しく活用しなければ己を損い人をも害することになる、と一斎先生は言います。


『孟子』滕文公章句上にこうあります。


【原文】
若し薬瞑眩(めんげん)せざれば、厥(そ)の疾瘳(い)えず


【訳文】
薬がもし、服用して目が眩む程でなければ、その病気を治すことはできない。(『古典世界文学』筑摩書房)


良薬は口に苦し


とも言いますが、何事においても効能の高いものは、諸刃の剣になりがちだということでしょう。


一斎先生は、学問を取り上げておりますが、昨今の世界事情を見ると、まさに宗教こそが今最も正しく活用されねばならぬものだと言えないでしょうか?


聖戦の名の下に、人が人を殺すことが許されてしまう。


少し冷静になって考えればわかりそうなことが、洗脳によって理解できなくなってしまう。


仮に兵力を備えるにしても、一国のリーダーたる者は、やはり徳治主義を放棄してはいけないのではないでしょうか?


小生は、わが国の憲法第九条改正を真剣に論議すべきだと考えますが、一方で安倍首相には徳を備えていただきたいとも思います。


有徳の政治家が激減していることが、今の日本が抱える最大の課題なのではないでしょうか?

第583日

【原文】
天を以て感ずる者は、慮らざるの知なり。天を以て動く者は、学ばざるの能なり。


【訳文】
天意によって感ずるものは、特に考えないでも自然に知る能力(良知)である。天意によって動くものは、特に学ばなくても自然によくする能力(良能)である。


【所感】
天の意志を感じるものは、考えずとも分かる知能である。天の意志を受けて動くものは、学ばずとも発揮できる能力である、と一斎先生は言います。


これは、『孟子』尽心上篇にある以下の言葉が下敷きにあるようです。


【原文】
人の学ばずして能くする所のものは、その良能なり。慮らざるして知る所のものは、その良能なり。


【訳文】
人が学習によらず、能くすることのできるものは良能による。思考によらず、知ることのできるものは良知による。(『古典世界文学』筑摩書房)


この孟子の言葉をベースにして、一斎先生は、


良能:天の意志を発揮すること

良知:天の意を感じること


としています。


陽明学における「致良知」とは、この一斎先生の解釈によれば、天の意を感じることだということになります。


人は地に生まれ落ちますが、天の意志を感じ、天の意志に添って生きるとき、幸せになれるのだということでしょうか。


天の意志を感じ、心にまったく邪念を抱かずに、目の前の仕事に没頭する。


これこそが人間本来の生き方なのだ、と一斎先生は教えてくれています。

第582日

【原文】
誠意は夢寐(むび)に兆す。不慮の知、然らしむるなり。


【訳文】
誠の心(真心)は、ねむって夢を見ている間にも、その兆しが現われるものである。これは人間に先天的に具わっている、別に考えなくても自然に知る所の知能がそうさせるのである。


【所感】
真の誠は眠っている間に、その兆しが見えるものである。これは考えずとも自然に発揮される知能がそうさせているのであろう、と一斎先生は言います。


心から実現させたいと願うことは、寝ている間にも着々と実現に向けて活動をする、と読み替えても良いのでしょうか?


これは寺田一清先生にお聴きした話ですが、森信三先生は晩年、夢や志という言葉の中にはまだ己が残っているとして、「心願」という言葉をお使いになったそうです。


これは自他を超越した境地といえるのでしょう。


ここまで願いが浄化されれば、その心願は睡眠中も常に自分を動かし続けるのかも知れません。


先日読んだ『英雄の書』(黒田伊保子著)によると、人間の脳は寝ている間に進化するのだそうです。


昨日までできなかったドリブルをものにしたサッカー少年。眠るまでは、その体験も、筋肉制御の単純記憶にしか過ぎない。しかし、眠っている間に、脳が運動センスにまで昇華して、運動野に書き込んでいくのである。昼間の鍛錬が、夜の良い眠りによって、センスに変わる。(前掲著)


本章で一斎先生が不慮の知としているのは、こうした人間の能力を指しているのでしょう。


誠意は夢寐に兆す。


なにごとも、まず心に深く思うことから始まるようです。

第581日

【原文】
暗夜に坐する者は体軀を忘れ、明昼に行く者は形影を弁ず。


【訳文】
暗夜に静坐している者は、忘我の境地になって、真己(本心・本性)を知り得ることができる。明るい昼間、歩行する者は、自分の姿や影をはっきり見分けることができるが、夜中静坐する者と異なって自己の本心・本性を忘れている。


【所感】
深夜、静坐瞑目する者は、自分自身の内面を見つめなおすが、身体があることを忘れがちであり、明るい昼間に行動する者は、その身体は把握できても、その内面を忘れがちである、と一斎先生は言います。


人間は外面(体躯)と内面(本性)の双方をよく修めなければならない、という教えでしょう。


ご指摘を受けてみればまったくその通りですね。


スポーツ選手など身体を鍛えなければならない職業の人は、内面の修養を忘れがちです。


ところが超一流のスポーツ選手はかならずといってよいほど、内面をも鍛えています。(かつて読売ジャイアンツV9時代の名将・川上哲治監督は、禅を学び、座禅を取り入れていました。)


一方、学者先生のように内面を鍛える職種の人は、意外と身体を疎かにする傾向があるようです。


昔から、医者の不養生などと言われますね。


これは、もちろん小生のような営業職にある人間にも当てはまることです。


営業の技術を磨くことは勿論重要ですが、技術ばかりをいくら学んでも売れる営業人にはなれません。


超一流の営業人は常に心を磨いており、所謂人格者であることが多いことがそれを証明しています。


伝説の営業人・中村信仁さんは、


心が技術を超えない限り、技術は生かされない


と言います。


技術と共に、いや技術以上に心を磨くことが求められますね。

第580日

【原文】
「其の背(はい)に艮(とどま)り、其の身を獲ず。其の庭に行きて其の人を見ず」とは、敬以て誠を存するなり。「震は百里を驚かす。匕鬯(ひちょう)を喪わず」とは、誠以て敬を行なうなり。震艮(しんこん)正倒して、工夫は一に帰す。


【訳文】
「背(見ざる所)に止まれば、欲心に乱されることが無いので、忘我の境地になれる。外に出ても人(外物)のために煩わされることが無い。まったく禍なく安泰である」とは、敬して誠を存するものといえる。次に「雷(震の象)鳴が方百里の遠きに及んで驚かすことがあっても、宗廟の祭祀に祭用の匙や香酒を手にする者は、戒慎恐懼してそれを取り落とすことがない」とは、誠心をもって敬を行なうからである。すなわち、震(動)と艮(止)とは正反対のものではあるが、誠・敬の工夫は一つに帰するものである。


【所感】
『易経』艮為山(ごんいさん)の卦に、「その背に艮(とど)まりてその身を獲ず。その庭に行きてその人を見ず。咎なし」とあるのは、敬の心をもって誠をその身に存するということである。同じく、震為雷の卦に「震は、亨る。震の来るとき虩虩(げきげき)たり。笑言啞啞(あくあく)たり。震は百里を驚かせども匕鬯(ひちょう)を喪わず」とあるのは、誠の心をもって敬を行うということである。震艮は間逆のものであるが、敬と誠の工夫はひとつに帰するものである、と一斎先生は言います。


まず最初に掲載されているのは、『易経』艮為山の卦辞です。


その意味は、


人間が外部の事象を感受する器官は、全て人体の前面にある。耳も目も鼻も口もしかりである。また手足も全てが前に向って動くのである。しかし身体の背面には全く感受する器官がない。背中は沈黙して己の分限にただ止まっているのである。その止まっている自分自身すら自覚していないのが背である。従って、人が多く居るはずの庭に行っても、誰も人を見ないのである。人が居ないのではない。無私・無我であればたとえそこに人が居ようとも、居ないのと同様である。外界のいかなる事物事象にも影響されないのである。その止まるところに止まるならば、自分自身の世界を、他のいかなるものにもおかされることがない。咎のあろうはずがないのである。(鹿島秀峰先生訳)


となります。


続いて震為雷の卦辞の意味は、


震雷が鳴ると人々は大いに恐れおののく。しかし雷鳴が止むと人々は安心し談笑するのである。震雷が激しくて百里四方を驚かすことがあっても、天子や皇太子はその雷鳴にとり乱して鼎の中からご馳走をすくい上げて神に捧げるためのさじや、神にお供えする酒の器を取り落とすようなことをせず、泰然自若とした態度を以て先祖の祭祀をとり行うのである。(鹿島秀峰先生訳)


となります。


さて、問題はこの2つの易の卦に対する一斎先生の解釈です。


ここから敬と誠を取り出しているのですが、この解釈は難しいですね。


森信三先生は、


敬とは己を空しうすること


と定義づけておられます。


それを考慮に入れるならば、


心を空にして、無我の境地に達するするなら、五感で感じるものに影響をされずに、本来の誠を尽くすことができる。


という解釈になるのでしょうか。


また後半部は、


己の中にしっかりと誠があるならば、外界からの脅しなどに屈するはずはない。


という解釈になりそうです。


よって、この二つは正反対であっても、その工夫については同一に帰するのだと解釈できそうです。


分かったような分からないような解釈ですが、凡愚の小生にはこれが限界です。

第579日

【原文】
人身にて、臍(せい)を受気の蒂(てい)と為せば、則ち震気は此れよりして発しぬ。宜しく実を臍下に蓄え、虚を臍上に函(い)れ、呼気は臍上と相消息し、筋力は臍下よりして運動すべし。思慮云為(しりょうんい)、皆此に根柢す。凡百の技能も亦多く此くの如し。


【訳文】
人体についていえば、臍というものが、気(元気、活動の根源)を受ける蒂(ほぞ)とすれば、生生とした陽気(震気)はこの臍から発動するのである。それで、気を臍下の所(気海丹田)に蓄え、臍の上を虚にして(力をぬいて)、呼吸はこの臍の上と相通じ、筋肉の力は臍の下の所(丹田)から発するようにして体を運動さすのがよい。物事を考えたりなしたりすることも、皆ここに根源をおくのである。あらゆる技能も総て臍下丹田にもとづかないものはない。


【所感】
人間の体では、臍は気を受ける場所であり、生生活動の気は臍から発生している。よく臍下丹田に力を蓄え、心は空しくして、呼吸は臍上と通い合い、筋力は臍下から発するようにして体を動かすべきである。物事を考えるのも、何事かなそうとすることも、みなここに根源がある。どのような技能であっても、ほとんどはこの点が重要である、と一斎先生は言います。


本章もまた小生の理解の範疇を超えております。


ただし、心は空しくして、臍下丹田に力を入れよという教えは、よく耳にするところでもあります。


最近は体幹を鍛えるということもよく聞きますね。


そもそも体幹を鍛えるためには、まず臍下丹田に力を入れることが必要なように思います。


そしてもちろん心に迷いがないことも重要です。


ここで思い起こされるのは、森信三先生が提唱された「腰骨を立てる」ということです。


腰骨を立てて座るからこそ、臍下丹田がしっかりと前に突き出されて、力を入れることも可能になります。


結局は正しい姿勢で正しい呼吸をすることが、大きな仕事を成し遂げる上で、一番大切なことなのでしょうか。


小生などは昔から姿勢が悪いとよく指摘をされてきました。


大したことも為さぬまま今に至るのも至極当然なのかも知れません。

第578日

【原文】
震は乾陽の初起たり。即ち気質なり。其の発して離虚に感ずれば、則ち雷霆(らいてい)と為り、坎実(かんじつ)に触るれば、則ち地震と為り、人に於いては志気と為る。動天驚地の事実も、亦此の震気の外ならず。


【訳文】
易によると、震は陽気の原(もと)で、色々な場合に触れてこの気が発動して、離の虚に感ずると雷霆となり、坎の実に感ずると地震となり、人においては志気(意気ごみ)となる。世間がびっくりするような大事業をなすのも、この震気の発動にほかならない。


【所感】
『易』によると、震の卦はの初めて発動する気のもとである。この気が発動して離の虚に感ずれば雷霆らいていとなる。の実(地中の深い穴)に感ずれば地震となる。人間に於ては「やる気」になる。世間を驚かすような大事業を成し遂げるのは、この震気の発動に他ならない、と一斎先生は言います。


この章は、すべて『易経』を下に一斎先生のお考えを述べている章句のようです。


ただし、その意図するところは小生には解読不能です。


念のため、理解できる点だけを触れておくと、


『易経』の震の卦は、一陽がはじめて二陰の下に生じた形であるので、陽の始まりだと一斎先生は仰っているのだと考えられます。


同じく『易経』において、上卦が離、下卦が震となるのは豊の卦で、その象伝には「雷電皆至るは豊(ほう)なり」とあります。


離の虚というのは、離卦の中爻が陰爻であることを言っているようです。


更に『易経』で、上卦が坎、下卦が震となる卦は屯(ちゅん)の卦で、その彖伝には「剛柔始めて交わって難生ず」とあります。


『日本思想大系』の解説によれば、震のはたらきは動、坎のはたらきは陥であるところから、「地震となる」としたのではないかと書かれています。


坎の実というのは、坎の卦の中爻が陽爻であることを言っているようです。


これも『日本思想大系』の解説から借用ですが、『易経』説卦伝によれば、 震卦の象は雷で生気を動かし、そのはたらきは動で、万物は震から生まれ出るとあるところから、一斎先生は志気が生ずると発想したのではないかと記されています。


いずれにしても小生の理解のレベルは超えているのですが、震の卦にあるように、動くということは大切であり、何ごとも志をもって動くことでしか成されないと理解しておきます。


為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり


という、上杉鷹山公の言葉が思い起こされます。

第577日

【原文】
人は地気の精英たり。地に生れて地に死し、畢竟地を離るること能わず。宜しく地の体の何物たるかを察すべし。朱子謂う「地卻って是れ空闕(くうけつ)の処有り。天の気貫きて地中に在り。卻って虚にして以て天の気を受くる有り」と。理或いは然らん。余が作る所の地体の図、知らず、能く彷彿を得しや否やを。


【訳文】
人は地の気の中で最も優れたものである。人間は大地に生まれて大地に死んでいくが、一生涯大地から離れることはできない。大地の本体がどんなものであるかをよく考察するがよい。宋の大儒、朱子は「地には欠けた所があって、天の気がその欠けた所を貫いて地の中に通じている。大地の欠けた所が、天の気を受ける」といった。物の筋道はそうかもわからない。自分が作った地体の図は、朱子の考えとよく似ているだろうかどうだろうか。


【所感】
人間は地の気の精妙なる英気である。大地の上に生まれ、大地の上で死に、結局大地を離れることはできない。よく大地の本体がどういうものなのかを察するべきである。朱子は「地にはすき間があり、天の気がそのすき間を貫いて地中に通じている。かえってそのすき間によって天の気を受けるのだ」と言った。理屈はそうかもしれない。私が作った地体図は果してこの朱子の思考に似ているのであろうか、わからない、と一斎先生は言います。


朱熹によれば、


すべての存在は陰陽であり、陰陽只是一気で、気でない物はない。つまりすべての物は気で構成される。


ということです。


そして人間は地の気でできた究極の物であるということのようです。


吉田松陰先生の言葉に、


地を離れて人なく、人を離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ。


とありますが、この言葉も本章の一斎先生の言葉と同趣旨のものでしょう。


地の生成物である人間について考察するためには、地の理を究めなさいということのようです。


とはいえ、天と地は一体でもあるので、地はもともと天の気を受けている。。。


朱子学の奥深き場所、混とんとした世界についてはまだまだ理解できるほど学んでおらず、これ以上やると支離滅裂になりそうです。


現時点では、人事について究めるならば、大自然の法則に逆らわないことだ、という一般的な理解に止めて、本章の徒然の戯言を終えます。
プロフィール

れみれみ