一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年06月

第859日

【原文】
霊光体に充つる時、細大の事物、遺落無く遅疑無し。


【訳文】
修養が純熟して心の霊妙な光が体に充満すると、細かなことも大きいことも漏らすこと無く、また疑い迷ってためらうことも無くなる。


【所感】
修養によって霊光が体に満ちると、天地間の小さい事も大なる事も漏らすことなく、また遅れたり疑う事もなくなっていく、と一斎先生は言います。


ここでは、霊光を仕事を行う上でのモチベーションと捉えてみます。


高いモチベーションを維持していれば、小さな作業から大きな仕事まで滞りなく処理でき、また進め方で迷ったり、仕事が遅れがちになるようなことはありません。


モチベーションが高いと心のアンテナの感度も高くなり、通常は見えなかったものが目に入り、聞こえていなかったことが耳に入ってきます。


この結果、早期にトラブルの端緒に気づくことができ、初動で火消しをすることも可能になります。


また、モチベーションが高いと物事の判断基準もクリアになります。


善悪よりも損得、私欲よりも公欲に基づいた仕事が可能になるはずです。


では、どうしたらモチベーションを高く維持できるかですが、自分の仕事が組織や会社に貢献しており、また世の中に貢献していることを実感できるかどうかにかかっています。


これは、『嫌われる勇気』に書かれていましたが、自分が他人の役に立っているという「貢献感」 をもつことが幸せになる条件なのだそうです。


日々の仕事に忙殺されるだけでなく、時にはちょっと立ち止まって、自分の仕事がいかに世のため人のためとなっているかを確認することも重要なことなのかも知れません。

第858日

【原文】
人心の霊なること太陽の如し。然るに但だ克伐怨欲(こくばつえんよく)、雲霧四塞(うんむしそく)すれば、此の霊烏(いずく)にか在る。故に誠意の工夫は、雲霧を掃(はら)いて白日を仰ぐより先なるは莫し。凡そ学を為すの要は、此よりして基を起す。故に曰く、「誠は物の終始なり」と。


【訳文】
人の心の霊昭なることは、あたかも太陽が光り輝いているようなものである。ただ克(人に勝つことを好む)・伐(自ら功をほこる)・怨(怒り恨む)・欲(貪欲)の四つの悪徳が起ると、あたかも雲や霧が起って四方を塞ぎ、太陽が見えなくなるのと同じように、心霊がどこにあるかわからなくなる。それで、誠意の工夫をもって、この雲霧(四悪徳)を掃いのけて、照り輝く太陽、すなわち霊明な心を仰ぎみることが何よりも肝要である。およそ、学をなすの要点は、これよりして基礎を築きあげるのである。それ故に、『中庸』にも「何ごとも誠によって始まり誠によって終るので、誠が無ければ物は成り立たない」とある。


【所感】
人の心の霊妙なることは太陽のようである。ただ克(勝つことを好むこと)・伐(自らを誇ること)・怨(怒り恨むこと)・欲(貪り欲すること)などが、雲や霧のようにあたり一面を塞いでしまうと、太陽が隠れるように、心の霊妙さはどこにあるかわからなくなる。それ故、誠意の工夫は、この雲霧(克伐怨欲)を掃い除いて、輝く太陽(霊妙な心)を仰ぎみることが最も肝要である。総じて学問をなすことの要点は、このようにして土台を築きあげるのである。それ故に、『中庸』にも「誠は物の終始なり」とあるのだ、と一斎先生は言います。


ここで取り上げている『中庸』の言葉は、第二十五章にあります。


【原文】
誠は自ら成る。而して道は自ら道(みちび)く。誠は物の終始。誠あらざれば物無し。是の故に君子は誠を貴しとす。誠は自ら己を成すのみに非ず。以て物を成す所なり。己を成すは仁なり。物を成すは知なり。性の德なり。外内を合わせたるの道なり。故に時に之を措くこと宜し。


【訳文】
誠の人は(本来のあり方ができる人であるから)その人ひとりで完成している。そして道は道として人を(誠へと)導いている。誠の人はもの事の始めと終わりとを形づくる。(誠実であってこそ、もの事が成り立つからである。すなわち)誠実が失われれば、もの事も無くなるのである。こういうわけで、(修養にはげむ)君子は、誠実であろうとつとめるのを貴いことと考えている。誠の人は、ひとりで自分を完成させているというだけではない。それはまた自分以外のすべてのもの事を完成させることになっている。自分を完成するのは仁のことであり、外のもの事を完成するのは知のことである。いずれも本性に根ざした徳であり、(これらを兼ねる誠こそ)外と内とを合一する立場である。そこで然るべき時にもの事に適用していつもうまくいくのである。(金谷治先生訳)


「克伐怨欲」と似た言葉に、「貪(とん)・瞋(しん)・癡(ち)」という言葉があります。


これは仏教の言葉で、「三毒」と呼ばれます。


貪とは、むさぼり(欲深く物をほしがる、際限なく欲しがる)
瞋とは、怒り(自己中心的な心で怒ること、腹を立てること)
癡とは、迷妄(物事の道理に暗く実態のないものを真実のように思い込む)(阿羅耶識院さんのブログより)


いずれにしても、心にこうした毒があると、真実の心が曇らされて、正しい判断ができず、正しい道を歩くことができないのだということでしょう。


そして、誠とは、こうした毒が取り除かれた心の状態を指すのでしょう。


よって、学問とは修養によって、心の毒を取り除き、誠の心を保つためにあるということになります。


『中庸』でも、誠の心があれば、仁と知を発揮できるとしています。


『孟子』にある有名な言葉、


至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり 


と共に、


誠は物の終始なり 


という言葉も覚えておきましょう。

第857日

【原文】
聖賢は胸中灑落(しゃらく)にして、一点の汚穢(おわい)を著(つ)けず。何の語か尤も能く之を形容する。曰く、「江漢以て之を濯(あら)い、秋陽以て之を曝す。皜皜乎(こうこうこ)として尚(くわ)う可からざるのみ」。此の語之に近し。


【訳文】
聖人や賢人の心の中は、さっぱりとしていて、少しの汚れも存しない(誠に純真清明なものである)。この聖賢の胸中を形容する言葉としては、何という言葉が最も能く言い表しているだろうか。それは、『孟子』にある、曾子が孔子の人格を称讃した言葉に「揚子江や漢水の清らかな水で洗って、秋の陽光にさらし乾かした布のように、その潔白なことは、何物もこれにまさることができない」とあるが、この言葉が聖賢の灑落(しゃらく)な胸中を最もよく表しているものと思う。


【所感】
聖人や賢人は胸中はいつもさっぱりとしていて、一点の穢れもないものである。それを表現するのにどんな言葉が最も適しているであろうか。『孟子』にある、「江漢以て之を濯い、秋陽以て之を曝す。皜皜乎として尚う可からざるのみ」という言葉がこれに近いのではないだろうか、と一斎先生は言います。


聖人や賢人は、しっかりと自己受容ができているので、周囲の雑音に惑わされることなく、心はいつも晴れやかで汚れがないのだそうです。


それを『孟子』にある言葉で表現しています。


【原文】
昔者(むかし)、孔子の没するや、三年の外(ほか)、門人、任を治めて将に帰らんとし、入りて子貢に揖(ゆう)し、相嚮(むか)いて哭し、皆聲を失い、然る後に帰る。子貢は反(かえ)りて、室を場(じょう)に築き、独り居ること三年、然る後に帰れり。他日、子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事(つか)うる所を以て之に事えんと欲し、曾子に強(し)う。曾子曰く、「不可なり。江漢以て之を濯(あら)い、秋陽以て之を曝(さら)す。皜皜乎(こうこうこ)として尚(くわ)う可からざるのみ」と。(滕文公章句上)


【訳文】
昔、孔子が亡くなられたときは、門人は師を慕って普通の礼の定めにはない三年間の心の喪に服し、それが済んで、それぞれ荷物をまとめて郷里に帰ることになった。世話役の子貢の室に行ってあいさつを交わし、向かい合って声をあげて泣き、みな声をからしてやっと郷里に帰っていった。ところが、子貢はまた墓地に引き返して墓前の空き地に小屋を建て、さらに自分だけで三年間墓もりをして、郷里に帰ったという。また、ある日のこと、子夏・子張・子游らは、先輩の有若が孔子に似ているというので、孔子の身代わりにして、孔子に仕えたように仕えて先師をしのぼうと思い、曾子にもぜひにと賛成を求めた。すると曾子は「それはいけません。先師の御人格は、たとえば布をさらすのに、揚子江・漢水の豊富な水で洗いあげ、強い秋の日ざしでさらしたように、これ以上真っ白にならぬというほどの比類なきおかたであますものを」と言って承知しなかった。(宇野精一先生訳)


このエピソードは非常に有名ですので、本章とは関係ない部分まで引用しました。


小生は、『論語』を読むとき、孔子の弟子を第一世代と第二世代に分けて読みます。


第一世代の弟子は、孔子との年齢さが大体30歳くらい、第二世代は45歳くらいです。つまり、第一世代と第二世代とでは15歳前後の年齢差があります。


子貢というのは、第一世代を代表する高弟であり、お金儲けの名人で、稼いだお金を惜しげもなく孔子教団に貢いだ人でもあります。


儒教では親が死ぬと三年の喪に服します。


しかし、孔子は師匠であっても親ではないので、これを適用する必要はないのですが、弟子達は三年の喪に服します。しかし、子貢だけはさらに三年、合計六年もの間、喪に服したのだそうです。


ちなみに子貢は第一世代の弟子としては、最後まで幸せに人生を全うできた唯一の弟子だったようです。(顔回は病死(餓死?)、子路は戦死)


孔子が亡くなると、第二世代の代表格である子夏・子張・子游が、孔子より13歳年下で、見た目も言動も孔子に似ていた有若(ゆうじゃく)という弟子を新たな教団のトップに仕立てようとします。


しかし、同じく第二世代の代表格である曾子に止められて、この試みは流れてしまいます。


この結果、第二世代はそれぞれに孔子の教えを解釈して、いわゆる派閥を形成していきます。


第一世代は比較的お互いに仲が良かったのですが、第二世代になると互いに論争することが多かったようです。


これは、企業でも見られる傾向ですよね。


創業時のメンバーは社長を中心によくまとまり、一枚岩で進むのですが、規模が大きくなり創業時のことを知らない世代が会社の中枢に入ってくると、派閥争いが始まるというパターンです。


なお、曾子は孔子の精神面での教えを後世に残した人で、孔家と曾家との関係は2500年以上立った今でも師匠と弟子という関係のまま続いているのです。


『論語』の解説が長くなりました。


さて、ここで引用された『孟子』の言葉は、曾子が孔子の潔白さ、ここでいうなら灑落さを表現した壮大な言葉です。


一斎先生はこれをそのまま聖人・賢人の胸中をあらわす言葉として用いています。


大河の豊富な水で洗い、秋の強い陽射しで乾燥させたように潔白な心など、凡人には持ち得ようもありませんが、少しでも近づけるよう精進したいものです。

第856日

【原文】
「悪を隠し善を揚ぐ」。人に於いては此(かく)の如くし、諸(これ)を己に用いること勿れ。「善に遷り過を改む」。己に於いては此の如くし、必ずしも諸を人に責めざれ。


【訳文】
人に対しては「その人の悪い所を隠し、善をほめそやす」ようにするのがよいが、これを自分に対してなすべきことではない。自分に対しては「人の善を見てこれを行ない、自分の過はこれを改める」ようにすることはよいが、これをもって人を責めることはいけない。


【所感】
『中庸』に「悪を隠し善を揚ぐ」とある。他人に対してはこのように対応するのがよいが、自分に対してはよくない態度である。『易経』に「善に遷り過を改む」とある。自分に対してはこのようにすべきであるが、必ずしもこれを他人に当てはめて責めることはしない方がよい、と一斎先生は言います。


まず『中庸』の言葉をみておきましょう。


【原文】
子曰く、舜はそれ大知なるか。舜は問うことを好んで爾言(じげん)を察することを好み、悪を隠して善を揚げ、その両端を執って、その中を民に用ゆ。それこれもって舜と為すか。


【訳文】
孔子が言った。
「舜は大いなる知者なのか。舜は質問することを好み、だれにでもわかるような卑近な話しを読み取ることを好んだ。また、民の悪の部分については見てみぬふりをし、善を褒め称えて、善悪の両端のバランスをとり、中庸を選んで民に適用した。この事例こそ、聖人舜帝の舜たる所以なのだ」


さて、本章の言葉はとても深いですね。


他人に接するときは、清濁併せ呑む度量が必要であって、仮に善を為し、悪を止めることに躊躇していても、それを責めてはいけない。


しかし、自分に対しては速やかに善を為し、悪を止めるべきであって、清濁の濁を憎まねばならない。


かつて、


春風を以て人に接し、秋霜を以て自ら粛(つつし)む。(第279日)


という言葉も残しているように、一斎先生は己に厳しく、他人に優しくということを大切にしています。


小生の過去を振り返ってみて思うのは、実は自分に甘い人間ほど他人に厳しいという傾向を持っているのではないか、ということです。


本当は自分に甘いことを悟られまいとして、敢えて他人に厳しく接し、偽りの自分を装うのです。


ところが、本当に自分に厳しい人というのは、己の弱さを知り尽くしているので、かえって他人には優しく接することができるのでしょう。


アドラー心理学では、まず 


ありのままの自分を認めよ 


といいます。


いわゆる自己受容です。


自己受容ができてこそ、他社を信頼できるのだとみるのです。


そういう意味では、小生などはまさに自己受容ができていないのでしょうね。


まずは自分の不完全さを認めるところからスタートです。

第855日

【原文】
忿を懲し欲を塞ぐ」には、一の忍字を重んじ、「善に遷り過を改む」には、一の敏字を重んず。


【訳文】
『易経』にいう「忿を懲し欲を塞ぐ」(忿怒と情欲をおさえる)には、我慢するという「忍」の字が最も重要である。また、『易経』にいう「善に遷り過を改む」(人の善を見れば善を行ない、自分の過誤はすぐ改める)には、すばやいという「敏」の字が最も重要である。


【所感】
忿を懲し欲を塞ぐ」ためには、「忍」の字が最も重要であり、「善に遷り過を改む」ためには、「敏」の字が最も重要である、と一斎先生は言います。


忿を懲し欲を塞ぐ」は昨日も解説した『易経』山澤損の卦にある言葉です。


また「善に遷り過を改む」という言葉も、『易経』風雷益の卦にある言葉です。


【原文】
風雷は益なり。君子以て善を見ればすなわち遷り、過ちあればすなわち改む。


【原義】
風を上、雷を下におく益の卦がでたときは、君子は自分の徳義が益すことを願って、善いことがあればすぐに実行にうつし、過失があれば速やかに改めるものである。


小生が所長を拝命している勤務先の営業所には、愛知に住む恩人のお力を借りて、寺田一清先生に揮毫してもらった「私たちの行動指針」の額が掲示されています。


この第一番目に、


即今着手


という言葉があります。


この言葉は、良いと思ったことは直ぐに行動に移し、良くないと思ったことは即座に中止せよ、という意味でしょう。


ここで一斎先生が掲げた「敏」の一字とは、言い換えれば「即今着手」ということです。


良いと思ったことでも、最初は支援者を得られず、逆風の中でスタートを切るということはよくあることです。


それでもそこに踏みとどまるのではなく、一歩を踏み出すべきだと多くの偉人は教えてくれます。


また、孔子が 


過ちて改めざる是を過ちと謂う 


と言っているように、過ちに気づいたら、すぐにそれを改めるということもまた困難なことです。


思ったことを実行するまでに思考を挟んでしまうと、人間はやらなくてよいという理由を見つけようとします。


だからこそ、感即動で、まずは敏速に行動にうつすべきなのです。


心には「忍」の一字を、行動には「敏」の一字を常に忘れず、自分が正しいと思う道を脇目も振らずに突き進む、そんな生き方を選びましょう。

第854日

【原文】
情の発するや緩急有り、忿慾尤も急と為す。忿は猶お火のごとし。懲(こら)さざれば将に自ら焚(や)けんとす。慾は猶お水のごとし。窒(ふさ)がざれば将に自ら溺れんとす。損の卦(か)の工夫、緊要なること此に在り。


【訳文】
感情(七情)が起る場合には、緩かなものと急なものとがある。七情の中で最も急なものは怒(いかり)と情欲とである。怒はあたかも猛火のようなものであって、火を消さなければ、自分が焼け死んでしまう。情欲はあたかも洪水のようなものであって、水を塞き止めなければ、自分が溺れ死んでしまう。『易経』損の卦の象伝に「山下に沢有るは損なり。君子以て忿を懲し欲を塞ぐ」とあるが、この修養工夫は誠に大切なことである。


【所感】
感情の発露には、緩やかなものと急激なものとがある。怒りの感情と欲情とが最も急激なものである。怒りの感情はあたかも火のようで、消し止めないと自ら焼けてしまう。また欲情はあたかも水のようで、せき止めないと自ら溺れてしまう。『易経』損の卦にある工夫が極めて大切なのは、そこに理由がある、と一斎先生は言います。


様々な感情の中で、瞬間的に沸き起こり、我が身を危険に晒してしまうのは、怒りと欲情なのだと一斎先生はみています。


「烈火のごとく怒る」とか「溺愛」という言葉があることからも、怒りを火に譬え、欲を水に譬えているのは理解しやすいですね。


「欲(我欲)」については、これまでも取り上げてきたので、ここでは「怒り」に焦点を当ててみます。


アドラー心理学では、感情というものは対人的にしか存在せず、自分と他人との間にあるのであって、自分の心の中にあるのではないとしています。


アドラーは、怒りとは出し入れ可能な道具なのだと見るのです。


怒りという手段をあえて使用する真の目的は、相手を自分に屈服させること、あるいは相手を支配することにある、というのです。


怒りの感情が湧き起こったとき、一旦冷静になって、今自分は相手を支配しようとしてはいまいか?と自問自答してみることは、怒りを抑えることに効果的かも知れません。


さて、本章で引用している『易経』損の卦の象伝の言葉は有名です。


【原文】
山下に沢有るは損なり。君子以て忿を懲し欲を塞ぐ。


【原義】
山の下に沢があるという状況から、この卦が出たとき、君子は高い理想のためには低い欲望を無くすことを心がけるものである。具体的には怒りを懲らしめて怒らないように節度を保ち、私欲を抑制し塞ぎとめるようにするのである。


この言葉の後半部分は、朱熹が自身の学び舎に掲げた「白鹿洞書院掲示」でも、引用しており、それをベースにして中江藤樹先生がつくった「藤樹規」にも採用されています。


怒りや欲望が起こったときに、一度冷静になって、自分の高い志や理想を思い出すということもまた、怒りや欲を抑えるのに有効な方法でしょう。

第853日

【原文】
善く身を養う者は、常に病を病無きに治め、善く心を養う者は、常に欲を欲無きに去る。


【訳文】
よく自分の身体を養って健康を保つ人は、常に病気を病気にかかる前に治めているし、よく精神の修養につとめている人は、いつも欲望を欲望の起る前に取り除いてしまう。


【所感】
しっかりと自分の身体を養生している人は、病気にならないように日頃から努めており、しっかりと心を鍛錬している人は、常に私欲が生じないように手を打っている、と一斎先生は言います。


食の欧米化(肉食化)によって、かつての日本では罹患率の低かった大腸がんが近年になって急激に増えてきています。


既に女性の死因の一位となっており、男性でも胃がんを抜いて2位になるのも間近だと言われています。


メタボ真っ只中の小生が言うのも違和感がありますが、病気とくに成人病については、やはり原因があります。


食事の量とバランスに気をつかい、適度な運動をしていれば、成人病に罹患するリスクはかなり抑えることができます。


しかし、本章で一斎先生が強く主張しているのは、後者である心の修養についてでしょう。


心も体と同じように食物を必要とします。


そのひとつが読書です。


適度な読書量を維持し、ひとつの分野に偏らない情報を入手することで、心の病ともいえる私欲を抑えることができるのではないでしょうか。


小生はかねてより主張しているのですが、凡人にとって無欲になることは容易なことではありません。


だからこそ、常にバランスの良い読書を心がけて、私欲に打ち克つ公欲を見つけなければなりません。


自分のためより世の中のため 


これを意識することで私欲を抑えこみ、健全な精神で仕事ができるのではないでしょうか。

第852日

【原文】
気導いて体随い、心和して言順えば、挙手投足も礼楽に非ざるは無し。


【訳文】
心が先に立って身体がこれに従って動き、心がなごやかで、言葉もこれに従っていくならば、一つ一つの動作は、礼儀にかない音楽にかなうものである。


【所感】
志気が体を動かし、心和やかで言葉も穏やかであれば、一挙手一投足すべてが礼楽に適い、礼楽から外れることはない、と一斎先生は言います。


礼楽とは社会の秩序を保つ礼儀と人心を感化する音楽をさし、この2つは孔子が最も重視した、儒学における根本的な規範です。


孔子のアイドルであった周公旦が整えた礼の制度は、礼儀三百威儀三千と言われるほど、細かく規定されていました。


しかし、礼儀というものは、ただ形だけを整えたところで、そこに心が通わなければ形骸化してしまいます。


『論語』の中で孔子はこう言っています。


【原文】
林放、禮の本を問う。子曰わく、大なるかな問いや。禮は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ。喪は其の易(そなわ)らんよりは寧ろ戚(いた)めよ。(八佾第三)


【訳文】
林放が礼の根本を問うた。
先師が言われた。
「大事な質問だね。冠婚などの吉礼は、贅沢よりもむしろ倹約に、宗義や服喪の凶礼は、形式よりもむしろ心からいたみ悲しむようにしなさい」(伊與田覺先生訳)


礼の根本は心にあるのであって、形式に拘り過ぎてはいけない、という教えです。


教育においては、まず形から入ることも重要ですが、仕上げは心の教育です。


なぜ靴のかかとを揃えるのか、なぜ椅子をしまうのか、なぜ挨拶をするのかなど、まずは形を実践しつつ、その心を説いていくことが教育の基本であって、それは会社での社員教育においても全くそのまま当てはまるのではないでしょうか。

第851日

【原文】
事有る時、此の心の寧静(ねいせい)なるは難きに似て易く、事無き時、此の心の活潑なるは易きに似て難し。


【訳文】
何か事が起った時に、心を安静にしておることは、困難なようであるが、案外に容易である。事の無い平穏な時に、心を活発に作用さすことは、容易なようであるが極めて困難である。


【所感】
有事の際に心を安寧にすることは困難なようで実は容易であり、平時のときに心を活発にすることは容易なようで実は非常に難しいことなのだ、と一斎先生は言います。


とても心に残る言葉です。


火事場の馬鹿力という言葉もあるように、人は窮地に追い込まれると意外な力を発揮して、なんとか乗り越えることができるものです。


恐らく、開き直った瞬間に心が冷静さを取り戻し、何を為すべきかが明確になるからでしょう。


ところが、何もないときには、つい心も身体もリラックスしてしまい、本来やるべきことまで後回しにしてしまいがちです。


『7つの習慣』(F・コヴィー著)では、仕事を緊急性と重要性によって、四つの領域に分類しています。


第Ⅰ領域 緊急かつ重要
第Ⅱ領域 緊急ではないが重要
第Ⅲ領域 緊急ではあるが重要ではない
第Ⅳ領域 緊急でも重要でもない


平時のときこそ手をつけねばならないのが、第Ⅱ領域の仕事です。


この第Ⅱ領域の仕事には、人間関係作り、自己修養、ビジネス計画書作成などが含まれます。


つまり、自分自身(もしくは会社、組織)にとっての明日の飯の種となる仕事です。


これを疎かにしてしまうと、今は忙しくて充実しているようでも、将来は先細り、技術も知識も枯渇していきます。


平時のとき心を活発にせよ、とは、第Ⅱ領域の仕事に心を配れ、というメッセージなのでしょう。


皆さんは、緊急ではないが重要な仕事を後回しにしていませんか?

第850日

【原文】
「人の生くるや直し」。当に自ら反りみて吾が心を以て註脚と為すべし。


【訳文】
「人がこの世に生きていけるのは、直(すなおさ、正直)によってである」の『論語』にある言葉を、よくかみしめて自ら反省し、自分の心をもって解釈すべきである。


【所感】
「人の生くるや直し」という孔子の言葉は、我々がつねに自省して、自分の心の中で注釈を加えておくべきである、と一斎先生は言います。


最初の言葉は『論語』雍也第六が出典です。


【原文】
子曰わく、人の生くるや直し。之を罔(し)いて生くるや、幸いにして免るるなり。 


【訳文】
先師が言われた。
「元来人はまっすぐなものだ。それを曲げて生きているのは、幸いに天罰を免れているに過ぎない」(伊與田覺先生訳)


世の中には、いわゆる悪運の強い人がいます。


しかし、正直ではなく、不誠実に生きる人は、幸いにして天罰を受けずに済んでいるだけであって、決して見習うべき人物ではない、と孔子は喝破しています。


『易経』にこんな言葉があります。


【原文】
積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり。


【訳文】
善行を積み重ねてきた家は、孫子の代にいたるまで幸せに恵まれる。不善を積み重ねてきた家は、のちのちまで必ず禍を受ける。(守屋洋先生訳)


仮に自分一身の生涯においては罰を逃れたとしても、子々孫々にその悪影響が現われることを恐れねばならないということです。


日本を代表する名経営者である松下幸之助翁は、こう言っています。


素直な心になりたいと朝夕心に思い浮かべ、そうしてたえず日常の行ないにとらわれた態度がなかったかを反省する。そういう姿を一年、二年と続けて、一万回、約三十年を経たならば、やがては素直の初段ともいうべき段階に到進することもできるのではないかと思うのです。(『松下幸之助一日一言』より)


素直(正直)であることは、とても大切なことですが、実は素直を究めるには三十年もの歳月が必要かもしれないと幸之助翁は語っているのです。


また、松下幸之助翁が、揮毫を求められると、「素直」と書いていたというのも有名な話です。


アメリカのシンガー、ビリー・ジョエルも『オネスティ』という歌の中でこう言っています。


「誠実さ」 なんて虚しい言葉だろう
誰もがみんな不誠実な世の中で
「誠実さ」 もうそんな言葉を耳にすることもない
でも僕が君に求めているのはそれだけなんだ(小生意訳)
プロフィール

れみれみ