今日の神坂課長は、営業部の佐藤部長、大累課長、新美課長と4人で営業部メンバーの評価会議を開催しているようです。
4人は、昼食を終えて、午後の部に入る前に雑談をしているようです。
「最近の若い奴は、ちょっと厳しくするとポキっと心が折れるし、優しくするとつけ上がるし、本当に面倒くさいですよね」
「ははは。神坂君、最近の若い奴に限らないような気がするけどね」
「そうですよ、褒めるとすぐに雲の上まで突き抜けるくらいに調子に乗る人は私の目の前にもいますから」
「なんだよ、大累。一応聞いておくが、それは俺のことか?」
「他に誰がいるんですか!」
「人の話をよく聞けよ。まあ、百歩譲って俺が調子に乗りやすい男だとしてもだ、少なくとも心が折れることはなかったぞ」
「ああ、たしかにそうですね。神坂さんの心を折る後輩が現れるのを期待しています」
「折られる前に折ってやる!」
「神坂さん、それはあきらかに違うと思いますよ」
新美課長が呆れています。
「でもね、確かに神坂君の言うとおりで、何事も偏りが生じるとうまく行かないものだよね。人間は弱い生き物だから、優しくされるとどうしてもその人を頼ってしまう。だから上司は常に部下に対して思いやりと厳しさの両面を持っている必要があるよね」
「メンバーが何かミスをしたときにも、ミスそのものを責めるのではなく、なぜミスをしたかを一緒に考えて、上司として足りなかった点を詫びる必要もあるのでしょうね」
「新美の言うとおりだな。ミスを責めすぎると心が折れて、ある日突然『会社を辞めます』なんて言ってくる奴もいるだろうからなぁ」
「我々リーダーはなるべく裏方に徹して、メンバーに手柄を取らせてやるべきだとは思いますが、それも度が過ぎると勘違いをさせてしまいますからね。『全部俺ひとりでやったんだ』な
んて後輩に自慢したり・・・」
「ははは。大累、それは雑賀のことだろう。たしかにあいつはそういうタイプだな。ウチでいうと石崎なんかは要注意だ」
「なんでもかんでも白黒をはっきりさせようとするのも注意が必要ですね。一方が正しいとなれば、他方は間違っていることになります。善の反対は悪ですから、自分が善だなんて思い上がると周りとうまく行かなくなりますよね」
「新美、それは清水のことを想定しているんだろう? たしかにそうだよなぁ。安易に『正義』なんて言葉を使うのは気をつけるべきだな」
「いま、君たちが話してくれたのは、儒学でいう『仁・義・礼・智』という4つの徳目の行き過ぎた活用方法だね。どんな素晴らしい徳目であっても、やはり相手の立場や心境をよく理解して使わないと良くない結果になることもあるということだ」
「部長、そのとおりですね。しかし、なかなか難しいですよね。相手なりの最善を尽くすというのは」
「大累君、そうだよね。いくら自分では最善を尽くしたつもりでも、相手に響かなければ自己満足になってしまう。だからこそ、常に我々は人間学を学び続けて、相手なりの最善とは何かを求めていかなければならないんだろうね」
「相手なりの最善か。たしかに私は、自分が良かれと思うことを信じて突き進んできました。それが間違いだとは思いませんが、時には立ち止まって、自己満足に陥っていないかを反省する必要がありそうです」
「神坂君が上手にまとめてくれたね。さあ、では後半の評価に入ろうか」
「はい」
ひとりごと
メンバーのためを思って指導したことが、こちらの意図とは違って伝わり反感を買うということはよくあることです。
小生などは、何度同じ失敗をしてきたことでしょう。
常に相手の現在の環境や心境を思いやり、最善のアドバイスを与えていくためには、まずリーダー自身に高い人間力が必要となります。
孔子が、『学ぶに如かず』と言ったのは、まさにこういうことなのでしょうね。
【原文】
惻隠の心偏すれば、民或いは愛に溺れて身を殞(おと)す者有り。羞悪の心偏すれば、民或いは自ら溝瀆(こうとく)に経(くび)るる者有り。辞譲の心偏すれば、民或いは奔亡(ほんぼう)して風狂する者有り。是非の心偏すれば、民或いは兄弟墻に鬩(せめ)ぎ、父子相訴うる者有り。凡そ情の偏するは、四端と雖も、遂に不善に陥る。故に学んで以て中和を致し、過不及無きに帰す。之を復性の学と謂う。〔『言志録』第225条〕
【意訳】
他者に強く同情する心が度を過ぎれば、民は愛に溺れてかえって身をダメにする者もあろう。悪を憎む心が度を過ぎれば、民は溝の中で首をくくる者もあろう。譲ってへりくだる心が過ぎば、奔走して狂人のようになるものもあろう。正しいことと間違っていることを判断する心が過ぎると、兄弟で争ったり、親子の間で訴訟を起こしたりする者もあろう。すべてあまりにも偏った心の持ちようでは、孟子が提唱した四端の心といえども、最後にはよくない結果をもたらすものだ。だからこそ、学問をして常に中和を保ち、過不及のない状態であらねばならない。これを人間本来の本性に復帰する学問というのだ、。
【ビジネス的解釈】
儒学で大切にすべき徳目である仁義礼智でさえ、それを極端に考えて活用すると、かえって良くない結果をもたらすこともある。なにごとも行き過ぎすることのない様に、また不足することもない様に、常に中和を保つことが重要である。社会人となっても勉強を続ける意味は、人間本来の心を取り戻すためにあるのだ。