一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年06月

第869日

【原文】
人心の霊は気を主とす。「気は体の充てるなり」。凡そ事を為すに気を以て先導と為さば、則ち挙体失措(しっそ)無し。技能・工芸も亦是(かく)の如し。


【訳文】
人の心の霊妙な活動というものは、気(活力)を主体とするものである。孟子は「気は身体の中に充満している」といっている。たいたい、物事をなす場合に、この活力としての気を先導にしたならば、身体の総ての動作にあやまちは無い。技能や工芸についても同じである。


【所感】
人の心の霊妙さは気を主体としている。『孟子』には「気は体の充てるなり」とある。およそ何か事を為すときには、志気を先導とすれば、体全体に過ちは生じないものである。技術や工芸なども同様である、と一斎先生は言います。


まずここで引用されている『孟子』公孫丑上篇の言葉をみておきます。


【原文】
曰く、「敢て問ふ、夫子の心を動かさざると、告子の心を動かさざると、聞くことを得べきか」と。「告子は曰く、『言に得ざれば、心に求むること勿れ。心に得ざれば、気に求むること勿れ』と。心に得ざれば気に求むることは可なり。言に得ざれば心に求むること勿れとは不可なり。夫れ志は気の帥なり。気は體の充てるなり。夫れ志至り、気は次ぐ。故に曰く、『其の志を持し其の気を暴すること無かれ』と」「既に志至り、気は次ぐと曰ひ、又其の志を持し其の気を暴すること無かれと曰ふ者は何ぞや」と。曰く「志壹(いつ)なれば則ち気を動かし、、気壹なれば則ち志を動かせばなり。今、夫れ蹶(つまづ)く者の趨(はし)るは、是れ気なり。而るに反って其の心を動かす」と。


【訳文】
丑(ちゅう)「ぜひお尋ねしたいのですが、先生の心の動かされないのと、告子の心を動かされないのとについて、お話しくださいませんか」「告子は『人の言葉に納得のいかぬことがあったら、しいて我が心に求めて穿鑿するな。心に納得ができなくても、気に求めて怒るな』と言う。このあとのほうの『心に得ざれば気に求むることなかれ』というのはよいが、前のほうの『言に得ざれば心に求むることなかれ』というのはよくない。いったい、志は気の統率者であり、気は体に充満しているものである。また志の至るところには気がつき従って行くものである。だから、その志を堅持して、その気をそこない乱してはならぬというのである」「志が至るところには、気がつき従って行く、と仰せられた以上、またさらにその志を堅持してその気をそこない乱してはならぬ、と仰せられるのは、どういうわけですか」孟子「志が専一であると気を引き動かすけれども、気がいっぱいになっていると、逆に志を動かすものだからだ。たとえば、歩いてつまずくと、その拍子に二歩三歩走り出すのは、志ではなくて気であるが、(かくのごとく気がいっぱいになっていると)逆にその心を動かしはっとさせるようなものだ」(宇野精一先生役)


この言葉は、孟子が「浩然の気」を語る場面で出てきます。


簡潔に要約してしまえば、立志の重要性が説かれているとみることができます。


何事も志を立てれば、それに気が連動して、万事うまくいく、ということを一斎先生は言いたいのでしょう。


ここで、一つ思い出されるのは、有名な以下のお話です。(過去にも紹介済みですが)


かつて松下幸之助翁が講演の席で聴衆からダム式経営を行うための秘訣を問われた際、松下翁は


「わかりまへんな。ただ思うことです」


と答えたそうです。


それを聴いて多くの聴衆が失笑する中で、一人の青年だけはその言葉に衝撃を受け、「思う」ことの重要さに気づくのです。


その青年こそ、いまや名経営者として知られる稲盛和夫さんでした。


志を立てるとは、まず心に強く思うことです。


思いの強さが体を動かし、自身の全知全能に働きかけて、事を成就させるのではないでしょうか。


もう一度、自分の思いを明確にする必要がありそうです。

第868日

【原文】
胸次清快なれば、則ち人事の百艱(ひゃくかん)も亦阻せず。


【訳文】
心中がさわやかで気持がよければ、人間社会にあらわれる様々な苦しみや悩みも何らはばむこと無くうまく処理されていく。


【所感】
胸の中が清清しければ、人間同士の幾多の艱難に遭っても行き詰まることがない、と一斎先生は言います。


心理学者のA・アドラーは、


人間関係の悩みはすべて対人関係の悩みである 


と喝破しています。


人間関係の問題や悩みを解決するために重要なことは、


課題の分離


をすることです。


まず他人の課題に介入しないこと、そして自分の課題については断固として他人に介入させない、という意識が重要です。


たとえば、勉強をしない子供を叱る母親がいます。


この場合、勉強するかしないかは子供の課題です。


親がやるべきことは、強制的に勉強をさせるのではなく、勉強の必要性を説き、やる気になればいつでも支援をすることを伝えることです。


自分の課題であるにも関わらず、他人からの介入を許して悩んでいる人の多くは、それが自分の課題であって他人の課題ではないことを理解していません。


そうなると人は自分ではなく他人の人生を生きることになってしまう、とアドラーは言います。


では、課題の分離ができたら何をすべきか。


次にアドラーは不完全な自分を認めよ(自己容認)と言います。


不完全な自分を認めることで、他人をありのままに受け入れることが可能になります。


周りの人が仲間だと思えるようになれば、そこに共同体感覚が芽生え、その中で自分が貢献していること(自己貢献感) を見つけることができれば、良好な対人関係を築くことが可能になります。


胸次清快とは、課題の分離ができている心の状態と解釈しても間違いではないでしょう。

第867日

【原文】
人は須らく快楽なるを要すべし。快楽は心に在りて事に在らず。


【訳文】
人は心に楽しむところがなければいけない。楽しみは心の中にあって、自分以外の物にあるのではない。


【所感】
人はつねに快く楽しい状態であるべきである。快楽というものは自分の心の中に在るのであって、事物そのものにあるわけではない、と一斎先生は言います。


要するに物事をどう捉えるかは、自分の心次第だということでしょう。


大概の事物は、自分にとってのプラス面とマイナス面の双方を含んでいるはずです。


マイナス面だけをみれば、心は不快になり、プラス面に目を向ければ、心は快の状態になります。


小生が子供の頃に聞いて、子供ながら凄いなと思った言葉があります。


プレッシャーを楽しむ 


という言葉です。


ご存知の方も多いでしょうが、これは読売巨人軍終身名誉監督である長嶋茂雄さんの言葉です。


長嶋さんは現役時代、その言葉どおり、チャンスに滅法強い選手でした。


それはとりもなおさず、長嶋さんがプレッシャーを快楽に変えていたからでしょう。


そのときは逆境だと思うことも、後で振り返ると必要な経験であったということはよくあることです。


逆境の後にしか人生の花は咲きません。


そうであるなら、逆境を楽しむくらいの心の余裕を持ちたいものです。

第866日

【原文】
寒暑の節候、稍暦本と差錯(ささく)すれば、人其の不順を訴う。我れの言行、毎(つね)に差錯有るも、自ら咎むるを知らず。何ぞ其れ思わざるの甚だしき。


【訳文】
寒さ暑さの時候が少しでも暦と違うと、人々は気候の順調でないことを訴えて何かと不平をいうものである。しかるに、自分の言葉と行動にいつも間違いがあっても、自ら反省して咎めることを知らないでいる。何とはなはだしく考えの無いことではないか。


【所感】
寒暑の時節時候が暦と少し違うだけで人は天候の不順さを訴える。一方、私の言行にはいつもズレがあるが、それを自ら咎めることをしていない。なんとはなはだしく考えの足りないことではないか、と一斎先生は言います。


これは耳の痛いご指摘です。


人間とはとかく自分の事は棚に上げて、周囲のことや他人のことを批判します。


天候などその際たるもので、夏になれば「暑い、暑い」と騒ぎ、冬になると「寒い、寒い」と騒ぎ立てます。


森信三先生は『修身教授録』の中で、こう述べています。


精神的な鍛錬というものは、肉体的なものを足場にしてでないと、本当には入りにくいもんなのです。たとえば精神的な忍耐力は、肉体上の忍耐力を足場として、初めて真に身につくものです。さればこそ、寒暑を気にしないということが、やがては順境逆境が問題とならなくなるわけです。

武道や体操を得意とする人は、むしろ道場や運動場以外のところで、より精神的な緊張を持しているようでないといけないと思うのです。それができないようでは、いかに技はうまくても、要するに一個の軽業師にすぎないでしょう。

つまり高僧と凡僧との別は、坐禅を解いてからの言動の上で分かるとも言えましょう。というのも、坐禅を組んでいる間は高僧も凡僧も格別の差はないとも言えるわけですが、ひとたび坐禅をやめたとき、凡僧は「アア」などとあくびをして、坐禅はもうすんだものと思うでしょう。ところがえらい坊さんは、坐を解いても坐禅がすんだとは思わない。それどころか、真の坐禅はむしろこれから始まると思って、一層その心を引き締めることでしょう。同時にそこに人間の優劣の岐れ目があるわけです。

要するに平生が大事なのです。このことを昔の人は、「平常心是道」と申しています。つまり、剣を持ったり、坐禅をしている間だけが修養ではなくて、むしろ真の修業は、竹刀を捨て坐禅を解いてから始まるというわけです。人間もこの辺の趣が分かり出して初めて、道に入るのです。


結局、平素から暑いだの寒いだのと騒ぐ人は、心の鍛錬が足りていないのだということです。


逆にいえば、自己修養ができている人は、周囲の状況に一喜一憂することはない、ということでしょう。


人の振り見て我が振り直せ 


という言葉があるように、他人の行動や言動が気になるということは、実は自分自身も同じ事をする傾向があるか、最近ようやく改善したということなのではないでしょうか。

第865日

【原文】
能く疑似を弁ずるを聡明と為す。事物の疑似は猶お弁ず可し。得失の疑似は弁じ難し。得失の疑似は猶お弁ず可し。心術の疑似は尤も弁じ難し。唯だ能く自ら霊光を提して以て之を反照すれば、則ち外物も亦其の形を逃るる所無く、明明白白、自他一様なり。是れ之を真の聡明と謂う。


【訳文】
よく似てまぎらわしいものを弁別することを聡明(賢明)であるといっている。事物のまぎらわしいのは、まだ弁別することはできようが、利害損得のまぎらわしいのものは、なかなか弁別し難い。しかし利害損得のまぎらわしいのは何とか処理できようが、心の働き(心だて)のまぎらわしいのは、最も弁別しにくいものである。ただ、霊妙な心の光をもって、これを照らしかえすならば、外物(名利などの欲念)も逃すことなく、はっきりと自他(自分と他物)共に同じく弁別できる。これを真の聡明というのである。


【所感】
紛らわしくて判別しづらいものを弁別することを聡明という。事物の紛らわしいものは弁別することが可能である。当を得ているか否かを弁別することは難しい。それでも当を得ているか否かはなんとか弁別可能であるが、心のはたらきの是非を弁別することは究めて難しい。ただ自身の霊妙な心の光で照らしてみれば、外から入ってくる名利の念や欲望などは、その本性を現さざるを得ず、すべて明白に、自分と他者とを一致させることができる。これを本当の聡明というのだ、と一斎先生は言います。


自分にとっての損得を見分けることは、物事の是非を見分けることよりも難しく、人の心を見分けることは更に難しい。


しかし、修養によって生まれたときに授かった真の心のはたらきを取り戻したならば、他者の心を正しく観ることも不可能なことではない、と一斎先生は考えていたようです。


この章句も陽明学でいう「良知を致す」ことの重要性を説いたものといえそうです。


自分の心に欲念が宿っているから、他人や事物の真の姿を見誤るのではないでしょうか。


利欲にとらわれない、ありのままの純粋な心で人や物事を視るならば、まやかしや詐称などの行為は自然と露呈するはずです。


この章句から小生が学び取ったのは、まずは自分自身の利欲にとらわれない心を作り上げることが先決だということです。


小生が毎日『論語』を読んできて、最近確信を得ていることがあります。


それは、


『論語』の血液ともいえる「仁」とは、無償の愛を人に施すことである 


ということです。


無償の愛には利欲を思う気持ちは微塵もありません。


だからこそ、相手に響き、相手の心を打つのです。


家庭でも職場でも、見返りを求めない無償の愛を施すことを意識していきます。

第864日

【原文】
耳の職は事を内に納(い)れ、目の職は物を外に照らす。人の常語に聡明と曰い聞見(ぶんけん)と曰う。耳の目に先だつこと知る可し。両者或いは兼ぬることを得ずば、寧ろ瞽(こ)なりとも聾なること勿れ。


【訳文】
耳の役目は外界の事物を内に入れることであるし、目の役目は事物を体の外において照らし合わせることである。人がいつもいう言葉に聡明(耳目が鋭敏なる)といい聞見(耳で聞き、目で見る)ということがある。これから考えても耳の方が目よりも先に立っていることがわかるであろう。聡と明の両者を兼ねることができないならば、むしろ目が不自由になっても、耳が不自由になってはいけない。


【所感】
耳の役割は事物を自分の内側に取り込むことであり、目の役割は事物を外に照らし出すことである。人がよく使う言葉に、「聡明」とか「聞見」という言葉がある。ここからも目より先に耳を使うべきことがわかるだろう。もし、両方の役割を発揮することができないならば、目が不自由になっても、耳が不自由になることがないようにすべきである、と一斎先生は言います。


昨日も記載したように、心で自由自在に世の中の音を観るためには、事物の真実の音を取り込まねばなりません。


そのためには、耳の役割が極めて重要だと一斎先生は言います。


たしかに目から入る情報量と耳から入る情報量では、大きな差があるように思います。


たとえば、誰かの言葉を文字にしたものをただ読むのと、その言葉を直接聞くのとでは、後者の方が声のトーンや調子、スピードなどから微妙なニュアンスや真意を感じ取ることができます。


一方、


百聞は一見に如かず 


という言葉もあります。


この場合の「聞」はうわさ話を聞くという程度の意味になるのでしょう。


要するに、


自分の耳で聞いていないことを信じるよりは、自分の目で見たものを信じよ。
自分の目でみたものを信じるよりは、自分の耳で直接聞いたものを信じよ。


という教えだと理解して良いのではないでしょうか。


ところで現代では「聞見」ではなく「見聞」と言うようになっています。


このことからも、現代は耳より目が重視される時代になってしまったことがわかりますね。

第863日

【原文】
視るに目を以てすれば則ち暗く、視るに心を以てすれば則ち明なり。聴くに耳を以てすれば則ち惑い、聴くに心を以てすれば則ち聡なり。言動も亦同一の理なり。


【訳文】
ただ目だけで物を見ると、物の真相はわからないが、心をもって見ると、物の実相が明らかに見られる。また、ただ耳だけで物を聞くと、物の真相はわかりかねるが、心をもって聞くと、物の実相がよく聞きとれる。言葉や動作についても道理は同じである。


【所感】
ものを見るときに目だけでみようとすれば、ものの真相はつかめないが、心をもって観れば、真相をつかむことができる。耳だけで聞こうとすれば、かえって迷うが、心をもって聴けば、聡ることができる。言動もこれと同じ道理である、と一斎先生は言います。


心の眼、心の耳を活用せよ、というメッセージです。


孔子は人物鑑定の方法として以下のようなことを述べています。


【原文】
子曰わく、其の以(な)す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察(み)れば、人焉んぞ廋(かく)さんや。人焉んぞ廋(かく)さんや。(為政第二)


【訳文】
先師が言われた。
「その人が何をしているのか、その人が何によって行っているのか、そしてその人がどこに安らぎを持っているのか。そういうことを観察すれば、人のねうちはわかるものだ。従って自分をかくそうと思っても、決してかくせるものではない」(伊與田覺先生訳)


視 → 観 →  察 と矢印の方向に進むほど、「みる」ことが深くなります。


察とは、その行動の目的は何かを探ることです。


アドラーは、目的論をとなえ、その人の行動の目的を考えよ、と言います。


たとえば、ある出来事が起こってやる気がなくなったという人がいた場合、原因論であれば、その出来事が原因でやる気を無くしたという因果関係でとらえますが、目的論では、ある出来事を期に自らやる気を無くそうと決めたから、やる気が無いのだ、という捉え方になります。


つまり、やる気を無くしたいから、その出来事をその理由にしただけだ、という考え方です。


きくことも同じでしょう。


あえて三段論法でいえば、


聞 → 聴 → 観 となるだろうと、小生は考えます。


観というのはきくことではないだろう、と感じる方もいらっしゃるかも知れません。


先日、ある勉強会にて、僧籍をもっている友人からこんな話しを聞きました。 


観音様というのは、観世音菩薩様のことで、音を観る菩薩様です。


観世音とは、「心で自由自在に世の中の音を観る仏」だと言われているのです。


清水寺のホームページには、これに関連して、観音様の心は以下の5つであると記載されています。


1.真実を求め真理を愛する心、真観。
2.清く澄んだ、私利私欲に走らず、利他を重んずる心、清浄観。
3.あらゆるものを平等に観ずる心、広大智慧観。
4.他の苦しみを自らの苦しみとして共感できる心、悲観。
5.他の楽しみ、喜びを共に観じられる心、慈観。


他人にしても、物事にしても、表面的・一面的にとらえるのではなく、心の眼、心の耳をもって、内面的・多面的に観察することが大切だということでしょう。


人の痛みや苦しみを観ることができる人になりたいですね。

第862日

【原文】
時として本体ならざるは無く、処として工夫ならざるは無し。工夫と本体は一項に帰す。


【訳文】
いかなる時でも本体の現われで無いものは無く、またどんな処でも工夫(作用・働き)で無いものは無い。それで、本体と工夫(体と用)とは、結局一つのものに帰することになる。


【所感】
どんなときでも本体の発揮でないものはなく、どんな場所でも工夫できないことはない。このように工夫と本体とはひとつのものに帰するのだ、と一斎先生は言います。


第846日のところで取り上げましたが、『日本思想体系』によりますと、「本体」というのは、本然の性であり、心における理であり、また良知であり、要するに人間の生来の道徳的本性であるとしています。


また、「工夫」とは、それをきわめ、あるいは発揮するための修養方法で、学問、読書、静坐などあらゆる形式を含む、としています。


ここも難解ですが、以下のように解釈しておきます。


どんな状況にあっても、道徳的本性を失わないように努めることは可能であり、どんな場所にあっても、常に修養のための方法はあるものだ。


つまり、時と場所によって心が惑わされるようではまだまだ修行が足りない、つねに修養を心がけて、道徳的本性を保つことを鍛錬せよ、というメッセージだと捉えておきます。


人の真価は緊急時の対処方法や言動で判断できます。


日頃は格好の良いことを言っている人が、窮地に追い込まれると途端に慌てたり、暴言を吐いたりするのを見るのは寂しいものです。


その点、孔子という人は、窮地にあってもどっしりと腹が据わっていました。


【原文】
子曰わく、天、徳を予(われ)に生(な)せり、桓魅(かんたい)それ予を如何(いか)にせん。(述而第七)


【訳文】
先師が言われた。
「天は私に徳を授けられている。桓魅ごときが私をどうすることもできないだろう」(伊與田覺先生訳)


これは、『史記』「孔子世家」にあるエピソードです。


孔子は曹を立ち去り、宋という国に向かいます。その途中で大きな木の下で弟子達に礼の練習をさせていると、宋の軍務大臣である桓魋が孔子を殺そうとして、その樹を根こそぎにします。身の危険を感じた弟子達が「急いで立ち去りましょう!」と言ったとき、孔子が言ったのがこの言葉なのだそうです。


これぞ泰然自若の意志と言えるのではないでしょうか。


孔子という人は単なる文人ではなく、日頃から胆識も磨き上げていたのです。


多くのお弟子さんがついたのも、こうしたところに理由があったのかも知れません。


どんなときでも言行一致の人を目指しましょう。

第861日

【原文】
能く変ず、故に変無し。常に定まる、故に定無し。天地間、都(すべ)て是れ活道理なり。


【訳文】
地球はいつも変らず自転公転を続けているが、我々はその変化に気づかずにいる(変化流転無きが如くである)。天上の月は常に照らして一定しているから、ことさら定と名づけることも要らない。天地間の物は総てこの通りで、これが天地の活きた道理というものである。


【所感】
常に変化しているものは、それ故に定まっているようである。常に不変のものは、それ故に変化しているようである。天地の間のことは、すべてこのように活きた道理なのだ、と一斎先生は言います。


これはどう理解すればよいのでしょうか?


小生には手に負えないので、解説本に助けを求めます。


久須本文雄先生の解説本では、天地間とあることから自然についての説明だとしています。


一方、『日本思想大系』では、以下のような解説が掲載されています。


現象としてさまざまに現れることができるから、それをそうさせる理というものは不変のものとして生き続けることができる。理が常に定まっているから、現象は時処位に応じてさまざまなものになることができる。

たとえば、「孝」を取り上げると、孝の情のあらわれ方は各人各様であり、また時と場合によってことごとく異なる。そういうふうにさまざまであり得るから、孝という徳目は不変に生き続ける。

この考え方、すなわち理に万変万様のあらわれ方を認める考え方は、理を定理とみなす朱子学に対して、陽明学(ただし中国の)の一つの特徴である。


おわかり頂けるでしょうか? 


この解説自体も哲学的で難解ですね。


小生としては、以下のように理解しておきます。


あらゆる変化に臨機応変に対応することができれば、それは変化ではなくなり、あるひとつの事象や言葉についても、その理解の仕方に様々なバラエティを許容することで、固定的なものではなくなる。


もっと儒学や哲学への造詣を深めた暁には、再度この章句の解釈に挑戦してみます。

第860日

【原文】
窮む可からざるの理無く、応ず可からざるの変無し。


【訳文】
いかなるものでも究め尽くせないという道理は無い。また物事がいかに変化しようとも、それに対応できないということは無い。


【所感】
究め尽くせないような道理はなく、対応できないような変化もない、と一斎先生は言います。


この章を読んだとき、上杉鷹山公の言葉とされる下記の言葉を思い出しました。


為せば成る、為さねば成らぬなにごとも、為らぬは人の為さぬなりけり


意味はお分かりかと思いますが、敢えて訳せば、


何事もやればできるし、やらねばできない。できないのではなく、やらないだけだ。


となります。


とにかく難題にぶつかったときには、逃げずに、真正面から取り組んでみる必要があります。


仮にその時は結果が出なかったとしても、後にその努力が実を結ぶということもよくあります。


逃げてしまうと、課題を解決できないだけでなく、逃げてしまったという後悔の念も残るし、何も学べません。


小生は、大きな壁にぶつかった時、こう考えることにしています。


神様はとんでもない課題を与えてくれたな。でも、神様のことだから、必ずどこかに糸口を示してくれているはずだ。やるだけやってみよう。


そして、必ずこの歌を心で読み上げています。


憂きことの なおこの上に 積まれかし 限りある身の 力試さん
プロフィール

れみれみ