今日の神坂課長は仕事を終えて、佐藤部長と一緒に、「季節の料理 ちさと」で食事をしているようです。
「古典なんかを読んでいると、心に『誠』がなければならない、という表現をよく目にするんですよね。でも、心の『誠』って、どうやったら持てるようになるんですかね?」
「それは難しい問題だよね。ただ、一斎先生はヒントをくれているよ」
「おお、どんなヒントなんですか?」
「神坂君は石崎君や善久君を尊敬しているかい?」
「えっ、石崎と善久ですか? いやー、さすがにあんな若造たちを尊敬しているかと言われると・・・」
「実は、一斎先生はこんなことを言っているんだ。『他人を敬する気持ちがあれば、詰まらない考えは起きにくくなるものだが、心に誠があれば、そもそも詰まらない考え自体が生まれることもない』ってね」
「はぁ」
「つまり、誠を得るにはまず他人を敬するところから始めると良いということだと、私は理解しているんだよ」
「ああ、なるほど」
そのとき、ちさとママが料理を運んできたようです。
「はい。今日は郡上鮎が入ったので、まずはお刺身にしてみました。どうぞ」
「おお、郡上鮎ですか! 高級魚ですよね」
「関東あたりだと、一匹千円くらいで取引されると聞いたわ」
「鮎のお刺身は珍しいなぁ。では、早速。おおーっ、これは旨いですねぇ」
「たしかに、これは美味しい! ママの包丁裁きもお見事だね」
「ありがとうございます。ところで、神坂君」
「はい?」
「さっき佐藤さんが、後輩を尊敬しているかって聞いてたじゃない? それに関して私のバイブルに書いてあることを話してもいい?」
「ええ、もちろんです」
「私のバイブルには、他人に対して謙遜の態度をとるためには、何よりもまず自己というものが確立している事が大切だ、って書いてあるの」
「自己の確立ですか?」
「そう。確固とした自己がないと、目上の人に対しては慇懃で卑屈な態度になり易く、また目下の人に対しては傲慢になり易いんだって」
「ああ、たしかにそうかも知れません。ただ私の場合、目上の人に対しても傲慢だと言われてきましたが・・・」
「ははは。さすがは神坂君ね!」
「ママ、そこは褒めるところじゃないよ!」
「それでね。バイブルにはこう書かれているの。『傲慢は、外見上いかにも偉そうなのにもかかわらず、実は人間がお目出度い証拠であり、また卑屈とは、その外見のしおらしさにもかかわらず、実は人間のずるさの現れと言ってもよい』」
「そうかぁ。俺の傲慢さは、人間のおめでたさから来ているのか!」
「ママの話は参考になるね。神坂君は当社のスーパー営業マンではあるけど、今の営業2課の数字をひとりで作り上げることは不可能だよね?」
「もちろんです。メンバーひとり一人の力の総和ですから。そうか、そういう意味では、やっぱり石崎や善久にも感謝するだけでなく、敬意をもつ必要があるんですね」
「そう、まさに今は敬意を持つことを意識する時期なのかもね。でもね、そういう風に他人の良さを見つけて敬意を抱くようになると、いつしかそんな意識をしなくても、人を尊敬し、自らが謙虚になれるときがくるものだよ」
「なるほど、一斎先生はそれを言っているんですね」
「私はそう理解しているんだ」
「はい、お待たせしました。やっぱり郡上鮎は塩焼きが一番です。熱いうちに食べれば頭から全部食べられますよ!」
「キターッ、待ってました。やっぱり鮎は塩焼きが一番、頂きます! 旨い! 旨すぎる! 俺、ちさとママを尊敬するわ!!」
「ちょっとわざとらしいわね!」
「あっ、バレました? 心の底から敬意を持つって難しいんだなぁ」
ひとりごと
『誠』とはどうやって自分のものにすべきなのか?
これは、古典を読んでいると突き当たる疑問のひとつです。
それに対して、一斎先生はまず他人を敬するところから始めよと教えてくれます。
そして、物語の中でちさとママが話しているのは、森信三先生の言葉です。
森先生ほど、難しい言葉を具体的にわかりやすく、実践で使えるように落とし込んでくれる先生はいません。
なにはともあれ、周囲に敬意を抱くところからがスタートです。しょう。
【原文】
妄念を起さざるは是れ敬にして、妄念起らざるは是れ誠なり。〔『言志録』第154条〕
【意訳】
心に敬の念があればみだらな考えは起さなくなるが、誠があればそもそも心にみだらな考えが生まれることすらない。
【ビジネス的解釈】