一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年10月

第627日

【原文】
気運には常変有り。常は是れ変の漸(ぜん)にして痕迹(こんせき)を見ず。故に之を常と謂う。変は是れ漸の極にして痕迹を見る。故に之を変と謂う。春秋の如きは是れ常、夏冬の如きは是れ変。其の漸と極とを以てなり。人事の常変も亦気運の常変に係れり。故に変革の時に当たれば、天人斉しく変ず。大賢の世に出ずる有れば、必ず又大奸の世に出ずる有り。其の変を以てなり。常漸の時は則ち人に於いても亦大賢奸無し。


【訳文】
気運には常と変とがある。常は徐々に変化するから跡形を見ない。それでこれを常という。変は徐々に変化して極に至ったもので、これには跡形がある。それでこれを変という。春と秋とは徐々に変化していくので常であり、夏と冬とは変化が極に達するもので変である。人事についても、気運の常・変と関連している。それで変革の時には、天も人も同じく変化する。大賢人が世に出ることがあり、大悪人が世に出ることもある。これは変である。徐徐に変化していく時には、人間界にも大賢人や大悪人なども出現しない。


【所感】
気運には常と変とがある。常は徐々に変化していくので痕跡がない。よって常という。変は徐々に変化したものが極に達したもので痕跡がある。よってこれを変という。例えば、春と秋は徐々に変化するので常、夏と冬は変化が極に達するものであり変である。人事に関しても、この気運の常変は同じである。だから変革の時には天も人も共に変化する。大賢人が世に出ることもあれば、また大悪人が出現することもある。これは即ち変である。少しずつ変化して行く時は、人の世に大賢も大奸も現れないものだ、と一斎先生は言います。


諸行無常


という言葉があります。


ご承知のとおり、この世のものはすべて変化し続けている、という意味です。


したがって、「常」と呼ぶ状態であっても、実は少しずつ変わり続けているのだ、と一斎先生は教えています。


そしてその変化が極まったとき、大きな変化が起こります。それを「変」と読んでいるようです。


考えてみれば、何事もない平凡な日常の中でも、私たち人間の身体の衰えは確実に進んでおり、確実に死へと近づいているのです。


例えば大病などもその小さな衰えの極まりだとみることができそうです。


興味深いのは、人の出現も同じだと捉えておられる点でしょう。


そう考えてみれば、春秋末期、周の礼制度が乱れきった世の中に孔子という聖人が出現したのも、偶然ではないのでしょう。


ところで小生には、現在の我が国もかなり変が極まった時代だと思えるのですが、まだ大賢人は出現していないようです。


しかしながら、きっと若き政治家の中にこの日本を救う大賢人がいるのだと期待したいものですね。

第626日

【原文】
相位(しょうい)に居る者は、最も宜しく明通公溥(めいつうこうふ)なるべし。明通ならざれば則ち偏狭なり。公溥ならざれば則ち執拗なり。


【訳文】
大臣の地位におる者は、最も国の事情に精しく通じ、物事を処するに当たっては、公明正大であるのがよい。事情に精通しておらなければ、一方に偏して狭くなってしまう。公明正大でなければ、頑固になって事理に通じなくなる。


【所感】
宰相の地位に在る者は、特に世の中の事情に明確に通暁し、また処理に際しては公明正大でなければならない。通暁していなければ偏りが生じ視野が狭くなってしまう。また公明正大でなければ頑固になってしまう、と一斎先生は言います。


宰相に地位にある人でなくても、人の上に立つ人であれば、やはり視野は広く、また公平な対応が必要なことは同じでしょう。


特に兆しを敏感につかむことができるかどうかは、リーダーの資質として特に重要かも知れません。


メンバーはどうしても目の前のことに没頭するあまり、虫の目でしか物事を見れなくなります。


そんな時こそ、リーダーは鳥の目で広く俯瞰的に物を見て、判断を下すことが求められます。


またリーダーは公平であるべきだと一斎先生は指摘されています。


平等と公平は違います。


平等を意識すると、悪平等となる危険性があります。


人には分際があり、皆能力が違います。


その人の能力に応じた仕事を与え、適正に評価することが公平な対応とされます。


売上を達成した営業マンとそうでない営業マンに処遇の差がなかったら、達成した営業マンは腐って真面目に仕事をしなくなるでしょうし、達成しない営業マンも何も成長しません。


リーダーは明通公溥なるべし。


覚えておきたい章句です。

第625日

【原文】
才有りて量無ければ、物を容るる能わず。量有りて才無ければ、また事を済(な)さず。両者兼ぬることを得可からずんば、寧ろ才を舎(す)てて量を取らん。


【訳文】
人は才能があっても度量が無ければ、人を寛大に受け入れることはできない。これとは反対に、度量があっても才能が無ければ、物事を成就することはできない。才能と度量の両者を兼ね備えることができなければ、いっそのこと、才能の方をすてて度量のある人物になりたい。


【所感】
人は、才能があっても度量が無ければ、人を受け容れることはできない。逆に、度量があっても才能が無ければ、事を成就することはできない。仮に才能と度量の両者を兼ね備えることができないのであれば、才能の方を捨てて度量のある人物になろうではないか、と一斎先生は言います。


これまでに何度も紹介していますが、私が私淑する伝説の営業人・中村信仁さんの名言に、


心が技術を超えない限り、技術は生かされない。


とあります。


本章で言えば、


才 = 技術 
量 = 心


と捉えて良いのではないでしょうか。


安岡正篤先生の高弟・伊與田覺先生はこう仰っています。


人間には「徳」と「才」の両方が大切でありますが、才よりも徳の優れた人を君子といい 徳よりも才のほうが優れている人を小人というのです。また、自分よりも他人を大切にす る人を君子といい、自分を中心に動く人を小人といいます。さらに、徳も才も両方ともに 優れておりながら、なお徳のほうが才よりも優れている人は「大人」「人物」という。「賢」 というのもこれにあたります。同じく徳も才も優れているけれど、才のほうが徳よりもな お優れている人を「人才(人材)」というのです。逆に才も徳も少ないけれども、徳のほうがちょっと優れている人を「賢」に対して「愚」というんです。(『己を修め人を治める道』伊與田覺著、致知出版社)


一斎先生も、「徳」が「才」に勝った人間でありたい、つまり君子たらんと努めたということでしょう。


小生もせめて、「賢」となることを志して、日々精進していきます。

第624日

【原文】
王荊公(けいこう)の本意は、其の君を堯舜となすに在り。而も其の為す所皆功利に在れば、則ち群宵(ぐんしょう)旨を希(ねが)い、競いて利を以て進み、遂に一敗して終を保つ能わず。究(つい)に亦自ら取る。惜しむ可し。後の輔相(ほしょう)たる者宜しく鑑みるべき所なり。


【訳文】
政治家王安石の本心は、その君主(神宗)を堯舜のような立派な聖天子にしようとするにあった。しかし、その為す所は総て功名利欲にあったがために、多くの小人達は彼の趣旨をこい願い、専ら利に進み、そのために遂に失敗して終りを全うすることができず、とうとう責任をとって地位を去ってしまった。誠におしいことである。後の世の宰相や大臣たる地位にある者は、この失敗の先例に照らしてよく考え心売るべきである。


【所感】
宋の王安石の本心は、自分の君主を堯や舜のような立派な君子にしようとするところにあった。然し、その為す所は全て功名利欲にあったので、群小の人物達は彼に迎合し、互いに利得を争ったために、最後には失敗し、終わりをまっとうできなかった。これは自ら招いたことで惜しむべきことである。後世の大臣や宰相はよくこのことを鑑みておくべきである、と一斎先生は言います。


高い志を抱いても、実際の行動が伴わなければ、その志を成し遂げることはできないということでしょう。


王安石という人は、いわゆる改革派のひとりで、法律を一気に改めて守旧派と大論争を展開した挙句に、敵に担がれた皇太后の策略によって失脚してしまった人物なのだそうです。


人の上に立つ人はある程度独裁的・独断的でなければなりません。しかし、そこに私欲が絡むと専制的となり、足元をすくわれることになるのでしょう。


川渕三郎氏が言っている、


私欲のない独裁者、それがリーダーの条件だ 


という言葉は、言い得て妙ではないでしょうか。


私欲のない人物とはよく水に譬えられます。


『老子』の有名な章句に、


上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に居る。故に道に畿(ちか)し。


とあります。


水は万物に恩恵を与えながら、相手に逆らわず、人の嫌がる低い所へと流れていく。だから道のあり方に近いのである。


という意味です。


しかも水は清濁併せ呑む度量ももっています。


リーダーたる者は、水の如く私欲を消し去り、強い独裁力でメンバーを導いていかなけれならないのです。

第623日

【原文】
三軍不和なれば、以て戦を言い難し。百官不和なれば、以て治を言い難し。書に云う、「寅(つつしみ)を同じくし、恭しきを協えて、和衷せん哉」と。唯だ和の一字、治乱を一串す。


【訳文】
全軍が一致和合しなければ、戦争のことを口にすることはむつかしい(戦争はとてもできない)。役人がことごとく一致和合しなければ、政事を口にすることはでき難い(善政はむつかしい)。『書経』にも「同僚が互いに敬を重んじ誠を尽くして和合せねばならない」とある。ただ、和の一字は、国の治まっている時でも乱れている時でも、一貫して肝要である。


【所感】
全軍がひとつにまとまっていなければ、戦争などできるはずもない。官僚がひとつにまとまっていなければ、政治などできるはずがない。『書経』皐陶謨(こうようぼ)にも「寅を同じくし、恭しきを協えて、和衷せん哉」とある。ただただ「和」の一字こそが治乱を決定するのだ、と一斎先生は言います。


まずここに引用された書経の言葉からみておきます。


【原文】
天、有礼を秩す。我が五礼を自(もち)いて、五庸ならん哉。寅を同じうし、恭を協(かな)えて、和衷ならん哉。


【訳文】
天は人々の間に尊卑の差を置き、礼を定めてその間を調えておられます。君主は、これに則り、我が公侯伯子男の五段階の礼を用いて、貴賤の関係が乱れぬようにされねばなりません。諸侯たちが、敬しあいうやまいあって、互いに仲良くするように導かれねばなりません。(『世界古典文学全集』より)


これは、帝舜に仕えた皐陶という司法長官と舜から皇位を継承した禹との会話の一部で、皐陶が禹に言った言葉です。


礼の制度を整えて諸侯が反目しあうことのない様にすべきだとの忠告ですね。


和を以て尊しと為す


とは聖徳太子が制定した十七条の憲法の最初の言葉です。


この言葉の出典は『論語』にあります。


【原文】
有子曰わく、禮の和を用て貴しと為すは、先王の道も斯を美と為す。(為政第二)


【訳文】
有先生が言われた。
「礼に於いて和を貴いとするのは、単に私の独断ではない。昔の聖王の道も美しいことだとした」(伊與田覺先生訳)


戦争で勝利を収めることができるか否か、あるいは政治で民を治めることができるか否かは、「和」の一点にかかっていると一斎先生は断じています。


一方でここで取り上げた『書経』の言葉も『論語』の言葉も、和を保つためには「礼」が不可欠であることを述べています。


我々が組織に置いてマネジメントを行う際にも、メンバーが互いに親しみ合うことは重要ですが、それが馴れ合いになってしまっては、大事なときに力を発揮できないでしょう。


上司と部下、先輩と後輩、あるいは目上の人に対する丁重な起居動作といった「礼」をしっかりと整えることが何より重要なのです。


そう考えてくると森信三先生が仰っているとおり、椅子をしまい、靴のかかとを揃え、挨拶をする、という基本をまずはきっちりと社員さんに浸透させることから始めなければなりません。


そして、そのためにはまずリーダー自らが正しい礼を身につけていることが前提となります。


リーダーの皆さん、


正しい挨拶ができていますか? 


社内および客先で靴のかかとを揃えていますか?


立ち上がる際に、椅子はしっかりと机の中のしまっていますか?
プロフィール

れみれみ