一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年03月

第778日

【原文】
「晦(かい)に嚮(むか)いて宴息する」は、万物皆然り。故に寝(しん)に就く時は、宜しく其の懐(かい)を空虚にし、以て夜気を養うべし。然らずんば、枕上思惟し、夢寐(むび)安からず。養生に於いて碍(さまたげ)と為す。


【訳文】
『易経』に「夕方くらくなってから、くつろいで休息する」とあるが、これは万物総てその通りである。それで、夜、床につく時には、心に何も思わず無心になって、夜の清新の気を養うがよい。そうでないと、就寝後いろいろと思い考え込んで、安らかにねむることもできない。これでは養生の妨げとなる。


【所感】
『易経』に「夕方になったら休息する」とあるが、万物すべてそれに則っている。したがって眠りにつくときは、心の中を空っぽにして、夜の気を養うべきである。そうしなければ、床に就いてもあれこれと考えてしまって、熟睡することが難しくなる。それは養生においては妨げとなるであろう、と一斎先生は言います。


『易経』沢雷随の卦からの引用です。


【原文】
澤の中に雷あるは、随なり。君子もって晦(くらき)に嚮(むか)ひて入りて宴息す。


【訳文】
時に従って鳴っていた雷が、時に従って沢の中に声を収めるというように、時に従うことが随という卦名の意義である。されば君子は随の卦の象にのっとって、(日中は外出して働いていても)日暮れに向かうと、仕事をやめて家の中に入って心を安らかにして休息する。(すべて時のよろしきに従って進退するのである) (鈴木由次郎先生訳)


一日の最後はゆったり過ごせ、という一斎先生からのメッセージです。


小生は読書が趣味ですので、寝る直前まで本を読みます。


五十歳を超えた最近は、そのまま寝落ちすることが多いのですが。。。


どうも寝起きがすっきりしないのは、頭が休まらずに熟睡できていないからなのでしょうか。


実は最近、ある事情があって、延命十句観音経という短いお経を朝晩称えるようになりました。


延命十句観音経 

観世音 南無仏 与仏有因 与仏有縁 

仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 

暮念観世音 念念従心起 念念不離心 


たったこれだけのお経ですが、これを10回ほど称えると心が落ち着きます。


皆さんもせめて眠りにつく直前くらいは、心を空っぽにするひとときを作ってみませんか?

第777日

【原文】
心思を労せず、労せざるは是れ養生なり。体軀を労す、労するも亦養生なり。


【訳文】
精神を疲れさせない。この疲れさせないということは養生なのである。身体を労役(精を出して疲れる)させる。この身体を骨折りくたびれさせることも養生である。


【所感】
こころを働かせ過ぎないとうことは養生といえる。身体に負荷をかけて働かせることもまた養生といえるのだ、と一斎先生は言います。


心には負担をかけてはいけないが、身体にはある程度負担をかけよ、という教えです。


心思を労せずとは、現代でいえばストレスを溜めるなということでしょう。


人間の寿命を縮めている大きな要因のひとつがストレスだと言われています。


しかし、仕事を進めていく中でストレスフリーというのは望めません。


特に小生のようなサラリーマンは、上司と部下に挟まれて日々ストレスとの戦いです。


一方で身体はといえば、一日中パソコンの前に座っていたり、長距離ドライブでずっと同じ姿勢のままであったりと、適度な運動すら出来ず仕舞いです。


一斎先生の教えと真逆で、


心思は労し、身体は労せず


といった毎日を過ごしています。


こんな日々を過ごす中で、小生にとって非常に大切なのが、第三の場所です。


家庭と職場の往復だけだと、どうしてもストレスが溜まります。


第三の場所とは、家庭と職場以外に居場所を持とうということです。


小生の場合は、永業塾や人間塾などの勉強会や、小生が主査している潤身読書会こそが、第三の場所となっています。


週末の半分以上はこれらの活動で東京、大阪、名古屋と動き回っていますが、そこで多くの共に学ぶ仲間と接し、パワーをもらうことがストレス解消に役立っているのです。


また移動も電車が主体となるため、普段に比べれば歩く量も増えて、少しは健康にも良いように思えます。


仕事が忙しい現代人こそ、第三の場所を見つけて、心を開放することが必要なのではないでしょうか?

第776日

【原文】
貴介(きかい)の人多く婢妾(ひしょう)を蓄え、耆年(きねん)を踰(こ)えて児を得る者、往往にして之れ有り。摂養(せつよう)の宜しきに非ず。老いて養うを知らず。之を不慈不孝に比す。


【訳文】
身分や地位が貴くて高い人は、たいてい妾をおいて、六十歳以上の老人になって児を得る者が時折りおる。これは養生の宜しきを得たものではなく、年をとってわが身を養生することを知らないものである。これを子に対して慈愛が無く、親に対して不孝な者と見られても致し方がないことである。


【所感】
身分の高い人は大概、妾をつくり、六十歳を超してから子供を得るということが往々にしてある。これは養生のうえでもよくないことである。年老いてわが身を養うことを知らないと言えよう。これでは子供に対する慈しみの心もなければ、親に対する孝行心もないことになる、と一斎先生は言います。


今日も引き続き養生論です。


ただし、今回はいわゆる妾(現代でいえば愛人?)についての章句です。


やや時代の違いを感じる文章かも知れません。


かつては、渋沢栄一さんや松下幸之助さんにも妾はいたと言われていますので、いわゆる人格者であってもそういうことがあったのでしょう。


しかし、現在ではさすがに堂々と愛人について語ることはできません。


愛人が発覚しただけでも強烈なマスコミからのバッシングによって、失脚を余儀なくされるという事例も多々見てきました。


そういう意味では、現代の方がこの一斎先生のお言葉を真摯に受け止めている時代だと言えるかも知れません。


もちろん表に出ないところでは、今も昔も変わりなしということなのかも知れませんが。。。


ところで、妾に子供を生ませることは、不慈不孝だという指摘には納得させられました。


妾をつくるという世間体の悪い行為は、自分の親に対する親不孝となり、また生まれた子供にしてみれば、妾の子という生い立ちを背負って生きていかなければなりません。


これは確かに、不慈不孝です。


孔子という人も、役人だった父親が、正妻に生ませた子に跛行があったために、身体障害者には家は継がせられないという理由で、妾に生ませた子供なのだそうです。


その後、すぐに父が亡くなり、母と子二人で暮らすことを余儀なくされた孔子は15歳にして学問で身を立てることを決意したのです。


孔子が多くの苦労をした根源は、妾の子としての生い立ちに起因しているのです。


少なくとも多重婚が認められていない我が国においては、妾(愛人)に子供を生ませるようなことは厳に慎むべきでしょう。

第775日

【原文】
凡そ生物は皆養に資(と)る。天生じて地之を養う。人は則ち地気の精英なり。吾れ静坐して以て気を養い、動行して以て体を養い、気体相資(し)し、以て此の生を養わんと欲す。地に従いて天に事うる所以なのである。


【訳文】
だいたい生物は総て養によらないものはない。天が万物を生じて、地が万物を養い育てていく。人間は地上で最もすぐれた万物の霊長である。かかるすぐれた人間である自分は、静坐によって精神を修養し、運動によって身体を修練し、心身あい資(たす)けて、この生命を養おうとしているのである。これは万物を養い育てる地に従って、万物を生ずる天に事(つか)える所以なのである。


【所感】
すべて生き物は皆養われるものである。天が万物を生み、地がこれを養うのだ。中でも人間は天地が生み育てた最も優れた生き物である。私は静坐して自分の気を養い、運動して身体を養い、気と身体がお互いに助け合って自分の命を養いたいと願っている。これが地に従って天に仕える理由なのだ、と一斎先生は言います。


一斎先生の養生訓が続きます。


身体だけでなく、心(気)を養うことで、生命を育み養う上での相乗効果を期待しているというのは興味深いお話です。


人間に限らず万物は天地によって生み育てられるという考え方は、これまでにも幾度も出てきています。


かつての儒者はこうして天地に感謝し、天地のパワーを自分の体内に取り入れていたのでしょう。


ところが現代の人間は、日頃天地の存在など忘れており、太陽の恵みや酸素の恩恵を当然のこととして受け取っています。


これでは大自然の摂理に反してしまうことになりかねません。


せめて一日に数分でも良いので、天地に感謝し、大自然の恩恵を有難く感じる時間を創るべきなのかも知れません。

第774日

【原文】
人寿には自ら天分有り。然れども又意(おも)う。「我が軀は即ち親の軀なり。我れ老親に事(つか)うるに、一は以て喜び、一は以て懼れたれば、則ち我が老時も亦当に自ら以て喜 懼すべし」と。養生の念此れより起る。


【訳文】
人間の寿命は、おのずと天から与えられた定めというものがある。しかしながら、また次のように、「自分の身体は親から授かったものであるから、親の身体と同様で変りはない。自分が、老いた親につかえて、一方では父母の長寿を悦び、他方では余命の短いのを心配したならば、自分が老いた時も、また自ら喜んだり恐れたりすべきである」と考えている。このようなことからして、養生(心身を養う)の心が起きてくるのである。


【所感】
人間の寿命にはおのずから天から定められているものである。しかし、私は思う、「私の身体はそのまま親の身体でもある。私が年老いた親に仕えるときは、ひとつには長寿を悦び、ひとつには余命の短いことを恐れるのであるから、自分自身が年老いた時も同様に自ら喜びあるいは恐れるべきである」と。我が身を養生しようとする思いはここから生まれてくる、と一斎先生は言います。


本章には『論語』からの引用があります。


【原文】
子曰わく、父母の年は、知らざる可からざるなり。一(いつ)は則ち以て喜び、一は以て則ち懼る。(里仁第四)


【訳文】
先師が言われた。
「父母の年は、忘れてはならない。一方では達者で長生きしていることを喜び、一方では老い先の短いことを心配する」(伊與田覺先生訳)


小生の両親は今も健在です。


一斎先生の言うとおり、それはとても有り難いことでもあり、またいつまで元気でいてくれるのか心配でもあります。


そして、小生自身も齢五十を迎えました。


小生自身がこうして元気でいられることにもまた感謝しなければなりません。


そのように考えてくると、妻や我が子が元気であることにも感謝の気持ちが湧いてきます。


さらに、親友や共に学ぶ仲間達と元気に顔を合わすことができることもとても有り難いことであることに気づきます。


逆に言えば、小生に会うことを楽しみにしてくれている人たちがたくさんいるということです。


だからこそ、自分の身体を養い、せめて天から与えれた使命をやり遂げるまでは、しっかりと生き抜かなければなりません。


あらためて我が身を大切に養う必要性を教えて頂きました。

第772日

【原文】
人家平常托する所の医人は、精選せざる可からず。既に之を托すれば、則ち信じて之を聴(まか)せて可なり。人の病は症に軽重有り、効に遅速有り。仮令(たとい)弥留(びりゅう)して効無きも、亦疑を容る可からざれば、則ち医人の心を尽くすも、亦必ず他に倍せん。是れ医を用いるの道にして、即ち人を用いるの道然るなり。或いは劇症・大患に値(あ)い、傍人・故旧往往にして他医を勧むる有るも、亦濫りに聴く可からず。医人の伎倆(ぎりょう)多くは前葉を翻(ひるがえ)す。幸いに中(あた)れば則ち可なり。不(しか)らざれば則ち卻って薬に因って病を醸(かも)し、太だ不可なり。究(つい)に之を命を知らずと謂う。


【訳文】
誰の家でも平生頼む医者は、よく選択しなければならない。既に任せたからには、医者を信頼するがよい。人の病気は、症状に軽い重いがあり、また薬の効きめも遅い速いがある。たとい、危篤の状態が長く続いて、薬の効きめがあらわれなくとも、疑いを抱かなければ、医者の心を尽くすことも、また必ず他家に倍することであろう。これがすなわち医者を用いる道であり、また人を用いる道でもある。どうかすると、劇しい病気や重病にかかって、近所の人や親類・知人が時折り他の医者を勧めることがあっても、みやみにこれを聴いてはいけない。何となれば、医者の腕前でたいていの場合、前の医者の処方を変えるものである。それが幸い症状に合えばよいが、そうでなければ、かえって薬のために病を生ずることになって、甚だよくないことになる。これはつまり天命(天から授かった人の宿命)を知らないというものである。


【所感】
どの家でも通常診てもらう医者は、しっかりと選択しなければならない。一度任せたならば、医者を信頼して任せるべきである。人の病気の症状には軽重があり、また薬の効能にも遅い速いがある。もしも、病状が回復しなくても、疑うことがなければ、医者は心を尽くして、必ず他の家でする以上のことをしてくれるであろう。これは医者を用いる道であり、また人を用いる道でもある。どうかすると、劇しい症状や大病にかかって、付添いの人や知り合いの人が他の医者を勧めるようなことがあっても、安易にこれを聞き入れてはいけない。後任の医者は自分の腕前を頼み、前の医者の処方を変更するものである。幸いして症状に合えばよいが、そうでなければ、かえって薬のために病気を引き起こすことになって、非常によろしくない結果となる。これは天命を知らないというものである。このように一斎先生は言います。


本章は、医者の選択を例えとして、人を用いる方法を説いています。


たとえば、パートナーやアドバイザーを求める場合、

①的確な人材であるかを十分に吟味する

②一旦依頼したなら信頼して任せる

③すぐに結果が出なくても、中長期的な視点をもち、安易に切り捨てたり変更したりしない 

という3点を実行すべきだと、一斎先生は言っています。


②と③は選んだ人材を中長期的に信頼するということですので、いわば他力本願です。


そうなると、①の的確な人材を選択するということが、自力部分であって、最も重要だと見ることができます。


様々な情報を入手した上で、直接接触して人となりを見抜く力量が求められます。


そしてこの3つの指針は、そのままリーダーがメンバーに仕事を任せるときの指針ともなりそうです。


適材を適所に配置し、後は黙って任せる。


これは、リーダーの側に確固たる信念と覚悟がなければできないことです。


そしてそれこそが人を育てる最善の方法なのだと一斎先生は教えてくれています。

第771日

【原文】
事を做すには、誠意に非ざれば、則ち凡百成らず。疾(やまい)に当たりて医を請うが如きも亦然り。既に托するに死生を以てす、必ず当に一に其の言を信じて、疑惑を生ぜざるべし。是の如くば則ち我れの誠意、医人と感孚(かんぷ)して一と為り、而して薬も亦自ら霊有らん。是(これ)は則ち誠の感応なり。若し或いは日を弥(わた)り久しきを総て未だ効験を得ずして、他の医を請わんと欲するにも、亦当に能く前医と謀り、之をして其の知る所を挙げて、与(とも)に共に虚心に商議せしむべくして可なり。是の如くにして効無くんば則ち命なり。疑惑すべきに非ず。然らずして、衆医群議し、紛錯(ふんさく)決せず、室を道に築くが如きは、則ち竟に是れ益無きのみ。


【訳文】
人が何か事をなすには、誠の心が無ければ、どんな事でも成就しない。たとえば、病気になった時に医者をたのむなどもその通りである。既に自分の生死を任せたからには、必ず医者の言葉を信頼して疑わないようにすべきである。このようにすれば、自分の誠意が医者の誠意と感じ合って一つとなり、薬もまた霊験あらたかなものがあろう。これがすなわち誠意の感じ合ったところである。もしも、ひょっとして、幾日たっても効きめが無く、他の医者を招きたいと思う時も、また前の医者と相談して、その知っていることをことごとく話してもらって、お互いに私心をすてて相談させるようにすればよい。このように手を尽くして効きめが無ければ、それは天命(天から与えれれた命)であって、疑惑の念をいだくべきではない。そうではなくて、多くの医者が集まって相談しても、ごたごたして決定しないのは、家を路に建てることを道行く人に問うようなもので、結局のところ何の役にもたたないのだ。


【所感】
人がなにか事を為す際に、誠がなければどんなことでも首尾よくいかない。病気になって医者に診断をしてもらうときも同じである。自分の死生を委ねるのであるから、とにかくその医者の言葉を信じて、疑いを持たないことである。そうすれば自分の誠が医者の誠と呼応して一つとなり、薬にも効能を発揮するであろう。これは誠同士の感応なのだ。もし数日経過しても病状に変化がないようであれば、別の医者に診てもらいたいと思っても、まずは最初の医者とよく相談をして、把握していることを話してもらい、共に腹を割って協議するようにさせるべきである。こうしても効果がないようであれば、それは運命というものだ。医師に疑念を抱くものではない。そうではなくて、医者同士が集まって協議をし、結論が出ぬまま紛糾し、路傍の人に家を建てる相談をするような状態では、結局何の意味もなさないであろう。このように一斎先生は言います。


本章は長い文章ですが、とても示唆に富んだ内容です。


人と人とが仕事をする際に、もっとも大切なことは「誠」を通わせることだ、と一斎先生は言います。


この「誠」という言葉をうまく説明することは難しいのですが、別の言葉でいうなら「忠信」ということになります。


実際に『論語』のころの儒者たちは、「忠信」という言葉を用い、それが『中庸』(孔子の孫の子思の作とされる)の時代になると、同じような意味を表す言葉として「誠」という言葉が使われています。


忠信とは、


忠:自分の心に嘘をつかないこと。自分の本分を尽くすこと。

信:人に嘘をつかないこと。自分の言葉を違えないこと。


と訳すことができます。


つまり、相手を心から信頼し、相手の言葉を信じ、自分の為すべきことに精一杯を尽くすことが、「誠」だと言えましょう。


この誠をもって仕事に臨むなら、事が成就するのは当然なのかも知れません。


ところで、一斎先生がこの時代にすでにセカンド・オピニオンについて触れているのには驚きました。


実は、主治医とセカンド・オピニオンの医師との意見が相違するということは稀なことではありません。


ただ、そこに医師同士の変なプライドが交錯し、主治医と自分は違うのだということを見せたいがための意見の相違であっては困ります。


一斎先生の言われるように、誠をもって、患者のためのベストな治療方針を立てていただきたいと願うばかりです。


さて、この章の最後に出てくる「室を道に築く」というのは分かりにくい例えなので、解説を入れておきます。


この言葉は『詩経』小雅の小旻という詩の中にある言葉です。


この詩は、暴虎馮河・戦戦兢兢、深淵に臨む・薄冰を履む、など今も使われている言葉の出典となっている有名な詩で、趣旨は今の時代は正道(つまり誠の道)が行われていない嘆きを歌った詩のようです。


とても長い漢詩なので、ここでは本章の該当部分だけを記載します。


【原文】
哀しいかな、猶(はかりごと)を為すに、先民これ程するにあらず、大猶これ經するにあらず、維れ邇言(じげん)これ聽き、維れ邇言これ爭う。 彼の室を築くに道に謀るが如し、是れ用って成るを潰(つぶ)す。


【訳文】
哀しいことだ、謀(はかりごと)をするにも古き良き先例に従うわけでもなく、大計画といっても大道に従うわけでもない。 浅智慧の俗言のやり取りに終始している。これでは道のど真ん中に家を建てるようなもので完成するまえに潰れてしまうのは目に見えている。


わが身を振り返ってみると、仕事を進める上において、同僚と誠の心を通わせるどころか、なんとか出し抜いてやろうという思いで議論を仕掛けたことが幾度となくありました。


営業という職業の本分は、お客様の課題解決のお手伝いのために、己の誠を尽くすことにあります。


道の真中に家を建てるような無意味な行動や言動は、厳に慎むべきですね。

第770日

【原文】
「人にして恒無きは、以て巫医(ふい)と為る可からず」と。余嘗て疑う、「医にして恒有って術無くば、何ぞ医に取らん」と。既にして又意(おも)う、「恒有る者にして、而る後に業必ず勤め、術必ず精し。医人は恒無かる可からず」と。


【訳文】
『論語』に「人にして常に変らない善(誠)心のない人は、神意を伝える巫(みこ)でも病を治す名医でも手の施しようがない」とある。自分は昔これを疑って「医者で恒心があっても(医)術が無ければ、どうして医者といえようか」と思った。それから、また「恒心のある人であってこそ、その本業に必ず精を出し、術も必ず精しくて熟達するものである。それで、医者には恒心がなくてはならない」と思うようになった。


【所感】
『論語』に「人にして恒(つね)なくんば、以て巫医(ふい)を作(な)すべからず」とある。かつての私はこれを疑問に思った。「医者として定まった心があっても、技術を磨かなければ、どうして医者になれようか」と。今になってみるとこう思う。「定まった心があれば、必ず仕事に精を出すので、技術は熟達するものである。医者には定まった心がなければならない」と。このように一斎先生は言います。


まず『論語』子路篇にある上記の言葉をみてみましょう。


【原文】
人にして恒(つね)なくんば、以て巫医(ふい)を作(な)すべからず。


【訳文】
人として変わらない心がなければ祈祷師の占いや医者の治療もすることができない。(伊與田覺先生訳)


自分の中にしっかりと定まった心がなければ何事も上達しない、という教えでしょう。


定まった心とは、志と言い換えても良いかも知れません。


小生が『論語』の読書会である潤身読書会を始めた頃、ある人から「君のような素人が人に『論語』を語る資格はない」といった趣旨のことを言われました。


一時は心が折れかけて、開催を中止しようかと思ったこともありました。


しかし、そもそも読書会と銘打っているように、私が講師となって『論語』を語ることが本会の目的ではなく、あくまでも小生が先行して勉強したことを参加者の皆さんに開示して、皆さんの境遇と照らし合わせた解釈をしてもらうことで、『論語』の理解を深めていくことが会の趣旨であることを確認し、会を継続させてきました。


今では、誰よりも小生が『論語』について勉強をさせてもらい、以前に比べれば深く読むことができるようになってきました。


すでに何度も取り上げてきましたが、小生が師事している永業塾塾長・中村信仁さんの、


心が技術を超えない限り、けっして技術は生かされない


という言葉は、ここで取り上げられた『論語』および『言四志録』の言葉の現代語訳であり、最良の解釈であると思います。


技術を磨くことはもちろん重要です。


しかし、なんのためにその技術を磨くのかという志が定まっていなければ、決して世の中の役に立つような技術は身につかないのだということです。


覚悟と志をもって、自分の仕事に力を尽くしましょう。

第773日

【原文】
親を養う所以を知れば、則ち自ら養う所以を知り、自ら養う所以を知れば、則ち人を養う所以を知る。


【訳文】
子が親を養っていく理由がわかれば、自分がわが身を養っていくわけがわかる。自分がわが身を養っていく理由がわかれば、人を雇っていくわけもわかる。


【所感】
子が親を養う理由を知れば、自分自身を養う理由がわかり、自分自身を養う理由を知れば、他人を養う理由もわかる、と一斎先生は言います。


『孝経』には、


身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始なり


とあります。


自分の身体も髪の毛も皮膚もすべて親から受け継いだものであるから、親にいつまでも健康でいてほしいと願うならば、それは結局自分自身が健康でいなければならないということに気づきます。


自分の身体を大切に養生することは、そのまま親孝行となり、親を養うことになるということでしょう。


そうした気持ちを推し広げていくなら、我が身を養生することは、自分の子供達や子孫繁栄のためにも必要なことであり、さらには日本人、あるいは全人類の発展にも寄与するのだと、一斎先生は考えたのではないでしょうか。


自分の身体は自分だけのものでないと真に気づくとき、人間は生き方を改め、大きく成長することになるのかも知れません。


まずは健康な我が身を保つことを考えていきましょう。

第769日

【原文】
親に事(つか)うる者は、宜しく医人の良否を知りて以て之を托すべし。親歿するの後に至りては、己の軀も亦軽きに匪(あら)ず。宜しく亦医人を知りて以て自ら托すべし。若し己劣(わず)かに医事に渉り医方を知るは、卻って怕(おそ)れる、或いは自ら誤らんことを。慎む可し。


【訳文】
親につかえて孝養を致す者は、医者の良し悪しをよく調べて、親の身体を任すがよい。親が死亡してからは、自分の身体も粗末にすべきではないから、良い医者を知って、これに任すのがよい。もしも、自分が少しばかり医事を知っていて自分で治療したりすることは、かえって自分の身体を害う心配があるから、この点、十分慎むべきである。


【所感】
親が顕在のときは、良い医者をもとめて親の健康を託すべきであろう。親が没した後は、自分の身を軽く扱ってはならない。同じく良い医者をもとめて自分の健康を託すべきである。もし医療について多少の理解があり、医術の心得があるような場合は、かえって誤った判断を下すことを恐れるべきで、慎重に対処すべきである、と一斎先生は言います。


小生は長年、医療機器の販売に携わってきましたので、この一斎先生の言葉は身にしみて感じるものがあります。


もちろん医療の技術においても医師によって相当な差異があるのですが、それ以上に人格面での格差は相当にあるものです。


どの先生に診てもらうかは、皆さんが思っている以上に重要な選択となります。


もちろん医療機関側でも、セカンドオピニオンを勧めて、最終的な治療の判断を患者(または家族)に委ねる仕組みを作っています。


良い医師に巡り合うためにも、自ら動くことが必要だということでしょう。


また、一斎先生のご指摘のとおり、中途半端に医療に関与することで、逆に自分の病気に早計な判断を下すということもあり得ることです。


なにより大切なのは定期健診をしっかりと受診することです。


どんなに忙しい方でも、定期健診を怠ってはいけません。


たとえば今最も恐ろしい病気のひとつに大腸がんがあります。


女性ではすでに死因の第一位であり、年間で45,000人もの方が大腸がんで命を落としています。


ところが大腸がんは、がんの中でも5年生存率の高い病気です。


早期発見・早期治療によって完治できる病気だということです。


最低でも毎年の検診で、便潜血反応検査(つまり検便)をしていれば、かなりの確立で早期発見が可能となります。


自分勝手に判断することなく、信頼できる医師をみつけて、定期的に検診を受診し、健康で幸せな生活を長く続けていきましょう。
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れみれみ