一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2019年07月

第1631日 「正夢」 と 「精進」 についての一考察

シンガーソングライターの笠谷俊彦は夢を見た。

おそらく日本武道館だと思われる大きなホールで、スポットライトを一身に浴びて熱唱している自分自身の姿を。

笠谷は今まで一度もこんな夢を見たことはなかった。

たとえば、ステージに飛び出してみると、お客様がひとりもいないという夢や、発売したCDがまったく売れずに廃棄処分になる夢など、悪夢にうなされる方が多かった。

「和田さん、初めてだよ。自分が大観衆の前で歌っている姿が夢に出てきたのは」

「それだけ今が充実している証拠だろう。お前の中でなにかをつかみかけているんだろうな」

「そうなのかな? でも、毎日もがき苦しんではいるんだけどな。ふちさん(作詞家・ふちすえあき)が作ってくれた物語を聞く人の心のスクリーンに映し出すためのメロディを書くのは本当にしんどいよ」

「しかし、逃げ出したいとは思わないだろう?」

「それはそうだよ。なんとか良い曲を創りたいという気持ちしかない。俺と同じようにもがき苦しんでいる奴らを救えるかもしれないんだ。やるしかないだろう!」

「笠谷、その気持ちだよ」

「え?」

「お前に足りなかったのはその気持ちだ。今までのお前は自分のためだけに歌っていた。しかし今は、まだ出会っていない誰か、これからも直接出会うことはない誰かのために歌を創っている」

「たしかに、そうかも知れない」

「自分のために働くより、他人のために働くことの方が大きな達成感を得ることができるんだ。この国の中でもがき苦しんでいる誰かの背中を押す歌を歌おう、笠谷!」

「和田さん!」

「いい顔になってきたよ。充実した日々を過ごしている証拠だ。だから神様は、素敵な夢をみせてくれたんだ」

「そうだといいな」

「さあ、笠谷。夢を正夢にできるかどうかは、お前次第だ。絶対に妥協はするなよ!」

「わかっているさ!」


ひとりごと

当然といえば当然ですが、小生はここにあるような予知夢といったものを見たことはありません。

もし、一斎先生が言うように、心が澄んでわだかまりのない状態になれば予知夢を見ることができるのだとすれば、小生はまだまだ鍛錬が足りないということでしょう。 

自分のためでなく、誰かのため、世の中のために働く。

本心からそう思えたとき、人は予知夢を見ることができるのかも知れません!


【原文】
夜間形閉じて気内に専らなれば、則ち夢を成す。凡そ昼間為す所、皆以て象を現わすべし。止(た)だ周官の六夢のみならざるなり。前に説きし所の如きも、亦善妄に就きて、以て其の一端を挙げしのみ。必ずしも事象に拘(かかわ)らざるなり。然れども、天地は我と同一気にして、而も数理は則ち前定す。故に偶(たまたま)畿(き)の前に洩れて、以て兆朕(ちょうちん)に入る者有り。之を感夢と謂う。唯だ心清く胸虚なる者には、感夢多く、常人は或いは尠(すく)なきのみ。〔『言志後録』第252条〕

【意訳】
夜になると身体の活動が静まり、気が内に充満して夢となる。昼間はなすことがすべて形となる。ただ、『周礼』にある六夢だけがそうなのではない。以前にも書いたように、善念・悪念について、その一端を挙げたに過ぎない。必ずしも事象にこだわっているわけではない。しかしながら、天地と自分とは同一の気であって、天命はすでに定まったものである。それで、まれに天機が前に漏れて、その兆候が現われることがある。これを感夢といっている。心が清く胸中にわだかまりのない者は、感夢をみることが多いが、一般の人には少ないものだ

【所感】
心を磨き、日々を精一杯生き抜いていると、時には神のお告げと呼ばれるような予知夢を見ることがある。しかし、そのためには相当な努力が必要であり、単に神頼みをするようでは、予知夢を見ることは不可能である。


landmark_nihon_budoukan

第1630日 「夢の良し悪し」 と 「日々の過ごし方」 についての一考察

今日の神坂課長は仕事を終えて、佐藤部長と一緒に「季節の料理 ちさと」に来たようです。

「昨日、変な夢を見ましてね。ストーカーみたいな女にずっと追いかけられて、逃げまわる夢だったんです」

「神坂君、それってあなたの願望じゃないの?」

「ママ、誰がストーカーに追いかけられたいなんて願望を持つんだよ!!」

「そうじゃなくて、女性に追いかけられたいっていう下心がそういう悪夢を見させたんじゃないの?」

「なるほど・・・。って、違うわ!!」

「たしかに一斎先生は、夢というのは自分の心が見させるものだと言っているから、ママの言うこともあながち間違いではないんじゃないかな?」

「部長まで、勘弁してくださいよ」

「ははは。ごめん、ごめん。でもね、たとえば今日は良い一日だったと思って眠りについた日に悪い夢は見ないよね?」

「それはたしかにそうですね」

「何か不安だったり、不満があるときに、その気持ちを引きずったまま寝てしまうと、嫌な夢を見るものじゃないかな」

「やっぱり、神坂君。あなた、昨日何かあったんじゃないのー」

「なんだよ、ママ。その人を疑うような目つきは! 俺は潔白だ!!」

「そうやって強く否定するところが逆に怪しいなぁ」

「そういうママこそ、そんな風に考えるなんて欲求不満なんじゃないの?」

「それはそうよ、この年で独身なんだから!」

「おー、思い切り開き直りやがった!(笑)」

「まあ、いずれにしても、心穏やかな日々を過ごして、安心して眠りにつきたいよね」

「そうですねぇ。しかし、実際には毎日のようにトラブルやクレームもあるし、事故を起こす若造もいるしで、とても心穏やかには過ごせませんよ」

「そういう時こそ、心を鍛錬するときなんだよ。お互いに天から試されていると思って、鍛錬しよう!」

「そうですね」

「はい、では今日はこのレンズ豆と根菜のスープをどうぞ。レンズ豆には、安眠に欠かせない葉酸が豊富に含まれているのよ」

「レンズ豆? レンズみたいな形をしているの?」

「ははは。神坂君、逆だよ。最初に出来上がった凸レンズがこのレンズ豆の形に似ているところから、レンズと名前が付けられたんだよ」

「へぇー、それは知らなかった。いただきます!」


ひとりごと

夢は自分の心の鏡だということでしょうか? 

たしかに、気分良く眠れたときには悪い夢は見ないものです。

だからこそ、ユングなどの心理学では夢を分析することで、その人の思考の傾向や精神状態を把握できるのでしょう。

しかし、本当に良い仕事ができてぐっすり眠れたときには夢をみることがありません。

夢を見ることがない毎日が一番幸せだということでしょうか?


【原文】
一善念萌す時は、其の夜必ず安眠して夢無し。夢有れば、則ち或いは正人を見、或いは君父を見、或いは吉慶の事に値(あ)う。周官の正夢・喜夢の類の如し。又一妄念起る時は、其の夜必ず安眠せず。眠るとも亦雑夢多く、恍惚変幻、或いは小人を見、或いは婦女を見、或いは危難の事に値う。周官の畸夢・懼夢の類の如し。醒後に及びて自ら思察するに、夢中見る所の正人・君父は、即ち我が心なり。吉慶の事は、即ち我が心なり。皆善念結ぶ所の象なり。又其の見る所の小人・婦女も亦即ち我が心なり。危難の事も亦即ち我が心なり。皆妄念の結ぶ所の象なり。蓋し一念善妄の諸(これ)を夢寐(むび)に形わす、自ら反みざる可けんや。死生は昼夜の道なり。仏氏の地獄・天堂の権教を設くるも、亦恐らくは心の真妄を説くならん。此の夢覚と相彷彿たる無きを得んや。〔『言志後録』第251章〕

【意訳】
自分の心に善い思いが兆したときには、その夜は安眠でき夢を見ることもない。もし夢を見れば、そこには心の正しい人や君主や親を見るか、おめでたい夢を見る。これは『周礼』にある六夢の中の正夢や喜夢に当たる。また、心に悪い思いが兆したときには、安眠できない。眠りについても雑駁な夢を見て、うつろでぼんやりとしており、つまらない人や女性の夢を見たり、災難に遭遇した夢を見る。これは『周礼』にある六夢の中の(がくむ)や懼夢(くむ)に当たるだろう。目が覚めた後に思い返してみれば、夢に出てくる心の正しい人や君主や親は自分の心であり、おめでたいことも自分の心なのである。すべて善い思いから生じた現象である。また夢に出てくるつまらない人や女性、あるいは災難もまた自分の心である。すべて悪い思いが生み出した現象である。このように自分の心に生じた善い思いや悪い思いが夢に現れるのであるから、大いに反省しなければならない。死と生は、昼と夜のようなものである。仏教において地獄や天国の教理を設けているのも、恐らくは心の善と悪を説いているのであろう。これはきっと夢の世界と同じようなものではないだろうか

【所感】
善い出来事も悪い出来事も、自分の心が創り出すものである。つねに我が心を磨き、日々良い夢をみて、爽快な朝を迎えたいものだ。


akumu

第1629日 「良き慣習」 と 「悪しき慣習」 についての一考察

今日の神坂課長は、善久君とランチを食べ終えて会社に戻るところのようです。

「課長、ごちそうさまでした。久し振りに鰻を食べました」

「お前もいろいろあったからな。鰻で元気を取り戻してもらおうと思っただけだ。おっ、あれは霊柩車だよな。親指を隠さないと!」

「課長、そんなの古い迷信じゃないですか?」

「いや、わからんぞ。お前も御両親とも健在なんだろう。ちゃんと親指を隠して置けよ」

「私はそういうのを信じませんから」

「古い迷信で思い出したけど、朝礼時に皆で声を合わせて唱和することを復活させたいと考えているんだ」

「うわー、それこそ古い慣習で、時代遅れじゃないですか!」

「古い慣習には、『古き良き慣習』と『古き悪しき慣習』がある。朝の唱和は、皆の心をひとつにするという意味でとても意義深いと思っているんだ」

「何を唱和するんですか?」

「営業マンの心得みたいなものがいいだろうな。俺が入社した頃は、毎朝やっていたんだぞ」

「そうなんですか!」

「『私たちは営業のプロである~』みたいな内容だったな」

「意味があるんですかね?」

「お前みたいにすぐ迷いが生じる奴には、営業マンの心得を毎朝唱和することはとても重要だぞ。判断を迷ったときに、その言葉が頭に浮かんで背中を押してくれるはずだからな」

「なるほどなぁ」

「しかし、よろしくない慣習はスパッと無くしていくことも必要だろうな。たとえば会議資料を何でもかんでも紙に印刷するなんていうのは、考えものだよな。連絡事項なら各自PCで確認すれば良いことだからな」

「それはそうですね」

「それから、今日みたいに後輩が弱っているときに先輩が飯を奢るというのも悪しき習慣だよな。金がいくらあっても足りないよ」

「それは『古き良き習慣』ですけど、私が上司になる頃にはなくなるといいですね」

「お前が人の上に立つ頃には、間違いなくそうなっているさ。でもな、無くなるのはそれだけじゃないぞ。老後の年金も崩壊しているかも知れないからな」

「それは残っていて欲しいなぁ!」


ひとりごと

皆さんの会社でも「昔からやっている」という理由だけで続けている無意味な慣習がありませんか?

逆に良い慣習であったのに、時代の流れでやめてしまった慣習はないですか?

慣習はある意味で企業の風土をつくる大切なものです。

よく吟味して仕分けをし、良い慣習については継続させましょう。


【原文】
邦俗には途(みち)にて柩(きゅう)に遇う時、貴人は則ち輿夫(よふ )輿(こし)を擡(もた)げて走行し、徒行者は則ち左右に顧みて唾す。太だ謂れ無きなり。宜しく旁(かたわら)に辟け、佇立(ちょりつ)して少しく俯すべし。是れ喪を哀れんで貌(かたち)を変ずるなり。又途にて縲絏(るいせつ)者に遇えば、則ち宜しく亦旁(かたわら)に辟けて、正視すること勿れ。是れ罪を悪めども而も人を恤(あわれ)むなり。瞽者(こしゃ)は則ち宜しく我れ路を辟けて傔僕(けんぼく)をして喝せしむる勿るべし。是れ仁者の用心なり。然れども、貴人に在りては、儀衛趨従(すうじゅう)を具すれば、則ち行路自ら常法有り。必ずしも是(かく)の如きを得ず。但だ宜しく従者をして此の意を体知せしむべし。柩若しくは罪人に遇いて、輿を擡げて疾走するが如きに至りては、則ち之を繳(しゃく)せしめて可なり。〔『言志後録』第250章〕

【意訳】
わが国では、道の途中で柩に出遭ったとき、高貴な人は車を担ぐ人夫が車を持ち上げて走行し、歩行者は左右をみて唾を吐くことになっている。これは意味のないことである。道端に避けて立ち、すこし頭を下げればよい。これは死者を追悼して態度を改めるのである。また道の途中で罪人に出遭ったときは、道端に避けて、直視することを避けるべきである。これは罪を憎んでその人を哀れむからである。盲人の場合は道を避けて、使いの者に大声を出させないようにする。これは思いやりのある人の心遣いである。しかし高貴な人の場合は、護衛の武士を連れているので、路を行くにもきまった仕来りがあろう。必ずしも上に挙げたようなことを行う必要はない。ただ従者にその意味を理解させるべきである。柩や罪人に出遭って、車を持ち上げて走るなどという行為は、控えさせるべきである

【一日一斎物語的解釈】
社内にある古くからの慣習については、その妥当性をよく吟味し、不要なもの、もしくは時代錯誤のものがあれば正していくべきである。


osouhiski_reikyusya

第1628日 「長所7」 と 「短所3」 についての一考察

神坂課長と大累課長は久しぶりに二次会に流れ込んだようです。

「ひっく(しゃっくりしながら)。だいたい雑賀のやつ、俺を上司だと思ってないんじゃないかと思うんですよ」
大累課長はだいぶろれつが回らなくなっています。

「さっきから雑賀の欠点ばかりをあげつらっているけどさ、あいつにだって良いところはあるだろう」
神坂課長の目もすわっています。

「まあ、なくはないですけどね」

「わかった、じゃあ、お前自身の欠点を7つあげてみろよ」

「7つもないですよ!」

「あるわ、いくらでも!」

「なんだと、カミサマ! 今のは納得いかないな」

「ほらみろ、すぐに酒に飲まれること、先輩を先輩と思わず暴言を吐くこと。これもお前の欠点だ」

「神坂さんの欠点もたくさんありますよ。すぐに手を出すこと、後輩をバカにすること、ケチなこと」

「ケチ? それは聞きづてならないな。お前にはそこそこ奢ってるはずだぞ」

「そうですかね?」

「ははは、やっぱり他人の欠点は見つけやすいな。それに引き換え自分のこととなると全然自己分析ができてない」

「確かにそうですね(笑)」

「まずは、メンバーに敬意を払う意味でも、10のうち7つくらいは長所をあげるようにした方が良さそうだな」

「そうですね。神坂さんの良いところは、切り替えの早いところだな」

「お前の良いところは、そういう素直さだ」

「後輩や部下に対する熱意もすごいと思います。尊敬しますよ」

「後輩と一緒に涙を流して喜び合えるお前も尊敬するよ」

「神坂さん、これ気持ちいいですね」

「本当だな。今度、石崎とやってみようかな?」

「俺も雑賀とやってみます」

「でもさ、ちゃんとルールを説明してからやらないと、気持ち悪がられるだろうな!」


ひとりごと

他人を見る時は、美点凝視を意識するべきですね。

どんな人にも長所はあります。

もちろん、どんな人にも短所もあります。

森信三先生は、長所に没入せよ、と言っています。

長所と短所を合算して客観的な評価を下しても、人間関係は良くはなりませんので、美点だけを視るという意識はとても重要なことですね。


【原文】
凡そ古今の人を評論するには、是非せざるを得ず。然れども、宜しく其の長処を挙げ以て其の短処を形わすべし。又十中の七は是を掲げ、十中の三は非を黜(しりぞ)くるも、亦忠厚なり。〔『言志後録』第249章〕

【意訳】
だいたい古今の人物を評価する際には、よしあしを判断せざるを得ない。しかしその場合、まず長所を取り上げた上で短所を取り上げるようにすべきである。また十のうち七までは長所を挙げ、十のうち三程度は短所を挙げておくことも、誠実で篤実なことである

【一日一斎物語的解釈】
他人の評価をする際は、まず長所を挙げることを意識するとよい。長所を優先してみつける意識を持つことで、円滑な人間関係を築くことができる。


akusyu_man_ojisan

第1627日 「放任」 と 「抑圧」 についての一考察


今日の神坂課長は、大累課長と一杯やっているようです。

「しかし、人のマネジメントは難しいですね」

「そうだな。でもな、それは当然のことらしいぞ」

「どういうことですか?」

「この前、あるセミナーに参加したときに、講師の先生が言ってたんだけどな。そもそも日本はマネージャーに昇格させてからピープルマネジメントを学ばせるだろう?」

「そうですよね」

「そんなのは日本だけらしい」

「え?」

「つまり、欧米ではそもそもピープルマネジメントができる人をマネージャーに上げるらしいんだ」

「なるほど。そういえば、日本はスポーツの世界でもそうですね。名選手でないと監督になれませんよね」

「確かにそうだな」

「じゃあ、どの程度自由にさせるか、あるいは締め付けるかを今更悩んでも遅いってことですね」

「しかし、それを言っては元も子もないから、なんとかやりくりするしかないよな」

「どうすればうまくマネジメントできるのかなぁ」

「メンバーに敬意を払うことが重要らしいぞ。お前、雑賀に敬意を払って接しているか?」

「あいつに敬意ですか! そういう神坂さんは石崎に敬意を持って接しているんですか?」

「あのクソガキにか?  無理無理! けどな、お前はお前が上司だったら、一緒に働きたいと思うか?」

「おっと、そう言われると」

「だろう? そう思えば、あいつらよくぞ働いてくれていると思えないか?」

「思えます!」  

「ははは、お互いにその辺りから敬意を払っていこうぜ」


ひとりごと

放任主義は一見すると伸び伸びとメンバーを育てるかのように見えますが、実は窮地に立つと組織が機能しなくなるというリスクももっています。

一方、抑圧的なマネジメントでは、メンバーは主体性を発揮せず、やらされ感のなかで仕事をすることになります。

適度なバランスを保つのは難しいことですが、一斎先生はそのポイントは「敬」にありとしています。

皆さんは、ご自身の部下の社員さんに敬意を払っていますか?


【原文】
放鬆(ほうしょう)任意は固より不可なり。安排(あんばい)矯揉(きょうじゅう)も亦不可なり。唯だ縦(じゅう)ならず束ならず。従容として以て天和を養うは、即便(すなわ)ち敬なり。

【意訳】
あまりに勝手気ままに行動することは宜しくない。しかし、適当に処理したり矯正し過ぎるのも宜しくない。自由放任することなく、締め付けすぎず、ゆったりとして調和を得た天の道を養うということ、これがすなわち敬ということなのだ、

【一日一斎物語的解釈】
自由放任は良くないが、締め付けすぎてもいけない。常にメンバーに対して敬意を忘れないことが肝要である。


business_kaisya_pawahara_woman

第1626日 「道理」 と 「感情」 についての一考察

事故を起こした善久君が、事故処理を終えて帰社したようです。

「おい、善久。お前、やってくれたなぁ」

「すみません。つい考え事をしながらアクセルを踏み込んでしまいまして・・・」

「まあ、相手が軽症だったことは不幸中の幸いだったな。それにしても、どんな考え事をしていたんだ?」

「実は、今日ご発注いただけると思っていた宮本メディカルクリニックさんから注文をもらうことができなくて、何がいけなかったのかと考えていました」

「マジか! お前、あそこはいけるって言ってたじゃないか?」

「はい、そう思っていたのですが、F社がすごい値段を提示してきたようで、すごく迷っているとおっしゃっていました」

「まだ負けた訳ではないんだな?」

「はい。こちらも提案を出しなおすということにしてもらいました・・・」

「お前、受注を逃した上に事故かよ! 勘弁してくれよー」

「まあまあ、神坂課長。とりあえず大きな事故にならなくて良かったじゃないですか」

「山田さん、それはそうだけどさぁ。善久、俺はいつも言っているよな。クロージングというのは、イエスかノーをもらってくることだ、って」

「はい。だから、なにがいけなかったのかを考えてしまいました・・・」

「善久君、考えることは大事だけど、それで運転を疎かにすることはとても危険なことだよ。もし、大きな事故になれば、被害者の怪我も大きなものになるだろうしね」
山田さんが優しく諭しています。

「それに、課長はいつも言っているよね。免許証は営業マンのパスポートみたいなものだ、って。運転するときには、運転に集中しないとね」

「さすがだなぁ、山田さん」

「なんだよ、石崎!」

「だって、課長は感情的にものを言うから、ゼンちゃんもビビッてしまって話が耳に入っていない感じだったけど、山田さんが話すと、すっと心が落ち着いた感じじゃないですか!」

「なんだと、このやろー!」

「ほら、また感情的になってる」

「くそー、ムカつくけど、たしかにお前の言うことは間違っていない。仕事に関する俺の軸を伝えるときは、山田さんのようにおおらかな気持ちで伝えないと伝わらないだろうな

「そうですよ! それにゼンちゃん。あれこれ考えるのもほどほどにしないとね。君の場合は、考えすぎて失敗するタイプだからさ

「おい、善久。どうだ、今の石崎の意見はもっともだと思うが、腹に落ちたか?」

「課長、正直に言います。なんか上からな感じでムカつきます!」

「だよなー!」


ひとりごと

リーダーとして自分の軸となる考え方を伝えることはとても大切なことです。

しかし、それを感情的に伝えてしまえば、想いは伝わりません。

わかっちゃいるけど止められない、というのが小生の一生の課題でもあります。

そのヒントを得て実践するために、これからも古典をひも解いていきます。


【原文】
道理は弁明せざる可からず。而も或いは声色を動かせば、則ち器の小なるを見る。道理は黙識せざる可からず。而も徒らに光景を弄すれば、則ち狂禅に入る。〔『言志後録』第247章〕

【意訳】
物事の道理については、分別をもって明確にしておかねばならない。ところが声を荒げたり、顔色を変えたりすれば、それはそのままその人の器の小ささを露呈することとなる。また、物事の道理とは、心中に悟るものであらねばならない。ところがやたらと心の中であれこれと考えすぎるようなことでは、野狐禅(真に悟りもしないで、悟った風をすること)になってしまう

【一日一斎物語的解釈】
マネジメントの軸となる考え方は、メンバーに周知徹底しておくべきであるが、大声を出したり、顔色を変えたりして強要すれば、それは自らの首を絞めることになる。なにをすべきかを考える時は、一人静かに判断をすべきであり、あまり考えすぎれば、かえって結果は悪い方向へ向いてしまう。


joushi_buka_men3_gekido

第1625日 「多忙」 と 「平静」 についての一考察

今日の神坂課長は、デスクで数字とにらめっこをしているようです。

「マズイなぁ。このままだと今期、ウチの課は計画を達成できないな」

「そうですよねぇ。あと2ヶ月とちょっと、これといった大口もないし、一件一件、案件を積み上げていくしかないですね」
本田さんが神坂課長に声をかけました。

「ここで決定打を放つのがエースである本田君の仕事だろう」

「できるだけのことはやるつもりです!」

「それでこそエースだ! しかし、こんな状況にもかかわらずイベントを企画したのは失敗だったなぁ。あのイベントは来期のネタ作りのためのものだからなぁ」

「課長、せっかく9月の初めに開催するのですから、今期の数字になるような手を打ちましょうよ」

「石崎、どういうことだ?」

「9月までに注文いただいたら値引きをするとか」

「期末に値引きをすると、翌年以降はお客様がそれを待つようになるからなぁ。安易な値引きやキャンペーンはやりたくないんだよ」

「・・・」

「あー、ごめん、ごめん。頭ごなしに否定してしまったな。期末キャンペーンみたいなものでなく、別の理由づけを考えてみてくれよ。来期以降に期待させることのないような企画だぞ」

「はい、考えてみます!」

「神坂課長、善久さんから電話です。外線2番です」

「梅田、ありがとう。もしもし、え! マジか! 怪我は? そうか、わかった。とりあえず、連絡を待っておくよ」

「課長、善久君どうしたんですか?」

「山田さん、参ったよ。あいつ、おかまを掘りやがった! 幸い、停車状態から始動したときに、前方不注意でぶつかったらしいから、相手に大きな怪我はないようだけどね。まったく、この忙しい切羽詰った時に、何をやらかしてるんだ、あいつは!!」
そのとき、佐藤部長が部屋から出てきました。

「神坂君、『酬酢紛紜にも、提醒の工夫を忘る可からず』だよ」

「なんですか、それ?」

「一斎先生の言葉だよ。『忙しいときこそ、心の平静を保ち、心をクリアにしておくべきだ』という意味だね」

「たしかに、なにかを試されているのか、って思うくらい、次々といろいろなことが起こりますよねぇ」

「実際に、試されているんだよ。神坂君の日頃の学問の成果がね!」


ひとりごと

真の学問というのは、立身出世のためではなく、周囲の出来事に一喜一憂しないような心をつくるためにある。

荀子はそう言っています。

栄える時は驕らず、失意の時に自身を失い諦めることのないような安定した心をつくる。

たしかに、これは難しいことですが、一生をかけて取り組んでみようと思います。


【原文】
酬酢紛紜(しゅうさくふんうん)にも、提醒(ていせい)の工夫を忘る可からず。〔『言志後録』第246日〕

【意訳】
人との応対に忙しいときでも、常に本心を目覚めさせる工夫を忘れてはいけない。

【一日一斎物語的解釈】
忙しいときこそ、学びの成果が問われるのだ。


yuubin_takuhaiin_nageru_man

第1624日 「瞑想」 と 「読書」 についての一考察

(昨日に引き続き)今日の神坂課長はN鉄道病院名誉院長・長谷川先生のお部屋を訪ねているようです。

「とても勉強になりました。先生、もうひとつ教えてください。先生はルーティンをもっていますか?」

「教授職を退いた後は、毎朝5時に起きて、まず1時間ほど静かに瞑想することかな。時間があれば、寝る前にも30分~1時間程度瞑想することもあるよ」

「瞑想ですか? そのときは静坐をされるのですか?」

「座布団の上に座る感じだね」

「効果はありますか?」

「効果は絶大だよ。朝起きてすぐに瞑想すると、一日を気持ちよく始めることができる。今日何をするかを静かに思い起こし、優先順位をつけ、どのように仕事を処理するかをシミュレーションするんだ」

「そういう時間は大切ですね」

「うん。夜の瞑想は、さっきの神坂君じゃないけど、一日の反省だね。今日は世の中に貢献する仕事ができたか、親孝行・自己修養・人材育成について、しっかり行動できたか、といったことを振り返るんだ」

「それを1時間もやるのですか?」

「毎日はできないけど、時間があればやる。別に時間にこだわる必要はないと思うよ。5分でもいいから瞑想すると良いね。そして、最後はかならず前向きな思考で瞑想を終えるのがポイントだよ。そうすれば気持ちよく眠りにつけるし、朝起きたときに頭の中でポジティブな思考ができあがっていることが多いから」

「まずは5分から始めてみようかな。長谷川先生、読書はどんな本をお読みになるのですか?」

「いまは経書が多いね。特に朝は『論語』と決めている。もう七十年以上読み続けているからねぇ」

「あ、それは佐藤から聞いています。ということは『論語』については隅から隅まで暗記されているのでしょうね?」

「たしかにほとんどの章句は頭には入っているよ。でもね、不思議なことに今でも多くの気づきを得ることができるんだよ。自分が悩んでいたことの答えやヒントが書かれていて驚くことがよくあるよ」

「すごいですねぇ。それが『論語』の深さということでしょうか?」

「そう思うな。神坂君も『論語』を読み始めたんだよね?」

「はい。ただ、私の場合は先輩の読書会で読んでいる程度なので、毎日というわけにはいきません」

「別に『論語』でなくても良いから、手元において置くだけで安心するような愛読書をもつといいよ」

「愛読書かぁ。長谷川先生、今日も大変勉強になりました。愛読書探しと5分間の瞑想。さっそく取り組みます!」


ひとりごと

一日のルーティンをもつことは良いことでしょう。

小生の場合、読書はルーティン化していますが、瞑想については取り組もうとしてすぐに挫折しました。

神坂課長のように、まずは5分の瞑想から再開してみます。


【原文】
毎旦(まいたん)鶏鳴きて起き、澄心黙坐(ちょうしんもくざ)すること一晌(いっしょう)。自ら夜気の存否如何を察し、然る後に蓐(しとね)を出でて盥嗽(かんそう)し、経書を読み、日出て事を視る。毎夜昏刻より人定に至るまで、内外の事を了す。間(かん)有れば則ち古人の語録を読む。人定後に亦澄心黙坐すること一晌。自ら日間行ないし所の当否如何を省み、然る後に寝に就く。余、近年此を守りて以て常度を為さんと欲す。然るに、此の事易きに似て難く、常常是の如くなること能わず。〔『言志後録』第245章〕

【意訳】
毎朝鶏の鳴き声で目を覚まし、しばらく心を澄まして黙して坐する。夜明けの清明な空気があるかどうかを察し、その後に寝床を出て顔を洗い口をすすぎ、経書を読み、日が昇ると仕事をする。毎晩夕方から夜の八時ごろまでに公務を終える。時間があれば古人の語録を読む。八時以降はまた心を澄ませ黙して坐すること一時ほど。日中の行いが正しかったかどうかを反省し、その後眠りにつく。私は近年、こうした生活を守って平素のきまりとしようと望んでいる。ところがこれは簡単そうでいて難しく、いつもこのようにできないことが多い

【一日一斎物語的解釈】
一日のルーティンを決めることはよいことである。理想的には、そのルーティンのなかに瞑想と読書を取り入れたい。


zazen_man

第1623日 「人生」 と 「三楽」 についての一考察

今日の神坂課長は、N鉄道病院名誉院長の長谷川先生を訪れたようです。

「長谷川先生が生涯大切にしているものはどんなことですか?」

「いきなり大きな質問だね」

「私も40歳を超えて、残り半分の人生を何を大切にして生きれば良いのか、なんて考えるようになりましたので・・・」

「人生100年時代と言われているんだから、神坂君はまだ半分まで達していないでしょう?」

「私たちの世代は90歳くらいまでじゃないでしょうか。いずれにしても残りの人生を有意義に生きたいと思っています。なにせ、いままでだいぶ無駄に過ごしてきましたから」

「ははは。半生を振り返っての反省だね!」

「ということで是非先生、教えてください」

「そうだねぇ。親孝行・自己修養・人材育成の3つかなぁ」

「え、親孝行ですか・・・。失礼ですけど、長谷川先生の御両親は・・・」

「もちろんあの世に旅立ったよ。でも、健康に留意することは、親から譲り受けた身体を大切にすることになるから、結局は親孝行になるはずでしょう? もちろん、神坂君のご両親は健在なんだから、しっかり親孝行すれば良いんじゃないかな」

「親孝行かぁ。はい、しっかり考えます」

「修養については、人間死ぬまで勉強だからね。神坂君も最近はよく勉強しているみたいだしね」

「先生を前にしては、とても勉強しているなんて言えません!」

「そんなことはないよ。最近は本を読んでいる人の顔になってきているよね」

「本当ですか! うれしいです」

「三つ目の人材育成については、私のような年齢になった者が最後にやらなければならないこと。業界や世の中への恩返しだよね」

「いまでも人材育成のお仕事はされているのですか?」

「今は月に一度、この病院の若いドクターに、医師としてのあり方を伝える研修をやっているんだ。ときどき講演などにも呼ばれることがあるから、そのときも主に伝えるのは、医師の在り方になるね」

「『医師のあり方』ですか・・・。ということは、営業マンとしてのあり方というのもあるんでしょうね?」

「それはもちろんだよ。それをしっかりとつかんで若い人に教えていくことも、神坂君の大事な仕事だと思うよ」


ひとりごと

たしかにこの孟子の三楽はいいですね。

親孝行・人間修養・人材育成、この3つを常に心掛ければ、間違った道を歩くことはないかも知れません。

悪い人の集まりにうっかり呼ばれてしまうようなことも・・・。


【原文】
孟子の三楽、第一楽は親に事(つか)うるを説く。少年の時の事に似たり。第二楽は己を成すを説く。中年の時に似たり。第三楽は物を成すを説く。老年の時に似たり。余自ら顧(おも)うに、齢已に桑楡(そうゆ)なり。父母兄弟皆亡す。何の楽か之有らんと。但だ自ら思察するに、我が身は即ち父母の遺体にして、兄弟も亦同一気になれば、則ち我れ今自ら養い自ら慎み、虧かず辱めざるは、則ち以て親に事うるに当つ可き歟(か)。英才を教育するに至りては、固より我が能くし易きに非ず。然れども亦以て己を尽くさざる可けんや。独り怍(は)じず愧じざるは、則ち止(ただ)に中年の時の事なるのみならず、而も少より老に至るまで、一生の愛用なれば、当に慎みて之を守り、夙夜(しゅくや)諼(わす)れざるべし。是の如くんば、則ち三楽皆以て終身の事と為す可し。〔『言志後録』第244章〕

【意訳】
『孟子』尽心上篇には「三楽」が掲載されている。第一の楽しみは親に仕えることを挙げており、これは少年時代に当てはまる。第二の楽しみは自分を完成させることを説いており、これは中年の世代に当てはまる。第三の楽しみとして人材の育成を説いているが、これは老年の時代に当てはまる。私は自らを顧みて思うことがある。すでに自分も晩年期を迎え、父母兄弟は皆死んでしまった。何の楽しみが残っていようか。ただ自ら考えてみれば、『孝経』にあるように、私の身体は父母の遺体であり、兄弟もみな同様であるから、我が身を養い、慎み深くして、落度をなくし天に恥じない生活をすることが、親に仕えることに当たるのではないか。人材を育成するにおいては、私が容易にできることではないが、まず己を尽くすべきであろう。天に恥じない行ないをすることは、ただ中年の時だけに限らず、少年時代から老年に至るまで、一生のことであるから、慎んで守っていくべきであり、早朝から夜に至るまで忘れてはならないことである。そう考えてみると、結局『孟子』の三楽は一生のこととしていかねばならないのであろう

【一日一斎物語的解釈】
親孝行・自己修養・人材育成、この3つを一生涯の仕事とし、決して疎かにしてはいけない。


doctor

第1622日 「血気」 と 「志気」 についての一考察

営業2課の山田さんの実家はお寺であり、山田さん自身も僧籍を持っています。

今日はお寺の仕事の手伝いで実家に来ているようです。

「おやじ、お寺の仕事は兄貴に任せて、少しゆっくりしたらいいじゃないか?」

「譲(兄の名)にすべて任せているさ。ただ、俺は根っからの坊主だからな。こうして日々、お経を唱えないと心が落ち着かないんだよ」

「それらないいけど、無理はしないでよ」

「俺はもうすぐ70歳になるが、志気だけは衰えていないから、死ぬまで修行を続けるつもりだよ。まあ、たしかに体力の低下は否めないけどな」

「無理せず、長生きをして精進することも、僧侶として大切な生き方じゃないの?」

「寿命の長さは関係ないさ。どれだけ目の前のことに精進できるかだよ」

「おやじらしいなぁ。だけど、しっかり息抜きもしないとダメだよ」

「ははは。心配してくれているのか? 大丈夫だ。昨日も同世代の仲間と集まって、カラオケでストレスを発散してきたから」

「そうなのか、それはよかった。そういうことも大事だよね」

「任(たもつ)、ところでお前はどうなんだ? 例の年下の上司は相変わらずか?」

「それがね、その神坂さんは最近すごく勉強をしていて、人間力を高めているんだよ」

「ほぉ、どんなきっかけがあったんだ?」

「きっかけはよくわからないけど、部長の存在が大きいんだと思う」

「お前の話を聞いていて思ったのは、その人は元々熱いものをもっている人なんだろう。おそらく志気も血気も盛んな人で、今まではどちらかというと血気が志気に勝ってしまっていたんだろうな」

「ああ、なるほどね。そうかもしれない」

「それが、その部長さんの人間力に接して少しずつ血気が抑えられるようになったんだろう。年齢的にはまだまだ血気が自然に衰えるような年齢ではないからな」

「俺に対する接し方も随分穏やかになったよ。お陰で、髪の毛が抜けていくのも今は抑えられているかも?」

「坊主の息子なんだから、全部剃ってしまえばいいだろう」

「なんでだよ! スキンヘッドの営業マンなんて、怖くて誰も近寄ってこないよ!」


ひとりごと

小生はまだ52歳ですが、以前に比べると無理が利かなくなってきたことを痛感します。

かつては、深夜2時・3時まで起きていても、翌日大きな支障はありませんでしたが、今はもう無理です

しかし、一斎先生が言うように、志気は衰えていないと信じています。

ただし、学びを怠ってはいないものの、楽しく働けているかというと・・・。

よく学び、よく笑う日々を過ごせるよう精進します!


【原文】
血気には老少有りて、志気には老少無し。老人の学を講ずる、当に益々志気を励まして、少壮の人に譲る可からざるべし。少壮の人は春秋に富む。仮令今日学ばずとも、猶お来日の償う可き有る容(べ)し。老人は則ち真に来日無し。尤も当に今日学ばずして来日有りと謂うこと勿るべし。易に曰う、「日昃(かたむ)くの難は、缶(ふ)を鼓して歌わざれば、則ち大耋(てつ)の嗟(なげき)あり」とは、此を謂うなり。偶感ずる所有り。書して以て自ら警(いまし)む。〔『言志後録』第243章〕

【意訳】
血気には老若の違いがあるが、志気には老若の違いはない。老人が学問を修める場合は、益々志気を高めて、若い人たちに劣るようではいけない。若い人の人生は長い。今日学ばなかったとしても、将来的に埋め合わせることもできよう。しかし老人にそのような時間はない。朱子が「今日学ばずとも明日があるなどと言ってはいけない」と言っているのも尤もなことだ。『易経』にも「日が西に傾いて夕方となった、人生でいえば老境であり、先が久しく続くわけではないのである。日が中央にかかればやがて傾くのは天命である。この理を知り君子は老境を相応に楽しく過ごし、良き後継者を求めて心の安息を得るべきなのである」とあるが、このことを指摘しているのであろう。少々感じるところがあったので、ここに記して自らの戒めとしたい

【所感】
老齢を迎えた人には残された時間も少ない。志気を保ち、日々の学びを怠ってはいけない。しかし、また一方で楽しむことも忘れずに過ごしたいものだ。


nigaoe_biwahoushi
プロフィール

れみれみ