今日は、営業1課の西郷課長の送別会が開催されているようです。
「サイさん、今までお疲れ様でした。当社の歴史を知り尽くしたサイさんが会社を去るのは残念でもあり、不安でもあります」
「神坂君、ありがとう。創業メンバーの平社長と川井室長が居るし、相原会長だって当社の歴史を知り尽くしているんだから、その心配は要らないと思うよ」
「その点ではそうかもしれませんが、私は別の観点からサイさんがこの会社に残したものの大きさを感じています」
「佐藤部長、恐縮です。しかし、それはいったい何でしょうか?」
「有徳者が人の上に立つという社風が創られたのは、サイさんが当社に来たときからだと思います。サイさんが中途で入社された頃の当社は、まだ営業部門はみんな個人商店でした。そこに『人間力営業』を持ち込んだのがサイさんだったじゃないですか」
「それは、過分な評価ですよ」
「そうなんですか? それは知らなかったなぁ」と神坂課長。
「当時、『損得よりも善悪を優先する』という考え方を持っていた営業マンは誰も居なかったんじゃないかな。みんな、売上を伸ばすためには手段を選ばないようなところがあったんだ」
「雑賀が聞いたら、『それのどこがいけないんですか』とか言い出しそうです」と大累課長。
「ははは。そうかもね。でも、当時は皆、そういう考え方だったよ。『何を呑気なことを言ってるんだ』ってね」
「今では考えられないですね」と神坂課長。
「私も数字を上げることに悪戦苦闘しているときだったから、中途で入社したサイさんの言っていることがまったく理解できなかったんだ」
「じゃあ、佐藤部長も雑賀みたいな考え方だったということですか?」
大累課長が驚いています。
「そうだよ。しかし、サイさんは、それを言葉だけでなく実践していくんだ。次々と、我々がどうやっても落とせなかった大手の施設を切り崩していったんだ」
「すごいですねぇ、サイさん」
「神坂君、やめてよ。佐藤部長、もうその辺で・・・」
「でも、これは事実ですからね。サイさん、最後にそのあたりをみんなに語ってもらえませんか?」
西郷課長が最後の挨拶をする場面になりました。
「皆さん、今まで本当にお世話になりました。この会社に入って、皆さんと一緒に仕事ができたことは、私の人生の中で最高の宝物です」
西郷課長は目頭をハンカチで拭いました。
「さきほど、佐藤部長から最後に何かメッセージを送って欲しいと依頼をされました。ただの営業課長に過ぎない私が偉そうに言えることは何もないのですが、部長からの業務命令だと思って、ひとつだけ話をします」
「サイさん、よろしくお願いします」
神坂課長が声を掛けました。
「営業部の皆さん、売上を取るかお客様の満足を取るかで迷うことがあったら、必ず自分の心と静かに向き合ってください。秤やものさしは、モノの重さや長さを測ることはできても、自分の重さや長さは測れません。でも、人間の心だけは他人の気持ちを推し量れるだけでなく、自分の心の是非もしっかりと分別できるのです」
参加者一同、静まりかえっています。
「お客様に対してオーバースペックの商品を販売するような場合、仮にお客様を騙すことはできたとしても、自分の心を騙すことはできません。必ずうしろめたい気持ちになるはずです。そういう心の動揺は、結局はお客様に必ず伝わってしまうものです」
「(本当にそうだな)」
神坂課長は心の中でつぶやきます。
「自分の心ほど万能で完璧な相談役はいません。いつでも相談できるように、常に心をピカピカに磨いておいてください。料理人が一日の終わりに必ず包丁を研いで明日に備えるように!」
会場は盛大な拍手に包まれました。
ひとりごと
本来、心は万能の測定器であり、測れないものはないのだと一斎先生は言います。
ところが、人生を歩むうちに心が曇ってしまうと、通常の秤やものさしと同じように、自分自身を測れなくなってしまうのでしょう。
西郷課長が言うように、我々は一日の最後に心をピカピカに磨いておかなければなりません。
そのための手段が読書であることは、言うまでもないことでしょう。
【原文】
権は能く物を軽重すれども、而も自ら其の軽重を定むること能わず。度は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を度(はか)ること能わず。心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。是れ至霊たる所以なる歟(か)。〔『言志録』第11条〕
【訳】
秤(はかり)は物の重さをはかることができるが、自分の重さをはかることはできない。ものさしは物の長さをはかることができるが、自分の長さをはかることはできない。一方、人の心は他人の良し悪しを分別できる上に自分の心の是非をも分別することができる。これが心を最も霊妙なるものとする理由ではないか。