「課長、この資料の数字、一桁間違っていませんか?」
営業2課の善久君が神坂課長のデスクに資料をもってやって来ました。
「え、そんなことはないだろう。あれっ、なんだこれ。これ俺が作った資料だっけ?」
「はい、神坂課長です」
「おかしいな。誰か数字をいじったんじゃないのか?」
と、言いながら顔をあげると、2課のメンバー皆さんがシラけた顔をしています。
「ははは。そんな顔をするなよ。そうだよ、私のミスです。皆さん、申し訳ない。善久、指摘してくれてありがとう」
「最初からそう言えば、恰好良いのになぁ」
石崎君が独り言を言ったようです。
「石崎さん、ご指摘のとおりです」
神坂課長が気持ち悪い笑顔で石崎君を見ています。
「やべぇ、聞こえてた!」
その日のお昼のことです。
神坂課長は大累課長とランチをとっているようです。
「そんなことがあってさ。素直に指摘を受け入れられない器の小ささを露呈してしまったよ」
「でも、最後は潔く認めたんだから、良いんじゃないですか」
「まあな。でもなんか後味が悪くてさ」
「そういえば、この前の読書会で、西郷さんがこんな話をしてくれました。孔子よりさらに昔の聖人に禹という人がいて、この人は人から善い言葉を聞くと心から感謝して深くお礼をしたそうです。そのしぐさはまったく自然だったそうです」
「なるほどな。でもさ、俺も善い話を聞いたときは素直に感謝できるんだけど・・・」
「その話には続きがあるんですよ。神坂さんも好きな子路の話です」
「おお、子路はいいね。あの愚直な真っ直ぐさは大好きだよ」
「その子路は、人から誤りを指摘されると喜んだそうですよ」
「そうなのか、凄いな。誤りを指摘されて、なんとか取り繕おうとしてしまった俺とは正反対だな。俺には子路ほどの真っ直ぐさはないということか。反省します!」
「しかし、その話にはまだ続きがあるんです。やはり孔子より前、先ほどの禹に帝位を継いだ舜という人は、相手が家来だろうと一般の庶民だろうと貧民であろうと、善いことをしていればすぐにそれを取り入れたんだそうです。とにかく庶民とともに善を行うことを最大の喜びとしていたらしいです」
「自分より身分の低い人の意見を素直に聞いて、それをすぐに実践するというのは、なかなか出来ることじゃないよな」
「そうですよね。雑賀は結構、全うなことも言うじゃないですか。だけど、あいつに言われると素直に受け取れない自分が居るんですよ」
「お前も俺と同じでかなりの小者だな」
「じゃあ、お二人のことをこれからコモノ・ブラザーズと呼んでもいいですか?」
「雑賀! お前、いつからそこに居たんだよ!」
「お二人より前から座っていましたよ。ほら、もう食べ終わっていますから」
「雑賀、お前は性格が悪いな。盗み聞きをしてたのか?」
「神坂さん、盗み聞きとは酷い言い方じゃないですか?」
「そうですよ、コモノ・ブラザーズのお二人は声がデカイから全部聞こえてくるんですよ」
「い、石崎! お前もそこに居たのか?」
「はい。雑賀さんと一緒に」
「俺たちがコモノ・ブラザーズなら、お前らはコソドロ・ブラザーズだな!」
ひとりごと
人の諫言を素直に聞くということは、小生のような小人にはなかなか難しいことです。
それどころか聖人舜は積極的に部下や庶民の善行を取り入れたといいます。
リーダーとしては、メンバーの善い事例を素直に取り入れるくらいの度量が必要なのでしょう。
そう考えると、小生はまだまだ修養が足りません。
そう考えると、小生はまだまだ修養が足りません。
【原文】
禹は善言を聞けば則ち拝す。中心感悦して、自然に能く此の如し。拝の字最も善く状(あらわ)せり。猶お膝の覚えずして屈すと言うが如し。〔『言志録』第194条〕
【意訳】
夏王朝を開いた聖人の禹は、善い言葉を聞くと、その人に深くお礼をしたという。真心から悦び感謝して、自然とそうした行為に至ったのであろう。「拝」という字はそのことをよく表現している。膝が自然と折れるというものである。
【ビジネス的解釈】
人から善い言葉を聞いたり、戒めの言葉を受けたときは、その人に対して深く感謝すべきである。自然と人に感謝できる人物になることは容易ではない。