一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年08月

第931日

【原文】
怠惰の冬日は何ぞ其れ長きや。勉強の夏日は何ぞ其れ短きや。長・短は我れに在りて、日に在らず。待つ有るの一年は、何ぞ其れ久しきや。待たざるの一年は、何ぞ其れ速やかなるや。久・速は心に在りて、年に在らず。


【訳文】
なまけていると、短い冬の日でもなんとまあ長く感ずることよ。精を出して励んでいると、長い夏の日でもなんとまあ短く感ずることよ。日の長い短いは、自分の心持いかんによるもので、日そのものにあるのではない。なにか心に期待することのある一年は、なんとまあ久しく感ずることよ。なにも心に期待することのない一年は、なんとまあ速く感ずることよ。久しいとか速いとかは、自分の心の持ち方いかんにあるのであって、年そのものにあるのではない。


【所感】
だらだらしていると、本来は短いはずの冬の一日でも長く感じる。また一心不乱に勉強していると本来は長いはずの夏の一日でも短く感じてしまう。長短というものは客観的なものでなく、主観的なものである。なにかを待ち続ける一年は何と長く久しいことだろう。なにも待つことのない一年は何と速やかに過ぎ去るものだろう。久しいか速やかかということもまた主観的なもので、年そのものにあるのではないのだ、と一斎先生は言います。


これはとても理解しやすい話ですね。 


自分が好きなことをしている時、時間はあっという間に過ぎ去り、嫌だなと思いながらやっていることはなかなか時間が進みません。


ここで一斎先生がご指摘していることは、


人は自分のフィルターを通してしか物事を観ることはできない 


ということでしょう。


おまけにそのフィルターというものも、時と場合で違ったフィルターを使っている。


つまり自分の目的に合わせてフィルターを使い分けているということです。


したがって、人とコミュニケーションをとるときは、その事をよく理解しておかないと、どちらが正しいかという是か非かの議論となって、相容れなくなってしまいます。


相手はどんなフィルターを使っているのだろうか? 


と考えてみることで、相手の目的が見えてきます。 


目的が同じなら方法論の違いを理解して、お互いの意見は同じ頂上を目指すための登山ルートが違うだけだと気づくでしょう。


目的が違うなら、目的合わせを行なうか、議論を中止するのが賢明です。


こんな偉そうなことを書いている小生ですが、小生の若かりし頃のスタンスは、まさに「自分は絶対に正しい」でした。


したがって、議論になると、いつしか目的がすり替わり、相手を論破することが目的になっている、といったことがよくありました。


さて、それはそうとして、どうせ一日を過ごすなら、あっという間に過ぎるような集中した一日を過ごしたいですし、次の一年を待ち望むときは、人生最幸の一年を待つような準備をしたいものです。

第930日

【原文】
「君子は易に居て以て命を俟つ」。易に居るとは只だ是れ分に安んずるなり。命は則ち当に俟たざるを以て之を俟つべし。


【訳文】
『中庸』に「立派な人物は、今の身分に安んじ、平易な中庸の道を守って天命の至るを待つ」とある。易に居るとは、自分の(現在の)地位や身分に安んずるということである。命を俟つとは、期待しないで自然に天命の至るを待つということである。


【所感】
『中庸』第13章には「君子は易に居て以て命を俟つ」とある。易いに居るとは、ただ自分の分際を弁えてそれに満足するということである。命とはなすがまま、あるがままにに天命を待つということだ、一斎先生は言います。


まず『中庸』のことばをもう少し詳しくみていきます。


【原文】
君子は其の位に素して行ない、其の外を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざること無し。上位に在りては下を陵(しの)がず、下位に在りては上を援(ひ)かず、己れを正して人に求めざれば、則ち怨み無し。上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず。故に君子は易(い)に居て以て命を俟ち、小人は険を行いて以て幸(こう)を徼む。子曰わく、「射は君子に似たること有り。諸(こ)れを正鵠に失すれば、反って諸を其の身に求む」と。


【訳文】
君子は現在の自分の境遇に従って(行なうべきことを)行なうだけで、それ以外のことをしようとは望まない。(すなわち)富貴の境遇にあるときは富貴の人として行ない、貧賤の境遇にあるときは貧賤の人として行ない、未開の夷狄の地にいるときは夷狄の地にいるものとして行ない、困難な立場にあるときは困難の中にいるものとして行なう。君子はどんな境遇に入っても、積極的にそれを自分のものとする。上位の立場にあるときは下位の人(の立場を尊重してそれ)をおさえつけず、下位の立場にあるときは上位の人に(ひきたてられようとして)とり入ることをせず、ただ自分を正しくして他人に求めることがなければ、心に怨みを抱くこともない。すなわち上は天を怨むこともなく、下は他人をとがめることもないのである。そこで、君子は(自分の境遇に従って行なうだけだから、)安らかなむりのない境地に安住して、天命すなわち自然な移りゆきを待つのであるが、小人は(自分の境遇からはみ出した外のことも望むから、)むりな冒険をしてまぐれ当たりを得ようとする。先生のおことばにも、「弓の礼には君子のふるまいに似たところがある。的をはずれて失敗したときは、自分で反省してわが身のうちにその原因を求める、ということだ)とある。(金谷治先生訳)


長くなりましたが、いまの小生の境遇に見事に合致した箴言です。


とくに、


己れを正して人に求めざれば、則ち怨み無し。上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず 

という章句には心を打たれます。


小生は『論語』の研究もしていますが、『論語』という本に何が書かれているかをひと言で言うなら、 


人間の使命は、ただ自分の目の前の実行すべきことを実行することにある 


ということだと理解しています。


ところが人はとかく自分が実行したことに対する他人の評価や反応を気にします。


その結果、他人に対して恨みを抱いたり、失望したり、挫折するのでしょう。


ただ、自分の足元を照らして、自分の足を一歩前へ進めることに集中する。


そこに徹していれば、常に心は安らかです。


そして、天命と言われるものも、それを続けていく中で自然にたどり着くはずです。


小生も、今目の前にあって自分自身で実践できることに集中していくこととします。

第929日

【原文】
世を避けて世に処するは、難きに似て易く、世に処して世を避くるは、易きに似て難し。


【訳文】
この俗世間(浮世)から逃れて世渡りするということは、難しいようであるが易しいものであり、俗世間の中にいてこの世から離れるということは、易しいようにみえて難しいものである。


【所感】
人間世界を避けて世事に対処するというのは、難しいようで実は容易なことであり、人間世界にまみれていながら世事から離れた心境でいるということは、簡単そうにみえて実は難しいものだ、と一斎先生は言います。


よく言われるように、「人」という字は、人と人が支えあうという意味の象形文字です。


つまり、人間というのは人間世界の中で他人と付き合いながら生きていかねばならない生き物なのです。


しかし、森信三先生が「一切の悩みは比較から生じる」と喝破しているように、人と人の間で暮らす限り、多くの悩みを抱えて生きねばなりません。


一方、隠者あるいは浮浪者のように世を捨てて生きることは、生計を立てるという上においては大変でしょうが、人間関係の悩みを抱えることはないでしょう。


小生は新卒から現在に至るまでずっと組織人として仕事をしています。


被雇用者ですので、自分の思いが経営者に伝わらずに切ない想いをすることも多々あります。


あるいは、私の言葉が自分の意思とは違う形で後輩の心に突き刺さり、辛い想いをさせてしまうこともあります。


それでも後輩達の育成をサポートして、彼らが立派な営業マンへと成長していくのをみることが何よりの喜びです。


一斎先生の言うように、世事から一定の距離をおいた心境でいるというのはとても難しいことですが、人間学を学び続けて、世間にまみれながら一個の自分を失わない生き方を貫きます。

第928日

【原文】
「君子は入るとして自得せざる無し」。怏怏として楽しまずの字、唯だ功利の人之を著(つ)く。


【訳文】
『中庸』に「立派な人はいかなる境遇に入ろうとも、不平不満の心を起すことなく、悠々自適することができる」とある怏怏として楽しまず(心に満足せず楽しまない)という字は、ただ功名や利益を貪る人だけが心に抱くものである。


【所感】
『中庸』第十四章に「君子は入るとして自得せざる無し」とある。心に不安があって楽しめないという字は、ただ目先の利益や功名を求める人に使われるだけである、と一斎先生は言います。


まず『中庸』のことばをもう少し詳しくみていきます。


【原文】
君子は其の位に素して行ない、其の外を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざること無し。


【訳文】
君子は現在の自分の境遇に従って(行なうべきことを)行なうだけで、それ以外のことをしようとは望まない。(すなわち)富貴の境遇にあるときは富貴の人として行ない、貧賤の境遇にあるときは貧賤の人として行ない、未開の夷狄の地にいるときは夷狄の地にいるものとして行ない、困難な立場にあるときは困難の中にいるものとして行なう。君子はどんな境遇に入っても、積極的にそれを自分のものとする。(金谷治先生訳)


身に沁みる言葉です。


小生もいま勤務先のトップと考え方にズレが生じており、やりたいことが自由に行なえない状況に歯噛みしています。


しかし、一斎先生はどんな状況にあろうとも、自分がいま行なえることを淡々と行なえ、と教えてくれています。


最も宜しくないのは、その境遇を悲観してやる気を失い何もしなくなることでしょう。


どんな境遇にあってもやるべきことはあるはずです。


小生の仕事の軸は、社員さんの育成をとおして、その先にいるお客様の幸せに貢献することです。


その軸をもう一度正して、いま自分にできることをひとつずつ実践していくしかありません。


タイムリーな一斎先生のアドバイスに心が震えます。

第927日

【原文】
「楽しみは是れ心の本体なり」。惟だ聖人のみ之を全うす。何を以てか之を見る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に能く申申如たり。夭夭如たり。


【訳文】
王陽明は「楽しみというものは、心の本来のありのままな姿である」といっている。ただ聖人だけがこれを全うしている。これはどうしてわかるか。それは聖人の顔色にあらわれ、あるいは体の動作によってわかる。すなわち、姿がのびのびとしていて、顔色がにこやかである。


【所感】
王陽明は『伝習録』の中で「楽はこれ心の本体なり」と言っている。これは聖人のみが全うできることである。では何をもってそれを判断するのかといえば、にこやかな表情やゆったりとしてのびやかな身体の動きをみれば自ずとわかることである、と一斎先生は言います。


まずは取り上げられている『伝習録』の言葉をもう少し詳しくみてみます。


【原文】
問う、楽しきは是れ心の本体なりと。知らず、大故(たいこ)に遇いて、哀哭するの時に於ても、此の楽しみは還(ま)た在りや否やと。先生曰く、是の大哭すること一番を須(ま)ちて方(はじ)めて楽し。哭せざれば便ち楽しからず。哭すと雖も此の心の安ずる処、即ち是れ楽しきなり。本体は未だ嘗て動くこと有らざるなり。 


【訳文】
おたずねします、「『楽しいということが、人間の本来の姿だ』ということですが、両親の死去にみまわれ、哀しみのあまり慟哭するようなときでも、その楽しいということがあるのですか」と。
先生が言われた、「そのような(かなしい)ときは、大声でわんわんと泣いてこそ(本来心が発現されますから)楽しいものなのである。わんわんと泣かないと楽しくないのである。わんわんと泣いたとしても、本人自身はそれで心おちついているのだから、それこそ楽しいわけである。泣いたとしても楽しいという本当の姿はついぞぐらついたりはしていないのだよ」と。(吉田公平先生訳)


この言葉には人間の弱さを理解した優しさを感じます。


小生も哀しい時は大声で泣き、落ち込むときはどん底まで落ち込んでよいものだと思っています。


泣いて涙を枯らし、落ち込んで心を真っ暗にしたなら、そこからは右肩上がりの人生しかないはずです。


ところが聖人になると、その真理がすでに完全に腹に落ちているので、そもそも泣き喚いたり、落ち込むようなことがなくなるのだ、ということのようです。


しかし、どんな聖人君子も最初からそうだったわけではないでしょう。


大声で泣いて、落ち込んだ先に、真の楽しみを心の中に見つけたのだと思います。


小生の生きる指針である、「逆境の後にしか人生の花は咲かない」という言葉にある「人生の花」とは、ここでいう「心の本体である楽しみ」と同じなのでしょう。


そんな真理を会得した聖人は、一つひとつの出来事に一喜一憂しませんので、その表情や態度にはなんともいえない穏やかさがあるのです。


ここに出てくる「申申如」・「夭夭如」という言葉は『論語』にあります。


【原文】
子の燕居(えんきょ)するや、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。(述而第七)


【訳文】
先師が、家にくつろいでおられるときはのびのびとされ、にこやかなお顔をしておられた。(伊與田覺先生訳)


孔子はプライベートのときは、ひじょうに穏やかだったようです。


『論語』を読むかぎり、孔子という人は決して順風満帆な一生を過ごした人ではなく、むしろ波乱万丈で、理想と現実のギャップに悩み続けた人なのです。


しかし、そんな心境を表情や態度には表さなかったということが、この言葉からわかります。


凡人である小生はまず、少しの期間だけ大声でなき、どん底まで落ち込んでから、この聖人の姿勢を意識して心を落ち着けることに精進します。
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れみれみ