一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年02月

第747日

【原文】
恩を売ること勿れ。恩を売れば卻って怨みを惹く。誉を干(もと)むること勿れ。誉を干むれば輒(すなわ)ち毀(そしり)を招く。


【訳文】
下心があって人に恵みを施す(恩にきせる)な。そのような心持で人に恵みを施せば、かえって人から怨まれることになる。名誉を求めるな。実の伴わない名誉を求めると、すぐに人から毀(そしり)を受けるものである。


【所感】
見返りを求めて恩を売ってはならない。そんなことをすればかえって恨みを買うことになる。名誉を求めてはならない。そんなことをすれば人から誹謗中傷を受けるだけである、と一斎先生は言います。


見返りを求めないということ、人からの評価を期待しないということの2点は、人間という社会的生物にとっては大変に難しいことです。


小生が師事する、永業塾塾長・中村信仁さんから教えていただいた言葉に、


掛けた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め


という言葉があります。


人に掛けた恩は忘れて、人から受けた恩は絶対に忘れるな、という意味の言葉です。


受けた恩については、その人に直接返すよりも、あえてその恩を別の人に施すべきだと言われます。


これを「ご恩送り」といいます。


人から受けた恩というのは、その恩が大きければ大きいほど、すぐには気づけないものです。


時には、その相手がもうこの世に存在しないということもあるかも知れません。


そんなときはそのご恩を次の世代に送って、恩を絶やさないことが重要です。


ご恩返しは一対一で完結します。


ご恩送りはご恩がずっと循環します。


見返りを求めない人からのご恩ならば、その人もご恩送りを望んでくれるはずです。


一方、凡人が下手に地位や名誉を手に入れるとろくなことはありません。


驕れる者久しからず


という言葉がある様に、勘違いをして大きな失敗をし、その地位や名誉を失ってしまいます。


かつての小生がまさにそうでした。


恩を売ること勿れ。誉を干(もと)むること勿れ。


見返りを求めず、名誉を求めない。


志とは、見返りも名誉も求めずに、ただ世の中のためになると信じて実施すべきこと、と定義できます。


見返りも名誉も不要に思えるほどの大志を抱きたいものです。

第746日

【原文】
人は厚重を貴びて、遅重(ちじゅう)を貴ばず。真率を尚(たっと)びて、軽率を尚ばず。


【訳文】
人は重々しく落ちついていることを貴ぶが、動作が遅鈍であることは貴ばない。また、性質が純真で飾りけのないことを貴ぶが、軽々しいことは貴ばない。


【所感】
人はゆったりと重々しいことを尊ぶが、ゆっくりで鈍いことは尊ばない。また、正直で飾り気がないことは尊ぶが、軽率であることは尊ばない、と一斎先生は言います。


厚重という言葉を聞いて思い出すのは、中国明代の人・呂新吾の著『呻吟語』の名言です。


【原文】
深沈重厚なるは、これ第一等の資質。磊落剛勇なるは、これ第二等の資質。聡明才弁なるは、これ第三等の資質。


【訳文】
どっしりと落ち着いて深みのある人物、これが第一等の資質である。積極的で細事にこだわらない人物、これは第二等の資質である。頭が切れて弁の立つ人物、これは第三等の資質にすぎない。(守屋洋先生訳)


一斎先生は、同じ「重」でもゆったりとしているのはよいが、のろまはダメであり、同じ「率」でもまじめなのはよいが、軽いのはダメだとしています。


小生自身、あまり真率という言葉を聞いたことがありませんが、福沢諭吉先生は『学問のすすめ』の中で、


人間交際の要も、和して真率なるに在るのみ


と言っています。


この一斎先生の言葉は、人の性質を分けるものはちょっとした意識の持ち様である、と読むこともできそうです。


厚重さは少し油断すれば遅重となり、真率さも少し気を緩めれば軽率さとなって、相手に伝わるのではないでしょうか?


他人の評価というのは、あくまでもその人の主観です。


だからこそ、相手から厚重、真率な人と見られるように、自分自身をセルフマネジメントしていかなければなりません。

第745日

【原文】
己の長処を言わず、己の短処を護せず。宜しく己の短処を挙げ、虚心以て諸を人に詢(と)うべし。可なり。


【訳文】
自分の長所を人に言いふらすことをせず、また、自分の短所を弁護するようなことをしない。かえって、自分の短所を列(なら)べ挙げ、何のわだかまりもなくさっぱりした気持で、人に相談するのがよい。


【所感】
自分自身の長所については語らず、また自分の短所も擁護しない。ただ短所を認めて、真摯に他人に相談するべきである。それがよいことだ、と一斎先生は言います。


無くて七癖、という言葉もあるように、人は自分のことを分かっているようで、実は分かってないということもあります。


特に短所については、意外と気づいていないものではないでしょうか?


ところが他人から短所を指摘されると、なかなか平静を保つのは難しいものです。


ここで大事になってくるのは、仮に短所を指摘されたとしても、その人の言葉ならと、冷静に受け止められる様な心を許した友や仲間を持つことでしょう。


例えば職場においても、上司から指導されるよりも、先輩から指摘された方がスンナリと腹に落ちるという場合があります。


特にリーダーという立場にある人は、勇気をもって諫言をしてくれる信頼できる部下を持つことで、独裁に陥る弊害を除くことができます。


パワハラリーダー時代の小生は、心から信頼できるナンバー2を置くことができていなかったように思います。


それはすなわち小生が彼らを信頼して任せるということが出来ていなかったからに外なりません。


宜しく己の短処を挙げ、虚心以て諸を人に詢うべし。


という本章の言葉には、とても大切な教えが含まれているのです。

第744日

【原文】
人各おの長ずる所有り、短なる所有り。人を用うるには宜しく長を取りて短を舎つるべし。自ら処するには当に長を忘れて以て短を勉むべし。


【訳文】
人には各々長所もあれば短所もある。人を使う場合には、その人の長所を取って用い、短所を見ないようにするがよい。しかし、世に処していく際には、自分の長所を忘れて、短所を補うように努力すべきである。


【所感】
人にはそれぞれに長所と短所がある。人を使う際にはその人の長所を活用し、短所は用いないようにすべきである。自らが事に当たる場合は、自分の長所を忘れて、短所を改善するように励むべきである、と一斎先生は言います。


人材活用の基本事項です。


人には必ず長所と短所があります。


それを合算してしまうと、仮に長所が大きくても短所で相殺されて長所が活かされません。


長所だけに着目し、短所を捨てて仕事に当たってもらえば、それなりに成果が上がるはずです。


さて自分自身についてはどうかといえば、短所の改善に挑むべきだとしています。


ところで人には、技能面(外面)と性格面(内面)でそれぞれ長所と短所を有しているものです。


森信三先生が『修身教授録』の中で指摘しているように、知識や技能面での長所と短所は、たとえば文科系の人は運動が苦手であり、運動が得意な人は読書が苦手といったように、その方向がまったく逆向きであることがほとんどです。


ところが精神面になりますと、長所がそのまま短所になったり、短所が長所になるなど、その関係は表裏一体です。


本章で一斎先生が指摘している自己の短所とはこの精神面(内面)の短所を指しているとみて良いでしょう。


精神面の短所は、しっかり自己反省をして精進すれば、そのまま長所に変えることが比較的容易だからです。


春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛(つつし)む。


という名言(第279日既出)を具体的な行動で解説した章だとみることができます。

第743日

【原文】
人と事を共にするに、渠(かれ)は快事を担い、我れは苦事に任ぜば、事は苦なりと雖も、意は則ち快なり。我れは快事を担い、渠は苦事を任ぜば、事は快なりと雖も、意は則ち苦なり。


【訳文】
人と一緒に仕事をする場合には、彼が愉快な仕事にあたり、自分が苦しい仕事を引受けたならば、仕事は苦しいけれども心は愉快である。これとは反対に、自分が愉快な仕事にあたり、彼が苦しい仕事を引受けたならば、仕事は愉快であっても心は苦しい。


【所感】
人と一緒に仕事をする際、相手に愉快な仕事をやってもらい、自分は辛い仕事を引き受ければ、仕事自体は辛いかもしれないが心は愉快である。相手に辛い仕事を任せて、自分が楽しい仕事をすれば、仕事は楽しいかも知れないが、心は苦しくなるであろう、と一斎先生は言います。


自分の心を爽快に保つためのとっておきの秘訣が書かれています。


先日来の言葉を振り返ってまとめてみれば、


君子とは人を立てる人、小人とは己を立てる人


となるのではないでしょうか?


『論語』の言葉を見てみましょう。


【原文】      
仁者は難きを先にし獲(う)るを後にす、仁と謂(い)うべし。(雍也第六)


【訳文】
仁者は、困難な仕事を自ら進んで引き受け、その利益や恩恵は問題にしない、これを仁という。


【原文】
君子は諸(こ)れを己に求め、小人は諸れを人に求む。(衛霊公第十五)


【訳文】
立派な人は矢印を自分に向け、凡人は矢印を他人に向ける。


やはり『論語』にも利他の心を推奨した言葉が多くあります。


心爽快にして颯爽と生きるためには、少しだけ損をする生き方を選べばよいのでしょう。

第742日

【原文
人は苦楽無き能わず。唯だ君子の心は苦楽に安んじて、苦なるも苦を知らず。小人の心は苦楽に累(わずら)わされて、楽なるも楽を知らず。


【訳文】
誰でも人は苦楽が無いということはあり得ない。ただ、立派な人の心だけは、苦楽に安んじて苦楽にかかわらることがないから、苦にあっても苦を苦としない。これに対して、小人物の心は苦楽に煩わされているから、楽にあっても楽を楽としない。


【所感】
人間であれば必ず苦楽を経験するものである。ただし、君子と呼ばれる立派な人は、その苦楽の中に心の平静さを保つので、苦を苦だと思わない。一方、小人つまり普通の人は、苦楽に一喜一憂して、わが身に楽があることに気づかないものだ、と一斎先生は言います。


荀子は、


窮するとも困まず憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざる。


といい、孔子は、


君子固より窮す。小人窮すれば斯に濫る。


と言っています。


一斎先生のこの言葉はこうした先人の至言をベースにしているようです。


どんな人でも窮地に立つときはあります。


しかし、そこで慌てふためくのが凡人、どっしりと構えて一喜一憂しないのが立派な人なのだと、これらの言葉は教えてくれます。


窮地に立っても簡単に乱されない心をもっていればこそ、ピンチをチャンスへと転じていけるのでしょう。


また、一見すると不幸に見える出来事の中に幸せが隠れていることもあります。


坂村真民先生は、「幸せの帽子」(第684日既出)という詩の中で、


幸せは不幸という帽子をかぶってやってくる


と詠んでいます。


自分の置かれた状況を冷静に分析することで、他人に向けていた矢印を自分に向けなおしたとき、苦中楽有りという真理に気づけるのかも知れません。

第741日

【原文】
衣薄くとも寒相を著けず。食貧しくとも餒(だい)色を見(あらわ)さず。唯だ気充つる者能くすることを為す。然も聖賢の貧楽は、則ち此の類に非ず。


【訳文】
薄着していても、寒そうな恰好をせず、また、食物が乏しくても、ひもじい顔色もしない。このようなことは、気性(気だて)の強い人だけがよくすることである。しかし、聖人や賢人が貧を楽しむということは、これとは違う。


【所感】
薄着であっても寒そうな仕草は見せず、空腹であってもひもじい様子をみせない。これは気力の充実した人にしかできないことである。しかしながら、聖人や賢人が貧を楽しむというのは、こういうことではない、と一斎先生は言います。


心頭を滅却すれば火もまた涼し


とは禅僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の言葉です。


読んで字の如く、心の雑念を除けば、どんな困難にも堪えていける、という意味です。


これは相当の鍛錬を積んだ人でなければ、たどり着けない境地でしょう。


ところが、古の聖人・賢人はそれよりももう一つ上の段階にあるというのです。


これまでにも紹介してきました石田梅岩先生の言葉、


忍は忍なきに至ってよしとす 


という境地でしょう。


困窮を楽しむレベルというのは、我慢をしているようではたどり着けない境地なのだということでしょう。


ここで一斎先生が想起しているのは、『論語』における顔回や孔子の生活態度のようです。


顔回の例を挙げておきます。


【原文】
子曰わく、賢なるかな回や。一單(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。人は其の憂に堪えず、回や其の樂しみを改めず。賢なるかな回や。(雍也第六)


【訳文】
先師が言われた。  
「顔回は、なんと立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮らし をしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境に あっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物だろう回は」(伊與田覺先生訳)


孔子が唯一、仁の人と認めた高弟・顔回を評した言葉です。


これが聖人や賢人の境地だというのですが、小生にはとても生きている間にたどり着ける境地ではなさそうです。


せめて、


武士は食わねど高楊枝


を気取りたいと思います。

第740日

【原文】
人は恥無かる可からず。又悔無かる可からず。悔を知れば則ち悔無く、恥を知れば則ち恥無し。


【訳文】
人間たる者は、恥を知るということが無ければならない。また、悔い改めるということが無ければならない。悔い改めるということを知っておれば、悔い改めるということは無くなり、恥を知るということを知っておれば、恥をかくということは無くなる。


【所感】
人間は恥を知らなけれならない。また、後悔の念を抱くということも必要である。後悔の念を抱けば、最終的には悔い改める必要はなくなるし、恥を知ることができれば、恥をかくこともなくなるものだ、と一斎先生は言います。


常に矢印を自分に向けることが成長への捷径(近道)だということでしょう。


恥を知ることも、後悔の念を抱くことも、矢印を自分に向けない限りできないことです。


自分の発した言葉や行動が相手にどう伝わっているのかを客観的に把握する意識をもつことで、恥や悔を知ることができます。


つまり、自分の言葉や行動が相手から見て低レベルであり、失笑を買うようなとき、恥を知ります。


また、相手にこちらの想いが真っ直ぐに伝わらなかったときに、悔いを知ります。


ところが、自分のレベルを棚に上げて、相手が理解できないことを嘲笑したり、伝わらないのは相手の理解力が低いからだと決めつけてしまえば、何も学び、気づくことができません。


学び、気づきがなければ行動は変わりません。


行動が変わらなければ成長はできません。


成長できなければ成功することもありません。


自分に矢印を向けて反省することは、時に痛みや苦しさを伴いますが、それをしてこそ、相手の心の痛みや苦しみも理解できるようになるのです。


小生は、『論語』や『言志四録』などの古典を読むと、心がリセットされ、他人に向いていた矢印を自分の側に引き戻すことができます。


皆さんの心の矢印はどちらを向いていますか?

第739日

【原文】
凡そ事を為すに、意気を以てするのみの者は、理に於いて毎(つね)に障碍(しょうがい)有り。


【訳文】
何事をするにしても、ただ意気(心持)だけでなす者は、道理の上からすると常に間違いがあるものである。


【所感】
何事を行うにも、意気込みだけで始める人は、道理から見れば常に危険と隣り合わせである、と一斎先生は言います。


学んだことを即実行に移せばよいというものではありません。


自分の置かれた立場や環境などを冷静に分析して、どのように進めるべきかを適切に判断しなければなりません。


これに関しては、以前にも紹介しました細井平洲先生の言葉が思い起こされます。


学思行相須(ま)って良と為す。


この言葉の意味は、学問と思索と実行が三つ揃ってこそ本当の学問である、という意味です。


新たに学んだ知識を、自分なりにしっかりと咀嚼し、しっかりと肚に落としてから実行に移す。


せっかく学んだ知識も、思索(咀嚼)を怠ると、一斎先生の言うように間違いを犯すことになるのでしょう。


小生が師事する永業塾の中村信仁さんは、この3つを 


学び・気づき・実践 


という言葉で、その大切さを語っています。


もちろん強い意気込みをもって事を始めることは大切ですが、いつも一歩下がった冷静さを忘れないためにも、思索するという時間をつくらねばなりません。

第738日

【原文】
昼夜には短長あり、而も天行には短長無し。惟だ短長無し。是(ここ)を以て能く昼夜を成す。人も亦然り。緩急は事に在り。心は則ち緩急を忘れて可なり。


【訳文】
(地球が太陽をめぐるのは、三百六十五日四分の一と数字的に定(きま)っていて、地軸が二十三度傾いているから、昼夜長短の差ができる)。それで、昼夜には長短があって、天体の運行には長短が無いといっているのである。このように、天体の運行には長短が無いからして、昼夜を成しているのである。人事もこれと同じく、物事には、ゆるやかなことと急ぐことが、宜しきを得るべきであるが、心の方は緩急とか長短とかがなく平静であれば、それでよい。


【所感】
昼夜には長短があるが、天の運行に長短はない。天の運行に長短がないからこそ、昼夜があるのである。人間もこれと同じである。緩急というのは物事にあるのであって、心は緩急を忘れていつも一定であればそれで良い、と一斎先生は言います。


この章句は哲学的であり、一見すると理解しづらい文章ですが、要するに、天の運行が一定であるからこそ、地軸の微妙な傾きによって昼と夜の長さが変わってくる。人間も心が一定に保たれていればこそ、緩急を使い分けることができるのだ、という趣旨だと理解しておきます。


昨日も記載しましたが、小生のように心が急に傾いていますと、緩を使わねばならない場面で上手に緩を使いこなせません。


逆に心が緩に傾いている人は、急を要する場面で急を使いこなせないでしょう。


心は常に冷静であればこそ、臨機応変に緩急を使い分けられるのではないでしょうか。


惑わない心を鍛えねばならない所以です。


さて、話はすこしズレますが、緩急という言葉で思い出すのが、元プロ野球選手で、オリックス・阪神で活躍した星野伸之さんです。


星野投手のストレートの球速は、130km/h程度で、通常のプロの投手からみてもかなり遅かったのですが、90km/h台のカーブと110km/h台のフォークボールを持ち球とし、緩急を見事に使い分けて打者を翻弄しました。


このため多くの強打者が、「星野投手のストレートが一番速い」、「星野さんのストレートが一番打ちにくい」と漏らしたと言います。


恐らく星野投手は球種を磨くだけでなく、心をも磨いていたのではないでしょうか。


緩急に関する余談でした。
プロフィール

れみれみ