一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年08月

第931日

【原文】
怠惰の冬日は何ぞ其れ長きや。勉強の夏日は何ぞ其れ短きや。長・短は我れに在りて、日に在らず。待つ有るの一年は、何ぞ其れ久しきや。待たざるの一年は、何ぞ其れ速やかなるや。久・速は心に在りて、年に在らず。


【訳文】
なまけていると、短い冬の日でもなんとまあ長く感ずることよ。精を出して励んでいると、長い夏の日でもなんとまあ短く感ずることよ。日の長い短いは、自分の心持いかんによるもので、日そのものにあるのではない。なにか心に期待することのある一年は、なんとまあ久しく感ずることよ。なにも心に期待することのない一年は、なんとまあ速く感ずることよ。久しいとか速いとかは、自分の心の持ち方いかんにあるのであって、年そのものにあるのではない。


【所感】
だらだらしていると、本来は短いはずの冬の一日でも長く感じる。また一心不乱に勉強していると本来は長いはずの夏の一日でも短く感じてしまう。長短というものは客観的なものでなく、主観的なものである。なにかを待ち続ける一年は何と長く久しいことだろう。なにも待つことのない一年は何と速やかに過ぎ去るものだろう。久しいか速やかかということもまた主観的なもので、年そのものにあるのではないのだ、と一斎先生は言います。


これはとても理解しやすい話ですね。 


自分が好きなことをしている時、時間はあっという間に過ぎ去り、嫌だなと思いながらやっていることはなかなか時間が進みません。


ここで一斎先生がご指摘していることは、


人は自分のフィルターを通してしか物事を観ることはできない 


ということでしょう。


おまけにそのフィルターというものも、時と場合で違ったフィルターを使っている。


つまり自分の目的に合わせてフィルターを使い分けているということです。


したがって、人とコミュニケーションをとるときは、その事をよく理解しておかないと、どちらが正しいかという是か非かの議論となって、相容れなくなってしまいます。


相手はどんなフィルターを使っているのだろうか? 


と考えてみることで、相手の目的が見えてきます。 


目的が同じなら方法論の違いを理解して、お互いの意見は同じ頂上を目指すための登山ルートが違うだけだと気づくでしょう。


目的が違うなら、目的合わせを行なうか、議論を中止するのが賢明です。


こんな偉そうなことを書いている小生ですが、小生の若かりし頃のスタンスは、まさに「自分は絶対に正しい」でした。


したがって、議論になると、いつしか目的がすり替わり、相手を論破することが目的になっている、といったことがよくありました。


さて、それはそうとして、どうせ一日を過ごすなら、あっという間に過ぎるような集中した一日を過ごしたいですし、次の一年を待ち望むときは、人生最幸の一年を待つような準備をしたいものです。

第930日

【原文】
「君子は易に居て以て命を俟つ」。易に居るとは只だ是れ分に安んずるなり。命は則ち当に俟たざるを以て之を俟つべし。


【訳文】
『中庸』に「立派な人物は、今の身分に安んじ、平易な中庸の道を守って天命の至るを待つ」とある。易に居るとは、自分の(現在の)地位や身分に安んずるということである。命を俟つとは、期待しないで自然に天命の至るを待つということである。


【所感】
『中庸』第13章には「君子は易に居て以て命を俟つ」とある。易いに居るとは、ただ自分の分際を弁えてそれに満足するということである。命とはなすがまま、あるがままにに天命を待つということだ、一斎先生は言います。


まず『中庸』のことばをもう少し詳しくみていきます。


【原文】
君子は其の位に素して行ない、其の外を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざること無し。上位に在りては下を陵(しの)がず、下位に在りては上を援(ひ)かず、己れを正して人に求めざれば、則ち怨み無し。上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず。故に君子は易(い)に居て以て命を俟ち、小人は険を行いて以て幸(こう)を徼む。子曰わく、「射は君子に似たること有り。諸(こ)れを正鵠に失すれば、反って諸を其の身に求む」と。


【訳文】
君子は現在の自分の境遇に従って(行なうべきことを)行なうだけで、それ以外のことをしようとは望まない。(すなわち)富貴の境遇にあるときは富貴の人として行ない、貧賤の境遇にあるときは貧賤の人として行ない、未開の夷狄の地にいるときは夷狄の地にいるものとして行ない、困難な立場にあるときは困難の中にいるものとして行なう。君子はどんな境遇に入っても、積極的にそれを自分のものとする。上位の立場にあるときは下位の人(の立場を尊重してそれ)をおさえつけず、下位の立場にあるときは上位の人に(ひきたてられようとして)とり入ることをせず、ただ自分を正しくして他人に求めることがなければ、心に怨みを抱くこともない。すなわち上は天を怨むこともなく、下は他人をとがめることもないのである。そこで、君子は(自分の境遇に従って行なうだけだから、)安らかなむりのない境地に安住して、天命すなわち自然な移りゆきを待つのであるが、小人は(自分の境遇からはみ出した外のことも望むから、)むりな冒険をしてまぐれ当たりを得ようとする。先生のおことばにも、「弓の礼には君子のふるまいに似たところがある。的をはずれて失敗したときは、自分で反省してわが身のうちにその原因を求める、ということだ)とある。(金谷治先生訳)


長くなりましたが、いまの小生の境遇に見事に合致した箴言です。


とくに、


己れを正して人に求めざれば、則ち怨み無し。上は天を怨みず、下は人を尤(とが)めず 

という章句には心を打たれます。


小生は『論語』の研究もしていますが、『論語』という本に何が書かれているかをひと言で言うなら、 


人間の使命は、ただ自分の目の前の実行すべきことを実行することにある 


ということだと理解しています。


ところが人はとかく自分が実行したことに対する他人の評価や反応を気にします。


その結果、他人に対して恨みを抱いたり、失望したり、挫折するのでしょう。


ただ、自分の足元を照らして、自分の足を一歩前へ進めることに集中する。


そこに徹していれば、常に心は安らかです。


そして、天命と言われるものも、それを続けていく中で自然にたどり着くはずです。


小生も、今目の前にあって自分自身で実践できることに集中していくこととします。

第929日

【原文】
世を避けて世に処するは、難きに似て易く、世に処して世を避くるは、易きに似て難し。


【訳文】
この俗世間(浮世)から逃れて世渡りするということは、難しいようであるが易しいものであり、俗世間の中にいてこの世から離れるということは、易しいようにみえて難しいものである。


【所感】
人間世界を避けて世事に対処するというのは、難しいようで実は容易なことであり、人間世界にまみれていながら世事から離れた心境でいるということは、簡単そうにみえて実は難しいものだ、と一斎先生は言います。


よく言われるように、「人」という字は、人と人が支えあうという意味の象形文字です。


つまり、人間というのは人間世界の中で他人と付き合いながら生きていかねばならない生き物なのです。


しかし、森信三先生が「一切の悩みは比較から生じる」と喝破しているように、人と人の間で暮らす限り、多くの悩みを抱えて生きねばなりません。


一方、隠者あるいは浮浪者のように世を捨てて生きることは、生計を立てるという上においては大変でしょうが、人間関係の悩みを抱えることはないでしょう。


小生は新卒から現在に至るまでずっと組織人として仕事をしています。


被雇用者ですので、自分の思いが経営者に伝わらずに切ない想いをすることも多々あります。


あるいは、私の言葉が自分の意思とは違う形で後輩の心に突き刺さり、辛い想いをさせてしまうこともあります。


それでも後輩達の育成をサポートして、彼らが立派な営業マンへと成長していくのをみることが何よりの喜びです。


一斎先生の言うように、世事から一定の距離をおいた心境でいるというのはとても難しいことですが、人間学を学び続けて、世間にまみれながら一個の自分を失わない生き方を貫きます。

第928日

【原文】
「君子は入るとして自得せざる無し」。怏怏として楽しまずの字、唯だ功利の人之を著(つ)く。


【訳文】
『中庸』に「立派な人はいかなる境遇に入ろうとも、不平不満の心を起すことなく、悠々自適することができる」とある怏怏として楽しまず(心に満足せず楽しまない)という字は、ただ功名や利益を貪る人だけが心に抱くものである。


【所感】
『中庸』第十四章に「君子は入るとして自得せざる無し」とある。心に不安があって楽しめないという字は、ただ目先の利益や功名を求める人に使われるだけである、と一斎先生は言います。


まず『中庸』のことばをもう少し詳しくみていきます。


【原文】
君子は其の位に素して行ない、其の外を願わず。富貴に素しては富貴に行ない、貧賤に素しては貧賤に行ない、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。君子は入るとして自得せざること無し。


【訳文】
君子は現在の自分の境遇に従って(行なうべきことを)行なうだけで、それ以外のことをしようとは望まない。(すなわち)富貴の境遇にあるときは富貴の人として行ない、貧賤の境遇にあるときは貧賤の人として行ない、未開の夷狄の地にいるときは夷狄の地にいるものとして行ない、困難な立場にあるときは困難の中にいるものとして行なう。君子はどんな境遇に入っても、積極的にそれを自分のものとする。(金谷治先生訳)


身に沁みる言葉です。


小生もいま勤務先のトップと考え方にズレが生じており、やりたいことが自由に行なえない状況に歯噛みしています。


しかし、一斎先生はどんな状況にあろうとも、自分がいま行なえることを淡々と行なえ、と教えてくれています。


最も宜しくないのは、その境遇を悲観してやる気を失い何もしなくなることでしょう。


どんな境遇にあってもやるべきことはあるはずです。


小生の仕事の軸は、社員さんの育成をとおして、その先にいるお客様の幸せに貢献することです。


その軸をもう一度正して、いま自分にできることをひとつずつ実践していくしかありません。


タイムリーな一斎先生のアドバイスに心が震えます。

第927日

【原文】
「楽しみは是れ心の本体なり」。惟だ聖人のみ之を全うす。何を以てか之を見る。其の色に徴し、四体に動く者、自然に能く申申如たり。夭夭如たり。


【訳文】
王陽明は「楽しみというものは、心の本来のありのままな姿である」といっている。ただ聖人だけがこれを全うしている。これはどうしてわかるか。それは聖人の顔色にあらわれ、あるいは体の動作によってわかる。すなわち、姿がのびのびとしていて、顔色がにこやかである。


【所感】
王陽明は『伝習録』の中で「楽はこれ心の本体なり」と言っている。これは聖人のみが全うできることである。では何をもってそれを判断するのかといえば、にこやかな表情やゆったりとしてのびやかな身体の動きをみれば自ずとわかることである、と一斎先生は言います。


まずは取り上げられている『伝習録』の言葉をもう少し詳しくみてみます。


【原文】
問う、楽しきは是れ心の本体なりと。知らず、大故(たいこ)に遇いて、哀哭するの時に於ても、此の楽しみは還(ま)た在りや否やと。先生曰く、是の大哭すること一番を須(ま)ちて方(はじ)めて楽し。哭せざれば便ち楽しからず。哭すと雖も此の心の安ずる処、即ち是れ楽しきなり。本体は未だ嘗て動くこと有らざるなり。 


【訳文】
おたずねします、「『楽しいということが、人間の本来の姿だ』ということですが、両親の死去にみまわれ、哀しみのあまり慟哭するようなときでも、その楽しいということがあるのですか」と。
先生が言われた、「そのような(かなしい)ときは、大声でわんわんと泣いてこそ(本来心が発現されますから)楽しいものなのである。わんわんと泣かないと楽しくないのである。わんわんと泣いたとしても、本人自身はそれで心おちついているのだから、それこそ楽しいわけである。泣いたとしても楽しいという本当の姿はついぞぐらついたりはしていないのだよ」と。(吉田公平先生訳)


この言葉には人間の弱さを理解した優しさを感じます。


小生も哀しい時は大声で泣き、落ち込むときはどん底まで落ち込んでよいものだと思っています。


泣いて涙を枯らし、落ち込んで心を真っ暗にしたなら、そこからは右肩上がりの人生しかないはずです。


ところが聖人になると、その真理がすでに完全に腹に落ちているので、そもそも泣き喚いたり、落ち込むようなことがなくなるのだ、ということのようです。


しかし、どんな聖人君子も最初からそうだったわけではないでしょう。


大声で泣いて、落ち込んだ先に、真の楽しみを心の中に見つけたのだと思います。


小生の生きる指針である、「逆境の後にしか人生の花は咲かない」という言葉にある「人生の花」とは、ここでいう「心の本体である楽しみ」と同じなのでしょう。


そんな真理を会得した聖人は、一つひとつの出来事に一喜一憂しませんので、その表情や態度にはなんともいえない穏やかさがあるのです。


ここに出てくる「申申如」・「夭夭如」という言葉は『論語』にあります。


【原文】
子の燕居(えんきょ)するや、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。(述而第七)


【訳文】
先師が、家にくつろいでおられるときはのびのびとされ、にこやかなお顔をしておられた。(伊與田覺先生訳)


孔子はプライベートのときは、ひじょうに穏やかだったようです。


『論語』を読むかぎり、孔子という人は決して順風満帆な一生を過ごした人ではなく、むしろ波乱万丈で、理想と現実のギャップに悩み続けた人なのです。


しかし、そんな心境を表情や態度には表さなかったということが、この言葉からわかります。


凡人である小生はまず、少しの期間だけ大声でなき、どん底まで落ち込んでから、この聖人の姿勢を意識して心を落ち着けることに精進します。

第926日

【原文】
苦楽は固より亦一定無し。仮(たと)えば我が書を読みて夜央(よなか)に至るが如き、人は皆之を苦と謂う。而も我れは之を楽しむ。世俗の好む所の淫哇俚腔(いんあいりこう)、我れは則ち耳を掩うて之を過ぐ。果して知る、苦楽に一定無く、各各其の苦楽とする所を以て苦楽と為すのみなることを。


【訳文】
苦も楽も、もとよりちゃんとしたきまりがあるわけではない。たとえていえば、自分が書物を読んで真夜中になってしまうようなことは、人はみな苦痛であろうというが、しかし自分はこれを楽しんでいるのである。また、世間の人々が好む所のみだらな声や卑しい歌などに出会う場合には、自分は耳を手でおさえて過ぎ去るのである。これによって、思った通り、苦楽には一定したものがなく、人々が自ら苦とし楽とする所を苦・楽としているだけであるということを知り得た。


【所感】
苦楽というものもまた主観的なものである。たとえば私が読書をしていて夜中になったと聞くと人はそれは大変ですねと言う。しかし私がそれを楽しんでいるのだ。また世間一般が好む淫らな歌や卑俗な音を聞くと、私は耳をふさいで通り過ぎる。これからも分かることだが、苦楽というものに主観的でないものはなく、人それぞれが自分の主観に応じて苦楽を判断しているに過ぎないのだ、と一斎先生は言います。


昨日までの順逆に続き、今度は苦楽についても人は自分の都合で作り出すものだと喝破されています。


一般的な人は、主観の中で生きています。


コヴィー博士も『7つの習慣』の中で、


人は自分の視たいように物事を視る 


と言っています。


そうした視方は、自分のライフスタイル(もしくはパラダイム)によって決定されます。


絶対善や絶対悪がないように、絶対楽、絶対苦もあり得ないのです。


だからこそ、どういう視点で物事を視るかが重要になってきます。


小生がずっと推奨し続けているのが、私欲を抑えて公欲を満たす生き方をすることです。


自分にとっては苦しいことでも、周囲の人や世の中にとって楽となることであるなら、その苦を進んで受け容れる度量を持ちたいものです。

第925日

【原文】
余意(おも)う、「天下の事固より順逆無く、我が心に順逆有り」と。我が順とする所を以て之を視れば、逆も皆順なり。我が逆とする所を以て之を視れば、順も皆逆なり。果たして一定有らんや。達者に在りては、一理を以て権衡と為し、以て其の軽重を定むるのみ。


【訳文】
自分は「世の中の事は元来、順・逆のあるはずがなく、自分の心に順・逆があるのだ」と思っている。自分の心がであるならば、人が逆境だと思っても、自分には順境なのである。自分の心が逆であるならば、人が順境だと思っても、自分には逆境なのである。はたして順・逆は一定しているのであろうか。道に達した人(悟人)にあっては、一つの道理をはかりとして、物事の軽重の度合いを定めるだけである。(順・逆などには別に関心はない)


【所感】
私は、「自分の周囲で起こる出来事には本来は順境や逆境などはなく、ただ自分の心がそう判断しているだけだ」と思う。自分が順境に居ると思って出来事を視れば、逆境さえも順境となる。自分が逆境に居ると思って出来事を視れば、順境さえも逆境となる。客観的な順境や逆境などはないのではないか。優れた人は一定の道理を判断基準として、その出来事の軽重を決めるものである、と一斎先生は言います。


とても心に響く言葉です。


ある意味でこれはアドラー心理学でいうところの「目的論」ではないでしょうか。


アドラーは、人間の行動には必ず目的があるとして、こう言っています。


われわれは自分の経験によるショック(トラウマ)に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。


人生とは、誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものである。自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのだ。


この考え方によれば、順境や逆境というのは、ある目的があって、自分がその環境に居たいと思ったときに生まれるだけに過ぎない、ということになります。


かつて、V・フランクルがアウシュビッツ強制収容所で拷問を受ける中で、人間の尊厳は自分自身の中にあることに気付いたように、現在の環境に居ることに自分自身でどんな意味を与えるかが重要なのです。


逆境のときこそ、そこから何を学び、何を肥料として、後の人生でどんな大きな花を咲かせたいのかを考えてください。


でこぼこで曲がりくねった人生という道に、地図を与えてくれるのが逆境なのです。

第924日

【原文】
逆境に遭う者は、宜しく順を以て之を処すべし。順境に居る者は、宜しく逆境を忘れざるべし。


【訳文】
思うようにならない境遇にあっている人は、思うようになる境遇におるような心をもって対処していくのがよい。順境におる人は、逆境の時を忘れずにしていくがよい。


【所感】
逆境にあるときは、総じて順境に居るかのように物事に対処していくのがよい。また順境にあるときは、総じて逆境のときを忘れないことが肝要である、と一斎先生は言います。


どんな人でも生まれてから現在までずっと逆境あるいは順境に居続けている人はいないはずです。


しかし、逆境に陥ると、そのとき順境に居る人と比較して自分の不幸を呪います。


ところが、自分が順風満帆のときは、かつて自身も荒波に漂ったことを忘れて、逆境に居る人を憐れんだりします。


人間とは実に勝手な生き物なのです。


凡人である小生は逆境に陥ると、まずは凹んで、落ち込んで、自暴自棄になります。(どうしても一旦はこの工程が必要です。。。)


その後は、現状を腹に落とすことに取り組みます。


一斎先生のように、「これも順境だ」とまでは考えられませんが、神様は必ずここから抜け出す道を用意してくれていると信じて、逃げずに壁にぶつかっていく道を選びます。


するといつの間にか最悪の状態は脱しています。


それから数年も経てば、あれほど悩み落ち込んでいたことをケロリと忘れてしまいます。


そして、順境が訪れると調子に乗り過ぎて失敗するということを繰り返してきました。


パワハラ事件を起こしたときは、あれほど反省したのに、5年も経てばまた同じようなことを指摘されてしまう、といった具合です。


要するに、小生は逆境には比較的強いが、順境に弱い人間なのでしょう。


そういう人間には、毎朝苦い肝を舐めるような習慣をつける必要がありそうです。


ただ、憂うべくは、最近の若い人は極度に逆境に弱いことでしょう。


若者が自ら命を絶ったというニュースを耳にする度に、なぜ生きることを諦めてしまうのかと残念な気持ちで一杯になります。


逆境の後にしか人生の花は咲きません。


偉人の伝記を読めば、彼らがどれほどの逆境を乗り越えて大きな花を咲かせたのかを知ることができ、生きる勇気をもらえます。


やはり、森信三先生も言っていたように、伝記を読むことは人生を生き抜く上でも極めて重要なのでしょう。


小さい子供さんがいる親御さんは、ぜひ伝記を読み聞かせてあげてください。

第923日

【原文】
騎は登山に踣(たお)れずして、而も下阪に躓き、舟は逆浪に覆らずして、而も順風に漂う。凡そ患は易心(いしん)に生ず。慎まざる可からず。


【訳文】
人の乗った馬は、山を登って行く時にはたおれないで、かえって下り坂の時につまずくものであり、舟は逆巻く波にはひっくりかえらないで、かえって追風の際にさまようものである。だいたい、禍というものはあなどる心からして生ずるものである。慎まなければいけない。


【所感】
騎馬で山を登っていくときには倒れず、むしろ下り坂で躓くものであり、舟で行くときも、逆巻く波を受けているときは転覆しないが、順風のときにかえって波間にさまようものである。概して、容易だと侮る心から災いは生じるものである。慎まなければならない、と一斎先生は言います。


慣れや慢心ほど恐ろしいものはありません。


車に乗って事故を起こすのも、初心者マークが取れた直後が圧倒的に多いと聞いたことがあります。


これは要するに緊張感がなくなってしまうことに起因するのでしょう。


適度な緊張感を失うと何事もうまく運びません。


小生が師事する中村信仁さんは、こんなことを仰っていました。


いくつになっても緊張できる場面があることは、とてもありがたいことである。


では、どうしたら緊張感を保ち続けられるのでしょうか? 


小生が意識しているのは、いつまでも同じやり方や同じ考え方に固執せず、常に新しいことに取り組むことです。


小生の30年来の行動指針のひとつが、 


Somethin New(少しだけ新しいことを) 


です。 


Absolutely New (すべてを全く新しくする)を意識しようとすると、結局行動に躊躇することになります。 


もうひとつ小生が大事にしていることが、


Better Than Yesterday(昨日より成長する) 


です。


少しだけ新しいことにチャレンジして、昨日の自分より成長する。 


という意識があれば、慢心を払拭して、安全な航海ができるのではないでしょうか?

第922日

【原文】
足るを知るを知って之れ足れば常に足る。仁に庶(ちか)し。恥無きを之れ恥ずれば恥無し。義に庶し。


【訳文】
老子は、「足ることを知って満足するならば、いつも不足や不満を感ずることは無い」といっているが、これは仁に近いといえる。また、孟子は「自分の恥とすべきことを恥じずにいることを、恥としてにくむのであるならば、恥は無くなる」といっているが、これは義に近いといえる。


【所感】
『老子』第四十六章には「足るを知るの足るは、常に足る」とあるが、これは仁に近いといえる。また『孟子』尽心章句上に「恥づること無きを之れ恥づれば、恥無し」とあるが、これは義に近いといえよう、と一斎先生は言います。


引用された『老子』と『孟子』の該当部分をもう少し詳しく見てみましょう。


まずは『老子』第四十六章です。


【原文】
天下に道有れば、走馬を却けて以て糞(播)し、天下に道無ければ、戎馬(じゅうば)郊に生ず。罪は欲すべきより大なるは莫く、禍いは足るを知らざるより大なるは莫く、咎は得るを欲するよりいたましきは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。 


【訳文】
世界じゅうに道理が行われて平和であるときは、早馬は追いやられて畑の耕作に使われるが、世界じゅうに道理がなくて乱れたときには、軍馬の活動が都の近くでも起こるようになる。戦争のもとはといえば、それは諸侯たちの私的な欲望だ。欲望をたくましくするのが最大の罪悪であり、満足を知らないのが最大の災禍(わざわい)であり、物を貪りつづけるのが最もいたましい罪過(あやまち)である。だから、満足を足るというその満足こそは、永遠に変わらない誠の満足なのだ。(金谷治先生訳) 


つづいて『孟子』尽心章句上です。 


【原文】
孟子曰く、「人は以て恥づること無かる可からず。恥づること無きを之れ恥づれば、恥無し」


【訳文】
孟子のことば「人は羞恥心がなければならぬ。羞恥心がないことを恥ずかしく思うようになれば、恥辱を受けることもなくなるのだ」(宇野精一先生訳)


どちらの言葉もとても深くて趣のある言葉です。


足るを知るとは昔から言われており、よく知られていますが、実際にいまあるものに満足するというのは簡単なことではありません。


人はいま手にしていないものを何とかして手に入れたいと願うものです。


仏教ではこれを、


求不得苦 


というのだと、今日出席した読書会で学びました。


これは、仏教の言葉である「四苦八苦」のうちのひとつです。 


ちなみに四苦八苦とは、 


生・老・病・死・愛別離苦(愛する人と別れること)・怨憎会苦(嫌いな人に会うこと)・求不得苦(欲しい者が手に入らないこと)・五蘊盛苦(肉体と精神が思うようにならないこと) 


だそうです。


仏教では、この八つの苦しみは失くすことはできないので、そういうものだとあきらめる(あきらかにする)ことが大事だと考えるのだ、と教えていただきました。


足るを知る、つまり求不得苦をそのまま受け入れるというのは、それほど難しいことゆえ、これができれば仁に近いのだ、と一斎先生は説いているのでしょう。


また、恥を理解し、自分が恥ずべきものを弁えることができるなら、正道をいく生き方ができるので、義に近いのだ、と一斎先生は説いています。


つまり、いま手にしているもの(こと)に満足し、恥じるべきこと(行ない)を恥じることができれば仁義を守る生き方に近づくのだということです。


ひじょうにシンプルだからこそ、実践するのは難しい教えですね。
プロフィール

れみれみ