【原文】
源有るの活水は浮萍(ふひょう)も自ら潔(きよ)く、源無きの濁沼(だくしょう)は蓴菜(じゅんさい)も亦汚る。
【訳文】
水源のある生き生きとした水には、浮き草も清らかであるが、水源が無いので水が流通しない濁った沼では、食用にする蓴菜までも何となく汚なくみえる。
【所感】
水源のある活きた水があれば浮き草でさえも清らかとなるが、水源の無い濁った沼では食用の蓴菜ですら汚れているように見える、と一斎先生は言います。
ここでは、水源を志に喩えているようです。
志があれば、元々資質を持っていないような人物であってもそれなりの人物になれるが、志がなければ、元々は高い資質を持っているような人物であっても大成できない、という意味でしょうか。
立志の大切さについては、この後『言志耋録』の中でまとめて取り上げられますので、そこで考えてみたいと思いますが、晩年の一斎先生が立志の必要性を説いていることに意味があるように思います。
有名な三学戒の中でも一斎先生は、
老いて学べば、則ち死して朽ちず
と記述しています。
志が定まっていればこそ老いて尚学び続けることができるのではないでしょうか。
そして、自分の心を水が還流しない濁った沼のようにしない為にも、読書によって新鮮な知識を心に供給し続けなければなりません。
ちょうど昨日からゴールデンウィークが始まりました。
小生も久しぶりに9連休を取得しましたので、読書によって心の濁りを取り除くことに努めます。