一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2016年12月

第688日

【原文】
愛敬の心は即ち天地生生の心なり。草木を樹藝し、禽虫(きんちゅう)を飼養するも、亦唯だ此の心の推なり。


【訳文】
愛し敬う心というものは、天地が万物を生々化育する心と同じである。草木を植えたり、または鳥や虫などを飼育することも、愛敬の心を推し進めたものである。


【所感】
愛敬の心とは天地が万物を生々化育する心だともいえる。草木を植えて育てたり、鳥や虫を飼育するのも、この心を推進したものなのだ、と一斎先生は言います。


ここでは愛敬の心を育むのに、植物を育てたり、生き物を飼育することが役に立つということを言われています。


何度か紹介した中江藤樹先生の言葉のように、人は生れると、まずは親に対する愛敬の心を持つところが出発点となります。(逆に言えば、愛敬される親とならねばならない訳です)


そして天地が万物を等しく生々化育するように、何人も、何ごとも愛し敬していくためには、次に生き物を育てることが良いということになりそうです。(これも親の立場からすると、子供に生き物を大切にするという経験をさせるべきだということです)


現代の日本は核家族化が急速に進んでおり、二世帯住宅すらほとんど見られなくなってきました。


こうした現状においては、子供のうちに愛敬の心を育成するには、ペットの存在がとても重要なのかも知れません。


子供のうちに親を愛敬し、ペットを愛敬する心を育んでおけば、社会に出ては上司を愛敬し、また部下を愛敬できる人物となれるのだ、と一斎先生は言いたいのでしょう。


小生はあまりペットというものに愛情が湧かない人間ですが、これではいけないということでしょう。


ちょうど昨日より実家に帰省しておりますので、実家で母親がいまや我が子のように可愛がっている猫たちに愛敬の心を尽くしてみましょう。


これで今年の一日一斎は終了です。


今年も一年間休まずに投稿できました。
お付き合い頂き、いいね!やコメントをくださったすべての皆様に感謝を申し上げます。


来年ももちろん元旦から投稿します。


引き続きよろしくお願いします。

第687日

【原文】
書室の中、机硯(きけん)書冊より以外、凡そ平生使用する所の物件、知覚無しと雖も、而も皆感応あり。宜しく之を撫愛(ぶあい)して、或いは毀損すること莫(な)かるべし。是れ亦慎徳の一なり。


【訳文】
自分の書斎の中に在る机・硯・書物などはもちろんのこと、それ以外の物でも、およそ平生使用している物品には、知覚は無いけれども、みな各々感応がある。それで、それらの物品を心から大切に扱って、傷つけたりこわしたりするようなことがあってはよくない。これもまた、自分の徳を修養することの一つでもある。


【所感】
書斎にある机や硯、書物など日常の生活で使用する物には知覚はないが、それぞれ感応がある。それらを大切に扱い、毀損することがない様にするべきである。そしてそれもまた徳を積むことの一つといえるのだ、と一斎先生は言います。


昨日につづき、感応についての章句です。


ここでは比較的自分に近い物との感応について記載されています。


流の人は皆道具を大切しています。


一見するとチャラい印象のある元日本ハムファイターズの新庄剛志選手は、引退会見で引退の理由を聞かれた際にこう言ったそうです。


「こいつ(新庄選手のグローブ)がもうプレーできないと言っていました」


実は新庄選手は、プロ野球選手になって最初の給料の中から8000円で購入したグローブを引退時まで使用し続けていました。


最近の選手はグローブを毎年新調するそうですが、新庄選手は4度も大手術をしながら同じグローブを使い続けたそうです。


しかし、そのグローブがもう限界に来た。だから引退するのだと。


それが引退の真相がどうかなどどうでもよいことです。


この事実と最後のコメントがあまりにも素敵で格好良いではないですか!


この新庄選手の物語は、物を粗末にせず大切に使い続けることこそ人間修養そのものである、という一斎先生の言葉の見事な実践例ではないでしょうか。

第686日

【原文】
物我の一体たるは、須らく感応の上に就いて之を認むべし。浅深有り厚薄有り。自ら誣(し)う可からず。察せざる可からず。


【訳文】
万物と我れとが一体であるということは、物と心とが互いに感じこたえる上からして、これを認めるべきである。その物と心の感応には浅い深いとか厚い薄いとかの程度がある。これを自らいつわることはできない。十分に観察すべきである。


【所感】
万物と自分とが一体だということは、すべて物と自分とが互いに感応することでそれを確認することができる。その感応には浅いか深いか、厚いか薄いかの違いがある。その感応の程度を偽ることはできない。十分に観察すべきことである、と一斎先生は言います。


この章には久し振りに歯が立ちません。


久須本先生の訳文もよくわかりません。


こういう時はいま流行の「超訳」で逃げてしまいましょう。


第522日のところで、「物我一体なるは即ち是れ仁なり」という言葉を取り上げています。


客観的な物と主観的な自我とが一体となることは仁なのだと一斎先生は言っています。


それは言い換えれば私と公との一致だとも言っています。


万物それぞれと自分との間にはもちろん関係の濃淡はあるでしょうが、人間を含めたすべての物体は天と地から生れていると、一斎先生は度々言っていますので、大きな捉え方をすれば、人間とまったく無関係でつながりのない物は世の中に存在しないということになります。


どんな事物に接する際でも、公を表にし、私を抑えることができれば、人間として成長できるということでしょう。


しかしそれではまだ忍耐のレベルですので、自分を偽るということになります。


そうではなくて、


忍は忍なきに至ってよしとす 


という石田梅岩先生のお言葉のように、何事に対しても自然に公の気持ちで接することができる人間を目指しなさい、と一斎先生は言いたかったのではないでしょうか?

第685日

【原文】
天下の人は皆同胞たり。我れ当に兄弟の相を著(つ)くべし。天下の人は皆賓客たり。我れ当に主人の相を著くべし。兄弟の相は愛なり。主人の相は敬なり。


【訳文】
天下の人は総て同じはらから出た兄弟姉妹であるから、兄弟姉妹のようにして付き合わなくてはいけない。また、天下の人はことごとく客人であるから、主人のようにして大切に対応しなければいけない。兄弟の如くにしていくということは愛(いつくしむ、したしむ)であり、主人の如くにしていくということは敬なのである。


【所感】
世の中の人は皆自分にとって兄弟のような肉親と同じであるから兄弟のように対応すべきである。また世の中の人は自分にとって大切なお客様でもあるから、お客様迎える主人のようであるべきである。兄弟のように接することは愛であり、主人のように接することは敬である、と一斎先生は言います。



世の中の人は皆自分にとって肉親のようなものであると共に、大切なお客様でもある


という一斎先生の例えは秀逸です。


予断ですが、小生が子供の頃、日本船舶振興会の笹川良一会長がテレビCMにて、


世界は一家、人類は皆兄弟 


と言っていたのを思い出します。


本当に世界中の人々がこういう思いで暮らしていたら、聖戦とかいう虚偽の大義名分をもって人を殺しあうことも無くなるでしょうね。


本章でとても腹落ちしたのは、人を敬するということは、相手を大切なお客様のようにもてなすことだ、ということです。


愛敬という言葉は、近江聖人と言われた中江藤樹先生が大切にしていた言葉です。


藤樹先生はこの言葉を「あいぎょう」と発音していたようです。(元は仏教用語)


藤樹先生は言っています。


親を愛する者は人を憎まず、親を敬する者は人を侮らず


この言葉は裏を返せば、人を憎む人というのは人を愛せない人であり、人を侮る人というのは人を敬せない人だということです。


そして、この愛敬はまず両親に育てられる中で育まれる徳だということです。


子をもつ親として、子供に愛され尊敬される親となるためには、まず自分が子供を愛し、子供を敬うことが先だということかも知れません。


皆さんはお子さんを愛し敬していますか? 


ご両親を愛し敬していますか?

第684日

【原文】
人の一生には、順境有り逆境有り。消長の数、怪しむ可き者無し。余又自ら検するに、順中の逆有り、逆中の順あり。宜しく其の逆に処して敢て易心(いしん)を生ぜず、其の順に居して敢て惰心(だしん)を作(おこ)さざるべし。惟だ一の敬の字、以て逆順を貫けば可なり。


【訳文】
人の一生には、得意(万事都合のよい幸運)の境遇もあれば失意(思うままにならず苦労多い不運)の境遇もある。これは栄枯盛衰の自然の理法であって、少しも怪しむべきことではない。自分が調べて見るに、ただ順境・逆境と一律にいっても、順境の中でも逆境があり、また逆境の中でも順境がある。それで、逆境にあっても決して不平不満な心や自暴自棄な気持を起さず、順境にあっても怠りなまける心や満足な気持を起さぬようにするがよい。ただ、敬の一字をもって順境・逆境を終始一貫すればそれでよいのである。


【所感】
人の一生には順境(良いとき)もあれば逆境(悪いとき)もある。この消長の理法は宇宙の摂理に則っているので疑うべきものではない。私が自分で検証したところでは、実は順境の中に逆境があり、逆境の中に順境があるものである。それゆえ、逆境だからといって自分の想いを簡単に変えたりせず、また順境のときには怠け心を起こさないことが大切である。ただ敬の一字をもって順逆に対処すれば良いのだ、と一斎先生は言います。


以前(第220日) にも紹介しました坂村真民さんの詩、幸せの帽子を再掲します。


幸せの帽子

すべての人が幸せを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの
正体だったりするのだ
わたしも小さい時から
不幸の帽子を
いくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることを
決して怨んだりしてはならぬ


不幸の帽子をかぶった幸せとは、ここでいう逆境の中の順境と重なります。


小人と君子の違いは、目の前の出来事に対する対応でわかると言われます。


つまり、小人は一喜一憂するが、君子は禍福始終を知って惑わないのです。


では、具体的にはどうしたら小人は君子に近づけるのでしょうか?


小生が日頃から意識していることは、常に逆境の人を思いやる気持ちをもつことです。


たとえば、競争で勝利した場合は、その陰で泣いている敗者の気持ちやその家族の気持ちを思いやる。


逆に、競争で敗北した時は、同じように敗北に嘆き悲しんでいる人たちの希望となるためにも再び立ち上がってチャレンジする。


小生はパワハラで訴えられた駄目上司でした。


しかし、そこから学んだことを活かしてすばらしい人生を手に入れようと精進しています。


それが同じパワハラで不遇の環境にある人の希望となれば幸いです。


逆境の後にしか幸せの花は咲きません。


一斎先生の言うように、常に人を敬い慎む心をもち続けていけば、幸せの方から近づいてきてくれるかも知れません。
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