一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2017年12月

第1053日 賞すべきは諫臣

【原文】
群小人を役して以て大業を興す者は英主なり。衆君子を舎てて而して一身を亡す者は闇君なり。


【訳文】
多くの小人物を使って大事業を興す人は英明な君主であるが、これに対して、多くの立派な人物を用いずに身を亡した者は暗愚な君主である。


【所感】
たくさんの小人物に役割を与えて大事業を起す人は英明な君主といえる。たくさんの君子のことばに耳を貸すことなくその身を滅ぼすのは、無能な君主である、と一斎先生は言います。


優秀なリーダーは、人材不足を憂うことなく、今いるメンバーの特性を見事にとらえて結果を出します。


ところが、無能なリーダーに限って、結果が出ないことを景気や人材のせいにして、矢印を自分に向けません。


100%とは言いませんが、結果を負う責任はリーダーにあると考えるべきでしょう。


本当に人材が必要なら、自ら動いて適材を探せばいいのです。


じつは、我々が思っている以上に優秀な人材は近くにいるものです。


自分に堂々と意見をぶつけてくるような人材に対して、しっかりと耳を貸すのか、遠ざけるのかは、リーダーの器次第です。


いわゆる諫臣の扱いの問題でしょう。


かつて、徳川家康公は


唯、人に君たるもの、賞すべきは、諫臣なり 


と言ったとされています。


会社や組織はリーダーの私物ではありません。


自分にとっての損得ではなく、世の中の役に立つことがどうかを判断の基準におけば、リーダーが判断で誤ることはないでしょう。

第1052日 人の変化を正しく見抜く

【原文】
人事には、外変ぜずして内変ずる者之れ有り。名変ぜずして実変ずる者之れ有り。政に従う者は、宜しく名に因りて以て其の実を責め、外に就きて以て諸を内に求むべし。可なり。


【訳文】
人間社会における物事には、外見は別に変化がないけれども、内容は変化しているものがある。また、名目は変化してはいないけれども、実質が変化しているものがある。政治を担当する者は、名目によって実質がどうであるかを責めたり、または外見についてもその内容がどうであるかを調べるのがよい。


【所感】
世間のことは、外見は変わらないが内面が変化しているものがある。また名目は変わらないが、実質は変化しているものもある。政治を執る者は、名目を頼りにしつつその実質を把握し、外面だけでなく内面がどうなっているかをつかまなければならない、と一斎先生は言います。


外面と内面、名目と実質との違いをしっかりとつかんで、正しい判断をすべきという教えです。


しかし、これは言うは易し、行うは難しといえることでしょう。


あの孔子でさえ、時には判断を誤ることがあったと『史記』の仲尼弟子列伝に記載があります。


【原文】
澹臺滅明(たんだいめつめい)は武城(ぶじょう)の人。字は子羽(しう)。孔子よりも少(わか)きこと三十九歳。状貌(じょうぼう)甚だ悪(みにく)し。孔子に事へんと欲す。孔子以為(おもへ)らく材薄しと。既に已に業を受け、退きて行ひを修む。行くに徑(こみち)に由らず、公事に非ざれば卿大夫を見ず。南に遊びて江(こう)に至る。弟子三百人を従へ、取予去就(しゅよきょしゅう)を設く。名、諸侯に施く。孔子之を聞きて曰く、吾、言を以て人を取り、之を宰予(さいよ)に失す。貌を以て人を取り、之を子羽に失す、と。


【訳文】
澹台滅明は武城の人である。字は子羽という。孔子より三十九歳年少で、容貌がひじょうに醜くかった。彼は孔子に仕えようとしたが、孔子は才能に乏しいと評価した。彼は孔子より学問を習うと、退いて、修行に励んだ。歩く時は、近道を通らず、公務でなければ、上司に会わなかった。彼は南方の呉に行き、弟子三百人をひきつれ、出処進退を説き、諸侯の間で名声が高かった。孔子はそれを伝え聞くと言った。「私は、言葉で人を評価し、宰予で失敗した。貌で人を評価し、子羽で失敗した。」(論語普及会篇 論語講師用副読本より)


つまり、宰予(宰我)の言葉の巧みさを見誤って、彼を高く評価するという失敗を犯し、澹台滅明の外見だけで判断して、彼を評価しないという失敗を犯した、というのです。


弟子3,000人を抱えた孔子ですら、こうした過ちがあるのですから、一般の人においておや、というところです。


先日も記載しましたが、仁者と呼ばれるような本当に徳の高い人というのは、一見すると馬鹿にみえてしまうのです。


特にリーダーと呼ばれる人は、言葉より行動、外見より内面(志や使命感)に目をむけ、社内における人材登用や社外のパートナー選びを行わなければなりません。


その上で、もう一点、この章句から学ぶべきことは、変化を正しく捉えるということです。


かつて優秀だったメンバーも学び続けなければ、結果を出し続けることはできません。


また、かつては問題社員だった人材でも、心を入れ替えれば、必ず成長し、結果を出すことができます。


リーダーは、メンバーの昔のイメージに固執して、行動や心の変化を見誤ることがないようにすべきだ、と一斎先生は教えてくれます。

第1051日 人間臭い方が近づきやすい

【原文】
上官たる者は事物に於いて宜しく嗜好無かるべし。一たび嗜好を示さば、人必ず此(これ)を以て夤縁(いんえん)も亦厭わざるのみ。但だ、義を嗜み善を好むは、則ち人の夤縁も亦厭わざるのみ。


【訳文】
上役たる者は、物事について好みが無い方がよい。一度自分の好みを人に示したならば、部下達は必ずそれを縁にして寄りすがり栄達を求めようとするものである。ただ、正しいことや善いことを好む場合は、人が寄りすがって来てもかまわない。


【所感】
上司の立場にある人は、物事に関して好き嫌いがあってはいけない。ひとたび好みを示すと、部下はそれをつてにしてすり寄ってくる。ただし、正しいことを行い、善いことを好む場合は、人がすり寄ってきても構わない、と一斎先生は言います。


この教えはやや理解に苦しみます。


確かに、人の上に立つ人は無暗に自分の趣味嗜好を示さない方がよいのかも知れません。


しかし、趣味などに関して好き嫌いを示すことは、人間臭さだと受け容れてもらえる場合もあるでしょう。


もちろん、部下のえり好みといった部分に発揮されては困りますが。。。


むしろ、すり寄ってくる部下を見極める目を養うことを意識すべきではないでしょうか。


もちろん、一斎先生の言われるように、常に正しいこと、善いことを好むリーダーであるに越したことはないのでしょうが、小生は、かえってそういう人物には近づき難さを感じてしまいます。


たとえば、『論語』を読んでいると、孔子という人は、哀しい時には号泣し、世の中をすねて悪者に加担しようとするなど、とても人間臭さを感じます


小生は、そこに孔子の魅力を感じて、孔子を敬愛しています。


一方、弟子の顔回という人は、非の打ち所のない君子です。


しかし、どうも顔回には人間としての魅力を感じないのです。


もちろんこれは、小生の器の問題であることは承知の上ですが。。。

第1050日 民は知らしむべし?

【原文】
凡そ宰たる者、徒らに成法に拘泥して変通を知らざれば、則ち宰臣の用無し。時に古今有り、事に軽重有り。其の要は、守る所有って能く通じ、通ずる所有って能く守るに在り。是(これ)を之れ得たりと為す。


【訳文】
凡そ一国の宰相たる者は、いたずらに既成の法律にとらわれて、臨機応変にうまく処理することを知らなかったならば、宰相としての資格はない。時間的にも昔と今の違いがあり、事柄にも軽い重いの差がある。肝心なことは、既成の法律は固く守ってそれをよく運用し、運用しながらよく既成の法律を守っていくにある。このようなのを要領を得たものといえる。


【所感】
およそ宰相の地位にある人は、無暗に既存の法律の字句にとらわれて、臨機応変に法を適用することを理解しなければ、宰相としての用をなさない。時代的な違いがあれば、事に軽重もある。大事なことは、既存の法律を固く守りながら臨機応変に運用し、臨機応変に運用することで法律を守っていくというところにある。これを時宜を得る、というのである、と一斎先生は言います。


法の適用と解釈の問題です。


時代は変化し、それに応じて重要事項も推移するのは当然です。


その中で、法律を改正する必要性も当然生じてきますが、その前に解釈の幅を広げるという選択肢もあるということでしょう。


しかし、ここで忘れてはならないのは、法は誰のためにあるかということです。


現代では、主権在民とされ、当然法律も国民を守ることが主目的でなければなりません。


小生個人の私見としては、安倍内閣の進める憲法改正や集団的自衛権の政策には賛同していますが、やや性急な感を抱くのは事実です。


孔子は『論語』泰伯篇の中で、こう言っています。


【原文】
子曰わく、民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず。


【訳文】
先師が言われた。
「民は徳によって信頼させることはできるが、すべての民に真実を知らせることはむずかしい」(伊與田覺先生訳)


こうした点はもちろん加味しつつも、出来うる限りの説明を行い、少しでも民に知らせる義務と責任があるのもまた然りなのではないでしょうか?

第1049日 今、日本人は幸せなのか?

【原文】
漢土三代已後(いご)、封建変じて郡県と為る。是を以て其の治概ね久しきこと能わず。偶々(たまたま)晋史を読む。史臣謂う、「国の藩屛有るは猶お川を済(わた)るに舟楫(しゅうい)有るがごとし、安危成敗、義実に相資(そうし)す。藩屛式(も)って固くば、乱何を以て階を成さん」と。其の言是の如し。而も勢変ずる能わざる、独り西土のみならず、万国皆然り。邦人何ぞ其の大幸(だいこう)を忘れんや。


【訳文】
中国では夏・殷・周三代以後から封建制度が変って郡県制度になった。それで其の政治は大体久しく保つことができなかった。偶然『晋書』を読んだが、史官の言に「国に諸侯があるのは、あたかも川を渡るに舟が必要であるようなもので、安・危も成・敗も諸侯が相共に助け合っていくわけであって、諸侯の守護が堅固であれば、乱が起ることはあり得ない」とある。誠にその通りといえる。時の勢いで(封建制に)変ることができないのは、ただ独り中国だけではなく、世界の各国が皆そうであるが、わが国はまだ封建制度のままである。わが国民はこの大きな幸いを忘れてはいけない。


【所感】
支那においては、夏・殷・周の三代以後、封建制度が変化して郡県制度となった。それからは長らく治世を保つことがむずかしくなった。たまたま『晋書』を読んだが、史官の言葉に「国に諸侯があるのは、川を渡るのに舟が必要であるようなもので、平安か危機か、事が成るか敗れるかは封建の義に深くかかわっているのである。諸侯の守護が堅固であれば、どうして乱の兆しが生じようか」とある。誠にその通りであろう。それにもかかわらず情勢として封建制に変わることができないのは、ただ支那だけではなく、世界の各国が皆同様である。わが国民は(未だに封建制度が守られているという)この大きな幸いを忘れてはいけない、と一斎先生は言います。


この文章は時代を感じます。


確かに、江戸幕府が260年以上も続いた主要な要因のひとつに封建制度による厳格な身分制度があったことは事実でしょう。


ちょうど、みやざき中央新聞の最新号(2723号)には、武士道と江戸時代の泰平についての記載があり、あわせて読むと本章の理解に役立ち、勉強になります。


本来は武人である侍が為政者の側に立ち、文を究めたところに、江戸の泰平があったのでしょう。


実話かどうかは定かではありませんが、『徳川実紀』には家康が、


今までは馬上によりて天下を治めたけれども、今後は文によりて治める。


と言ったとされています。


厳格な封建制度に加えて、林羅山を登用して、儒学を文の中心としたところに家康の先見の明を感じて驚嘆します。


その後、日本は西欧列国に屈して開国し、それによって一見庶民は自由を得たかに感じますが、現代の日本の国民が江戸時代の庶民に比べて幸せだと誰が断言できるでしょうか?

第1048日 うれしい時には笑い、哀しい時には泣けばよい

【原文】
人或いは謂う、「人主は宜しく喜怒愛憎を露(あらわ)さざるべし」と。余は則ち謂う、「然らず。喜怒節に当たり、愛憎実を得れば、則ち一嚬(ひん)一咲(しょう)も亦仁政の在る所、徒らに外面を飾るは不可なり」と。


【訳文】
「人君たる者は喜・怒・愛・憎(にくむ)の感情を顔色にあらわさない方がよい」という人がある。しかし自分は「そうではない。喜・怒の感情を事のよろしきにかない、愛・憎の感情が実を得ていたならば、人君が顔をしかめたり笑ったりすることも、また仁慈のある政治が存在する所であって、むやみやたらに、外面を飾るのはよくない」と思っている。


【所感】
「人の上に立つ者は、喜・怒・愛・憎の感情を容易に表に出すべきではない」と人は言う。「そうではない。状況に応じて喜びや怒りの感情を表し、愛することや憎むことも実情に適っているならば、時には顔をしかめたり、笑ったりすることも仁なのであり、いつでも表情を飾ることを考えるのはよろしくない」と私は言いたい、と一斎先生は言います。


『論語』を勉強していると、仁者というのはどんなときでも感情を表に出さない人だと思い違いをしている人に出会います。


本当の仁者とは、ここで一斎先生が言うように、うれしい時には笑い、哀しい時には泣き、信頼できる人物を愛し、時には人を憎みます。


すべて、時宜を得た感情を表すことができる人こそ、真の仁者なのです。


『論語』里仁篇にこんな言葉があります。


【原文】
子曰わく、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を惡(にく)む。


【訳文】
先師が言われた。
「ただ仁者だけが、先入観なく、正しい人を愛し、正しく人を悪むことができる」(伊與田覺先生訳)


また、陽貨篇にもこうあります。


【原文】
子貢問うて曰わく、君子も亦惡むこと有りや。子曰わく、惡むこと有り。人の惡を稱(しょう)する者を惡む。下に居て上を訕(そし)る者を惡む。勇にして禮無き者を惡む。果敢にして塞がる者を惡む。


【訳文】
子貢が尋ねた。
「君子でもにくむことがありますか」
先師が答えられた。
「にくむことはあるよ。人の悪を人に吹聴するものをにくむ。下位にいて上位の者をけなす人をにくむ。勇気があって無作法な人をにくむ。そして思い切りがよくて道理(わけ)のわからない者をにくむよ」(伊與田覺先生訳)


このように孔子は、君子であっても人を憎むのだと言っています。


時宜を得た感情の露出はむしろ人間として当然だというのが、孔子の考え方なのです。


ところが、小生のような凡人ですと、人が嫌がるときに笑ったり、周囲の雰囲気を壊すような怒りを表してしまいます。


時宜を得た対応こそ君子(仁者)の態度であり、遠き目標ではありますが、常にそこを目指して精進せねばなりません。

第1047日 矢印は自分に向けよ

【原文】
人君たる者は、臣無きを患うること莫く、宜しく君無きを患うべし。即ち君徳なり。人臣たる者は、君無きを患うること莫く、宜しく臣無きを患うべし。即ち臣道なり。


【訳文】
人君たる者は、賢臣のおらないことを心配せずに、明君のおらないことを心配するがよい。これが人君の徳というものである。臣下たる者は、明君のおらないことを心配せずに、賢臣のおらないことを心配するがよい。これが臣下としての道である。


【所感】
人の上に立つ者は、優秀な部下がいないことを憂うのではなく、自分自身が明君でないことを憂うべきである。それが君主の徳である。また、部下として働く者は、立派な上司がいないことを憂うのではなく、自分自身が優秀な部下となっていないことを憂うべきである。それが部下としての道である、と一斎先生は言います。


つねに、矢印を他人に向けず、自分に向けよ、というメッセージです。


リーダーがつねに意識すべきは、今いるメンバーがベストメンバーであるということです。


つまり、結果がでないのはメンバーの責任ではなく、その責任はすべてリーダーにあるということです。


メンバーに責任を転嫁しているうちは、メンバーを入れ替えたところで結果は大して変わらないでしょう。


一方、部下の立場にある人も、組織の問題をリーダーの責任だと決めつけていては成長がありません。


先日も記載したように、リーダーの置かれた環境や心境を忖度して、自分のできるベストを尽くせるかどうかが重要です。


「忠」という言葉は、現在では忠誠心とイコールと捉えられていますが、本来は、自分のベストを尽くすことを意味しています。


ベストを尽くしていない人に限って、上長や組織に不平不満を漏らすのではないでしょうか?


結局、どんな状況にあろうとも、矢印を自分に向けられる人だけが結果を出し続けることができるのです。

第1046日 正しく叱るには

【原文】
人主は最も明威を要す。徳威惟れ威なれば則ち威なるも猛ならず。徳明惟れ明なれば則ち明なるも察ならず。


【訳文】
人君たる者は聡明と威厳がなければならない。徳の具わった威厳であれば、その威厳さは猛々しくはない。徳の具わった聡明であれば、その聡明さは苛察(かさつ)ではない。


【所感】
人の上に立つ者は、明哲で威厳がなければならない。徳のある威厳は人を恐れさせても猛々しくはなく、徳のある明哲さは明哲であっても苛察(細かい点まで厳しく詮索すること)ではない、と一斎先生は言います。


『書経』周書の呂刑篇にある文章が引用されています。


【原文】
徳は威にして惟れ威、徳は明にして惟れ明


【訳文】
(舜は)徳を以て治め、これに従いて人々は徳の威によって自然と畏れ、徳の明によって自然と明らかとなった。


リーダーになる人は、聡明さと共に良い意味での畏れを与える威厳を持つべきだという教えです。


威厳といっても、かつての小生のように恐怖でメンバーをコントロールするということではなく、いわば偉大なオーラを纏うという意味でしょう。


そうした威厳、ここでいう「徳威」を身につけるには、人間学を学び、人間力を高める以外に方法はないでしょう。


まちがってもメンバーに迎合するようなリーダーとなってはいけません。


先日、ハラスメントの研修を受ける機会があり、そこで講師の方がこう教えてくれました。


叱責 + 嫌がらせ = パワーハラスメント 


叱責する相手の行為について指摘するにとどめ、決して人格に触れないことがポイントだと言います。


したがって、相手本位で叱ることは必要不可欠なことであり、叱ることをやめてしまうとメンバーは、


やる気をなくす
成長機会を失う
仕事の価値観が低下する 


という常態となり、その結果として優秀な人材が流失する可能性が高まります。


ところで、実際問題として、ハラスメントは相手がどう受け取るかで100%決まってしまいます。


その研修以降、正しく叱るにはどうすれば良いのかとずっと考えてきたのですが、本章を読んで、その答えのひとつが見えました。


その答えとは、「徳威」を身につけることです。

第1045日 ポテンヒットはトップの責任

【原文】
人主は宜しく大体を統ぶべく、宰臣は宜しく国法を執るべし。文臣は教化を敷き、武臣は厲(はげ)まし、其の余小大の有司、各々其の職掌を守り、合して以て一体と為らば、則ち国治むるに足らず。


【訳文】
人君たる者は、国政の大体を掌握すれば宜しく、宰相(家老)たる者は国の法律を正しく執り行うがよい。文官の職にある者は国民を教え導いて善に進ませ、武官の職にある者は武士を励まして士気を鼓舞し、その他諸々の役人達は各々その職分を守り、君民上下一体となって事をなしていけば、国を治めることは容易である(国は自然と治まっていく)。


【所感】
君主は国政の大局を統治すべきであり、宰相は法律を正しく執行させることを旨とすべきである。また文官は民衆を教え導き、武官は武士を励まし、残りの各種役人はそれぞれ自分の職分を全うし、こうして互いに一致団結していれば、国を治めることはけっして難しくはない、と一斎先生は言います。


この章句はそのまま企業に置き換えることができそうです。


社長は会社の大局を把握し、役員は会社のルールを正しく実行させ、部課長は社員さんに適切な研修と教育を行い、営業マンを励まし、その他のマネージャーは自分の持ち場をしっかりと守ることで、一致団結できるならば、会社を発展させることは難しくない。


このように読み替えることができます。


ところが、小生が見てきたり、話を聞いた企業の中には、社長が細かいことにまでいちいち口を出したり、逆にミドルマネジメントに経営戦略を練らせたりと職分が乱れている会社が多いようです。


特に、マンジメント層が兼務をせざるを得ないような中小企業において顕著な傾向といえそうです。


職分を守るのは当然のことですが、ここで気をつけておくべきは、守備範囲を狭め過ぎることで、ポテンヒットが生まれないようにしておくことでしょう。


つまり、トップマネジメントとして心がけるべきは、各部門の職掌が少しずつ重なるように職務を割り当てることだと言えます。


各部門長がしっかりと自分の仕事を守っているのに、ポテンヒットが生まれる状況の責任は、トップマンジメントにあるということを理解しておきましょう。

第1044日 あなたは上司のことをどれだけ知っていますか?

【原文】
人君たる者は宜しく下情に通ずべきは固よりなり。人臣たる者も亦宜しく上情に通ずべし。不(しか)らざれば、諫諍(かんそう)も的ならず。


【訳文】
人君たる者は、下々の実情に通じなければならないことはもちろんであるが、君主に仕える臣下たる者も、上の事情に通ずるのがよい。そうでなければ、人君を諫める場合にも的外れとなってしまう。


【所感】
人の上に立つ者は、つねに部下の人たちの実情を把握しておくべきである。また、部下の人たちも上に立つ者の実情を理解しておく必要がある。そうでないと、上位者を諌める場合にも的を外してしまう恐れがある、と一斎先生は言います。


この章句はリーダー論として読んでも学ぶものがあります。


ただし、自分の組織のメンバーについては、知ることができる範囲でプライベートまで把握しておくべきだということは、すでに何度か記載してきました。


そこで今回はフォロワーシップについて考えてみます。


たしかに、上司は指示命令を下す人だとみている部下は、上司の実情を理解せずに、一方的に反感を抱いたり、不満をぶつけてしまうのではないでしょうか? 


トップマネジメントでない限り、リーダーも中間管理職であって、上司と部下との板ばさみになっているケースがほとんどでしょう。


そのとき、部下がたったひと言「リーダーも大変ですね。」という言葉を添えるだけで、諫言が取り入れられる可能性も格段に高まるのではないでしょうか? 


かく言う小生は、これがほとんどできておりませんでした。


直情型でストレートに自分の意見をぶつけてきた結果、諫言が取り入れられないどころか、煙たがられて遠ざけられてしまうことも度々ありました。


大いに反省すべき点です。


メンバーだけでなく、上司のプライベートや置かれた境遇などを理解することは、人間関係を円滑にし、その結果仕事を効率よく進めることができる秘訣なのでしょう。
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れみれみ