一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年10月

第992日

【原文】
藝能有る者は多く勝心有り、又驕心(きょうしん)有り。其の藝能有りて而も謙にして且つ遜なる者は、藝の最も秀でたる者なり。勝の反は謙と為り、驕の反は遜と為る。藝能も亦心学に外ならず。


【訳文】
芸能のある人は、たいてい勝気であり、また人におごりたかぶる心がある。芸能があって、その上に謙遜(へりくだり、ゆずる)は人は、芸において最も秀れた人である。勝(まさる)の反対が謙(へりくだる)であり、驕(おごる)の反対が遜(ゆずる)である。このように考えると、芸能もまた心を修養する学問に外ならない。


【所感】
技芸のある人の多くは他人に勝りたいという気持ちが強く、また驕りの心を有していることが多い。技芸がありながら謙虚で謙遜である人というのは、一流の芸人である。勝の反対が謙であり、驕の反対が遜である。つまり、技芸そのものも心の学問に外ならないのだ、と一斎先生は言います。


技術や芸を磨く人がライバルに勝ちたいと思い、実際に勝をおさめると驕りの気持ちが出るというのはよくわかります。


しかし、こういう気持ちが湧くということは、その鍛錬が自己のため、私欲を満たすための鍛錬に過ぎないということかも知れません。


いわば三流芸人のレベルはこういうものでしょう。


しかし、鍛錬を積み一流の域に達した人は、昨日も記載したように、天の妙配を感じて感謝の気持ちを懐くようになります。


つまり、謙虚になるのです。


謙虚になると私欲がなくなります。


私欲がなくなると、無駄な力が抜けて、真の実力を発揮できるようになるはずです。


結局、勝敗を決するキーは、平常心にあります。


心が技術を超えない限り、技術は活かされないのです。

第991日

【原文】
藝能の熟するや、之を動かすに天を以てす。妙は才不才の外に在り。


【訳文】
芸能が円熟して名人の域に達すると、それを動かすものは天であるといえる。名人の妙技というものは、才とか不才とかいうものを超越している。


【所感】
技芸の能力が円熟の域に達すると、その技能の働きは天によるようになる。妙技というのは、才能と不才といったことの外にあるものだ、と一斎先生は言います。


スポーツにしても、芸術にしても、それを極めた達人は必ずといって良いほど感謝の言葉を口にします。


それはおそらく、何か見えない力によって自分が導かれていることを感じるからではないでしょうか?


人は誰しも天命をもって生まれてくると言います。


プロスポーツ選手や芸術家は、若くして天命を見つけることができた人なのでしょう。


天命を果たすために一所懸命に鍛錬を積むと、天の救いや導きを受けることができるのです。


ところが小生のような凡人は、天命が定まっていないために、迷い、時に天を逆恨みすることとなります。


たとえ天命が定まらぬとも、目の前の仕事に最善を尽くせば、いつかは天命に巡り会えるはずです。


天命を知らないのは、知るための努力が足りないのだ。


そう考え、自分を信じて、自分にできることを愚直に続けていきます。

第990日

【原文】
人、智略有る者、或いは藝無く、藝有る者、或いは智略無し。智略は心に在りて藝能は身に在り。之を兼ぬる者は少なし。


【訳文】
優れた計画を持っている人には芸の能力が乏しく、芸の能力のある人には才智ある計画が無い。智略というものは心にあるが、芸能は身体にある。この智略と芸能を兼ねる人は少ない。


【所感】
才智に富んだ謀をめぐらす人は意外と技芸がなく、技芸をもつ人は意外と謀をめぐらせることができない。智略は心に存するものだが、技芸は身体に存する。智略と芸の両方を有している人は少ないものだ、と一斎先生は言います。


ビジネスの基本として、PDCAのサイクルを回す、というものがあることは皆さんもご存じでしょう。


念のために、記載しておくと、


P(PLAN:計画) D(DO:実行) C(CHECK:検証) A(ACTION:改善策実施)
という4つの段階を何度も何度も継続していくことです。


これに関して、若い営業社員さん(新卒から5年生くらい)を見ていると、ふたつの傾向があります。


タイプA:物怖じせず、どんどん積極的にチャレンジするが、計画を立てて実行することが苦手なタイプ

タイプB:慎重に計画を立て過ぎて、行動に移すのが苦手なタイプ 


営業の世界で実績を上げるのは、どちらかといえばタイプAです。


小生は研修やOJTの場面で、若い営業マンには、


DCAでも構わないから、行動することを重視して、多くのミスをし、そこから学べばよい 


と伝えます。


行動を通して経験を蓄積することで、計画や準備をする必要性に自然に気づくはずだ、という考え方です。 


この章でいえば、まずは芸を磨き、その経験を通して智略を磨くというスタンスでしょうか。


理想的な仕事のステップは、


夢を持つ → 心を磨く → 技を磨く 


となることは重々承知しています。


しかし、夢を持たないまま入社してくる若者が多い現代においては、「夢を持て」という前に、「まず目の前にある仕事を通して技を磨け」と指導することは、けっして誤りではないと確信しています。


技芸を磨き続けて行けば、中堅社員と為る頃には智略も身につき、将来リーダーとなった際に、しっかりとPDCAのサイクルを回すことができるようになるはずです。

第989日

【原文】
徳有る者は寡言なり。寡言な者は未だ必ずしも徳有らず。才有る者は多言なり。多言の者は未だ必ずしも才有らず。


【訳文】
徳を具えている人は言葉数が少ない。口数の少ない人は徳が有るとはいえない。才智のある人は言葉数が多いが、口数の多い人は才智が有るとは限っていない。


【所感】
徳のある人は寡黙である。しかし、寡黙な人が必ず徳があるとは限らない。才能のある人は口数が多い。しかし、口数が多い人が必ずしも才能があるとは限らない、と一斎先生は言います。


第412日でも記載しましたが、徳と才に関しては、伊與田覺先生が下記のように述べられており、勉強になります。


人間には「徳」と「才」の両方が大切でありますが、才よりも徳の優れた人を君子といい、徳よりも才のほうが優れている人を小人というのです。
 
また、自分よりも他人を大切にする人を君子といい、自分を中心に動く人を小人といいます。

さらに、「徳」も「才」も両方ともに優れておりながら、なお「徳」のほうが「才」よりも優れている人は「大人」・「人物」という。「賢」 というのもこれにあたります。

同じく「徳」も「才」も優れているけれど、「才」のほうが「徳」よりもな お優れている人を「人才(人材)」というのです。

逆に「才」も「徳」も少ないけれども、「徳」のほうがちょっと優れている人を「賢」に対して「愚」というんです。(『己を治め人を治める道』より)


さしづめ、小生はよくて「愚」といったところです。


人間学を学ぶ人は、当然、君子となることを目指します。


したがって、口数は少なく、必要な時に適宜言葉を発することを意識しなければなりません。


そして、意識しなくても、言葉を少なくし、かつ必要な時にはしっかりと言葉を発することができるようになれば、君子に近づいたと言えるのでしょう。


言葉より先に優しさが心に響くような爺やを目指します。

第988日

【原文】
凡そ剛強の者は与し易く、柔軟の者は怕る可し。質素の者は永存し、華飾の者は剝落す。人の物と皆然り。


【訳文】
大体、気性の堅くて強い人は仲間に入れ易いが、気性の柔弱な人は恐るべきである。飾らない質朴な人は永続きするが、華やかに飾り立てた人ははげ易い。人についても物についても総てこの通りである。


【所感】
概ね、気性が勇猛で強い人は与し易いが、気性の柔軟な人は恐るべきである。飾らない質朴な人は永く栄えるが、華やかに飾り立てた人は没落し易い。人にも物にも言えることだ、と一斎先生は言います。


前半部分は小生にも心当たりがあります。


気性が剛強な人は概して、竹を割ったような性格で、モノの良し悪しをシンプルに判断します。


ところが、性格の軟弱な人は、決断力に乏しいだけでなく、時にまさかといった裏切りをやってのけることがあります。


たとえば、従順なイエスマンを装っていた人物がリーダーに反旗を翻すというのは、古今東西によくある事例です。


後半部分は、質素倹約を旨としていれば、大きな富は得られないかもしれないが、人生は安泰だ、ということでしょう。


人は急成長すると、どうしても驕りが出たり、今までと違う判断をしてしまい、坂道を転げ落ちてしまいがちです。


どんな人と付き合うべきかをよく考え、自らは質素倹約で過ごす。


これが人生を上手に生き抜く要諦なのでしょう。

第987日

【原文】
簡黙沈静は、君子固より宜しく然るべきなり。第(た)だ当に言うべくして言わずは木偶(もくぐう)と奚(なん)ぞ択ばん。故に君子時有りて、終日言いて口過(こうか)無く、言わざると同じ。要は心声の人を感ずるに在るのみ。


【訳文】
口数が少なくて落ちついて静かなことは、君子(立派な人)は勿論そうであるべきことである。ただ、言わなければならないのに言わないのは、木で作った人形と少しも違う所がない。それで、君子は、時には一日中しゃべっても失言することがない。失言がないことはまったく言わないのと同様である。要するに、心の声、すなわち真心から出る言葉が、人を感動させるのだ。


【所感】
口数が少なく沈着冷静であることは、君子であれば当然のことである。ただし、言うべきときに言わないのでは、木偶の坊となにも変わらない。よって、君子は然るべき時に一日中言葉を発したとしても失言はなく、無駄な言葉は一切発しない。要するに真心からの声は人の心を動かすということだ、と一斎先生は言います。


コミュニケーションは、伝える側がどう伝えたかではなく、受けとる側がどう受けとるかがすべてです。


本章の一斎先生の言葉には、コミュニケーションの要諦が書かれています。


1.言葉はなるべくシンプルに
2.相手が臨むタイミングを逃さない
3.私欲を挟まず公欲をもつ


言葉は釘と同じであり、一度打ち込んだ釘は抜いても釘穴が残るように、一度相手の心に刺さった言葉は訂正しても心の傷を残します。


だからこそ、君子と呼ばれる人は無暗に言葉を発することはせず、言うべきときだけ、見事に心に響く言葉を発するのでしょう。


相手が言葉を欲しているとき、本心から相手のことを思って発した言葉は、しっかりと伝わります。


しかし、そこに少しでも私欲があると、どれだけテクニックを弄しても伝わりません。


ありきたりではありますが、「世のため・人のため」すなわち公欲をもって言葉を発することが大切です。 


コミュニケーションが苦手だという人は、上記の3点のどこかに落ち度がないかを確認してみてはいかがでしょうか?

第986日

【原文】
「古の学者は己の為にす」と。故に其の言も亦固より己の為にし、又其の己に在る者を以て、之を人に語るのみ。之を強うるに非ず。今の立言者は之に反す。


【訳文】
『論語』に、孔子が「昔学問した人は、自分の修養のために学んだ」と言われた。それで、その言う所も、もとより自分の修養のためのものであったし、また自分が持っている考えを、ただ人に言うだけであった。そして、これを人に強いることはしなかった。これとは反対に、今の意見を述べ立てる人々は、昔の人のように自分の修養のためでもなく、人に知られんがために学問する人なのである。


【所感】
孔子は「古の学者は己の為にす」と言っている。したがって、古の学者が発した言葉もまた自分のためであり、自分自身の中にある考えを、他人に語ったのである。決して人に強いることはしなかった。今の発言者は、これと正反対のことをしている、と一斎先生は言います。


まずは、ここに取り上げた『論語』の言葉を掲載します。


【原文】
子曰わく、古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。(憲問第十四)


【訳文】
先師が言われた。
「昔の学んだ人は、自分の(修養)のためにしたが、今の学ぶ人は、人に知られたいためにしている」(伊與田覺先生訳)


学問とは、本来自分の修養のために行なうべきものであって、人に誇るためにするものではない、ということです。


そして、同じように、自分の発する言葉も自分のために発するのであって、他人を感化しようなどとは考えてはいけない、と一斎先生は言います。


たとえば、自分より優れた技術や知識を持つ人をみたら、妬みや羨みの言葉を発するのではなく、自分の勉強不足、鍛錬不足を嘆き、反省の弁を述べる。


また、自分より劣った人をみたら、嘲りや蔑みの言葉を発するのではなく、自分も同じように見られていないかを顧みて、気を引き締める言葉を発する。


常に、矢印を自分に向けて自己修養に励むということが、本当に学ぶ人の姿であるということです。


そして、こういう人が発する言葉は、人に影響を与えたいと願う人が発する言葉に比較して、はるかに相手の心に響くのでしょう。


選挙が終わり、女々しい議員の怨み節を聞いていると、心からこう思います。


どんな時も、何があっても、矢印を自分に向けられる人であらねばならない。



第985日

【原文】
多言の人は浮躁(ふそう)にして或いは人を枉(ま)ぐ。寡黙の人は測り難く、或いは人を探る。故に「其の言を察して其の色を観る」とは、交際の要なり。


【訳文】
言葉数の多い人は浮かれてさわがしく、時には人を傷つけることがある。口数の少ない人は容易に心中を推しはかることができず、時には人の心の中をひそかに窺おうとしている。それで、孔子が「達人は人の言葉をよく聞き分けて、その顔色を見抜く聡明さがある」と言われたことは、人との交際上極めて肝要なことである。


【所感】
口数の多い人はうわついた調子の人が多く、時には他人を傷つることがある。無口な人は心中を察し難く、時には他人の心中を伺い見ている。『論語』に「言を察して色を観る」とあるが、まさに交際の要諦である、と一斎先生は言います。


おしゃべり = 軽薄 

無口 = 重厚 


ということでしょうか? 


必ずしもそうではないと思いますが、そういう傾向があるというのは事実かも知れません。


まずは引用されている『論語』の章句を見ておきます。


【原文】
子張問う、士何如なれば斯れ之を達と謂うべき。子曰わく、何ぞや、爾の所謂達とは。子張對えて曰わく、邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰わく、是れ聞なり、達に非ざるなり。夫れ達なる者は質直にして義を好み、言を察して色を観、慮りて以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。夫れ聞なる者は、色に仁を取りて行は違い、之に居りて疑わず。邦に在りても必ず聞え、家にありても必ず聞ゆ。(顔淵第十二)


【訳文】
子游が士(役人)はどういうのを達人ということができましょうか」と尋ねた
先師が逆に尋ねられた。
「お前の達人とはどういうのかね」
子張がお答えした。
「国にあっても評判がよく、家にいても評判がよいということでございます」
先師が謂われた。
「これは聞人(ぶんじん:有名人)といい、達人とは言わないよ。
元来達人というのは、真正直で、正義を愛し、人の言葉を深く推察してその顔色を正しく観察し、よく考えて人にへりくだる。このようであれば、国にあっても必ず通達し、家にあっても必ず通達する。さて聞人と言うのは表面は仁者らしく見せかけながら、行が伴わない。しかも自分では、それでいて疑わず、所謂要領よくやるので、国にあっても必ず評判がよく、家にあっても必ず評判がよいというものだ。
(伊與田覺先生訳)


世間や社内の評判がよいだけでは、聞人(聞えの良い人)である。


達人と呼ばれる人となるためには、以下の資質を有してなければならないのだ、と孔子は言います。


正直である

正義を愛する

洞察力に優れる

他人を立てる 


相手を見てその人がどんな人かを判断するときは、言葉だけでなく、上記の4点をチェックすれば間違いがないでしょう。


そして、自分自身もこの4点をしっかりと身につけなければなりません。

第984日

【原文】
言語の道必ずしも多寡を問わず。只だ時中を要す。然る後、人其の言を厭わず。


【訳文】
言葉というものは、必ずしもその多いとか少ないとかということを問題にする必要はない。ただ、その言葉が時と場所において適切中正であることが大切である。そうであれば、聞く人は言葉の多いことを別にいやに思わない。


【所感】
コミュニケーションにおいては、言葉数が多いか少ないかはあまり関係ない。ただタイミングの問題である。ベストタイミングで伝えることができれば、人は素直に言葉を受け容れるものだ、と一斎先生は言います。


人との出会いが必然であるように、言葉との出会いもまた必然なのでしょう。


小生は、かつて部下指導で挫折した際、「最善観」という言葉に巡り合い、救われました。


最善観とは、我が身に起こるすべての出来事は自分にとって必然であると共に、最善であるという考え方です。


自業自得とはいえ、厳しい境遇に陥ったことは自分にとって必然で最善なのだ、と考えることで、過去を悔やむ気持ち振り切り、新たな一歩を踏み出すことができました。


そして、いま再び厳しい環境の中にありますが、今度は『管子』という古典を読んでいて、


閒(かん)を広(むなし)くせず  


という言葉に巡り合い、背中を押されました。


「たとえ閑職に追いやられても、その役職をおろそかにすべきではない(松本一男先生訳)」という意味の言葉です。


これは小生の卑近な例ですが、このようにほんの数語の短い言葉でも、人の心を動かし、人生を変えることがあります。


リーダーがメンバーにアドバイスを与える際にも、メンバーが答えを求めてもがき苦しむくらいになるまで手を貸さず、ここぞというタイミングで、心に響く短い言葉をかけてあげるという指導を心がけるべきでしょう。


いつでも安易にアドバイスを与えて、指導をしたつもりになっていては、かえってメンバーはリーダーを疎ましく思うことになってしまいます。

第983日

【原文】
人の言を聴くは、則ち多きを厭はざれ。賢・不肖となく、皆資益あり。自ら言うは、則ち多かるなかれ。多ければ、則ち口過あり、また或いは人を誤る。


【訳文】
人の言葉を聞くことは、いくら多く聞いてもいやがらない。話す人の賢・愚に関係なくみな自分のためになる。しかし、自分では余り多く言うてはいけない。とにかく、口数が多いと失言したり、また他人を誤って迷惑させることがある。


【所感】
人の言葉を聴く上では、なるべく多く聴くべきである。賢者と愚者といったことは関係なく、すべて自分にとって得るものがある。自分が話すときは、多く話すことを避けるべきである。多く話せば失言を生んだり、相手を困惑させることになる、と一斎先生は言います。


人の話しを聴くということは、忍耐力を必要とします。


特に、自分がよい印象をもっていない相手や、目下の人の話しを真剣に聴くというのは難しいものです。


しかし、ここで一斎先生が言われるように、そこから何かを得ようと積極的になれば、その時間を無駄にせず、有益な時間とすることができるのかも知れません。


我以外皆我師 


という言葉をもう一度胸に刻んでおきましょう。


また、昔から、


口は禍の元 


と言われます。


小生はいつも言葉が多すぎて、墓穴を掘ってきました。


確かに小生の周囲でも、徳の高い人というのは、概して無口です。


今から小生も、発言を日頃の80%程度まで抑えてみます。
プロフィール

れみれみ