一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年07月

第900日

【原文】
心体は虚を尚(たっと)び、事功は実を尚ぶ。実功・虚心は唯だ賢者のみ之を能(よく)す。


【訳文】
心の本体は虚心坦懐(何のわだかまりもなく、広く平らか)であることが大切であり、成し遂げた仕事は充実していることが大切である。この功業を充実させ、心を虚しくすることは、ただ賢人だけがよくすることができるのである。


【所感】
心の本体は虚ろであることを貴び、事の出来上がりについては実のあることを貴ぶ。このように仕事を充実させながら心を虚心坦懐に保つのは、賢者と呼ばれる人にしてはじめて出来ることなのだ、と一斎先生は言います。


無心で仕事に取り組めば事は成就する、ということでしょう。


実功・虚心のいずれも容易なことではない、と一斎先生は言いますが、特に凡人の小生にあっては、虚心であることが難題です。


虚心とは、私欲を抑えることだと小生は理解しています。


特に小生が属している営業の世界では、この仕事が成功すれば、評価が上がるとか、昇格昇進できる、といった私欲をもっていては、仕事は成就しません。


なぜなら、お客様はそれを簡単に見抜いてしまうからです。


先日、ある若い社員さんの日報にこんなことが書いてありました。


あるメーカーの社員さんが、お客様(ドクター)に対して、なんでもいいから当社の製品を使って欲しいという売り込みをした結果、今回は何も採用されなかったが、最後にお客様から「別の分野の製品で良いものがあったら紹介してくれれば検討する」と言われたそうです。


これを観た当社の若手社員さんは、このメーカー営業さんの熱意が次のチャンスをつかんだという印象を持ったのだそうです。


そこで、小生は以下のようにコメントしました。


そのお客様の言葉はリップサービスだと思います。
なんでも良いから買ってくれ、というのでは、自分の評価を上げるために商品を買って欲しいとお願いしているのと同じです。
それは熱意ではありません。
本当にお客様にとって使う価値があると信じるならば、食い下がっても良いでしょうが、今回のケースでは、お客様にとってのメリットがまったく見えません。
常にお客様の課題を解決するために、我々は存在するということを忘れないようにしましょう。


小生は、私欲を抑えて公欲のために努力をすれば、必ず営業の神様がご褒美を与えてくれると信じています。


それが実功なのです。


とはいえ、常に売上計画を達成しなければならない営業マンは大変です。


損得と善悪の基準で日々揺れ動きながら仕事をしています。


8月から小生の直下の若手社員さん10名程度に対して、新たな研修を始めます。


そこでは、こうした迷いや疑問について、ヒントを与えながら一緒に考えていく場面を作っていく予定です。


一人でも多くの賢者的営業人を育てて、地域医療に貢献していく所存です。

第899日

【原文】
虚無を認めて徳行を做す勿れ。詭弁を認めて言語と做す勿れ。功利を認めて政事と做す勿れ。詞章を認めて文学と做す勿れ。


【訳文】
虚無(何物も空無という否定的な態度)をもって道徳的行為と考えてはいけない。道理に合わないこじつけの議論をもって名論卓説と考えてはいけない。功名や利得を計る仕事をもって政治上の事柄と考えてはいけない。美しく表現された文章や詩歌をもって真実の文学と考えてはいけない。


【所感】
虚無ということを徳のある行ないだとしてはいけない。詭弁を弄して言語に優れていると思ってはいけない。功利を求めて政治を行ってはいけない。詩文を飾ることを文学としてはいけない、と一斎先生は言います。


孔子の弟子達の中で特に優れた弟子を孔門の十哲と呼びます。


『論語』先進第十一にこうあります。


【原文】
徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語には宰我・子貢、政事には冉有・季路、文学には子游・子夏。


【訳文】
徳行のすぐれた者には、顔淵(名は回)、閔子騫(名は損)、冉伯牛(名は耕)、仲弓(名は雍)。言語のすぐれた者には、宰我(名は予)、子貢(名は賜)。政治にすぐれた者には、冉有(名は求)、季路(名は由)。文学には子游(名は偃)、子夏(名は商)がいた。(伊與田覺先生訳)


これを四科十哲と呼びますが、本章の一斎先生の言葉は、この『論語』の四科を念頭に置いて語られているように感じます。


徳行の代表である顔回は、狭くてボロボロの部屋に住み、一椀の飯とコップ一杯の水で一日を過ごすような生活をして、かつそれを楽しんでいたと言います。


一見すると何もなく何もしていない虚無の状態にも見えますが、顔回は常に孔子の教えを実践しており、決して虚無の境地ではありませんでした。


同じく言語の代表である子貢は、智の人で弁舌に優れており、『論語』の名言の中にはこの子貢の言葉が数多くあります。


しかし、子貢は孔子が死ぬと通例の三年の喪に加えてさらに三年、合計六年の喪に服した人で、その言葉には詭弁はありませんでした。(一方、宰我には詭弁を弄する傾向があったように思いますが)


政事の代表である子路は、やや勇気に過ぎる、自意識の強いところはありますが、自分が承諾したことは必ずその日のうちに実行に移したり、孔子からひとつの教えを受けたならば、それを実践するまでは新たな教えを聞くことを避けたという人でもあり、決して功利打算で政治を行なうことはありませんでした。


子路は、命を懸けて主君を守ろうとして、壮絶な死を遂げています。


文学にすぐれた子游・子夏は、孔門の弟子では上記の顔回・子貢・子路を第一世代とするなら、第二世代に属する弟子ですが、孔子の教えを深く理解して後世に伝える重要な役割を果たしました。


彼らの詩文を学ぶ姿勢は、形式に堕すことなく、詩文の中から新たな知を見いだしました。


これら孔門の十哲の言行を学ぶことで、一斎先生が言われている四つの勿れを守ることができます。


四つの勿れに共通するのは、


誠を込めよ  


ということではないでしょうか。


それはそのまま、形より実質を尊んだ孔子の教えでもあります。

第898日

【原文】
自ら欺かず、之を天に事(つか)うと謂う。


【訳文】
自分は自分の真情を偽るようなことはしない。これを天に事えるというのである。


【所感】
自分を欺かない、これが天に仕えるということだ、と一斎先生は言います。


儒学において、自分を欺かないことを「忠」と呼び、身につけるべき大切な徳のひとつに挙げられています。


一方、他人を欺かないことを「信」と呼び、これも大切な徳のひとつです。


そして、この「忠」と「信」をあわせた徳目を「誠」と呼びます。


晩年の安岡正篤先生は、最近は誠がなくなったと嘆いていたそうです。


本章の一斎先生の言葉によれば、誠を失うということは、天に背くことになるということでしょう。


天に背いて生きるということは、宇宙の摂理に反する生き方をするということです。


これではこの世に生まれた意味がありません。


たとえば、会社において上司の指示に納得できないにも関わらず、その指示に従うということも、自分を欺くことになります。


これでは、アドラーが言うように、


他人の人生を生きる


ことになってしまいます。


自分を欺かない(偽らない)ということは、何も悪いことをしない、というような限定的な意味ではなく、自分の気持ちに正直に生きない、ということでもあるのではないでしょうか。


他人を相手にせず、天を相手にせよ 


と喝破した西郷隆盛公は、まさにこのことを深く理解していたということでしょう。

第897日

【原文】
人を知るは難くして易く、自ら知るは易くして難し。但だ当に諸(これ)を夢寐に徴して以て自ら知るべし。夢寐は自ら欺く能わず。


【訳文】
他人のことについて知るのは難しいようであるが易しく、自分のことを知るのは易しいようで難しい。ただ、自分のことは夢に徴して知ることができる。夢は自らを欺くことはできない。


【所感】
他人のことを知ることは難しそうでいて易しく、自分を知ることは易しいようで実は難しい。ただ、それ(自分を知ること)は夢を活用すべきである。夢の中で自分自身を欺くことはできないからだ、と一斎先生は言います。


自己夢分析ですね。


昨日、記載した集団的無意識のことを忘れて、個人的無意識から夢が生まれるとするなら、一斎先生の言うとおり、夢で自分の思い(抑圧された希望や私欲など)を確認することができるでしょう。


小生はこれまで自分の夢を分析して、自分の心の内側にある欲望を見出すということはして来ませんでした。


一斎先生の言うように、夢を作為的に作り出すことはできず、心の内側に閉じ込めたものがそのまま映像となって出てくるのだとすれば、そこに真の自分の思いを見つけることができるのかも知れません。


問題は、小生の場合、睡眠時間が短いからか夢を見ることが稀なことです。


先日、ホリエモンさんの『多動力』という本を読みましたが、彼はあれだけ多忙であっても睡眠は最低6時間、可能であれば8時間とるそうです。


ここ最近の一斎先生の言葉で、自分の生活パターンや睡眠時間について考えさせられています。


睡眠時間が少ないことによる弊害は健康面以外にも意外と多くあることを教えていただきました。


なかなか難しいのですが、6時間睡眠をとることにチャレンジしてみます。

第896日

【原文】
凡そ人、心裏(しんり)に絶えて無き事は、夢寐(むび)に形(あら)われず、昔人(せきじん)謂う、「男は子を生むを夢みず。女は妻を娶るを夢みず」と。此の言良(まこと)に然り。


【訳文】
一般に人は、心中にまったく無い事柄は、夢の中に現われてくることはありえない。昔の人は「男は子供を生む夢を見ることは無く、女は妻を迎える夢を見ることは無い」といった。まことにその通りである。


【所感】
ふつう人間は、心の中にまったく考えたことがないことは、夢にも出てくることはない。昔の人は、「男は子供を生む夢をみることはなく、女は妻をもらう夢をみることはない」と言った。この言葉はまことにその通りである、と一斎先生は言います。


心と夢に関する言葉が続きます。


フロイトやユングらが夢を分析をして、そこからその人の深層心理をつかもうとしたことは有名です。


ただし、夢分析の方法は心理学者によって様々です。


たとえば、


夢には潜在意識が表現される。

夢は、軽蔑された事実の復讐である。

コンプレックスは夢で実現する。 


などです。


ただし、ユングは個人的無意識だけでなく、集合的無意識が夢に現れるとしています。


集合的無意識とは、人類がこれまでに経験してきた記憶のことをいいます。


いわばDNAに刻まれた記憶が夢に出てくるということでしょう。


ユングは、夢の中で象徴的に表現されるものを元型という概念で呼んでおり、集合的無意識は、この元型によって構成されるとしています。


元型には、いくつかのタイプがあるのですが、それを語りだすと膨大なページ数を要しますので、ここでは控えます。


さすがに一斎先生の当時は、そこまで夢について考えられてはいなかったために、個人的無意識に限定された表現となっていますね。


覚えていないだけかも知れませんが、小生はあまり夢を見ませんが、過去にみた夢の中には、自分で意味を理解できなかった夢があったのも事実です。


これがいわゆる元型からくる集合的無意識が作り出した映像なのでしょう。


ただし、基本的には夢は自分の心に思い描いたことがあるものが、映像となっているように思います。


そういう意味では、夢を分析すれば、自分の欲望を客観的に把握できるのでしょうね。

第895日

【原文】
感は是れ心の影子(えいし)にして、夢は是れ心の画図なり。


【訳文】
感覚や感情というものは、心に写った物の影なのである。夢というものは、心に写った物の絵なのである。


【所感】
感覚、感情などは心に映った物の影である。夢は心に写った物の絵である、と一斎先生は言います。


感情というものは、何かを見たり聞いたりした際に心に生じるものであるから、対象があって初めて生じるものであり、そういう意味ではその対象物に対して心に生じた影のようなものである。


一方、夢は過去に見たものや感じたことが後になって映し出されるので、心に生じた絵のようなものである。


一斎先生はこのように理解されていたのでしょうか?


この対象物が人間である場合、その心に生じる影は特に陰陽様々に変化します。


心理学者のアルフレッド・アドラーは、


人間の悩みはすべて対人関係の悩みである 


と喝破しています。


所詮、人間の感情は対象物があって初めて生じる影のようなものであるから、それに囚われてはいけない。


そして、その影が心に残ることで、夢となって再現されるのであるから、常に心を空っぽにすることが重要である。


前章とあわせて考えると、本章で一斎先生が言いたかったことは、そういうことだろうと小生は捉えています。

第894日

【原文】
夜寝ぬるの工夫は、只だ静虚なるを要して、思惟するを要せず。夢中の象迹(しょうせき)は昨夢に続く者有り。数日前の夢を襲(つ)ぐ者有り。蓋し念慮留滞の致す所なり。胸中静虚なれば此等(これら)の事無し。


【訳文】
夜、床についてよく寝るためには、もっぱら心を安静にして何も考えないようにすることが大切である。夢の中で見ることは、昨夜の夢に続くこともあるし、また数日前の夢を続けて見ることもある。思うにこれは、思慮が胸中に滞留しているために起る現象である。胸中が静かで何ものも留めなければ、このようなことは起らない。


【所感】
夜、熟睡をするための工夫は、ただ心の中を空っぽにして、何も考えずに眠りにつくことである。夢に出てくるものは、昨日の夢の続きであることもあり、数日前に見た夢の続きである場合もある。思うにこれは思慮が胸中に留まっているからであろう。心を空っぽにすれば、こうしたことはなく、ぐっすり眠ることができよう、と一斎先生は言います。


昨日の言葉と今日の言葉を読むと、小生の生活はいかに宇宙の摂理に反しているかを痛感します。


小生の夜は、だいたい22時前後に帰宅し、そこから食事、その後は「一日一斎」を書いたり、読書の時間です。


ところが、最近は年齢のせいか、一度寝落ちしてしまい、再度目覚めるのが深夜1時頃。


そこからお風呂に入って3時前後まで読書というパターンです。


もっとも心が静まる時間帯の直前に就寝しているわけです。


しかも、直前まで本を読んでいろいろと考え事をしているために、胸中には様々な残留思念をもって眠りに就いているのです。


いっそのこと帰宅後、食事、入浴を済ませたら、直ぐに就寝し、3時半ごろに起床して読書をするという生活パターンのが良いのかもしれません。


貴重な人生の残り時間をどう有効活用するかを考える上で、睡眠の質、時間、読書のタイミングなど、一度真剣に考えてみるべきですね。


皆さんは、どうやって読書の時間をつくっていますか?

第893日

【原文】
凡そ道理を思惟して其の恰好を得る者、往往宵分(しょうぶん)に在り。神気澄静せるを以てなり。静坐の時、最も宜しく精神を収斂し、鎮めて肚腔(とこう)に在るべし。即ち事を処するの本と為る。認めて参禅の様子と做すこと勿れ。


【訳文】
一般に、物の道理を考える場合に、これは適切であるという考えが浮かんでくるのは、おおかた夜半である。その時刻は精神が静かに澄んでいるからである。静坐する場合には、この時刻が最もよく、精神を引き締めて、腹の底にあらしめるようにするのがよい。これが物事を処理する根本となるのである。しかし、これを参禅(坐禅修行)と同じように考えてはいけない。


【所感】
物の道理を思索していて、正しいありようを得るのは概ね夜半頃である。その時分は、精神が静まり澄みきっているからであろう。静坐をするのも、この時分に最もよく精神を引き締めて、自分の胸や胆(はら)に鎮めるのがよい。これが物事を処理する上での根本である。しかし、これを参禅の様子だと見做してはならない、と一斎先生は言います。


本章を読んで思い起されるのは、坂村真民先生のことです。


生涯を通して宇宙の摂理を詩にしたため続けた真民先生は、終の棲家を愛媛県伊予郡砥部町に定めます。


教師の職を引退した後は、深夜零時に起床し、午前3時30分には、自宅の近くを流れる重信川の川原に行き、大地の石に額をつけて暁天の祈りを捧げました。


この時刻はもっとも宇宙の気が降りてくるときで、野鳥の目覚める平均時刻だそうです。


この生活は生涯にわたって続きました。


真民先生はここで一斎先生が述べていることを理解し、実践していたのでしょう。


小生などは、どちらかといえば深夜まで無駄に起きていて、ちょうどこの頃に眠りにつきます。


これでは宇宙のパワーを体内に蓄えることはできなさそうです。


生活リズムについて考えさせられる言葉です。

第892日

【原文】
静坐すること数刻の後、人に接するに、自ら言語の叙有るを覚ゆ。


【訳文】
静坐してから数時間後に、人に接した場合、自然と話す言葉にきちんと筋が立っていることに気がつく。


【所感】
静坐してから数時間の後、人に接すると、自分の言葉が筋道の立ったものになっていることに気がつく、と一斎先生は言います。


こういう経験は誰しもあるのではないでしょうか。


小生は坐禅の経験はありませんが、たとえば神聖な場所を訪れた後や、徳の高い人にお会いした後などは、なぜか心が静まり、他人への接し方が変わっているということは何度か経験しています。


ただし、凡人というのはそれが永続きしません。


時と共に、いつもの我が出始めます。


そのためにも定期的にそういう場所を訪れたり、徳の高い方にお会いする必要があります。


場所や人だけではないでしょう。


読書もまた自分の心を穏かにするのには、とても良い方法です。


特に古典は心の軸を正してくれます。


小生が『論語』や『言志四録』を読み続ける最大の理由は、そこにあります。


ただし、儒学というのは、どちらかというと「べき論」的な色合いの強い学問です。


時にはバランスをとる意味でも、老荘思想を読むようにしています。


このたび、致知出版社さんから『老子講義録』という素晴らしい本が発売されます。


小生の家にももうすぐ到着予定です。


限定発売だそうですので、ご興味のある方はお早目にお買い求めください。


第891日

【原文】
立誠は柱礎(ちゅうそ)に似たり。是れ竪の工夫なり。居敬は棟梁に似たり。是れ横の工夫也。


【訳文】
真実無妄の誠を立てるということは、あたかも家を建築する場合に、土台石をしっかりすえ置くと同じく、根本(基礎)を確立することであって、これは竪の工夫といえる。また、敬(主一無適、心専一)に居るということは、あたかも棟や梁を置くようなものであって、これは横の工夫にあたる。立誠と居敬(竪と横と)の両面の工夫によって立派な人間が形成すされる。


【所感】
誠を立てることは、建築でいえば、柱や土台をつくることに似ている。これは縦の工夫である。また身心をつつしむことは、建物でいえば棟や梁をつくることに似ている。これは横の工夫である、と一斎先生は言います。


ここも言葉は容易ですが、理解するには難解な章です。


「誠」とは、己の言葉に嘘をつかないことです。


つまり、これは自分自身に対する心掛けです。


「敬」は、うやまい慎むことです。


これは、他人に対する姿勢です。


そこで、自分自身に対する態度を「縦」、他人に対する態度を「横」と表現したのだと、小生は理解しています。


自分という建物の土台や柱は、誠を立てることで築かれ、そこに棟や梁のように奥行きをつけるものが敬なのだ、ということでしょう。


これは逆に解すれば、他人への敬意は、自分の中に誠がなければ発揮できるものではない、ということでもあります。


まずは誠ありきです。


本当に他人に敬意を表せる人は、己の中に確かな誠を有しているものだ。


一斎先生の言いたかったことは、そういうことではないでしょうか。


では、「誠」を学ぶにはどうすべきか。


答えは簡単です。


『中庸』、『孟子』を読むしかありません。
プロフィール

れみれみ