一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年10月

第982日

【原文】
物遽(にわか)に視て以て奇と為す者、其の実皆未だ必ずしも奇ならず。視て尋常と為す者、卻って大いに奇なる者有り。察せざる可けんや。


【訳文】
物をあわてて見て、珍しく見えるものは、必ずしも珍しいものとは限らない。見て平凡なものとしているものに、かえって大変珍しいものがある。よく観察しなければいけない。


【所感】
物事には一見すると珍奇にみえることがあるが、実はそれらがすべて必ずしも珍奇だとは限らない。また見たところ平凡に見えるものが、かえって大変に珍奇である場合もある。よく観察することが重要である、と一斎先生は言います。


最初の印象と実際が違うということは間々あることです。


これは見る側の洞察力如何の問題だと言えるでしょう。


洞察力を磨くには、なんといっても経験を積むことです。


一昨日書いたように、実体験に読書などの疑似体験を加えて、物を見抜く洞察力を磨くべきです。


小生が師事する中村信仁さんから教えていただいたことに、2つのYESと2つのNOという話があります。


営業の世界では、お客様のYESとNOには以下のタイプがあるのです。


YES だから YES

NO だから NO 

YES だけど NO 

NO だけど YES 


実績を上げている営業人は、YESだけどNOのお客様をしっかりと見極め、的確なクロージングをかけます。


YESだからYESのお客様は誰でも受注できますので、結局売上の差はこのYESだけどNOのお客様をいかに取り込むかにかかってくる訳です。


一方、売上の不安定な営業マンというのは、NOだけどYESのお客様を一所懸命にYESにしようと努力をします。


これは無駄な努力です。


中村信仁さんは、


NOのお客様をYESにはできない 


と言います。


洞察力、観察力を磨くことで成果が変わってくるのは、営業の世界に限らないはずです。


読書 → 思索 → 実践 


のサイクルを回し続けるしかありません。

第981日

【原文】
人事を経歴するは、即ち是れ活書を読むなり。故に没字の老農も亦或いは自得の処有り。「先民言う有り、蒭蕘(すうじょう)に詢(はか)れ、と」、と。読書人之を軽蔑することを休(や)めよ。


【訳文】
人生の色々な事柄を経験して来ることは、活きた書物を読むようなものである。それで、字を知らない無学文盲な老農でも、どうかすると聖人の道を体得することがある。『詩経』に「昔の賢人は、草刈りやきこりのような者にも意見を聞けといっている」とある。読書する人は、この人事を経験することを軽蔑するようなことは止めなさい。


【所感】
人生において様々な経験を積むことは、活きた書物を読むようなものである。したがって文字が読めない老いた農夫も、もしかするとそれなりに道を体得しているかも知れない。『詩経』大雅に「先民言う有り、蒭蕘(すうじょう)に詢(はか)れ」、とある。読書をする知識人は体験を軽視してはならない、と一斎先生は言います。


この『詩経』の言葉の意味は、


古の賢人が言うように、草刈人やきこり(のように書を読まない人たち)にも意見を聞け 


という意味です。


営業の世界においては、体験から学ぶことの方が大きいものです。


あるデータによると、営業の世界でそれなりの成果を出せるようになるには、10年を要するとされています。


しかし、だからといって体験だけに頼るのは間違いです。


読書を通して、他人の体験を疑似体験することで、10年を8年へと短縮することができます。(もちろん個人差はあります)


国民教育者の故森信三先生は、こう言っています。


人生における深刻な経験は、読書以上に優れた心の養分と言えましょう。だが同時にここで注意を要することは、われわれの日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして、初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気付きがたいと言えましょう。


また、江戸の大儒、細井平洲先生の言葉に、


学思行相須(ま)って良と為す 


とあります。


学びと体験と思索のどれが欠けても、本当の学びにはならないということでしょう。

第980日

【原文】
妄念起る時、宜しく忠の字を以て之に克つべし。争心起る時、宜しく恕の字を以て之に克つべし。


【訳文】
みだりな邪念・妄想が起きてきた場合には、誠実・真心という意味の忠の字で抑えなければいけない。人と争いごとをするような心が起きてきた場合には、思いやりという意味の恕の字をもって抑えなければいけない。


【所感】
煩悩によって迷いが生じたときには、忠の字を思い出して、自分自身に打ち克つべきである。人と争う気持ちが生じたときは、恕の字を思い出して、その気もちに打ち克たねばならない、と一斎先生は言います。


昨日記載したように、忠とは自分に嘘をつかないこと、自分のやるべきことをやり抜くことです。


人は常に様々な煩悩に悩まされますが、そんなときこそ一意専心、目の前の仕事に全力を注ぐべきだ、ということでしょう。


また、人間の悪い癖は他人と自分を比べて優劣を気にかけることでしょう。


森信三先生の至言に、


一切の悩みは比較より生じる 


とあるとおり、比べる気持ちを懐くことが、争う気もちを引き起こします。


そんなときは、恕という言葉を思い出し、他人の良い点は素直に認める気もちを懐くことです。


どんな人にも長所と短所があります。


人間同士をある一点のみで優劣をつけるという発想こそが間違いです。


自分の目の前の仕事に全力を尽くし、人に思いやりを施す生き方を続けていくことが、仁者への道を歩むことになるのです。

第979日

【原文】
忠の字は宜しく己に責むべし。諸を人に責むること勿れ。恕の字は宜しく人に施すべし。諸を己に施すこと勿れ。


【訳文】
忠の字は誠実・真心という意味であるが、自分に対して忠であるかどうかを責めとがめることはよいが、これを人に責めとがめることはいけない。恕の字は「思いやる」とか「あわれむ」という意味であるが、これを人に対して施すことはよいが、自分に対してなすべきことではない。


【所感】
「忠」という文字は、己の誠を尽くすという意味で、これは自分を振り返るための言葉であり、他人に強要する言葉ではない。「恕」という文字は、己の心のごとく他人に接するという意味で、これは人に施すべきで、自分に対することをいう言葉ではない、と一斎先生は言います。


小生が『論語』を読んできて、最大の発見だと思っていることが、この「忠」という文字の解釈です。


忠という文字を分解すると、中と心に分かれます。


心の真ん中 = 真心という意味です。


つまり、忠とは、他人に忠誠を尽くすといった現代の解釈が正しいのではなく、むしろ己の誠を尽くす、自分のやるべきことをしっかりやる、ということを意味する言葉なのです。


もっと強く言えば、自分に嘘をつかないことだと捉えても良いでしょう。


一方、恕という字は、心と如に分かれます。


己の心の如く人に接する、という意味です。


まずは自分に嘘をつかず、自分の目の前のことに全力を尽くすからこそ、他人にも嘘をつかず、思いやりをもって接することができるのです。


ここが重要で、自分に厳しく、自分に嘘をつくこをしないような意志の強い人でなければ、本当の思いやりを発揮することはできない、ということなのです。


小生の『論語』の解釈としては、


忠 + 恕 = 仁 

忠 + 信 = 誠 


と捉えています。


仁を修得するにしても、誠を発揮するにしても、まず己に忠であることが先にあるのです。

第978日

【原文】
凡そ人は同を喜んで異を喜ばず。余は異を好んで同を好まず。何ぞや。同異は相背くが如しと雖も、而も其の相資する者は、必ず相背く者に在り。仮(たと)えば水火の如し。水は物を生じ火は物を滅す。水、物を生ぜざれば、則ち火も亦之を滅する能わず。火、物を滅せざれば、則ち水も亦之を生ずる能わず。故に水火相逮(およ)んで、而る後に万物の生生窮り無きなり。此の理知らざる可からず。


【訳文】
総て人は自分と性格や趣味の同じ人を喜び好んで、自分と異なった人を喜ばないが、自分は反対に自分と異なる人を好んで、自分と同じ人を好まない。それは何故であるか。それは自分との異同は相反するようであるが、互いに助け合うものは、必ず相反するものにある。たとえば、水と火のようなものである。水は物を生ぜしめ、火は物を消滅させる。もしも水が物を生ぜしめなければ、火もまた物を消滅させることはできない。火が物を消滅させなければ、水もまた物を生ぜしめることができない。それで、水と火とが相互に助け合って後、万物がつぎつぎと発生して窮りがない。この道理をよく知らなければいけない。


【所感】
だいたい人は価値観が同じ人との交際を喜んで、異なる人を喜ばない。しかし、私は価値観が異なる人との交際を好み、同じタイプの人を好まない。どうしてだろうか? 異なるということは一見相反することのようで、実は互いに得るところが大きい人というのは、必ずといっていいほど価値観の異なる人なのだ。たとえば水と火である。水は万物を生み、火は万物を滅却する。水が物を生じなければ、火は物を滅却できない。また、火が物を滅却しなければ、水はあらたに物を生じることができない。そのように、お互いに影響を与え合うからこそ、万物の生成に窮まりがないのである。この道理をよく理解しておかねばならない、と一斎先生は言います。


第976日と同趣旨のことばです。


特にビジネス上の組織においては、この考え方は極めて重要です。


独裁タイプのリーダーに限って、自分のブレインには同タイプの人間を配置します。


いわゆるYESマンです。


この場合、リーダーの目指す方向性が正しければ良いのですが、もしそれが世の中の趨勢から外れていた場合、誰も止めることができないまま、取り返しのつかないところまで行ってしまう可能性があります。


価値観を共有することは重要であっても、世の中に100%価値観が同じという人はいませんし、もちろんお客様においても同様です。


組織の中に多様な価値観を持つ人がいることで、提案する商品やシステムに関して、自分では決して気付けない観点を知ることができます。


『管子』という古典にこうあります。


それ天下を争う者は、必ずまず人を争う。


リーダーが組織のミッションを達成するためにまずやるべきことは人材の確保です。


その際は、バランスのよい人材配置、特に自分とは価値観の違う人を積極的に登用するべきなのです。

第977日

【原文】
生徒、詩文を作り、朋友に示して正を索(もと)むる、只だ改竄の多からざるを怕(おそ)る。人事に至りては、則ち人の規正を喜ばず。何ぞ其れ大小の不倫爾(しか)るや。「子路は告ぐるに、過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」とは、信(まこと)に是れ百世の師なり。


【訳文】
生徒が詩や文章を作って、これを友達に見せて訂正を求める場合には、ただ文章の字句を改める個所の多くないことを恐れる。しかるに、人間に関する事柄になると、正しく直してくれることを心よしとしないのは、なんとまあ事の大小の不釣合いなことであろう。孔子の弟子の子路が、他人が自分の過ちを告げてくれるのを心から喜んだというが、子路のような人は、誠に百世にわたって人の師となり手本となる立派な人である。


【所感】
生徒が詩や文章を作り、学友に添削を求める場合には、ただ字句を多く修正されることを不安に思うものだ。ところが人間に関わる事柄となると、それを戒め正すことを喜ばないのは、なんとも辻褄が合わない話ではないか。『孟子』には「「子路は告ぐるに、過ち有るを以てすれば則ち喜ぶ」とあるが、これはまさに三千年にわたって人の手本とすべきことではないか、と一斎先生は言います。


ここに取り上げた子路(孔子の愛した弟子)のエピソードは、子路ファンである小生の大好きなエピソードです。(これが『論語』に掲載されていないのが残念でなりません。)


【原文】
孟子曰く、子路は人之に告ぐるに、過有るを以てすれば、則ち喜ぶ。(公孫丑章句上)


【訳文】
孟子がいうに、「子路とう人は、他人が子路に『あなたは、こういう過ちをしていますよ。』と言って、過ちを忠告してくれることがるのを喜んだ。(内野熊一郎先生訳)


一本気で短気な一面のある子路は、『論語』の中ではなにかと孔子に注意をされる場面が多いのですが、しかし何度も『論語』を読み返してみると、そこには孔子の深い愛情を感じ取ることができます。


それは子路にこうした真面目な一面があることを、孔子が理解していたからでしょう。


小生が子路の大ファンである理由は、一本気で短気なところが自分の性格と似ていると感じているからなのですが、一方でこのように人のお手本となる一面を持っていることがもうひとつの理由です。


凡愚な小生は、五十を過ぎた今でも、他人から忠告を受けると素直に受け取ることができません。


相手がたとえ小生を非難する意図で小生の過ちを指摘してきたとしても、恬淡と受け入れる度量を持ちたいものです。


そして、孔子のように、六十にして耳順(したが)う、という境地にたどり着くことが今の目標です。


あと十年を切りましたが。。。

第976日

【原文】
人我に同じき者あらば、与(とも)に交る可し。而も其の益を受くること太だ多からず。我れに同じからざる者あらば、又与に交る可し。而も其の益は則ち尠(すくな)きに匪(あら)ず。「他山の石、似て玉を磨く可し」とは、即ち是なり。


【訳文】
性格や趣味などが自分と同じ人がいるが、このような人と交際するのはよい。しかも、そう大して益を受けることはない。自分と性格や趣味が異なった人がいるが、このような人とも交際するがよい。しかも、自分に益するところ少なくない。『詩経』に「他山の石のようなものでも、自分の玉(人格・知徳)を磨く助けともなる」とあるが、こういうことを言ったものである。


【所感】
自分と同じ趣味嗜好の人がいれば、交際するとよい。そうすればその交際から得るものは非常に多いはずである。自分と趣味嗜好が異なる人がいれば、やはりお付き合いをすべきである。その交際からも得るものは決して少なくない。『詩経』にある有名なことば「他山の石、似て玉を磨く可し」とは、それを言うのである、と一斎先生は言います。


自ら交際の幅を狭くしてしまう弊害を教えた言葉です。


むしろ、小生自身の体験からいえば、自分とは違うタイプの人との交際からの方が多くのことを学ぶことができると感じます。


小生は、相手が上司であっても自分の意見が違うと思えば、強く主張するタイプです。


当然、自分の組織のメンバーも、上司である小生に対してはそうすべきだと思っていました。


ところが、小生に意見をしてくれるメンバーは極めて稀であり、そのことを妻にポロッと愚痴ってしまったことがありました。


そのとき、妻に言われた言葉が、


「誰もがあなたみたいに言いたいことを言えるわけではない」


というものでした。


小生の妻もどちらかといえば、言いたいことを言えるタイプではありません。


改めて、自分とは違い、言いたいことを言いたくても言えない人もいることを学びました。


それ以来、組織のメンバーに対しても、「言いたいことはしっかり主張しなさい」と表では言い続けていますが、裏では「A君はそういうタイプではないな」と自分なりに分析して、日報などの非対面の手法を使って本音を聞き出す工夫をしています。


メンバーの中にはいろいろなタイプの人が存在します。


リーダーは、メンバーの中には自分とは異なるタイプの人がいることを肝に銘じ、その人から学ぶことが重要でしょう。


最後に有名な「他山の石」という言葉に触れておきます。


この言葉の出典は、『詩経』小雅にある「鶴鳴(かくめい)」という詩です。


その意味は、ご存知のように、


よその山から出たつまらない石でも、自分の玉を磨く砥石として役に立つ。
つまり、自分に関係のない出来事や他人の言行も、それを参考にすれば自分の修養の助けになるということ


です。

第975日

【原文】
人各々長ずる所有りて恰好の職掌有り。苟も其の才に当たらば、則ち棄つ可きの人無し。「牛溲(ぎゅうしゅう)・馬勃(ばぼつ)・敗鼓の皮」、最も妙諭なり。


【訳文】
人には各々その得意とする所があって、その人に適当な役目というものがある。かりにも、その役目がその人の才能に合っているならば、役に立たなくて棄てられる人などはいない。韓退之(かんたいし)が「良医は牛の小便、馬の糞、破れ太鼓の皮までも利用して、あます所無く薬にする」といっているが、これは誠にすぐれてたくみな譬喩(ひゆ)といえる。


【所感】
人にはそれぞれに長所があり、得意とする仕事がある。かりに適材を適所に配置できれば、捨てられる人材などはないはずである。韓愈がいう「牛溲(ぎゅうそう)・馬勃(ばぼつ)・敗鼓の皮」とは、見事なたとえ話で腹に落ちる、と一斎先生は言います。


出典は確認していませんが、韓愈の『進学解』のなかに、


【原文】
玉札(ぎょくさつ)・丹砂(たんさ)、赤箭(せきせん)・青芝(せいし)、牛溲・馬勃、敗鼓の皮、倶に収め並べ蓄え、用を待ちて遺すことなき者は、医師の良なり。 


【訳文】
玉札という粉薬、丹砂、赤箭という薬草、青芝という霊芝類、牛尿(という薬草)、馬勃というマグソタケ、破れた太鼓の皮などの一見不要なものを、すべて蓄えておき、必要に応じてすべてを余すことなく活用できる医者は名医といえる。


とあるそうです。


この世の中に不要な人材などいないということです。


成果が出ていないとすれば、それは適所に配置できていないからだ、と一斎先生は言っています。


第751日に記載した内容ですが、小生には苦い思い出があります。


今から15年ほど前、小生が前職で営業チームのナンバー2だった頃、そのチームに一人の新卒社員さんが配属されました。


彼は非常に名の知れた大学の法学部出身だったのですが、人間に興味がないのか、お客様のことを覚えることができなかったり、お客様の許可を得ずに器械を引き上げてクレームを起こしたり、自宅のマンションで小火騒ぎを起こすなど、トラブルメーカーでいわゆる問題児でした。(性格はいたって素直な青年でしたが)


そこで上司と相談し、彼には営業は無理だと判断し、配置換えを要望し受理されました。


その後彼は、営業部門のIT系を担当するシステム部門に配属され、なんとそこでメキメキと頭角を現し、今では部門の中心人物となっています。


彼がシステム部門で頭角を現し始めた頃、上司と小生は、営業本部長に呼ばれて「お前たちは人を見る目がないな」とチクリと言われたことを今でも覚えています。


伸び悩んでいる若者がいたら、まずはその持ち場で最善を尽くすように激励し、それでもうまくいかなかったら配置換えを考えてみる。


とにかく、今いるメンバーがベストメンバーであるという意識を忘れず、すべての人材に活躍できる場を与えることがリーダーの使命なのです。

第974日

【原文】
有りて無き者は人なり。無くて有る者も亦人なり。


【訳文】
人は多数おるけれども、おらないのは立派な人物である。しかし、おらないようであっておるのも立派な人物である。


【所感】
たくさんいるようで実際にはなかなかいないのが人材である。しかし、全くいないようでいて、実は近くにいるのもまた人材である、と一斎先生は言います。


これまで多くのリーダーに悩みを聞いてきましたが、必ず出てくる答えが、「優秀な人材がいない」というものです。


たしかに、組織の中で優秀な人材は、2割程度だとも言われます。


しかし、無いものねだりをしても何も改善しません。


私が大切にしている言葉のひとつに、


今いるメンバーがベストメンバー 


があります。


これはコンサルタントでビジネス書作家でもあり、最近はアドラー心理学関連の本を多数出版している小倉広さんの言葉です。


まだ伸びしろのある若手は、実践を積ませて育成し、ベテラン社員さんには得意な分野で活躍してもらうという意識でマネジメントをすれば、必ず現状を打開できるはずです。


そして、リーダーは自分自身の人を観る目を磨く必要もあります。


孔子もこう言っています。


【原文】
子曰わく、人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。(学而第一)


【訳文】
先師が言われた。
「人が自分を知ってくれなくても憂えないが、自分が人を知らないのを憂える」(伊與田覺先生訳)


人材がいないのではなく、見つけることができていないだけだ、と捉えて、まずは自分の部下や周りにいる人の良いところを探してみる必要がありそうです。

第973日

【原文】
余は年来多く人を視るに人各々気習有り。或いは地位を以てし、或いは土俗を以てし、或いは芸能、或いは家業皆同じからざる有り。余先ず其の気習を観て、輒(すなわ)ち其の何種の人たるかを卜するに大抵錯(あやま)らざるなり。唯だ非常の人は則ち竪に看(み)横に看れども、気習を著けず。罕(まれ)に斯の人を見る。蓋し人に加(まさ)る一等のみ。


【訳文】
自分はなが年多くの人について観察しているが、人には各々気質・習癖というものがある。それはその人の身分・地位から来るものもあり、またその人の土地の風俗から来るものもあり、またその芸術上の才能から来るものがあり、また家業から来るものがあったりして、みな同じではない。それで、自分はまずその人の気質・習癖を見るたびに、その人はどういう種類の人物であるかを判断してみると、ほとんど間違いがない。しかし、ただ傑出した大人物は、竪から見ても横から見ても、気質・習癖というものを身につけていない。ごく稀にこのような人を見るが、たいてい普通の人よりは一段と優れている人である。


【所感】
私はこれまでに多くの人を観てきたが、人それぞれに気質や習癖がある。ある人は地位や身分から出てくる気質や習癖があり、ある人は生まれた土地の風習、ある人は芸術的な才能、ある人は家業から出てくる気質や習癖をもっていて、みな同じではない。まずその人の気質や習癖をみて、その人がどういったタイプの人かを予測してみるが、大抵見誤ることはない。ただし、優れた人物はあらゆる角度から観察しても、気質や習癖をつかむことができない。稀にこういう人物に会うことがある。こういう人は人より頭一つ抜きん出ているといえよう、と一斎先生は言います。


『論語』為政第二篇に、孔子の人物鑑定法が書かれています。


【原文】
子曰わく、其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察(み)れば、人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。人焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。


【訳文】
先師が言われた。
「その人が何をしているのか、その人が何によって行っているのか、そしてその人がどこに安らぎを持っているのか。そういうことを観察すれば、人のねうちはわかるものだ。従って自分をかくそうと思っても、決してかくせるものではない」(伊與田覺先生訳)


本章で一斎先生が指摘しているのは、孔子の人物鑑定法の二番目にある「其の由る所を観」ということでしょう。


その人の発言や行動が何に立脚しているのかを探る上で、一斎先生は人間を5つのタイプに分類しています。 


① 地位や名誉に立脚するタイプ
② 生まれ育った環境に立脚するタイプ  
③ 資質と才能に立脚するタイプ  
④ 家業に立脚するタイプ


小生の場合はどうでしょうか? 


日頃、きれいごとを言っていても、実際には①もしくは、大した才能もないのに③のタイプに分類されそうです。


ところで、一斎先生が見抜けないという大人物については、小生も幾人かそうした方にお会いしています。


小生からみれば年齢で20以上も年配の大先輩には、いつもニコニコしており、日々を楽しまれている方が複数います。


しかし、こうした方々にお話しを伺ってみると、どの方も小生など及びもつかないような大変な苦労をしていています。


生きていくことは楽なことではありません。


苦労を乗り越え、人間力を修練していくことで、己を鍛え続けていくしかありません。
プロフィール

れみれみ