一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年03月

第778日

【原文】
「晦(かい)に嚮(むか)いて宴息する」は、万物皆然り。故に寝(しん)に就く時は、宜しく其の懐(かい)を空虚にし、以て夜気を養うべし。然らずんば、枕上思惟し、夢寐(むび)安からず。養生に於いて碍(さまたげ)と為す。


【訳文】
『易経』に「夕方くらくなってから、くつろいで休息する」とあるが、これは万物総てその通りである。それで、夜、床につく時には、心に何も思わず無心になって、夜の清新の気を養うがよい。そうでないと、就寝後いろいろと思い考え込んで、安らかにねむることもできない。これでは養生の妨げとなる。


【所感】
『易経』に「夕方になったら休息する」とあるが、万物すべてそれに則っている。したがって眠りにつくときは、心の中を空っぽにして、夜の気を養うべきである。そうしなければ、床に就いてもあれこれと考えてしまって、熟睡することが難しくなる。それは養生においては妨げとなるであろう、と一斎先生は言います。


『易経』沢雷随の卦からの引用です。


【原文】
澤の中に雷あるは、随なり。君子もって晦(くらき)に嚮(むか)ひて入りて宴息す。


【訳文】
時に従って鳴っていた雷が、時に従って沢の中に声を収めるというように、時に従うことが随という卦名の意義である。されば君子は随の卦の象にのっとって、(日中は外出して働いていても)日暮れに向かうと、仕事をやめて家の中に入って心を安らかにして休息する。(すべて時のよろしきに従って進退するのである) (鈴木由次郎先生訳)


一日の最後はゆったり過ごせ、という一斎先生からのメッセージです。


小生は読書が趣味ですので、寝る直前まで本を読みます。


五十歳を超えた最近は、そのまま寝落ちすることが多いのですが。。。


どうも寝起きがすっきりしないのは、頭が休まらずに熟睡できていないからなのでしょうか。


実は最近、ある事情があって、延命十句観音経という短いお経を朝晩称えるようになりました。


延命十句観音経 

観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 

仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 

暮念観世音 念念従心起 念念不離心 


たったこれだけのお経ですが、これを10回ほど称えると心が落ち着きます。


皆さんもせめて眠りにつく直前くらいは、心を空っぽにするひとときを作ってみませんか?

第777日

【原文】
心思を労せず、労せざるは是れ養生なり。体軀を労す、労するも亦養生なり。


【訳文】
精神を疲れさせない。この疲れさせないということは養生なのである。身体を労役(精を出して疲れる)させる。この身体を骨折りくたびれさせることも養生である。


【所感】
こころを働かせ過ぎないとうことは養生といえる。身体に負荷をかけて働かせることもまた養生といえるのだ、と一斎先生は言います。


心には負担をかけてはいけないが、身体にはある程度負担をかけよ、という教えです。


心思を労せずとは、現代でいえばストレスを溜めるなということでしょう。


人間の寿命を縮めている大きな要因のひとつがストレスだと言われています。


しかし、仕事を進めていく中でストレスフリーというのは望めません。


特に小生のようなサラリーマンは、上司と部下に挟まれて日々ストレスとの戦いです。


一方で身体はといえば、一日中パソコンの前に座っていたり、長距離ドライブでずっと同じ姿勢のままであったりと、適度な運動すら出来ず仕舞いです。


一斎先生の教えと真逆で、


心思は労し、身体は労せず


といった毎日を過ごしています。


こんな日々を過ごす中で、小生にとって非常に大切なのが、第三の場所です。


家庭と職場の往復だけだと、どうしてもストレスが溜まります。


第三の場所とは、家庭と職場以外に居場所を持とうということです。


小生の場合は、永業塾や人間塾などの勉強会や、小生が主査している潤身読書会こそが、第三の場所となっています。


週末の半分以上はこれらの活動で東京、大阪、名古屋と動き回っていますが、そこで多くの共に学ぶ仲間と接し、パワーをもらうことがストレス解消に役立っているのです。


また移動も電車が主体となるため、普段に比べれば歩く量も増えて、少しは健康にも良いように思えます。


仕事が忙しい現代人こそ、第三の場所を見つけて、心を開放することが必要なのではないでしょうか?

第776日

【原文】
貴介(きかい)の人多く婢妾(ひしょう)を蓄え、耆年(きねん)を踰(こ)えて児を得る者、往往にして之れ有り。摂養(せつよう)の宜しきに非ず。老いて養うを知らず。之を不慈不孝に比す。


【訳文】
身分や地位が貴くて高い人は、たいてい妾をおいて、六十歳以上の老人になって児を得る者が時折りおる。これは養生の宜しきを得たものではなく、年をとってわが身を養生することを知らないものである。これを子に対して慈愛が無く、親に対して不孝な者と見られても致し方がないことである。


【所感】
身分の高い人は大概、妾をつくり、六十歳を超してから子供を得るということが往々にしてある。これは養生のうえでもよくないことである。年老いてわが身を養うことを知らないと言えよう。これでは子供に対する慈しみの心もなければ、親に対する孝行心もないことになる、と一斎先生は言います。


今日も引き続き養生論です。


ただし、今回はいわゆる妾(現代でいえば愛人?)についての章句です。


やや時代の違いを感じる文章かも知れません。


かつては、渋沢栄一さんや松下幸之助さんにも妾はいたと言われていますので、いわゆる人格者であってもそういうことがあったのでしょう。


しかし、現在ではさすがに堂々と愛人について語ることはできません。


愛人が発覚しただけでも強烈なマスコミからのバッシングによって、失脚を余儀なくされるという事例も多々見てきました。


そういう意味では、現代の方がこの一斎先生のお言葉を真摯に受け止めている時代だと言えるかも知れません。


もちろん表に出ないところでは、今も昔も変わりなしということなのかも知れませんが。。。


ところで、妾に子供を生ませることは、不慈不孝だという指摘には納得させられました。


妾をつくるという世間体の悪い行為は、自分の親に対する親不孝となり、また生まれた子供にしてみれば、妾の子という生い立ちを背負って生きていかなければなりません。


これは確かに、不慈不孝です。


孔子という人も、役人だった父親が、正妻に生ませた子に跛行があったために、身体障害者には家は継がせられないという理由で、妾に生ませた子供なのだそうです。


その後、すぐに父が亡くなり、母と子二人で暮らすことを余儀なくされた孔子は15歳にして学問で身を立てることを決意したのです。


孔子が多くの苦労をした根源は、妾の子としての生い立ちに起因しているのです。


少なくとも多重婚が認められていない我が国においては、妾(愛人)に子供を生ませるようなことは厳に慎むべきでしょう。

第775日

【原文】
凡そ生物は皆養に資(と)る。天生じて地之を養う。人は則ち地気の精英なり。吾れ静坐して以て気を養い、動行して以て体を養い、気体相資(し)し、以て此の生を養わんと欲す。地に従いて天に事うる所以なのである。


【訳文】
だいたい生物は総て養によらないものはない。天が万物を生じて、地が万物を養い育てていく。人間は地上で最もすぐれた万物の霊長である。かかるすぐれた人間である自分は、静坐によって精神を修養し、運動によって身体を修練し、心身あい資(たす)けて、この生命を養おうとしているのである。これは万物を養い育てる地に従って、万物を生ずる天に事(つか)える所以なのである。


【所感】
すべて生き物は皆養われるものである。天が万物を生み、地がこれを養うのだ。中でも人間は天地が生み育てた最も優れた生き物である。私は静坐して自分の気を養い、運動して身体を養い、気と身体がお互いに助け合って自分の命を養いたいと願っている。これが地に従って天に仕える理由なのだ、と一斎先生は言います。


一斎先生の養生訓が続きます。


身体だけでなく、心(気)を養うことで、生命を育み養う上での相乗効果を期待しているというのは興味深いお話です。


人間に限らず万物は天地によって生み育てられるという考え方は、これまでにも幾度も出てきています。


かつての儒者はこうして天地に感謝し、天地のパワーを自分の体内に取り入れていたのでしょう。


ところが現代の人間は、日頃天地の存在など忘れており、太陽の恵みや酸素の恩恵を当然のこととして受け取っています。


これでは大自然の摂理に反してしまうことになりかねません。


せめて一日に数分でも良いので、天地に感謝し、大自然の恩恵を有難く感じる時間を創るべきなのかも知れません。

第774日

【原文】
人寿には自ら天分有り。然れども又意(おも)う。「我が軀は即ち親の軀なり。我れ老親に事(つか)うるに、一は以て喜び、一は以て懼れたれば、則ち我が老時も亦当に自ら以て喜 懼すべし」と。養生の念此れより起る。


【訳文】
人間の寿命は、おのずと天から与えられた定めというものがある。しかしながら、また次のように、「自分の身体は親から授かったものであるから、親の身体と同様で変りはない。自分が、老いた親につかえて、一方では父母の長寿を悦び、他方では余命の短いのを心配したならば、自分が老いた時も、また自ら喜んだり恐れたりすべきである」と考えている。このようなことからして、養生(心身を養う)の心が起きてくるのである。


【所感】
人間の寿命にはおのずから天から定められているものである。しかし、私は思う、「私の身体はそのまま親の身体でもある。私が年老いた親に仕えるときは、ひとつには長寿を悦び、ひとつには余命の短いことを恐れるのであるから、自分自身が年老いた時も同様に自ら喜びあるいは恐れるべきである」と。我が身を養生しようとする思いはここから生まれてくる、と一斎先生は言います。


本章には『論語』からの引用があります。


【原文】
子曰わく、父母の年は、知らざる可からざるなり。一(いつ)は則ち以て喜び、一は以て則ち懼る。(里仁第四)


【訳文】
先師が言われた。
「父母の年は、忘れてはならない。一方では達者で長生きしていることを喜び、一方では老い先の短いことを心配する」(伊與田覺先生訳)


小生の両親は今も健在です。


一斎先生の言うとおり、それはとても有り難いことでもあり、またいつまで元気でいてくれるのか心配でもあります。


そして、小生自身も齢五十を迎えました。


小生自身がこうして元気でいられることにもまた感謝しなければなりません。


そのように考えてくると、妻や我が子が元気であることにも感謝の気持ちが湧いてきます。


さらに、親友や共に学ぶ仲間達と元気に顔を合わすことができることもとても有り難いことであることに気づきます。


逆に言えば、小生に会うことを楽しみにしてくれている人たちがたくさんいるということです。


だからこそ、自分の身体を養い、せめて天から与えれた使命をやり遂げるまでは、しっかりと生き抜かなければなりません。


あらためて我が身を大切に養う必要性を教えて頂きました。
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れみれみ