一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年09月

第961日

【原文】
我れ恩を人に施しては忘る可し。我れ恵みを人に受けては忘る可からず。


【訳文】
自分が恩恵を人に施した場合は、これを忘れるべきであるが、しかし自分が恩恵を人から受けた場合は、決して忘れてはいけない。


【所感】
自分が人に恩を施したときはすぐに忘れなさい。自分が人から恩を受けたときは決して忘れてはいけない、と一斎先生は言います。


私が師事する中村信仁さんから教えていただいた言葉に、


掛けた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め 


という至言があります。


本章の一斎先生の言葉とまったく同じ意味ですね。


人は、受けた恩は忘れないのは勿論ですが、掛けた恩も忘れ難いものです。


見返りを求める気持ちが少しでも心にあると、恩返しをしない相手を怨んだり、非難したりしてしまいます。


結局それは自己貢献感が低く、真の自立が出来ていないことの証なのですが、凡人にとっては大きな課題です。


恩返しなど受けなくても、恩という善のパワーは相当強いものですので、必ずその恩は次の人に送られていくはずです。


いわゆる"恩送り" です。


自分が掛けた恩には見返りを求めず、恩送りの輪が広がっていくと信じていれば良いのでしょう。


しかし、受けた恩については、しっかりとご恩返しをするか、その相手が故人となっているなら、恩送りをしていくことを心に刻んでおきましょう。


小生もこの言葉を読んで、自分のやってきたことへの評価が正当でないと嘆く心を捨てて、これまでに受けた恩に目を向けていかねばならないことに気づくことができました。

第960日

【原文】
事には本末有り。固より已に分明なり。但だ本に似たる末有り。末に似たる本有り。察を致さざる可からず。


【訳文】
物事には本と末がある。それは元来はっきりしている。本に似た末があったり、末に似た本があったりする。それでよく見分けなければいけない。


【所感】
物事には本末がある。それは固より明確である。しかし、重要なこと(もの)のようで瑣末なこと(もの)があり、瑣末なようで重要なこともある。しっかりと考察することが重要である、と一斎先生は言います。


本末転倒という言葉があるように、時々つまらないことに力を尽くしすぎて、大事なことを疎かにしている人をみかけます。


仕事に関していえば、手段と目的を履き違えるというのがよくある事例です。


たとえば、小生のような営業職にある人間は、売上と利益を上げることで会社に貢献するのですが、この売上と利益というものを目的としてしまっている営業マンがいます。


あくまで売上や利益は手段であって、我々営業の目的は、お客様の課題解決のお手伝いをすることです。


そのお手伝いの貢献度に応じて、対価としていただくものが売上であり利益であるわけです。


小生が属する医療機器の業界でも、医療コンサルと称してその実はコストカッターにすぎない会社が、全国統一価格を盾に価格の見直しを要求し、各医療機器メーカーや商社の利益が大幅に削られるという厳しい環境の中にあります。


こういう状況の中で、ただ手をこまねいていては売上も利益も下るだけです。


我々の仕事は医療機器を売ることではなく、医療機器の提供を通して、お客様の課題解決に貢献することだということを、もう一度認識する必要があります。


小生は10月より、営業のマネジメント職から企画・マーケティング部門に異動となります。 


営業マンを側方から支援すべく、お客様の課題解決のお役に立てるような営業提案を創造し、価格競争から抜け出す術を探っていく所存です。

第959日

【原文】
親しみ易きは小人にして、狎れ難き者は君子なり。仕え難き者は小人にして、事え易き者は君子なり。


【訳文】
親しみ易いのは小人物であって、なれにくいのは君子(立派な人物)である。主人として仕える場合、仕えにくいのは小人物であって、仕え易いのは君子である。


【所感】
親しみ易いのはかえって小人物であり、なれにくいのは立派な人物である。主人として仕え難いのは小人物であり、仕え易いのは立派な人物である、と一斎先生は言います。


これについては『論語』や『荘子』に名言がありますので、紹介します。


先ず、『論語』為政第二篇から、


【原文
子曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。


【訳文】
先師が言われた。
「君子は、誰とでも公平に親しみ、ある特定の人とかたよって交わらない。小人は、かたよって交わり、誰とでも公平に親しく交わらない」(伊與田覺先生訳)


続いて『荘子』山木篇です。


【原文
君子の交わりは、淡きこと水の若く、小人の交わりは甘きこと醴の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故無くして以て合する者は、則ち故無くして以て離る。


【訳文】
君子の交際は水のように淡白だが永い間親しみ続け、小人の交際は甘酒のようにベタベタと甘ったるいがすぐに途絶える。理由なしに結ばれた者は、理由なしに離れるものである。


小生にも経験がありますが、それなりの人格者の方と懇意になるには、こちら側にもそれなりの人格が必要であり、簡単には懇意になれないものです。


誰とでも友達になれると豪語しているような人に限って、ひじょうに人格に問題があり、いつの間にか姿を消しているということも多々目にしてきました。


一見すると部下になるのは大変そうだと思えるような人物こそが、真のリーダーであり、そうした人の下に仕えると自分の人格も磨かれていきます。


逆にいえば、一見すると部下にもつのが面倒そうな人こそが、真のフォロワーであり、そういう人を部下にもつと、リーダーの人間力も磨かれるということでしょう。


付き合い易い人とだけお付き合いをするというスタンスでは、人間として成長できません。


進んで「狎れ難き者」と接触することを意識しましょう。


勿論、プライベートにおいてはその限りではないことは言うまでもありません。

第958日

【原文】
事理を説くは、固より人をして了解せしめんと欲すればなり。故に我れは宜しく先ず之を略説し、渠(かれ)をして思うて之を得しむべし。然らずして、我れ之を詳悉(しょうしつ)するに過ぎなば、則ち渠思いを致さず。卻って深意を得ざらん。


【訳文】
物事の道理を説明するのは、もとより、人にその道理をよく理解させようとするためであるからして、自分はまずその事について大体を説明し、相手の人によく考えて会得させるようにするのがよろしい。そうせずに、自分があまり詳しく説明し過ぎると、相手の人は十分に思いをこらすことをしなくなるものである。これでは、かえってその深い意味を会得できないであろう。


【所感】
ものの道理を説くのは、人にその道理を理解させようと望むからである。それゆえに、私はまず概略を説明し、その人に自ら考える機会を与えるべきだと考える。そうではなくて、詳しく説明をしてしまうと、その人は自ら考えることをしなくなり、その結果、深く自得することができなくなってしまう、と一斎先生は言います。


とても理解しやすいアドバイスです。


多くのリーダーは、メンバーに指示や説明をする際に、度を越えて指示や説明をしてしまいがちです。


もちろん、なんとか理解してもらおうとの善意から出た行動とはいえ、結果は指示待ち族を生むことになりかねません。


孔子の弟子への教育スタイルは、つねにきっかけを与えて、自ら考え行動させることを基本としています。


これを一般に「開発教授」と呼びます。


一例を挙げてみましょう。


あるとき弟子の子貢が孔子に、子張と子夏とではどちらが優秀かを尋ねます。(子貢は人物評価が大好きなお弟子さんです) 


孔子は、その質問には直接には答えず、こう言います。


「子張はちょっとやり過ぎで、子夏は抑えすぎだな。」


そこで、子貢は自ら考えて結論を出します。


「では、やはり少しやり過ぎくらいの子張の方が優秀だということですね?」 


孔子はそれに対してこう答えます。


「いや、やり過ぎも足りないのもどちらも同じだよ。適切なバランスを保つことができる人間が優秀なのだよ」 


有名な、


過ぎたるは猶及ばざるが如し  


という至言です。


実は、孔子は最初の発言をしたとき、子貢が自分自身と同じ傾向のある子張を上とみることをあらかじめ予想していたのです。


そこで、まず子貢に自ら考え、答えさせた後に、結論を述べました。


いきなり答えを言うより、このようにまず考えさせてから答えを与える方が、子貢にとってははるかに大きな学びとなったことでしょう。


リーダーにとっては、メンバーを育成する際、すぐに答えや解決策を与えてしまう方がはるかに時間も労力も掛かりません。


しかし、それを惜しめば、メンバーは育たず、いつしか指示待ち族へと化してしまうでしょう。


こうなれば、いつまでたってもリーダーが孤軍奮闘する組織から脱却できません。


魚を与えるのではなく、魚釣りを教えろ 


という教訓にもあるように、自ら考え動く人を育てるには、詳しく説明することは弊害でしかないのです。

第957日

【原文】
火は親しむ可くして狎る可からず。水は愛す可くして溺る可からず。妻妾を待つには、宜しく是の如き看を著(つ)くべし。


【訳文】
火は親しむことはよいけれど、なれて禍を起すようなことがあってはいけない。また、水は愛するのはよいけれど、溺れるようなことがあってはいけない。妻や妾に対するにはこのような観点を十分身につけていくべきである。


【所感】
火に親しむのは良いが、なれ過ぎてはいけない。水をこよなく愛するのはよいが、溺愛してはいけない。妻や妾に応対する際にも、この観点を身につけないといけない、と一斎先生は言います。 


昨日に続き、夫婦論です。



この章句を読んですぐに頭に思い浮かんだのが、支那の古代王朝である夏(か)王朝最後の王である桀王(けつおう)と殷(商)王朝最後の王である紂王(ちゅうおう)です。


後世、「夏桀殷紂」(かけついんちゅう)と呼ばれて、暴君の代名詞となった二人の王様です。


夏の桀王は、末喜(まっき)という美しい妻に溺れ、政治を省みなくなり、肉山脯林(にくざんほりん)と呼ばれる肉を山のように盛る豪華な宴会を催し、国力を衰えさせました。その結果、殷の湯王に敗れて国を失っています。


紂王は、愛妾の妲己(だっき)に溺れ、酒池肉林と呼ばれた盛大な 宴会を日夜開いては乱交にふけり、箕子(きし)と比干(ひかん)という忠臣の諫言を退け、結果的に周の武王に敗れて、殷王朝を終わらせました。


この二王に限らず、古来、妻や妾に溺れて国力を弱めたトップは枚挙に暇がありません。


昨日の「夫婦の別」という言葉のとおり、夫と妻には明確な各々の役割があります。


愛することは良いことですが、愛し過ぎて家を滅ぼすようなことは避けねばならないのは、今も昔も同じでしょう。


幸い、我が家はその心配はなさそうですが。。。
プロフィール

れみれみ