一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年05月

第839日

【原文】
凡そ活物は養わざれば則ち死す。心は我れに在るの一大活物なり。尤も以て養わざる可からず。之を養うには奈何(いか)にせん。理義の外に別方無きのみ。


【訳文】
だいたい生命のある物は、これを養っていかなければ死んでしまう。身体を主宰する所の心というものは、各自に具わっている一大活物であるから、特にこれを養わなければならない。これを養っていくにはどうすればよいか。それは物の道理を明らかにして、心をそれに照らしてみる以外に別の方法はない。


【所感】
すべて生き物というものは養わなければ死んでしまう。人間の心も我が身に有する重要な生き物である。心を養うことには特に留意すべきである。ではなにをもって養えばよいのか。道理を明らかにして、各自の心をその道理に照らして見る外に別の方法は無い、と一斎先生は言います。


心は生き物であるから、心を養うためには、物事の道理を見極め、常に正しい道を存しておくことが必要なのだと一斎先生は考えていたようです。


森信三先生は、心の食物についてより具体的に述べています。


長くなりますが、『修身教授録』の該当部分を引用します。


われわれは、この肉体を養うために、平生色々な養分を摂っていることは、今さら言うまでもないことです。

実際われわれは、この肉体を養うためには、一日たりとも食物を欠かしたことはなく、否、一度の食事さえ、これを欠くのはなかなか辛いとも言えるほどです。 

ところが、ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。

からだの養分と比べて、いかにおそろかにしているかということは、改めて言うまでもないでしょう。 

ところが、「心の食物」という以上、それは深くわれわれの心に染み透って、力を与えてくれるものでなくてはならぬでしょう。

ですから「心の食物」は、必ずしも読書に限られるわけではありません。

いやしくもそれが、わが心を養い太らせてくれるものであれば、人生の色々な経験は、すべてこれ心の食物と言ってよいわけです。 

したがってその意味からは、人生における深刻な経験は、たしかに読書以上に優れた心の養分と言えましょう。

だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいと言えましょう。 

ちょうど劇薬は、これをうまく生かせば良薬となりますが、もしこれを生かす道を知らねば、かえって人々を損なうようなものです。

同様に人生の深刻切実な経験も、もしこれを読書によって、教えの光に照らして見ない限り、いかに貴重な人生経験といえども、ひとりその意味がないばかりか、時には自他ともに傷つく結果ともなりましょう。 

すなわちわれわれの人間生活は、その半ばはこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。 

自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の後を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。


森先生は、読書は心の食物だと言っているのです。


活字離れが深刻化している現代においては、多くの人の心は既に瀕死の状態にあるのか知れません。


時折、本は読まないが漫画で活字を見ているという人がいます。


しかし、漫画はそこに絵があるために、読者の想像力を著しく限定してしまいます。


やはり、活字を読んで、自分自身でいろいろと想像することが大切なのではないでしょうか?


心を養うために、まず本を読みましょう。

第838日

【原文】
一旦豁然の四字、真に是れ海天出日の景象なり。認めて参禅頓悟の境と做すこと勿れ。


【訳文】
「一旦豁然」の四字は、これを喩えていえば、実に海上に朝日が昇ったような状態である。これは物の道理が苦心の末にやっと解明できたことで、これを、坐禅をして俄かに証悟するというようなものと考えてはいけない。


【所感】
一旦豁然の四文字は、まさに海上に旭日が昇ったような心の状態である。これは坐禅の最中にふと悟りを開くような心境と同じだと見なしてはいけない、と一斎先生は言います。


解釈の難しい章句です。


「一旦豁然」と「参禅頓悟」との違いをどう解釈するかが、この章句を理解するポイントでしょう。


朱熹(朱子)は『大学章句』の中で、「一所懸命に理を究めていると、ある朝豁然として心が開け、自分の心の全体大用が明らかになる」としています。


いわゆる格物致知を究め尽くした末にたどりつく境地だということでしょう。


一方の参禅頓悟は、ひたすら坐り続けていくうちにはっと悟ることで、物の理を究めるのではなく、我が心に問いかけ続けた末にたどりつく境地だといえそうです。


要するに、儒者であって仏教徒を激しく非難した一斎先生ですので、悟りというものは、理を究めるという努力が大切であって、ひたすら坐るだけで開けるものではない、と言いたいのではないでしょうか? 


ただし、フラットな立場からすれば、格物と坐禅とは本来の目的も違いますので、同じ悟りであっても、悟りの内容が違うということになるのだと、小生は理解しています。


格物とは外物にある「気」を究めることで、その外物と自分との間に共通に存在する「理」を掴み取ることです。


一方、坐禅は我が心の中(内物)をきわめて、何事にも動じない心を掴み取ることでしょう。


どちらもとても重要な修養だと言えます。


あえて事例を挙げるなら、格物つまり一旦豁然のイメージは、小さい子が自転車に乗る訓練をしていて、何度も転んでは起きて練習をするうちに、ある瞬間に突然上手に自転車を乗りこなすことができるようになる、あの瞬間なのではないでしょうか?


営業という仕事も同じです。


ただ坐禅をしているだけでは、お客様の心をつかむことはできません。(坐禅を否定している訳ではありませんので、お間違えの無きように)


外に出て、お客様に会って何度も断られ、自分なりの反省点と課題をもってまた訪問する、ということを繰り返すうちに、いつの間にか営業という職業の真髄に触れることができるようになるのです。(ただし、最低でも10年は要しますが)


何事も短期的に結果を求めるのではなく、日々努力を重ねた末に真の成功があるということを忘れてはいけません。

第837日

【原文】
主宰より之を理と謂い、流行より之を気と謂う。主宰無ければ流行する能わず。流行して然る後其の主宰を見る。二に非ざるなり。学者輒(もっぱ)ら分別に過ぎ、支離の病を免れず。


【訳文】
万物を支配する面からすれば、これを理といい、万物が生成し流用する面からすれば、これを気という。ところで、主宰と流行の関係であるが、主宰が無ければ流行することもできないし、流行があるので主宰のあることが知られる。主宰と流行、理と気とは二つであるのではない。しかるに、学者には専らこれを分けてしまって、離ればなれに見る間違った考えの者がいる。


【所感
万物を主宰しているという観点からすれば、これを理といい、万物が生成し流行しているという観点からすれば、これを気という。主宰がなければ流行することはできず、流行してはじめて主宰があることを知る。これらは二つのようで二つではない。学者はどうしても分別をしようとし過ぎて、かえって物事を難しくとらえる傾向を免れない、と一斎先生は言います。


久しぶりに理と気について触れられていますので、少し整理しておきます。


以下、小倉紀蔵氏の『入門 朱子学と陽明学』から理と気についての解説を引用します。


理とは、宇宙・世界・国家・社会・共同体・家族・自己を貫通する物理的・生理的・倫理的・論理的法則である。この世のすべては素材としては気でなりたっているのだが、その素材の動態に自然的な秩序を与え、全体と部分に対して同時に完全な調和を与える法則が、理なのである。

理は気ではないから、物質性からは完全に切り離されている。

気は単なる物質ではなく、バイタルな生命力を有した物質である。

すべては気である。花も、人も、雲も、机も、鬼神も、すべては気なのである。

理がなければもの・ことはない。もの・ことは気だけでは成り立つことができず、理があって初めて成り立つ。


理と気について、なんとなく概要を把握できたでしょうか?


一斎先生がいう、主宰と流行については、川上正光先生がわかりやすい解説をしています。


水あるが故に波あり、波あるをもって水を知るようなものである。


つまり、この場合の水が理であり、波が気に当たります。


水と波が切り離せないように、理の主宰と気の流行も切り離すことはできません。


ところが、なにかと学者先生は、物事を分けて考える癖があって、かえって物事を難しくしてしまうので、気をつけねばならないのだ、と一斎先生は言います。


これは、マネジメントする際にも参考になります。


マネージャーの中には、現象(流行または気)だけに目がいって、本質的な課題(主宰または理)に気づかない人がいます。


たとえば、売上計画を達成できないという時の問題点として、案件数(引合量)が少ないことを挙げる人がいます。(残念ながら、前職・現職を通して、こういう人はかなり多くいます)


しかし、案件の数が少ないのは、現象に過ぎません。


なぜ案件量が少ないのかを掘り下げれば、たとえばそもそもアポイントの数が少ないことがわかり、なぜアポイントの数が少ないのかを探ると、アポイントを取るためのトークやスキルに問題があることがわかってきます。


ここまでくると、具体的にアポイントを取るためのトークを錬ったり、スキルを磨くということが出来ますので、効果が期待できるわけです。


案件が少ないから増やしましょう、では売上は決して伸びません。


このように考えてみると、理の主宰、気の運用について思索することは、多くの事に応用が効くのではないでしょうか。

第836日

【原文】
一息の間断無く、一刻の急忙無し。即ち是れ天地の気象なり。


【訳文】
一瞬も休息すること無く、また少しも慌てることもしないのは、天地の気象である。


【所感】
一瞬も途切れることなく、一刻も急ぐことがない。これこそ天地の気象である。


短い言葉ではありますが、なかなか深い言葉でもあります。


何事かを為すにあたっては、一度始めたら倦むことなくやり続け、かといって慌てて結果を求めないことが重要である、と読むことができます。


人間は弱い生き物ですので、ひとつの事を成し遂げようと思っても、一度何かの事情でそれを休止しなければならなかったり、ちょっと心が折れて休憩してしまうと、その先を続けることが億劫になるものです。


そんな弱い自分に勇気を与えてくれるのが、小生が読書会などでお世話になっている小倉広さんの言葉です。


三日坊主でも構いません。 

4日目にできなくても、5日目からまたはじめればいいんです。  

三日坊主を続けると1年の4分の3(273日)は実践したことになります。


一度ストップしても、また始めればよい。


それがやりきり技術だと小倉さんは言います。


意志の弱い小生はこの言葉にどれだけ勇気をもらったかわかりません。


決して焦ることなく、急ぐことなく、何度もやり直す三日坊主を目指しませんか?

第835日

【原文】
衣・食・住は並(ならび)に欠く可からず。而して人欲も亦此に在り。又其の甚だしき者は食なり。故に飲食を菲(うす)くするは尤も先務なり。


【訳文】
衣服・食物・住居の三つは、生活に欠くことのできない基礎的な根本条件である。人間の欲望もここにある。その欲望の中で最も甚だしいものは食べることである。それで、飲食を節約するということがまっ先にやらねばならないことである。


【所感】
衣・食・住という三つの要素はどれも欠くことはできないものである。人間の欲望もここに存在している。そのうち最も甚だしいものが食への欲望である。だからこそ、飲食を質素にすることが最も先決なのだ、と一斎先生は言います。


昨日と同趣旨の内容です。有名なマズローの欲求五段階説でも、衣・食・住は生理的欲求として、もっとも根源的な欲求とされています。


その中でも最も欠くことができないのが食でしょう。


人間は食べなければ生きていけません。


だからこそ、この食への欲望を抑え込むことが修身としてまず手をつけるべき課題だと一斎先生は言います。


かつて上杉鷹山公は、極貧の米沢藩を立て直す際に、藩の上級武士たちにも、木綿の衣服を着ることと共に一汁一菜を奨励しました。


最近、テレビや雑誌などで取り上げられている料理研究科の土居善晴さんは、一汁一菜は「ええことずくし」だと言います。


土居さんの提唱する一汁一菜は、ごはんと具だくさんの味噌汁だけというスタイルです。


土居さんの提唱する一汁一菜は飽きることがないのだそうです。


なぜなら、味噌汁の具は季節によって多種多様に変えることができますし、それ以上にごはんも味噌も人間が意図的につけた味ではないからだと言います。


小生の妻もいつも料理で頭を悩ましているようなので、健康でもある一汁一菜を我が家でも提唱して、家族で食の欲望を抑え込んでみます。


妻のプライドを傷つけないように慎重に。

第834日

【原文】
人欲の中、飲食を以て尤も甚だしと為す。余、賤役庶徒(せんえきしょと)を観るに、隘巷(あいこう)に居り、襤褸(らんる)を衣る。唯だ飲食に於いては則ち都て過分たり。得る所の銭賃は之を飲食に付し、毎(つね)に輒(すなわ)ち衣を典して以て酒食に代うるに至る。況や貴介の人は、飲食尤も豊鮮(ほうせん)たり。故に聖人は簞食瓢飲(たんしひょういん)を以て顔子を称し、飲食を菲(うす)くするを以て大禹を称せり。其の易事に非ざること推す可きなり。


【訳文】
人間の欲望の中で、飲食の欲望が最も甚だしい。自分が、賤しい労役に従事する人々の生活状態を視察すると、狭い小路に住居をかまえ、身にはぼろを着ていても、ただ飲食物だけは、総て身分に過ぎた事をしている。そして働いて得た所の賃金は飲食にあてている。いつも自分の衣服を質に入れては、酒食の代にかえている。身分の高貴な人々の飲食物は、いうまでもなく、豊富でしかも新鮮なものである。それで、清貧に甘んじ簡素な生活に安んじながら道を楽しんだ弟子の顔回を称讃し、また、自分の飲食物を節約して、祖先の霊に供物を豊富にして敬った夏の禹王を称揚したのである。これによってみても、飲食に対する欲望を慎むことは容易で無いということが推察できよう。


【所感】
人間の欲望の中で飲食への欲が最も甚だしい。卑賤な労役をしている人々を観察してみると、狭い路地に住み、身にはボロを着ていても飲食だけは分に過ぎたものを食べている。そして稼いだ日銭を飲食に使ってしまい、いつも自分の衣類を質屋に入れて酒とか肴の代金に充当している。ましてや高貴な人々の飲食はさらに豊富で新鮮なものばかりである。それゆえに、孔子は、粗食であっても道を楽しんだ弟子の顔回を称揚し、また自分の飲食を切り詰めて祖先の霊に供物を捧げた夏の禹王を賞賛したのである。ここからも飲食に対する欲望を抑制する事は容易でないことが理解できよう、と一斎先生は言います。


豪華な生活にあこがれる小生のような庶民は、時に「せめて食事くらいは」と身分不相応な食事をすることがあります。


勿論、たまにということであれば良いのでしょうが、一斎先生はそれが人間の欲望を増殖させる根源だと指摘しているのでしょうか。


ここに掲載されている顔回の件は、『論語』雍也第六に掲載されています。


【原文】
子曰わく、賢なるかな回や。一單(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲、陋巷に在り。人は其の憂に堪えず、回や其の樂しみを改めず。賢なるかな回や。 


【訳文】
先師が言われた。  
「顔回は、なんと立派な人物だろう。一膳の飯と一椀の汁物しかない貧しい長屋暮らし をしておれば、たいていの人は、その苦しみに堪えられないものだが、回はそんな苦境に あっても楽しんで道を行って変わることがない。なんと立派な人物だろう回は」(伊與田覺先生訳)


この言葉が発せられたシーンを想定してみます。


弟子達に将来の夢を語らせてみると、ほとんどの弟子達が政治家としての地位を得て、豪奢な生活を望んでいることを知った孔子が、嘆きのあまりこの言葉を発したのではないか、と私はみています。


顔回という人は、孔子が唯一「仁者」であると認めた高弟であり、自分の後継者であると任じていた人でした。


しかし、こうした生活が祟ったのか、孔子より先に41歳(別の説あり)で亡くなってしまいました。


また、夏の禹王についても『論語』泰伯第八篇に記載されています。


【原文】
子曰わく、禹は吾間然すること無し。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ゆうべん)に致し、宮室を卑しくして力を溝洫(こうきょく)に盡(つく)す。禹は吾間然すること無し。


【訳文】
先師が言われた。「禹の人柄については非のうちどころがない。自分の飲食を簡素にして、先祖の霊や天地の神を丁重に祭った。衣服は粗末にして祭礼の時につける前だれとかんむり即ち祭服を質素にして、灌漑用の水路の構築に力を尽くした。まことに禹の人柄に対して自分は一点の非のうちどころもない。(伊與田覺先生訳)


夏王朝の始祖である禹王は私欲にまさる公欲をもって、日常を質素に暮らした偉人といえるでしょう。


ところが夏王朝最後の君主であった桀王は酒池肉林(酒で池をつくり、肉の塊をつるして林のようにした)を楽しみという私欲に溺れ、殷の武王に討たれて王位を失い、命を落としたのです。


現代の日本はまさに飽食の時代です。


豊かな食事が寿命を縮めるという皮肉な時代となっています。


我欲を抑える鍛錬はまず食欲から始めてみるべきですね。

第833日

【原文】
人欲起る時、身の熱湯に在るが如く、欲念消ゆる時、浴後の醒快(せいかい)なるが如し。


【訳文】
欲望が起ると、あたかも体が熱湯の中にあるように、悶え苦しんで物を得ようと焦るが、その欲念が去って無くなると、あたかも入浴した後のように、気分がさわやかになるものである。


【所感】
欲望が起こるときというのは、自分の身体が熱湯の中にあるようであり、欲念が消えたときというのは、入浴後のさっぱりした気分のようである、と一斎先生は言います。


なかなか興味深い表現です。


欲望が起こるときというのは、欲望が満たされていない状態ですので、心は安定せず、不安や不満が渦巻く状態といえるでしょう。


それを一斎先生は、熱湯風呂に入っている状態に例えています。


欲が消えた状態とは、無欲の状態というのではなく、我欲が公欲によって抑えられて、心が安定している状態を指すのだと、小生は理解しています。


そのときはまるで、入浴後に清涼感を感じるのと同じようなものだと言います。


そうだとすると、常に欲望に駆られた凡愚な小生などは、常に熱湯風呂に入っていることになります。


よく芸人さんが熱湯風呂に入りますが、あれも熱湯風呂に入るまでの過程が芸なのであって、熱湯風呂に浸かっている時間はほんの数秒です。


欲望が熱湯風呂だと思うと欲望を抱くことが怖くなりますね。


我欲を抑え込めるような公欲を抱き、常に志を高くして、公欲を満たすように日々を過ごすならば、心はいつも入浴後の清涼感を感じられるのだとすれば、それを目指さない手はありません。

第832日

【原文】
真の己を以て仮の己に克つは天理なり。身の我れを以て心の我れを害するは人欲なり。


【訳文】
自己には真の自己と仮の自己とがあって、真の自己をもって仮の自己に打ち克つのは天の道理である。これに対して、物質的・感性的な自己をもって精神的な内在的自己を阻害するのは人欲(我欲・私欲)である。


【所感】
真の自己が仮の自己に打ち克つのは天の道理である。また肉体の私が心の私を害するのは我欲があるからである、と一斎先生は言います。


既に第122日、第333日でも、同趣旨の内容が語られています。


真の自己とは、例えば孟子が惻隠の心で表したような、生まれたときには誰もがもっている天与の資質を発揮することであり、仮の自己とは、生きていく中で自然に身にこびりついてしまった心の垢を取り除けない状態を指すのだと思われます。


また、身の我れとは、第122日で取り上げた「軀殻の仮己」のことであり、「軀殻の己」とは耳目口鼻四肢をさすのだそうです。


よって「軀殻の仮己」とは、耳目口鼻四肢を通して身につけた欲に犯された己であり、心の我れとは、本然の真己とは、天与の心を発揮した己ということになります。


要するに、


真の自己 = 心の我れ 

仮の自己 = 身の我れ 


であって、最初の節と次の節は逆の角度から同じことを言っているのだと理解しました。


簡潔にまとめるならば、


我欲に犯されて、真の自分を見失うな


という教えなのでしょう。


以前にも書きましたが、人は無欲にはなれません。


だからこそ、この世に生まれた役割(天命)を発揮して、我欲に打ち克つ公欲を満たす努力をするべきなのです。


公欲を満たすことこそ、真の自己の発揮であって、天理なのです。

第831日

【原文】
気象を理会するは、便ち是れ克己の工夫なり。語黙動止(ごもくどうし)、都(すべ)て篤厚なるを要し、和平なるを要し、舒緩(じょかん)なるを要す。粗暴なること勿れ。激烈なること勿れ。急速なること勿れ。


【訳文】
自分の気性を理解することは、これすなわち自己にうち克つ工夫である。語ることも黙ることも動くことも止まることも、総て親切で手厚くあり、おとなしくて穏やかであり、ゆるやかでゆったりしておらなければいけない。あらあらしくしてはいけないし、極めて激しくしてもいけないし、気ぜわしくしてもいけない。


【所感】
自分の気質を把握することは、そのまま克己の工夫へとつながる。語ること黙ること、動くこと止まること、すべてにおいて人情に厚く誠実で、落ち着いて穏やかで、ゆるやかでゆったりとしていることが重要である。荒々しく、激しく、せかせかしているようではいけない、と一斎先生は言います。


なかなか耳の痛い章句です。


小生の場合、まさに語黙動止すべてにおいて、一斎先生が駄目だと指摘されている粗暴で激烈で急速です。


篤厚・和平・、いずれも小生にはハードルの高い心の在り方ですが、特に篤厚とうのは、高い人間力を有していないと発揮できないのではないでしょうか。


ここに関連して、森信三先生は『修身教授録』のなかで、以下のようなことを述べています。


本当に偉い方というものは、そうみだりに声を荒げて、生徒や門弟を叱られるものではないのです。

大声で生徒を叱らねばならぬということは、それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です。つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。 

実際偉大な先生の、その弟子に対する深い思いやりとか慈悲心が、しだいに相手に分かりかけてくれば、叱るなどということは、まったく問題ではなくなるでしょう。 

優れた師匠というものは、常にその門弟の人々を、共に道を歩む者として扱って、決して相手を見下すということをしないものであります。 

ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。

そもそも人間というものは、その人が偉くなるほど、しだいに自分の愚かさに気付くと共に、他の人の真価がしだいに分かってくるものであります。

そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるのであります。 

易には「至剛而至柔」という言葉がありますが、実際至柔なる魂にして、初めて真に至剛なるを得るのでありましょう。


すぐに声を荒げて社員さんを叱る小生のような人間は、森先生の言葉を借りれば、貫禄つまり篤厚が足りないからだ、ということになります。


あらためて、ここに挙げられた篤厚・和平・緩という三つの心の在り方を意識しなければいけないことに気づかせていただきました。

第830日

【原文】
「予言う無からんと欲す」欲の字の内、多少の工夫有り。「士は賢を睎(ねが)い、賢は聖を睎い、聖は天を睎う」とは、即ち此の一の字なり。


【訳文】
孔子が「自分は言葉で諭すことはしたくない」と言われた。この欲の字には、欲のように、いろいろと工夫がある。すなわち「士(教養ある立派な人)は賢人になろうと欲し、賢人は聖人になろうと欲し、聖人は天と一体になろうと欲している」と周濂渓が言っているように、これらはみな一つの欲の字(願望)であるが、各々工夫は異なっている。


【所感】
孔子は「私は言葉で教えることをやめたい」と言ったが、この欲の字のうちには、かなりの工夫がなされている。周濂渓が『通書』の中で「士は賢人になろうと願い、賢人は聖人に至ろうと願い、聖人は天と一つになろうと願う」とあるのは、みな欲と言う意味ではひとつであるが、その工夫はそれぞれ異なっている、と一斎先生は言います。


孔子の言葉については、『論語』陽貨第十七篇に掲載されており、すでに第794日で紹介しておりますので、そちらをご覧ください。


ここでは、欲をとりあげていますが、欲といっても、「欲望」というよりは「願望」について述べているようです。


孔子の願望、そして北宋の儒者である周濂渓の言葉にある士、賢者、聖人の願望は、それぞれに目指すレベルが違っており、それに伴ってそれを実現するための工夫にも差異があるということでしょう。


森信三先生は、


一切の悩みは比較より生じる


と断じています。


他人と比較して、他人を上回りたいという欲望は持つべきではありませんが、ここで一斎先生が言わんとするのは、理想の自分と現在の自分を比較して、修養を続けることは大変重要だということでしょう。


そこに取り組むことは、大変な工夫と修養が必要となりますが、それ故に自分自身を大きく成長させることになるはずです。


実は小生もいま、社員さんの指導に関して大きな転機にあると感じています。


そこで、孔子の言う「予言う無からんと欲す」を実践してみようと考えています。


この欲(願望)への工夫は並大抵なことではできないでしょう。


社外コンサルタントではないので、結果にコミットした指導が求められます。


何をすべきか、何ができるかをじっくりと考えて、取り組む所存です。
プロフィール

れみれみ