一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年04月

第808日

【原文】
源有るの活水は浮萍(ふひょう)も自ら潔(きよ)く、源無きの濁沼(だくしょう)は蓴菜(じゅんさい)も亦汚る。


【訳文】
水源のある生き生きとした水には、浮き草も清らかであるが、水源が無いので水が流通しない濁った沼では、食用にする蓴菜までも何となく汚なくみえる。


【所感】
水源のある活きた水があれば浮き草でさえも清らかとなるが、水源の無い濁った沼では食用の蓴菜ですら汚れているように見える、と一斎先生は言います。


ここでは、水源を志に喩えているようです。


志があれば、元々資質を持っていないような人物であってもそれなりの人物になれるが、志がなければ、元々は高い資質を持っているような人物であっても大成できない、という意味でしょうか。


立志の大切さについては、この後『言志耋録』の中でまとめて取り上げられますので、そこで考えてみたいと思いますが、晩年の一斎先生が立志の必要性を説いていることに意味があるように思います。


有名な三学戒の中でも一斎先生は、


老いて学べば、則ち死して朽ちず 


と記述しています。


志が定まっていればこそ老いて尚学び続けることができるのではないでしょうか。


そして、自分の心を水が還流しない濁った沼のようにしない為にも、読書によって新鮮な知識を心に供給し続けなければなりません。


ちょうど昨日からゴールデンウィークが始まりました。


小生も久しぶりに9連休を取得しましたので、読書によって心の濁りを取り除くことに努めます。

第807日

【原文】
学を為すの初めは固より当に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、則ち宜しく無字の書を読むべし。


【訳文】
学問を始める場合には、もちろん文字で書かれた書物を読まなければならない。学問がしだいに上達してくると、文字で書かれていない書物、すなわち真理を宿している自然物を心読しなければいけない。


【所感】
学問に取り組む当初は、文字で書かれた書物を読むべきである。しかし学問が上達した後には、文字で書かれていない書物を読むべきである、と一斎先生は言います。


かつて、森信三先生は二宮尊徳翁の『二宮翁夜話』の冒頭の言葉、


それわが教えは書籍を尊まず、ゆえに天地をもって経文となす。予が歌に、"音もなく香もなく常に天地(あめつち)は、書かざる教を繰り返しつつ"と読めり。かかる尊き天地の経文を外にして、書籍の上に道を求むる学者輩の論説は取らざるなり


を目にした途端、大学入学以来抱き続けてきた多年の迷いが豁然として氷解したといいます。


森先生は、尊徳翁の語録によって、生涯を貫く学問観の根本的立場を授かったのです。


それが、


真理は現実の唯中にあり


という一語に表わされた学問観です。(寺田一清先生著、『森信三小伝』より)


つまり、真実というものは文字で書かれた書籍の中にあるのではなく、実生活という天地自然との対話の中に見出すものである、ということでしょう。


とはいえ、一斎先生も、まずは書を読むべきだとしています。


読書というものは、スポーツに例えるならランニングにあたります。


まずはランニングによって基礎体力をつけていくように、読書によって人生を生きる基礎を身につけなければいけません。


そして、ある段階に達したら、実践の中から人生に生きる真実をつかみとれ、というアドバイスなのです。


本を読まない若者は、まず読書をしましょう。


本をある程度読んできた壮年の人は、本から離れて、実践の中から人生を生きる真理(目的)を見つけ出しましょう。

第806日

【原文】
凡そ学を為すの初めは、必ず大人たらんと欲するの志を立てて、然る後に書は読む可きなり。然らずして、徒らに聞見を貪るのみならば、則ち或いは恐る。傲を長じ非を飾らんことを。謂わゆる「寇に兵を仮し、盗に糧を資するなり」。虞(うれ)う可し。


【訳文】
だいたい、学問を始める際には、必ず大人物になろうとする確乎たる志を立ててから、書物というものは読むべきである。そうせずに、ただ徒らに、見聞を広めることだけを欲張るならば、ひょっとしたら、おごって人をあなどる心を増長させたり、自分の非行を偽るようなことになりはしないかと心配するのである。これこそ「敵に武器を貸し与え、盗賊に食料を給する」ようなものであって、誠に恐るべきことである。


【所感】
まず学問を始めるにあたっては、必ず有徳の人物になろうという志を立てて、その後に書を読まねばならない。そうせずに、ただ悪戯に書物を貪り読むならば、それは恐ろしいことになる。傲慢さを増幅させ、自分の非行を飾るようなことになりかねない。これは『史記』にある言葉「侵略者に兵を貸し与え、盗賊に食料を与える」のようなものである。大いに憂うべきである、と一斎先生は言います。


なにごとも立志が先になければ、事は成就しないということでしょう。


成就しないどころか、かえって一所懸命にやることが弊害にすらなり得るのだと、一斎先生は指摘しています。


小生のような小人は、ちょっと知識を得るとすぐに人に披露したくなります。


そして、その内容を伝えた人たちが知らなければ優越感に浸り、時にはその人たちを馬鹿にするような態度をとってきました。


それは、知識を得る目的が不明確であったからだと、一斎先生は喝破されています。


中江藤樹先生は、


それ学は、人に下ることを学ぶものなり。人の父たることを学ばずして、子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学ぶ。よく人の子たるものはよく人の父となり、よく人の弟子たるものはよく人の師となる。自ら高ぶるにあらず、人より推して尊ぶなり。


として、学問をすればそれだけ人を立てることができるようになると言っています。


大いに恥じ入るばかりです。


孔子は、十五歳にして学に志し、七十四年の生涯を見事に大人として生き抜きました。


齢五十を越えた小生としては、遅きに失した感もありますが、もう一度、学問をする目的は自己修養にあるということを心に刻み、鍛錬していきます。

第805日

【原文】
古の学者は能く人を容る。人を容るる能わざる者は識量浅狭なり。是を小人と為す。今の学者は見解累を為して人を容るる能わず。常人には則ち見解無く、卻って能く人を容る。何ぞ其れ倒置爾(しか)るか。


【訳文】
昔の学者は、心が広くて人をよく包容する。人を包容することのできない人は、見識も浅く度量も狭い。こういう人が小人物である。今の学者は(偏狭な)考え方がわずらいをなして、そのためにおおらかに人を包容することができないのである。学問をしない普通一般の人は、別に見解(考え)というものがないから、かえってよく人を包容し意見を聞きいれることができる。今の学者と普通一般の人とが、相反しているのはどうしたことだろうか。


【所感】
昔の学者は、広く人を受け入れることができた。人を受け入れることができない人は、見識が浅くて狭いと言わざるを得ない。こういう人を小人とよぶ。今の学者は特定の考え方に縛られて人を受け入れることができない。一般の人の方が余計な囚われがないので、かえって人を受け入れることができる。なぜ学んでいるはずの学者が一般人にも及ばないようなことになるのだろうか、と一斎先生は言います。


テレビを見ていても、ここに挙げられているような見識の狭い学者先生をよく見かけます。


もちろん、ひとつの学説を信奉することは重要なことではありますが、それで他の考えや学説を全面的に否定しているようでは、学問と言えないのではないでしょうか? 


とくに実践を伴わない、頭でっかちの知識では、実際の生活や仕事の場面において何の役にも立ちません。


まして我々は学者先生ではないので、実践ありきの学問をしていくべきです。


ところで、この問題は学者先生の学説だけに当てはまるのではなく、我々企業人にとっても既成概念という捉え方でみれば、該当する話となるでしょう。


営業という世界に永く身をおいていると、いつの間にか営業パーソン特有の既成概念に取り付かれてしまいます。


小生の過去の経験ですが、若手の営業さんと商談に同行した際、受注可否の判断が分かれたような場合に、若手の判断の方が正解であったということがありました。


あるいは日報を読んでいても、若手の行動に教えられるということも多々あります。


どんな学説も、理論も100%有効というようなものはないはずです。


フレキシブルに、相手に合わせてカスタムメイドを心がけて実践するというのが、少なくとも企業人における基本スタンスであるべきですね。

第804日

【原文】
君に事(つか)えて忠ならざるは孝に非ず。戦陣に勇無きは孝に非ず。是れ知なり。能く忠、能く勇なれば、則ち是れ之を致すなり。乃ち是れ能なり。


【訳文】
『礼記』に「君に事えて忠でないのは孝ではない。戦場で勇のないのは孝ではない」とあるが、忠・勇が即ち孝であると知るのは単なる知(知識)である。さらに進んで、実際に忠・勇を実行に移せば、これこそ能、すなわち行である。


【所感】
君主(上司)に仕えて忠誠を尽くせないようでは孝といえない。戦場において勇気を発揮しないのも孝とはいえない。これが知である。忠誠心と勇気を実行に移せば、知を致すことになる。これが能つまり実行である、と一斎先生は言います。


知と良についての章句が続きます。


ここでは親孝行だけが孝ではなく、上司への忠誠心や戦場での義勇の発揮も孝であるとしています。


真に親に仕える気持ちがあれば、職場においては上司に仕え、戦場においては義勇心を発揮できるのだ、という教えは納得できます。


『論語』学而第一にもそのことが記載されています。


【原文】
有子曰わく、其(そ)の人と爲(な)りや、孝弟にして上(かみ)を犯すを好む者は鮮なし。上を犯すを好まずして亂(らん)を作(な)すを好む者は未(いま)だ之れ有らざるなり。君子は本を務む、本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁を爲すの本か。


【訳文】
有先生が言われた。
「その人柄が、家に在っては、親に孝行を尽し、兄や姉に従順であるような者で、長上にさからう者は少ない。長上に好んでさからわない者で、世の中を乱すことを好むような者はない。何事でも先ず本を務めることが大事である。本が立てば、進むべき道は自ら開けるものだ。従って孝弟は仁徳を成し遂げる本であろうか」(伊與田覺先生訳)


小生はこの章を読んだとき、衝撃を受けました。


この言葉を逆に解せば、会社や社会で目上の人に食ってかかるような人は、そもそも家庭で孝を尽くせていないのだ、と読めるからです。


なにかと言えば、上司や先輩に意見をしていた自分を今更ながらに恥じたことを思い出します。


小生は幸いにも両親が健在です。


まずは自分自身が孝を尽くし、そしてわが子に孝を尽くす大切さを教えていくことが、仁つまり衆善(すべての善)の根本であり、良知を致すことになるのだということを、この章句は教えてくれています。
プロフィール

れみれみ