【原文】
怠惰の冬日は何ぞ其れ長きや。勉強の夏日は何ぞ其れ短きや。長・短は我れに在りて、日に在らず。待つ有るの一年は、何ぞ其れ久しきや。待たざるの一年は、何ぞ其れ速やかなるや。久・速は心に在りて、年に在らず。
【訳文】
なまけていると、短い冬の日でもなんとまあ長く感ずることよ。精を出して励んでいると、長い夏の日でもなんとまあ短く感ずることよ。日の長い短いは、自分の心持いかんによるもので、日そのものにあるのではない。なにか心に期待することのある一年は、なんとまあ久しく感ずることよ。なにも心に期待することのない一年は、なんとまあ速く感ずることよ。久しいとか速いとかは、自分の心の持ち方いかんにあるのであって、年そのものにあるのではない。
【所感】
だらだらしていると、本来は短いはずの冬の一日でも長く感じる。また一心不乱に勉強していると本来は長いはずの夏の一日でも短く感じてしまう。長短というものは客観的なものでなく、主観的なものである。なにかを待ち続ける一年は何と長く久しいことだろう。なにも待つことのない一年は何と速やかに過ぎ去るものだろう。久しいか速やかかということもまた主観的なもので、年そのものにあるのではないのだ、と一斎先生は言います。
これはとても理解しやすい話ですね。
自分が好きなことをしている時、時間はあっという間に過ぎ去り、嫌だなと思いながらやっていることはなかなか時間が進みません。
ここで一斎先生がご指摘していることは、
人は自分のフィルターを通してしか物事を観ることはできない
ということでしょう。
おまけにそのフィルターというものも、時と場合で違ったフィルターを使っている。
つまり自分の目的に合わせてフィルターを使い分けているということです。
したがって、人とコミュニケーションをとるときは、その事をよく理解しておかないと、どちらが正しいかという是か非かの議論となって、相容れなくなってしまいます。
相手はどんなフィルターを使っているのだろうか?
と考えてみることで、相手の目的が見えてきます。
目的が同じなら方法論の違いを理解して、お互いの意見は同じ頂上を目指すための登山ルートが違うだけだと気づくでしょう。
目的が違うなら、目的合わせを行なうか、議論を中止するのが賢明です。
こんな偉そうなことを書いている小生ですが、小生の若かりし頃のスタンスは、まさに「自分は絶対に正しい」でした。
したがって、議論になると、いつしか目的がすり替わり、相手を論破することが目的になっている、といったことがよくありました。
さて、それはそうとして、どうせ一日を過ごすなら、あっという間に過ぎるような集中した一日を過ごしたいですし、次の一年を待ち望むときは、人生最幸の一年を待つような準備をしたいものです。