一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年05月

第839日

【原文】
凡そ活物は養わざれば則ち死す。心は我れに在るの一大活物なり。尤も以て養わざる可からず。之を養うには奈何(いか)にせん。理義の外に別方無きのみ。


【訳文】
だいたい生命のある物は、これを養っていかなければ死んでしまう。身体を主宰する所の心というものは、各自に具わっている一大活物であるから、特にこれを養わなければならない。これを養っていくにはどうすればよいか。それは物の道理を明らかにして、心をそれに照らしてみる以外に別の方法はない。


【所感】
すべて生き物というものは養わなければ死んでしまう。人間の心も我が身に有する重要な生き物である。心を養うことには特に留意すべきである。ではなにをもって養えばよいのか。道理を明らかにして、各自の心をその道理に照らして見る外に別の方法は無い、と一斎先生は言います。


心は生き物であるから、心を養うためには、物事の道理を見極め、常に正しい道を存しておくことが必要なのだと一斎先生は考えていたようです。


森信三先生は、心の食物についてより具体的に述べています。


長くなりますが、『修身教授録』の該当部分を引用します。


われわれは、この肉体を養うために、平生色々な養分を摂っていることは、今さら言うまでもないことです。

実際われわれは、この肉体を養うためには、一日たりとも食物を欠かしたことはなく、否、一度の食事さえ、これを欠くのはなかなか辛いとも言えるほどです。 

ところが、ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。

からだの養分と比べて、いかにおそろかにしているかということは、改めて言うまでもないでしょう。 

ところが、「心の食物」という以上、それは深くわれわれの心に染み透って、力を与えてくれるものでなくてはならぬでしょう。

ですから「心の食物」は、必ずしも読書に限られるわけではありません。

いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。 

したがってその意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。

だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいと言えましょう。 

ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らねば、かえって人々を損なうようなものです。

同様に人生の深刻切実な経験も、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう。 

すなわちわれわれの人間生活は、その半ばはこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。 

自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の後を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。


森先生は、読書は心の食物だと言っているのです。


活字離れが深刻化している現代においては、多くの人の心は既に瀕死の状態にあるのか知れません。


時折、本は読まないが漫画で活字を見ているという人がいます。


しかし、漫画はそこに絵があるために、読者の想像力を著しく限定してしまいます。


やはり、活字を読んで、自分自身でいろいろと想像することが大切なのではないでしょうか?


心を養うために、まず本を読みましょう。

第838日

【原文】
一旦豁然の四字、真に是れ海天出日の景象なり。認めて参禅頓悟の境と做すこと勿れ。


【訳文】
「一旦豁然」の四字は、これを喩えていえば、実に海上に朝日が昇ったような状態である。これは物の道理が苦心の末にやっと解明できたことで、これを、坐禅をして俄かに証悟するというようなものと考えてはいけない。


【所感】
一旦豁然の四文字は、まさに海上に旭日が昇ったような心の状態である。これは坐禅の最中にふと悟りを開くような心境と同じだと見なしてはいけない、と一斎先生は言います。


解釈の難しい章句です。


「一旦豁然」と「参禅頓悟」との違いをどう解釈するかが、この章句を理解するポイントでしょう。


朱熹(朱子)は『大学章句』の中で、「一所懸命に理を究めていると、ある朝豁然として心が開け、自分の心の全体大用が明らかになる」としています。


いわゆる格物致知を究め尽くした末にたどりつく境地だということでしょう。


一方の参禅頓悟は、ひたすら坐り続けていくうちにはっと悟ることで、物の理を究めるのではなく、我が心に問いかけ続けた末にたどりつく境地だといえそうです。


要するに、儒者であって仏教徒を激しく非難した一斎先生ですので、悟りというものは、理を究めるという努力が大切であって、ひたすら坐るだけで開けるものではない、と言いたいのではないでしょうか? 


ただし、フラットな立場からすれば、格物と坐禅とは本来の目的も違いますので、同じ悟りであっても、悟りの内容が違うということになるのだと、小生は理解しています。


格物とは外物にある「気」を究めることで、その外物と自分との間に共通に存在する「理」を掴み取ることです。


一方、坐禅は我が心の中(内物)をきわめて、何事にも動じない心を掴み取ることでしょう。


どちらもとても重要な修養だと言えます。


あえて事例を挙げるなら、格物つまり一旦豁然のイメージは、小さい子が自転車に乗る訓練をしていて、何度も転んでは起きて練習をするうちに、ある瞬間に突然上手に自転車を乗りこなすことができるようになる、あの瞬間なのではないでしょうか?


営業という仕事も同じです。


ただ坐禅をしているだけでは、お客様の心をつかむことはできません。(坐禅を否定している訳ではありませんので、お間違えの無きように)


外に出て、お客様に会って何度も断られ、自分なりの反省点と課題をもってまた訪問する、ということを繰り返すうちに、いつの間にか営業という職業の真髄に触れることができるようになるのです。(ただし、最低でも10年は要しますが)


何事も短期的に結果を求めるのではなく、日々努力を重ねた末に真の成功があるということを忘れてはいけません。

第837日

【原文】
主宰より之を理と謂い、流行より之を気と謂う。主宰無ければ流行する能わず。流行して然る後其の主宰を見る。二に非ざるなり。学者輒(もっぱ)ら分別に過ぎ、支離の病を免れず。


【訳文】
万物を支配する面からすれば、これを理といい、万物が生成し流用する面からすれば、これを気という。ところで、主宰と流行の関係であるが、主宰が無ければ流行することもできないし、流行があるので主宰のあることが知られる。主宰と流行、理と気とは二つであるのではない。しかるに、学者には専らこれを分けてしまって、離ればなれに見る間違った考えの者がいる。


【所感
万物を主宰しているという観点からすれば、これを理といい、万物が生成し流行しているという観点からすれば、これを気という。主宰がなければ流行することはできず、流行してはじめて主宰があることを知る。これらは二つのようで二つではない。学者はどうしても分別をしようとし過ぎて、かえって物事を難しくとらえる傾向を免れない、と一斎先生は言います。


久しぶりに理と気について触れられていますので、少し整理しておきます。


以下、小倉紀蔵氏の『入門 朱子学と陽明学』から理と気についての解説を引用します。


理とは、宇宙・世界・国家・社会・共同体・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則である。この世のすべては素材としては気でなりたっているのだが、その素材の動態に自然的な秩序を与え、全体と部分に対して同時に完全な調和を与える法則が、理なのである。

理は気ではないから、物質性からは完全に切り離されている。

気は単なる物質ではなく、バイタルな生命力を有した物質である。

すべては気である。花も、人も、雲も、机も、鬼神も、すべては気なのである。

理がなければもの・ことはない。もの・ことは気だけでは成り立つことができず、理があって初めて成り立つ。


理と気について、なんとなく概要を把握できたでしょうか?


一斎先生がいう、主宰と流行については、川上正光先生がわかりやすい解説をしています。


水あるが故に波あり、波あるをもって水を知るようなものである。


つまり、この場合の水が理であり、波が気に当たります。


水と波が切り離せないように、理の主宰と気の流行も切り離すことはできません。


ところが、なにかと学者先生は、物事を分けて考える癖があって、かえって物事を難しくしてしまうので、気をつけねばならないのだ、と一斎先生は言います。


これは、マネジメントする際にも参考になります。


マネージャーの中には、現象(流行または気)だけに目がいって、本質的な課題(主宰または理)に気づかない人がいます。


たとえば、売上計画を達成できないという時の問題点として、案件数(引合量)が少ないことを挙げる人がいます。(残念ながら、前職・現職を通して、こういう人はかなり多くいます)


しかし、案件の数が少ないのは、現象に過ぎません。


なぜ案件量が少ないのかを掘り下げれば、たとえばそもそもアポイントの数が少ないことがわかり、なぜアポイントの数が少ないのかを探ると、アポイントを取るためのトークやスキルに問題があることがわかってきます。


ここまでくると、具体的にアポイントを取るためのトークを錬ったり、スキルを磨くということが出来ますので、効果が期待できるわけです。


案件が少ないから増やしましょう、では売上は決して伸びません。


このように考えてみると、理の主宰、気の運用について思索することは、多くの事に応用が効くのではないでしょうか。

第836日

【原文】
一息の間断無く、一刻の急忙無し。即ち是れ天地の気象なり。


【訳文】
一瞬も休息すること無く、また少しも慌てることもしないのは、天地の気象である。


【所感】
一瞬も途切れることなく、一刻も急ぐことがない。これこそ天地の気象である。


短い言葉ではありますが、なかなか深い言葉でもあります。


何事かを為すにあたっては、一度始めたら倦むことなくやり続け、かといって慌てて結果を求めないことが重要である、と読むことができます。


人間は弱い生き物ですので、ひとつの事を成し遂げようと思っても、一度何かの事情でそれを休止しなければならなかったり、ちょっと心が折れて休憩してしまうと、その先を続けることが億劫になるものです。


そんな弱い自分に勇気を与えてくれるのが、小生が読書会などでお世話になっている小倉広さんの言葉です。


三日坊主でも構いません。 

4日目にできなくても、5日目からまたはじめればいいんです。  

三日坊主を続けると1年の4分の3(273日)は実践したことになります。


一度ストップしても、また始めればよい。


それがやりきり技術だと小倉さんは言います。


意志の弱い小生はこの言葉にどれだけ勇気をもらったかわかりません。


決して焦ることなく、急ぐことなく、何度もやり直す三日坊主を目指しませんか?

第835日

【原文】
衣・食・住は並(ならび)に欠く可からず。而して人欲も亦此に在り。又其の甚だしき者は食なり。故に飲食を菲(うす)くするは尤も先務なり。


【訳文】
衣服・食物・住居の三つは、生活に欠くことのできない基礎的な根本条件である。人間の欲望もここにある。その欲望の中で最も甚だしいものは食べることである。それで、飲食を節約するということがまっ先にやらねばならないことである。


【所感】
衣・食・住という三つの要素はどれも欠くことはできないものである。人間の欲望もここに存在している。そのうち最も甚だしいものが食への欲望である。だからこそ、飲食を質素にすることが最も先決なのだ、と一斎先生は言います。


昨日と同趣旨の内容です。有名なマズローの欲求五段階説でも、衣・食・住は生理的欲求として、もっとも根源的な欲求とされています。


その中でも最も欠くことができないのが食でしょう。


人間は食べなければ生きていけません。


だからこそ、この食への欲望を抑え込むことが修身としてまず手をつけるべき課題だと一斎先生は言います。


かつて上杉鷹山公は、極貧の米沢藩を立て直す際に、藩の上級武士たちにも、木綿の衣服を着ることと共に一汁一菜を奨励しました。


最近、テレビや雑誌などで取り上げられている料理研究科の土居善晴さんは、一汁一菜は「ええことずくし」だと言います。


土居さんの提唱する一汁一菜は、ごはんと具だくさんの味噌汁だけというスタイルです。


土居さんの提唱する一汁一菜は飽きることがないのだそうです。


なぜなら、味噌汁の具は季節によって多種多様に変えることができますし、それ以上にごはんも味噌も人間が意図的につけた味ではないからだと言います。


小生の妻もいつも料理で頭を悩ましているようなので、健康でもある一汁一菜を我が家でも提唱して、家族で食の欲望を抑え込んでみます。


妻のプライドを傷つけないように慎重に。
プロフィール

れみれみ