一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年01月

第719日

【原文】
人事百般、都(すべ)て遜譲(そんじょう)なるを要す。但だ志は則ち師に譲らずして可なり。又、古人に譲らずして可なり。


【訳文】
世の中におけるいろいろな事柄については、人にへりくだって譲る心がけが必要である。ただ、志だけは師に対して遠慮しなくともよい。また、古人に対しても遠慮するに及ばない。


【所感】
人間社会の様々な出来事は、すべて謙遜と謙譲の心で対応することが求められる。ただし、志だけは師匠に対しても安易に譲る必要はない。また昔の偉人にも遠慮する必要はない、と一斎先生は言います。


師に譲らずという表現は、『論語』衛霊公篇にあります。


【原文】
子曰わく、仁に當りては、師にも譲らず。


【訳文】
先師が言われた。「仁徳を行うに当っては、先生にも遠慮はいらない」


本章の趣旨は、世の中を渡っていくには、常に人にへりくだる心を持ち続けることが重要であるが、ただのお調子者や腰抜けとなってはいけない。自分の志だけはそう簡単に曲げることのないように、一本筋を通しておくべきである、ということでしょう。


中江藤樹先生は、学問とは人にへりくだることを学ぶことだと言っています。


人にへりくだることを実践するに当っては、小生が師事する中村信仁さんのいう、


少し損をする生き方


を心がけると良いのではないでしょうか。


少し損をする生き方とは、


本を買うときは、一番上にある手垢のついた本を買う。 

牛乳を買うときは、賞味期限の古いものを買う。

駐車場に車を停車するときは、なるべく入り口から遠いところに停める。


といったことを実践することです。


少しだけ自分が損をするだけで、少しだけ誰かが得をします。


こうした実践を陰徳を積むとも言います。


陰徳を積んで譲る心を鍛えましょう。

第718日

【原文】
学は須らく心事の合一するを要すべし。吾れ一好事を做(な)し、自ら以て好しと為し、因(よっ)て人の其の好きを知るを要するは、是れ即ち矜心(きょうしん)除かざるなり。便(すなわ)ち是れ心事の合一せざるなり。


【訳文】
学問をするには、自分の心とその行ないとが合致して一つとならなければならない。自分が一つの好い事をして、自分でも好いと認め、それによって、人にそのよさを認識してもらうように要求することは、すなわち、人に誇る心がまだ取り除かれていないからである。これは心と行ないが一致していないというものである。


【所感】
学問というものは人の心と行為とが一致していなくてはならない。自分が一つ良い事をして、それを是認し、他人に良いことをしたことを知ってもらおうという気持ちがあるならば、それは虚栄心が取り除かれていないということであり、心と行いの不一致であるといわざるを得ない、と一斎先生は言います。


荀子は、学問というものは立身出世のためにするものではないと断じています。


立身出世のために学問をすると、周囲の人との差別化を図るためにも、人に誇ることが必要になります。

そんなものは本当の学問ではないと一斎先生は言います。


『礼記』という古典に以下のような言葉があります。


【原文】
学びて然る後に足らざるを知り、教えて然る後に困しむを知る。(学記篇)


【訳文】
学んでみて初めて自分の知識も人格もいかに不十分なものであったかが自覚できる。教えてみて初めて、教えることのむずかしさがわかる。(守屋洋先生訳)


学べば学ぶほど自分の至らなさに気づき、一段と修養を積まなければならないことを自覚するはずだ、ということでしょう。


したがって、人に誇る暇などあろうはずがないのです。


自分の心と行ないが一致するというのも、自分が描いている理想を行動に移すことだと言えるのではないでしょうか? 


そうだとすれば、そうそう言行が一致するわけではなく、常に行動が不足するはずです。


仮に言行が一致するようになったと感じたなら、より高いレベルで言行一致を図るべきです。


満足すれば成長は止まります。


常に不足を思って、学び続けましょう。

第717日

【原文】
道を求むるには、懇切なるを要し、迫切(はくせつ)なるを要せず。懇切なれば深造し、迫切なれば助長す。深造は是れ誠にして、助長は是れ偽りなり。


【訳文】
道を求める態度は、熱心にやることが大切で、あせってはいけない。物事に熱心であれば、道の奥まできわめることができるが、あせってやれば、苗を助け長ぜしめることの害あるが如く、無理に事をすることになる。道の奥まで至ることは誠の道であり、助長(無理)することは正しくない偽りの道である。


【所感】
道を求めるには、丁寧に真心を込めることが必要であって、せっかちに急いではいけない。丁寧に真心をこめれば、奥深く道理に至り、せっかちに急げば自然の摂理に逆らって無理を強いることになる。奥深く道理に至るのは誠であって、無理を強いることは偽りである、と一斎先生は言います。


の章に出てくる「助長」という言葉は、現代の我々が使う意味とは違っています。


これは『孟子』公孫丑上篇にある言葉で、苗を早く成長させようと手で無理やり引っ張って伸ばすことで、かえって苗を枯らせてしまう、という逸話から取られた言葉です。


要するに、道を求めるのに近道などない、ということです。


書店に行きますと、「3分で○○になれる方法」といった本が山積みされているのを見かけます。


道に限らず、スポーツにおいても、勿論ビジネスにおいても、挫折と失敗を繰り返しながら成長していくのです。


森信三先生も、自分自身で実際に経験したことのみが、自分の身につくものだと言っています。


近道をするという行為は、自然の摂理、つまり大自然のルールに背くことになるのだ、ということをよく理解しておくべきです。


何事も丁寧に心を込めて取り組めば、かならず上達します。


ましてや人生を生き抜くとなれば、それは長くて険しい道を進むことに似ています。


小生は本日、朋友と共に岡崎城を訪ねてきました。


そこでかの有名な徳川家康公遺訓を目にして、あらためてその言葉の深さを噛みしめてきましたので、ここの再掲しておきます。


人の一生は重荷を負うて
遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望み起らば
困窮したるときを思い出すべし     
堪忍は無事長久の基
怒りは敵と思え
勝つことばかり知りて
負けることを知らざれば
害その身に至る
己を責めて
人を責めるな
及ばざるは
過ぎたるより勝れり

第716日

【原文】
存養の足ると足らざるは、宜しく急遽なる時の事に於いて自ら験すべし。


【訳文】
本心を失わぬよう本性を養っていく(精神を修養する)ことが、十分であるかどうかは、急ぎあわてた時に自分でためしてみるがよい。


【所感】
修養が足りているか不足しているかは、緊急時に自ら試してみれば分かることである、と一斎先生は言います。


これはわかりやすいご指摘です。


営業職のリーダーとしての緊急時といえば、お客様からのクレームを受けたときでしょう。


小生も、日頃メンバーに対して偉そうなことを言っているリーダーが、いざクレームとなると逃げ出したという場面を何度か見て、落胆させられた記憶があります。


小生はよく勤務先のリーダー達にこう言っています。


クレームから逃げるリーダーは、メンバーに逃げられることになるよ。


一斎先生の言うように、日頃から人間修養に励んでいるリーダーは、クレーム処理においても冷静かつ大胆にお客様のお困りごとに対応し、最終的にはクレームを商談に変えてしまうことすらあります。


リーダーと呼ばれる地位にある人は、常に人間修養を怠ってはいけません。


ところで、クレーム処理に関していえば、もうひとつ大事なことがあります。


それは、リーダー自らも日頃からお客様のところに定期的に顔を出し、良好な関係を構築しておくということです。


クレームが起きてから、はじめて訪問して名刺を渡すようではいけません。


平時の対応次第でクレーム処理のスピードは大きく変わってきます。


窮すとも濫れないリーダーでありたいですね。

第715日

【原文】
人、得意の時は輒(すなわ)ち言語饒(おお)く、逆意の時は即ち声色を動かす。皆養の足らざるを見る。


【訳文】
一般に人というものは、得意(順境)の時には、いつも言葉数が多い。失意(逆境)の時には、すぐに音声や顔色をかえて動揺する。これはみな修養の足らないことを表わすものといえる。


【所感】
普通の人間は、順境にあっては自然と口数も多くなるが、逆境となると、途端に顔色がくもり、声も小さくなる。これらは皆、修養が足りないのだ、と一斎先生は言います。


この言葉はなかなか痛烈です。


小生は毎月、売上進捗確認の面談を行っているのですが、情熱をもって仕事をしていない人や同じミスを繰り返すようなメンバーには、厳しい言葉で指導をしてしまいます。


こうなると途端に蚊の泣くような声を出す人がいます。


問題なのはこのように落ちこんだ表情や声が小さくなる人に限って、同じミスを繰り返したり、成績が伸び悩んだりするのです。


要するに心から反省しているわけではなく、嵐の過ぎ去るのをじっと待とうと思っているだけなのでしょう。


そんなメンバーの中には、あれだけ落ちこんだ表情だったはずなのに、翌日にはケロッとして元気に出社してくる人がいるのです。


リーダーという立場の人は、そういうメンバーの声色に惑わされることなく、彼らを導いてあげなければいけません。


とはいえ、小生も凡人ですので、想定外のことが起きた場合など同じような状況になってしまうのが現実です。


これに関して興味深い『論語』のエピソードをご紹介します。


祖国を捨てて流浪の旅に出た孔子一行は、あるとき陳という国と蔡という国との国境付近で足止めを喰らい、ほぼ一週間飲まず食わずの状況に陥りました。


お弟子さんの中には自力で立ち上がることができない人もいて、餓死寸前といった状況でした。


そんな状況に怒りを抑えきれなくなった一番弟子の子路が孔子に食って掛かります。


「先生は日頃から君子だとおっしゃっていますが、君子でも困難な状況に陥ることがあるのですか? (要するに、先生は本当に君子なのか、という痛烈な問いです)」


そのとき、孔子は子路にこう言います。


君子固より窮す。小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)る。


訳せば、「もちろん君子だって窮地に立つことはあるさ。そんなとき凡人は大いに慌てふためくものだ。しかし、君子は窮地に立っても決して乱れることはないのだよ」


修養とは、このように乱れない心をつくることを言います。


最後に、これまでにも何度なくご紹介している荀子の言葉を掲載しておきます。


【原文】
君子の学は通ずるが為めに非ず。窮するとも困まず憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり。


【訳文】
君子の学問とは、立身出世のためにするのではない。窮するときも苦しまず、幸福なときも驕らず、物事には始めがあれば終わりがあることを知って、どんなときも平静な心で対処できる人間となるために学ぶのだ。

第714日

【原文】
赤子(せきし)の一啼一咲(いっていいっしょう)は皆天籟(てんらい)なり。老人の一語一言は皆活史なり。


【訳文】
赤ん坊の泣く声や笑う声は、邪気のない天然自然の声である。老人の話や言葉は、総て経験を物語る生きた歴史そのものである。


【所感】
赤ちゃんの泣き声や笑い声は、天が発する天然の音である。老人が発する言葉は活きた歴史の一頁である、と一斎先生は言います。


小生にも二人の息子がおりますが、彼らがまだ愛くるしい赤ちゃんだった頃のことを久し振りに思い出してみました。


今になって思うと、彼らの笑顔や泣き声から、真の大人になるために必要なことをたくさん教えてもらっていたことに気づきます。


子供は天からの授かりものではなく、預かりものだと言われています。


子供は、親である自分を成長させるために、生れてきてくれた神様からの預かりものなのかも知れません。


そうだとすれば、親として成長しながら、子供をよい子、よき大人へと育てて世の中へお返しする必要があるのでしょう。


また、人生の先輩であるお年寄りの言葉には、逆境を乗り越えてきたからこその深みがあり、心に響きます。


また、たくさん苦労をした方ほど、不思議と笑顔に魅力が溢れています。


赤ちゃんの泣き声や笑い声の中に天然の音を聴き、お年寄りの言葉にその人の歴史を感じる。


とても良い言葉です。

第713日

【原文】
怨みに遠ざかるの道は、一箇の恕の字。争いを息(や)むるの道は、一箇の譲の字。


【訳文】
人から怨まれないようにする道は、恕(思いやり)の一字である。人との争いごとを止める道は、譲(謙譲、へり下ってゆずる)の一字である。


【所感】
人の恨みから遠ざかる唯一の道は、恕(おもいやりの心)という一字に帰する。争いごとを円滑に治める唯一の道は、譲という一字に帰する、と一斎先生は言います。


シンプルですがとても腹落ちする有難い言葉です。


恕については、『論語』に有名な件(くだり)があります。


あるとき、孔子の高弟のひとり子貢が孔子に、「生涯身をもって実行していくべき大切なひと言はありますか?」と尋ねます。  


そのとき、孔子は子貢にこう言います。
 

「其(そ)れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿れ」  


訳せば、「それは恕(思いやりの心)だろうな。他人からされて嫌だと思うことは、自らもしないことだよ」となります。


常に人をおもいやる心をもって行動する限り、人から恨まれることがないというのは理解しやすいですね。


つぎに譲るということですが、これについては二宮尊徳翁が思い起こされます。


尊徳翁は報徳精神を大切にせよと呼びかけています。


報徳思想とは「至誠」を基本とし、「勤労」「分度(ぶんど)」「推譲(すいじょう)」を実行するという考え方です。


至誠:まごころのこと。二宮尊徳の仕法や考え方、そして生き方の中心となるもの。
 
勤労:物事をよく観察・認識し、社会の役立つ成果を考えながら働くこと

分度:自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それぞれにふさわしい生活をすることが大切。また、収入に応じた一定の基準(分度)を決めて、その範囲内で生活することが必要。

推譲:将来に向けて、生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておくこと(自譲)。また、他人や社会のために譲ること(他譲)。(以上、真岡市ホームページより)


ここで勉強になるのは、譲ることには、自譲と他譲があるということです。


もちろん本章で一斎先生が伝えたかったのは他譲の方でしょうが、つねに懐が安定していれば精神も安定し、他人に譲ることも可能になると考えれば、自譲がいかに重要かが理解できます。


世の中を上手に生き抜いていくために、「恕」と「譲」という二つの文字を手帳に書き込んでおきましょう。

第712日

【原文】
言を察して色を観、慮りて以て人に下る。世を渉るの法、此の二句に出でず。


【訳文】
『論語』に「達人たるものは、人の言葉をよく理解し、人の顔色を見て心の中を知り、思慮深く周到で人にへり下る」とあるが、これは処世法で、この二句以上のものはない。


【所感】
『論語』に「言を察して色を観、慮りて以て人に下る」という言葉がある。この2点こそ最高の処世術と言えよう、と一斎先生は言います。


ここに掲載されている『論語』の原文は、顔淵第十二篇にあります。


孔子の弟子の子張が孔子に「どういう人が達人と呼べるか」と問うたのに対して、孔子が答えた言葉の中にあります。


その部分を抽出しておきます。


【原文】
夫れ達なる者は、質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦(くに)に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。


【訳文】
元来達人というのは、真正直で、正義を愛し、人の言葉を深く推察してその顔色を正しく観察し、よく考えて人にへりくだる。このようであれば国にあっても必ず通達し、家にあっても必ず通達する。


一斎先生はこのうち、


① 相手の言葉や表情を深く観察する。
② 深く思慮して人を立てる。


という2点こそが処世術の極意だと考えているようです。


小生も長らく営業の世界に身をおいてきましたので、表情を深く観察することの大切さは痛いほど身に沁みています。


言葉では逆のことを言っていても、表情を観れば、ある程度心のうちは見てとることができます。


特に昔から、


目は口ほどにものを言う


という言葉があるように、心のうちは目に表れるものです。


要するに相手の言葉だけでなく、表情やゼスチャーなどあらゆるものを判断材料にして、相手の真意(期待値)をつかむことが大切であり、それさえわかれば後はいかにしてその期待値を上回る提案なり行動ができるかを思慮すればよいということです。


そう考えてくると、この2点はそのまま営業の極意とも言えそうです。

第711日

【原文】
自ら欺かざる者は、人欺く能わず。自ら欺かざるは誠なり。欺く能わざるは間(かん)無ければなり。譬えば、生気の毛孔(もうこう)より出ずるが如し。気盛なる者は、外邪襲うこと能わず。


【訳文】
自分を欺かない人は、他人も欺くことができない。自分を欺かないということは、その人の心が誠実であるからである。他人が欺くことができないというのは、欺く隙間が無いからである。たとえば、体内に充実した生々の気が、毛孔から出てくるようなもので、生気の盛んなものは、外部の邪気が襲うて妨げることができない。


【所感】
自分自身に嘘をつかない人は、他人から欺かれることはない。自らを欺かないというのは誠があるということである。他人が欺くことができないのは、付け入る隙がないからである。たとえば生気が毛穴から出てくるようなものである。生気の盛んな人には外部の邪気も襲うことができないのだ、と一斎先生は言います。


本当に誠実な人というのは、騙そうと思っても騙せるものではありません。


なぜなら、そういう人は悪人が萎縮してしまうようなオーラを醸し出しているからでしょう。


この言葉を逆説的にとらえるならば、人に騙されたくないなら、まずは自分の誠実さを磨けばよい、ということになりそうです。


「誠」という言葉は、『論語』では使われません。


孔子は、「忠」と「信」とを誠の意味で用いています。


忠とは、自分自身に嘘をつかないこと。自分の出来る限りのことを精一杯やることを意味します。


信とは、人に嘘をつかないこと。他人に対して誠実に対応することを意味します。


これが孔子の孫の子思が著したとされる『中庸』になると、「誠」という言葉に集約されていきます。


永業塾塾長の中村信仁さんは、『営業の大原則』(エイチエス)という本の中で、こう言っています。


売れない人は人との約束を守る
売れる人は自分との約束を守る


人との約束を守ることは当然のことです。


一流の営業人は、なによりも自分との約束を大切にして、誰も見ていないからと簡単に反故にすることはありません。


自分に嘘をつかず、自分との約束を誠実に守る人になりましょう。

第710日

【原文】
真偽は誣(し)う可からず。虚実は欺く可からず。邪正は瞞(だま)す可からず。


【訳文】
真を偽としたり偽を真としたりすることはできない。うそと誠は欺くことはできない。なお、邪と正とはだますことはできない。


【所感】
本物か偽物かをないがしろにしてはいけない。事実と作り事を混同してはいけない。正しいことと邪なことを誤魔化してはいけない、と一斎先生は言います。


思い切って意訳してみましたが、この章句の意味はよくわかりません。


偽物にだまされるな、嘘を言うな、邪な心を抱くな、という忠告なのでしょうか?


あるいは、本物と偽物、真実と嘘、正しいことと間違ったことをしっかり明弁できるように鍛錬しなさい、というメッセージなのでしょうか? 


ここでは、本物と偽物の見分け方について考えてみることにします。


森信三先生は、『修身教授録』のなかでこう言っています。


すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。同様にわれわれ人間も、平生それほど違うとも思われなくても、いざ出処進退の問題となると、平生見えなかったその人の真価が、まったくむき出しになってくるのです。先に私は、出処進退における醜さは、その人の平素の勤めぶりまで汚すことになると申しましたが、実は、出処進退が正しく見事であるということは、その人の平生の態度が、清く正しくなければできないことなのです。


本物の大人物であれば昇格や昇給に一喜一憂することもなければ、引き際も美しくさりげなく去っていくものだということでしょう。


ところで、引き際の問題は早く辞めれば美しいというものでもありません。


かつて王貞治選手は本塁打を38本も打っていながら、自分の理想とする本塁打が打てなくなったといって引退しました。


メジャーリーグの快速投手ノーラン・ライアン選手も160kmのストレートが投げられなくなったという理由で引退しています。


そもそもほとんどの打者は38本も本塁打を打てませんし、ほとんどの投手は160kmのストレートを投げることはできません。


普通の感覚であれば、まだできるのにもったいないと思うところですが、この二人の野球人にとっては、美しい弾道を描く本塁打や160kmのストレートこそが自分が野球人であるための証だったのです。


本物であり続けるためには、仕事をしていく上で自分が最も大切にしていること、つまり自分が秘かに抱いている矜持、それが維持できなくなったとき、自ら仕事人とての人生を終えなければいけないのでしょう。
プロフィール

れみれみ