一日一斎物語 (ストーリーで味わう『言志四録』)

毎日一信 佐藤一斎先生の『言志四録』を一章ずつ取り上げて、一話完結の物語に仕立てています(第1066日目より)。 物語をお読みいただき、少しだけ立ち止まって考える時間をもっていただけたなら、それに勝る喜びはありません。

2019年08月

第1662日 「議論」 と 「目的」 についての一考察

課長会議(昨日参照)終了後、総務部の大竹課長、営業部の神坂課長、大累課長は3人でランチに出かけたようです。

「大竹さん、先ほどは熱くなってしまってすみませんでした」

「大累君、気にしないで。大累君の言いたいことはよくわかってるからさ」

「さすがはタケさんだ、伊達に年を食ってないな」

「おいおい、神坂君。人を長老扱いするなよな。大累君は若い頃のどこかの誰かさんと比べれば、言い方も優しいし、表情もおだやかだからね。こっちも冷静に対応できるの!」

「大竹さん、どこかの誰かさんて?」

「俺に決まってるだろ! タケさん、それは若気の至りってやつでしょ」

「まず言葉遣い。先輩に向かって『てめぇ』だよ。それに眼つき。完全に殺気を感じたもんな」

「やめてくださいよ。なんかそれじゃあ、俺が極悪非道の人間みたいじゃないですか」

「あの頃は、極悪非道の奴だと思ったもん」

「ははは」

「でも、たしかにその頃は自分の意見が絶対だと思って、相手を打ち負かしてやろうとばかり考えていたなぁ」

「いつから、それじゃいけないと思うようになったのですか?」

「榊が退職した件がきっかけだよ。あいつとはしょっちゅう喧嘩をしていたが、俺はそれでも、お互いに分かり合えていると思っていたからな。それが、退職すると聞いたときには、しばらく言葉が出なかったよ」

「たしかに榊は生意気でしたけど、優秀な奴でしたよね」

「あいつを辞めさせたのは俺だからな。会社に対して申し訳ないという気持ちで胸が押しつぶされそうだったな」

「あの時の神坂君の凹み方は尋常じゃなかったね」

「まじめに、3日間くらい何も食えなかったですよ。そうだ、それで佐藤部長に辞表を出したんです」

「えっ、そうだったの? それは知らなかった!」

「その時に、佐藤部長に諭されたんです。議論する時には、お互いの意見の相違点ばかりでなく、共通点に目を向けるべきだと言われました。それをしっかり確認した上で、相違点を調整すれば、議論が喧嘩別れすることはないと」

「さすがは佐藤さんだなぁ」

「へぇー。神坂さんが辞表を出したなんて、まったく知らなかったです」

「部長は、この辞表は預かっておくよといって引き出しにしまったんだ。そして、俺が課長になったとき、俺の目の前でそれを破ってごみ箱に捨てた」

「もう今の神坂君なら、メンバーを榊君と同じような気持ちにすることはないな、っていうメッセージかな?」

「そう受け取りました。だから、今はディスカッションで意見がぶつかると、まず共通点を先に探すことを意識できているんですよ」

「失敗を見事に活かしているねぇ。よくぞ更生したな、元極悪非道の青年!」

「だまれ、ジジイ!」


ひとりごと

ディスカッションの際に、矢印が相手にばかり向いてしまうと、意見の相違が受け入れられなくなります。

しかし、社内の会議はディベートではありません。

議論に勝つことが目的ではなく、お客様のために最善の策を講じることが目的のはずです。

そうだとすれば、ゴールは同じで、そこへたどり着くためのルートの違いを議論しているということに気づきます。

あとは、コストやスピードを比較検討して、どちらの案が妥当かを議論すればよいのです。


【原文】
惺窩藤公は林羅山に答えし書に曰く、「陸文安は天資高明にして措辞渾浩(そじこんこう)なり。自然の妙も亦掩(おお)う可からず」と。又曰く、「紫陽は篤実にして邃密(すいみつ)なり。金渓は高明にして簡易なり。人其の異なるを見て、其の同じきを見ず。一旦貫通すれば、同じか異なるか。必ず自ら知り、然る後已まん」と。余謂う「我が邦首(はじめ)に濂・洛の学を唱うる者を藤公と為す。而して早く已に朱・陸を并(あわ)せ取ること此の如し」と。羅山も亦其の門より出ず。余の曽祖周軒は学を後藤松軒に受け、而して松軒の学も亦藤公より出ず。余の藤公を欽慕する、淵源の自(よ)る所、則ち有るか爾(しか)り。〔『言志晩録』第28条〕

【意訳】
藤原惺窩公が弟子の林羅山に答えた書には、「陸象山は天性が見識高く明敏であって、文章が流麗で雄大である。自然の妙趣もかくし難いものがある」と述べている。また、「朱子は篤実であり、奥深く精密である。陸象山は見識が高く明敏であって、簡明平易である。人々はその相違点ばかりに着目して、共通点を見ない。一度その思想の根本をたどれば、異なるか同じかは自ずとわかるもので、論ずるまでもないことである」とも述べている。私はこう言いたい、「わが国で最初に周濂渓と二程子の学を唱えたのは藤原惺窩先生である。先生は早くもその当時、朱子と陸象山の学を兼ね備えておるということは、この書をみれば明らかである」と。林羅山も惺窩先生の弟子である。自分の曾祖、周軒は後藤松軒に学んだが、その松軒の学も惺窩先生から出ている。自分が惺窩先生を深く敬慕する理由はまさにここにある

【一日一斎物語的解釈】
意見がぶつかるとき、人はその相違点にばかり着目するが、お互いが同じ目標に向かって、高い見識や熱い想いをもっているのであれば、共通点こそが重要である。共通点に焦点を当てれば、素晴らしい結論に導くことも可能である。


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第1661日 「総務」 と 「営業」 についての一考察

今日は課長会議があるようです。

総務部の大竹課長と営業部の大累課長がなにやら揉めているようです。

「大竹さん、経費を節約することは理解できますが、高速道路をなるべく使うなというのはやり過ぎじゃないですか!?」

「いやいや、大累君。高速を使うなとは言ってないよ。ルート設定をしっかり行って、無駄なコストを発生させないでくれと言ってるんだよ!」

「基本的にはナビのとおりに道を選択しています。文句はナビに言ってくださいよ!」

「ナビに文句を言って解決するならそうしたいけど、そうできないから君に言ってるんだよ」

「そんなことをしたって大したコストカットにはならないでしょう?」

「そうでもないよ。例えば、雑賀君がいつもT市民病院に行くときに使っているルートがある。彼は週に3回程度はT市民病院に行っているよね。彼に、ルート変更してN高速を使うことをやめてもらえれば、月に2万円、年間で24万円のコストダウンになる」

「ほぉ、新人の1ヶ月分の給料くらいにはなるな」
神坂課長です。

「そのルートにすると、時間はどれくらいロスするんですか?」

「実際のところは雑賀君に聞いてみないとわからないけど、ナビの試算上だと10分程度遅くなるだけだよ」

「タイム・イズ・マネーですよ。10分だってバカにはなりません!」

「もちろん、緊急のときはやぶさかでないよ。仮に帰りだけでもルート変更してくれれば、12万円程度のカットが可能だ」

「大累の3ヶ月分の小遣いだな」

「2ヶ月ですよ!」

「マジで!? お前、そんなにもらってるのかよ。いいなぁ」

「おいおい、神坂君。話を関係ない方向に持っていかないでよ」

「タケさん、ごめん、ごめん。なあ、大累。タケさんの立場から会社に貢献しようと思えば、コストカット面を考えるのは当然だよな。俺たち営業は売上、とくに利益を稼ぐことが最大の貢献だけど、総務は稼ぐ部門ではない

「それはわかりますよ」

「しかし、いくら収入が増えても、無駄な出費を抑えなければ、会社の利益は増えない。つまり、営業は『入り』の面で力を尽くし、総務は『出づる』面の抑制に力を注ぐべきだということだ」

「そうですね。大竹さんもこんなことを言いたくて言っているわけではないでしょうから」

「大累君、理解してくれてありがとう。営業が働きやすい環境づくりをすることも我々の仕事だから、もちろんそちらでもいろいろ力を尽くすからさ」

「わかりました。まあ、雑賀だけで年間24万円なら、全社でしっかり高速代を見直せば、簡単に100万くらいはコストダウンできるかも知れませんね」

「純利で100万稼ごうと思ったら大変だぜ。1千万円以上の売上が必要になるからな」

「神坂君もありがとう。大累君、神坂君はね。遠方に行ったときでも、帰りを急がないときは下道で帰ってきてくれているんだよ」

「えっ、マジですか?」

「あれ、タケさん、知ってたの? まあ、毎回じゃないぜ。時間があるときや、ラジオをゆっくり聴きたいときにはな」


ひとりごと

ディスカッションをしていると、自分の主張を正当化したいあまりに、相手の意見をまったく受け入れない人がいます。

ときには、人格否定にまで及ぶことも・・・。(これ、昔の小生かも?)

相手の立場を尊重し、なぜそうした意見が出てくるのかを考慮すれば、そうした泥仕合にはならないはずです。

また、社内で議論する場合、自部門の利益を考えることも重要ですが、忘れてはいけないのが顧客視点です。

どちらの意見がお客様にメリットを提供できるかを常に忘れずにディスカッションするべきでしょう。


【原文】
朱・陸同じく伊洛(いらく)を宗とす。而も見解稍異なる。二子並びに賢儒と称せらる。蜀・朔の洛と各黨せるが如きに非ず。朱子嘗て曰く、「南宋以来、著実の工夫を理会する者は、惟(た)だ某と子静と二人のみ」と。陸子も亦謂う、「建安に朱元晦無く、青田に陸子静無し」と。蓋し、其の互いに相許すこと此の如し。当時門人も亦両家相通ずる者有りて、各々師説を持して相争うことを為さず。明儒に至り、白紗・篁墩(こうとん)・余姚・増城の如き、並びに両家を兼ね取る。我が邦の惺窩藤公も、蓋し亦此の如し。〔『言志晩録』第27条〕

【意訳】
南宋の朱熹と陸象山とは、同じく北宋の二程子(程明道・程伊川の兄弟)の学説を本としているが、やや見解は異なっている。 朱熹・陸象山の二先生は共にすぐれた儒者だとされている。その両者は、蘇軾を領袖とする蜀党や劉摯らの朔党が程明道の洛党と論争したような関係にはない。朱子はかつて「宋が都を江南に遷して以来(これ以前を北宋、以降を南宋とする)、教学の理解に懸命に力を注いでいるのは、ただ自分と陸象山だけである」といった。陸象山もまた「建安(朱子の生地)には、もう朱子のような人はおらないし、青田(陸子の生地)に陸象山はいない」といった。両者がお互いを認め合っていたことがここからわかるだろう。当時の門人達も互いに両家に出入りして、互いに師説を固辞して論争し合うようなことはなかった。明代の儒者の頃も、陳献章(号白沙)、程敏政、王陽明、湛若水などは、共に朱・陸両家の説から自説を得ている。わが国における藤原惺窩先生も同じであろう

【一日一斎物語的解釈】
社内にあっても、意見が異なることは当然のことである。しかし、相手のすべてを否定したり、人格を否定するようなことがあってはならない。お互いに啓発しあうという意識が大切なのだ。


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第1660日 「創業者」 と 「中興の祖」 についての一考察

今日の神坂課長は、幕田記念病院を訪れているようです。

「院長先生、病院開設80周年おめでとうございます」

「おお、神坂君。お花を贈ってくれてありがとう」

「ホームページを見させていただきましたが、この厳しい医療への逆風の中で、毎年来院患者数を増やしているのはさすがですね」

「この病院は私の祖父が開院したんだ。しかし、開院から20年後に祖父は急逝してね。一時は存続の危機もあったらしい」

「そうだったんですか?」

「その頃、私の父はまだ30代後半でね。K市民病院に勤務していたんだが、まだ院長職を引き受けるには経験が足りないとなって、院内で大いに議論がされたらしい」

「ほぉ」

「その危機を救ってくれたのが、当時N大学消化器内科の助教授だった永田先生だった。永田先生は助教授職を辞して、当院の院長に就任してくれたんだよ」

「凄い話ですね」

「永田先生は、祖父にとてもお世話になったらしいんだ。そのご恩返しだと話してくれたことを思いだすよ」

「永田先生は直接お会いしたいことはないですが、本当に徳の高い先生だと皆さんがおっしゃいますね」

「仙人のような人だった。永田先生はきっちり10年の間、院長職を務めてくれて、見事に病院を立て直してくれた。そして、10年目の終わりに父に院長職を譲って、自らは出身地のS村に帰って、村の小さな診療所で医師を続けられたんだよ」

「すごい人ですねぇ」

「おそらく大学に残っていれば教授になれたかも知れない。ただ、同じ世代に長谷川先生がいたからね。おそらく長谷川先生には適わないと思って、当院に来ることを選んでくれたんだと思う。当院にとっては、祖父が創始者で、永田先生が中興の祖といったところだな

「そして、今さらにこの病院を大きくしているのが、幕田先生なわけですね」

「私が院長になったのは18年前。永田先生のお考えを父も継続し、常に地域の人びとの健康を守るという姿勢で経営をしてきた。私はそれを引き継いだだけだよ」

「この前、中国の歴史の本を読んで、創業者や中興の祖という存在の偉大さを学んだのですが、それは国だけではないんですね」

「そうだよ。J医療器械さんだって、まだ若い会社だけど、これからいろいろと試練が訪れるだろう。そのとき、神坂君が中興の祖となれるようにしっかり勉強しないとな!」

「わ、私がですか?! それは無理です。ウチには佐藤もいますし・・・」

「何のために、中国の歴史を勉強しているんだ! それに今の私の話も聞いたんだし、覚悟を決めて取り組みなさい!!」

「は、はい!!」


ひとりごと

儒学は、孔子が基礎をつくり、孟子が敷衍して、漢代には国の学問として当用されました。

しかし、次第に仏教や道教に押されて、出世のための耳学問となってしまいます

宋代になると、儒学の低迷は哲学がないことだと感じた程子らを中心とした学者が学問を立て直し、朱熹がそれを朱子学として完成させます。

しかし、今度はやや哲学的で難解となってしまった朱子学に対して、王陽明は実践重視の陽明学を唱え、儒学は再び隆盛を極め、日本でも大いに採用されたのです。

儒学においても、始祖があり、中興の祖があるように、長く継続してきた企業にも当然、創業者があり、中興の祖と呼ばれる人がいるものです。

「鬼十則」をつくった電通第4代社長、吉田秀雄などは、電通中興の祖として有名です。


【原文】
孔・孟は是れ百世不遷の祖なり。周・程は是れ中興の祖、朱・陸は是れ継述の祖、薛(せつ)・王は是れ兄長の相友愛する者なり。〔『言志晩録』第26条〕

【意訳】
孔子と孟子は永遠不滅の儒教の始祖といえる。周濂渓と程明道・伊川の兄弟は儒教中興の祖であり、朱熹と陸象山は中興された儒学を集大成した人であり、薛敬軒(せつけいけん)と王陽明は実の兄弟のように親愛の仲である

【一日一斎物語的解釈】
儒学は孔孟という始祖に始まり、中興の祖と呼ばれる人物が学問を立て直し、さらに朱子が学問を集大成し、王陽明は朱子学に対して、実践を重視した学問を確立した。同じように、企業にも創始者、中興の祖といった人物は必ずいる。彼らの考え方や事績を忘れてはいけない。


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第1659日 「地道」 と 「一足飛び」 についての一考察

今日の神坂課長は、善久君と同行中のようです。

「課長、お客様の心を読むというのは難しいですね」

「そうか、今お前はそこに悩みを感じているのか?」

「はい。このお客様は買ってくれるなと思うと買ってくれなかったり、この人は買わないなと思ったら注文をくれたり、いつも迷いと驚きの連続です」

「ははは。いいねぇ、若いって。俺なんか日々眠気との戦いだからな」

「戦う相手がショボくないですか?」

「やかましいわ! 笑いをとろうと思っただけだ」

「でも、面白くなかったです」

「言うか? 上司が一所懸命に場を和まそうとしているのに、それを言うか?」

「あ、すみません」

「笑いをとろうとして失敗して、おまけに謝られるとすごく気まずさを感じるな」

「あ、すみません!」

「もういいよ。ところで、そのお客様の心を読むってことに関連して質問がある」

「はい」

「お前、明日までに英語を完璧に話せるようにして来れるか?」

「課長、ちょっとおかしくなったんですか? そんなことできるわけないじゃないですか!」

「だよな。どのくらいの期間が欲しい?」

「せめて半年は欲しいです」

「そうだろう。お客様の心を読むことだって同じだよ。学び、気づき、実践を繰り返しながら、そこに失敗というしょっぱい経験を加えて徐々に身につくものだ」

学び、気づき、実践・・・」

「そう、幸いにも俺たちはお金をもらいながらその鍛錬ができるんだ。お客様の心を読む力をつけたいなら、まずそういう本を読んだり、先輩の話を聞いてみる。そこで、なにか新しい気づき、自分ではやっていないことに気づく。そして、それを即実践するんだよ」

「はい」

「そして、失敗する。まず間違いなく何度か失敗する。その失敗から何がいけなかったかを学び、新しい気づきを得て、次なる実践につなげるんだ」

「なるほど」

「仕事であろうとスポーツであろうと勉強であろうと、なにごともステップというものがある。それを飛ばして一気に何かをマスターしようと思っても、それは無理だ。無理をすれば、必ずその報いがくる。焦るな、善久。たくさん経験し、たくさん失敗して、一人前の営業マンになれ!」

「はい、そうします。あっ!」

「どうした?」

「スピードで捕まっちゃいました。警官が旗を振ってこっちに来いと言ってます」

「これも失敗という貴重な経験になる、と思う・・・」


ひとりごと

書店に行くと『3分で○○できる法』といったタイトルの本が平積みされているのをよく目にします

いつからか、誰もが手っ取り早く学びたいという考えに染まってしまったようです。

しかし、本当になにかを学んだり、マスターするには、時間と経験が必要なはずです。

着実に成長する道を選ぶ人が最後には勝者となるのです。


【原文】
学に次第有るは、猶お弓を執り箭(や)を挾(さしはさ)み、引満して発するがごとし。直ちに本体を指すは、猶お懸くるに正鵠(せいこう)を以てして必中を期するがごとし。〔『言志晩録』第25条〕

【意訳】
学問を行なうには順序がある。それはあたかも弓を手に持ち、矢をはさみ、それを満月のように引き絞った後に矢を発するようなものである。すぐに本体すなわち修己治人を目指すということは、弓の的を懸けておいて必ず命中することを期待するようなものであって、期待すること自体が間違いである

【一日一斎物語的解釈】
なにごとも一足飛びに成就するものはない。仕事も学問も同じである。段階を踏んで着実に成長していくしかない。


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第1658日 「実践」 と 「真理」 についての一考察

今日の神坂課長は、総務課の大竹課長と一杯やっているようです。

「タケさん、最近いろいろ勉強しているとさ、これは俺のオリジナルのアイデアだと思っていたことが、実はとっくの昔に本に書かれていたということに気づかされるんだよね」

「そりゃ、そうでしょ。神坂君ごときが考えることに、今までに誰も気づかなかった、なんてことがあるわけないじゃない」

「ま、まあそうだけどさ。そういう言い方をされるとちょっとムカつくな」

「すぐに腹を立てるのは損だよ。短気は損気っていうでしょ」

「ちぇっ、なんか微妙に上から目線なのが癪に障るな」

「あのね、神坂君。俺は君より先輩だからな!」

「精神年齢は俺より低いと思うけどね」

「わかってないねぇ。君のレベルに合わせてあげてるのに!」

「よく言うよ! でも、タケさんの言うとおりだよな。俺が考えたことで、過去二千五百年間にこの世に生きた人類が誰も気づかないことなんてないんだろうな」

「そうだよ。でもね、同じ真理に気づけたことが神坂君の成長じゃないの」

「あー、なるほど。タケさん、良いことも言うんだね。そうだな、実践をして身につけたことで、うまくいくことっていうのは、真理なんだろうな」

「大自然の摂理とも言うね。大事なのは本を読んで気づいたものは、本物ではないということ。神坂君のように実践から導き出したものが本当の自分の力になるんだよ」

「そうだよね。ただ、俺の良くないところは、自分の意見を正論だと思って、相手をなんとか説き伏せようとしてしまうところだろうな」

「まったく客観的な正論なんて、そうそうないでしょう。みんな、自分にとってメリットがあることを正論だと思いたがる。しかし、そういうエセ正論は、他人からしたら異論でしかないんだよ。他人には他人の正論があるってことだね」

「うん。どちらが正しいかではなく、相手はそう考えるのか?と気づくことが大事なんだな」

「そして自分とは違う意見に耳を傾けてみる。そうすると、自分が気づいていなかった別の真理に気づくことができるんだよ」

「タケさん! なんか今日のタケさんは別人だな。どうしちゃったの?」

「実はさ。昨日、友人たちと実践人の家(森信三先生が晩年生活をした家を記念館として保存した建物)に行ってきたんだ。で、モリゾーちゃんが座っていたという場所に座っていたら、心が洗われるような感覚があってね。もしかしたら俺、何かを悟ったのかもしれない!」

「い、いや、悟った人は『モリゾーちゃん』なんて言わないと思うけど・・・」


ひとりごと

小生も長年のマネジメントで体得した理論のようなものが、実は自分のオリジナルではないことに気づくという経験を何度もしています。

考えてみれば当然のことでしょうね。

大事なことは、オリジナルかどうかより大自然の摂理に適う理論かどうかなのかも知れません。

これからも実践から導き出された真理に出会える、そんな生き方をしていきます!


【原文】
周子の主静とは、心の本体を守るを謂う。図説の自註に「無欲なるが故に静なり」と。程伯子此(これ)に因って、天理・人欲の説有り。叔子の持敬の工夫も亦此に在り。朱・陸以下、各々力を得る処有りと雖も、而も畢竟此の範囲を出でず。意(おも)わざりき、明儒に至り、朱・陸黨(りくとう)を分ちて敵讐の如くならんとは、何を以て然るか。今の学者、宜しく平心を以て之を待ち、其の力を得る処を取るべくして可なり。〔『言志晩録』第24条〕

【意訳】
周濂渓の「静を主とする」ということは、心の本体ともいえる本然の性を守ることをいっている。周子は『太極図説』の自註に「無欲なる故に静なり」と述べている。程明道はこの考え方をベースにして、天理と人欲を説いた。弟の程伊川が説いた居敬と窮理の工夫も元は周濂渓の説を下敷きにしている。南宋の朱子や陸象山らの儒者が各々力をつけておるが、結局のところ周子の学説の範囲内にとどまっている。ところが、明代の儒者が朱子派と陸子派とに分れて敵同士のように論争するに至ったのは、何故だろうか。今の学者は虚心坦懐に各々の長所を採ればそれでよい

【一日一斎物語的解釈】
自分のアイデアをオリジナルだと思わないことだ。善につながるアイデアは、すべて宇宙の摂理にしたがっており、オリジナルだと思っている考えは、学びや経験によって、その摂理に気づいたに過ぎないのだ。したがって、意見の違いを争うのではなく、相手のアイデアの長所を採用するという意識をもつことで、人間関係は円滑になるのだ。


実践人の家

第1657日 「文字」 と 「心」 についての一考察

今日の神坂課長は元同僚西郷さんの主査する『論語』の読書会に参加しています。

「サイさん、このテキストは30冊以上の『論語』の解説書からポイントを抜き出して作っているんですよね?」

「うん。私は定年して今は暇だからね!」

「いや、私は暇でもこんな資料は絶対に作れないですよ!」

「そう言ってもらえるとうれしいよ」

「こういう風に一つの章句について、様々な学者先生の解説を読んでいると、いつの間にか言葉ではなく映像が浮かんでくる気がしますね」

「おお、神坂君、さすがだね。実は、私も同じなんだよ。最初のころは一字一句をかみ締めるように読んでいたんだけど、最近は諸先生の解説を読んでいると孔子と会話をしているような気分になってきたんだ」

「孔子と会話ですか?」

「うん、もちろん会話といっても、語り合うというのではなく、孔子の心と私の心が触れ合っているような感覚だけどね。こんなことを言ったら、多くの学者先生から『うぬぼれるな』ってお叱りを受けそうだけど」

「そんなことないですよ。かえって学者さんというのは、文字にこだわり過ぎるところがありますよね。文字ではなく、孔子の心を読むことが大事な気がします」

「ほぉ、神坂君。君はいつの間にそんなに成長したんだ!」

「サイさん、やめてください。相変わらず部下にはバカにされていますし、ムカッとくると怒鳴りつけています。あの頃の私と大差ないですから」

「そんなことはないと思うよ。君は確実に成長しているよ。さて皆さん、今、神坂君が言ったことは非常に重要ですね。読書というのは、そこに書かれている文字や出来事を読むというより、著者の心を読むところに意味があるように思います。特に経書などの古典はそういう読み方をすべきなのではないでしょうか?」

「みなさん、そういうことですから、しっかりと孔子の心を読み取りましょうね」

「神坂さん、いつから先生になったのよ?」

「あっ、これは出しゃばりすぎました!」

参加者一同、爆笑の渦に巻き込まれています。


ひとりごと

『論語』という本は、非常に簡素な表現で書かれているため、一つの章句をめぐっても学者先生によって解釈が大きく違うということが多々あります。

そしていくつかの解説書を読んでいると、そんな細かい表現にこだわる必要があるの?と思ってしまうこともあります。

学者先生は、それが仕事ですから、表現の微妙な違いにも目を光らせ、深く研究する必要があるのでしょうが、我々のように古典を活学しようと考える者からすれば、大きな問題ではないはずです。

文字そのものより、孔子の心を読むつもりで『論語』を読むと、とても愉しく、多くの学びを得ることができます。


【原文】
此の学は伝の伝有り。不伝の伝有り。堯は是を以て之を舜に伝え、舜は是を以て之を禹に伝うる如きは、則ち伝の伝なり。禹は是を以て之を湯に伝え、湯は是を以て之を文・武・周公に伝え、文・武・周公は之を孔子に伝えしは、則ち不伝の伝なり。不伝の伝は心に在りて、言に在らず。濂渓・明道は蓋し伝を百世の下に接せり。漢儒云う所の伝の如きは、則ち訓詁のみ。豈に之を伝と謂うに足らんや。〔『言志晩録』第23条〕

【意訳】
聖人の学には伝の伝と不伝の伝とがある。かつて堯が舜に伝え、舜が禹に伝えたのは伝の伝である。禹から殷の湯王に伝わり、湯王から周の文王・武王・周公へと伝わり、それがさらに孔子へと伝わったのは不伝の伝である。不伝の伝は心を通じて伝わるものであって、言葉を介さない。宋の周濂渓や程明道は思うに百世を隔てて孔子の心に接したものであろう。漢代の儒者がいう伝とは、いわゆる訓詁の学であって、字句に拘泥するのみで、これを伝と呼ぶことはできない

【一日一斎物語的解釈】
学問には、文字から学ぶ学び方と著者(聖人)の心と自分の心を通わせる学び方がある。書籍を活学するためには、後者のやり方を身につけるべきであろう。


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第1656日 「公平」 と 「能力」 についての一考察

今日の神坂課長は、A県立がんセンター消化器内科の多田先生を訪れているようです。

「神坂、お前は世の中は平等だと思うか?」

「突然、難しい質問ですね。そうですねぇ、平等であるべきだとは思いますが、実際にはそうではないと思います」

「それは何故だと思う?」

「何故かと言われると・・・」

「それはそもそも人間の知力や能力が平等ではないからだよ」

「どういうことですか?」

「お前は今、課長だよな?」

「はい」

「課長のお前とあの少年、石崎だったか、彼ともし給料が一緒だったら、お前はどう思う?」

「それは納得できないですよ! あいつはまだ2年目ですからね」

「そうだろう。お前と彼とでは、仕事の能力に差があるからな」

「しかし、平等というなら、お前も彼も同じ給料をもらわなければいけなくなる」

「それだと世の中は滅茶苦茶になりますね」

「そうだ。だから平等を目指すのではなく、公平を目指せばいい」

「平等ではなく、公平?」

「お前と石崎とでは能力が違う。だからその能力に応じて給与に差をつける。これが公平だ
よ」

「ああ、なるほど」

「俺はな、神坂。少なくとも世の中は、人間に対して公平ではあると思っている。もちろん世界中のすべての国がそうだとは言わないが、今の日本はかなり公平ではないのか?」

「でも、貧富の差が拡大していませんか? 多田先生はそれも能力の差だから仕方がないと?」

「ある程度はな。しかし、貧富だけで人間を評価するべきではないと思う。金持ちが必ずしも幸せなわけではなく、日々の暮らしに困っている人がかならずしも不幸というわけでもないだろう」

「それはそうですけど・・・」

「いくら能力があっても、その能力を発揮していない奴にはチャンスは訪れない。つまり各自が能力に応じたパフォーマンスをしっかりと発揮すれば、天は公平な結果をもたらしてくれるんじゃないのかな?」

「そうかもしれませんね」

「神坂、マネジメントも同じだぞ。メンバーに対して公平を意識しろ。メンバーの能力をしっかり把握して、公平に対処することだ。公平を意識しつつ、自分のことは後回しにして、メンバーやその先にいる顧客を優先したマネジメントをすれば、メンバーは間違いなくお前を信頼してくれるはずだ」

「多田先生、ありがとうございます。平等ではなく公平。自分よりメンバー優先。それを強く意識してマネジメントしてみます!」


ひとりごと

公平と平等については、いろいろな意見があることと思います。

小生は人間は平等に生まれてきてはいないと考えています。

つまり能力差をもって生まれてくるということです。

しかしながら、そもそも持って生まれた能力を100%開発し、発揮できている人は稀でしょう。

問題はいかに自分の能力を開発し、それを発揮するかにあるのではないでしょうか?

マネージャーは、メンバーの能力をよく見極め、能力開発をサポートし、その能力を発揮する場を提供することを意識すれば、結果として良いマネジメントができるはずです。


【原文】
物我一体なるは即ち是れ仁なり。我れ公情を執りて以て公事を行なえば、天下服せざる無し。治乱の機は公と不公とに在り。周子曰く、「己に公なる者は人に公なり」と。伊川又公理を以て仁字を釈(と)き、余姚(よよう)も亦博愛を更(あらた)めて公愛と為せり。并(あわ)せ攷(かんが)う可し。〔『言志晩録』第22条〕

【意訳】
物と自分とが一体であるということが、そのまま仁なのである。私情のない公の情をもって公事すなわち政治を行なうならば、天下の人々はかならず服すものである。世の中が治まるか乱れるかの兆しは、公平か不公平かにある。周濂渓は「自分に対して公平無私の人は、他人に対しても公平である」と言った。程伊川も公理を仁であると解釈し、王陽明も博愛を公正な愛情とした。政治を執り行う際には、これらのこと併せて考えるべきである

【一日一斎物語的解釈】
「世のため、人のため」という気持ちを私情に優先させてマネジメントを行えば、メンバーは心を開き、信頼してくれるものだ。常に公平であることを意識して仕事に取り組むべきだ。


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第1655日 「奇跡」 と 「誕生」 についての一考察

今日の神坂課長は少し遅いお盆休みを取って、妻の実家に向かっているようです。

ハンドルを握るのは神坂課長、助手席には妻の菜穂さん、後部座席には二人の息子、礼君と楽君が座っています。

「ねぇ、かあさん。かあさんはじいちゃんとばあちゃんから生まれたんだよね。ひいじいちゃんやひいばあちゃんのことは覚えているの?」

「楽、それはそうだよ。かあさんが子供の頃は一緒に遊んだもん。でも、楽が生まれる前に二人とも死んじゃったから、楽は知らないよね」

「なんか不思議だなぁ。そのひいじいちゃんやひいばあちゃんもそのとうさんやかあさんから生まれているんだよね」

「そうだぞ。もし先祖のうちのひとりでもこの世にいなかったり、結婚しなかったら、俺たちは生まれていないんだぜ」
兄の礼君が得意気に答えています。

「そうやって10代遡ると、御先祖様の数は1,000人を超えるんだ。さらに20代遡ったら、なんと100万人を超えるんだぞ。すごいだろう」
神坂課長です。

「なんか俺たちが生まれたのって奇跡みたいなものなんだね」

「そうだよ、楽。とうさんとお前たちがこうして親子になったのも奇跡のような出来事なんだ」

「自分の身体の中にはたくさんの先祖の血が流れているんだね。なんだかお墓参りするっていう意味がわかってきた」

「それだけじゃないぞ。人間はその時代に生まれた植物や動物を食べて生きてきた。そういう意味では植物や動物にも感謝しないとな」

「そうか、そうだね。今日もばあちゃんがステーキを食べさせてくれるって言ってた。牛や豚にも感謝しないといけないんだね」

「そうよ。だから、私たちはお食事の前に、『いただきます』って言うのよ。それは、命をいただきます、っていう意味でもあるの」

「ふーん、そういうことだったのか。俺の身体はいろいろな生き物のお陰で出来上がっているんだね。もっと大切にしようかな」

「大切って?」

「食事の時はよく噛んで食べたり、夜中まで起きていないで早く寝たりしようかな、と思った」

「じいさんかよ!」
礼君が突っ込みを入れたようです。


ひとりごと

私たちがこの世に生まれてきたのは、いくつかの奇跡の積算なのかもしれません。

もし、ご先祖様の誰か一人が存在しなかっただけで、私たちは存在できません。

そんな奇跡の誕生を果たした私たちが出会う人にも限りがあります。

つまり、出会いもすべて奇跡だと言えるでしょう。

奇跡に感謝し、奇跡を楽しみたいですね。


【原文】
我が身は一なり。而も老少有り。老少の一身たるを知れば、則ち九族の我が身たるを知る。九族の我が身たるを知れば、則ち古往今来の一体たるを知る。万物一体とは是れ横説にして、古今一体とは是れ竪説(じゅせつ)なり。須らく善く形骸を忘れて之を自得すべし。〔『言志晩録』第21条〕

【意訳】
わが身はひとつである。しかも少年時代と老年時代がある。この老少時代が同じ一身だとするなら、高祖から玄孫までの九代の親族もまたわが身であることがわかる。九代がわが身であることを知れば、昔から今に至るまでの人が一体であることが理解できる。万物一体とは横の説つまり空間から説いたものであり、古今一体とは縦の説つまり時間から説いたものである。人は皆、有限の形体にとらわれず、これらのことを深く自得すべきである

【一日一斎物語的解釈】
自分の身体には、先祖が脈々と受け継いできた血が流れている。また、大自然から食物を摂取して生きている。そういう意味では、自分と古今の人物とは一体であり、また万物とも一体だといえる。決して、自分ひとりでは生きられないことを肝に銘じるべきである。


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第1654日 「易」 と 「万物」 についての一考察

今日の神坂課長は、佐藤部長とランチ中のようです。

「昨日、テレビで易経研究家の松村麻弥子さんが『易経』についてお話をされていたんですけど、すごくわかりやすかったですよ」

「ああ、BSの番組だよね。私は録画しておいたよ。まだ観てないけど」

「孔子も、『易を学べば、大きな禍を避けることができると言っているらしいですね」

「『論語』だね。その辺はサイさんに聞くと良いんじゃない?」

「ああ、そうですね。私も五十になるまでには『易経』を勉強してみようかな?」

「難解ではあるけど、学ぶことは多いよ」

「はい。松村先生は、龍の話をとてもわかりやすく話されていました。いまの自分は果たして、潜龍か見龍かどちらかかなと考えてしまいました」

「なるほどね。そうなると私は、『亢龍悔いあり』といったところかな」

「いやいや、部長は飛龍ですよ」

「そうか、神坂君をはじめとする立派な雲に守られているからね。これ以上、上を目指して失墜しないようにしないとね」

「ははは。部長が急降下するなんてあり得ないですよ。でも、こうやって龍の話だけでもこれだけ学びがあるわけですから、全部で六十四卦もある『易経』は学びの宝庫なんでしょうね?」

「万物の移り変わりをすべて陰陽の二つで解き明かしていているんだよね。それが孔子よりも前の時代に完成されていたというのは驚きだよ」

「ああ、次から次へと勉強したいものが増えていきます」

「欲張らずに、ひとつひとつモノにしていくといいよ。『易』という言葉には、変易・不易・易簡という三つの意味があるんだ。それを易の三義と呼ぶんだよ

「ああ、昨日、松村先生が話していました」

「変易とは、すべて万物は移り変わらないものはないということ。不易は、その移り変わりには一定不変の法則があること。易簡とは、その易の法則を理解すれば、すべての事象が理解しやすくなるということ」

「はい。仕事にも通じるものがありそうですね」

「うん、仕事にも活かせる教えがたくさんあるだろうから、お互いに学んでいこう」


ひとりごと

『易経』は常にしっかり学びたいと思っている書です。

しかし、解説書も難解なものが多く、なかなか本格的に取り組めずにいます。

竹村亞希子先生の書籍は、とてもわかりやすく解説されているものが多いので、入門篇には最適でしょう。


【原文】
程子は「万物は一体なり」と言う。試みに思え、天地間の飛潜・動植・有知・無知、皆陰陽の陶冶中より出で来るを。我も其の一なり。易を読み理を窮め、深く造(いた)りて之を自得せば、真に万物の一体たるを知らん。程子の前、絶えて此の発明無し。〔『言志晩録』第20条〕

【意訳】
程子(程顥・程頤兄弟)は「万物は一体なり」と言っている。実際考えてみると、天地の間にある鳥・魚・動物・植物や知を有するもの、無知のものなど、これらはすべて陰陽の生成から生まれたものであって、この私もまたそのひとつである。『易経』を読んで理を窮め、深く道に達してこのことを自得してみれば、実際に万物が一体であることが理解できる。程子の以前には、このようなことを明らかにした人はいない

【一日一斎物語的解釈】
『易経』を読むと、万物は陰陽の生成から生じており、万物は一体であることが理解できる。


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翔氣塾HPより
https://www.denshougaku.com/

第1653日 「理」 と 「誠」 についての一考察

今日の神坂課長は、息子の勉強机の上に置いてあった倫理の教科書を偶然目にして、思わず手に取ったようです。

「懐かしいなぁ。高校時代、倫理の木下先生の言い方をよくモノマネしたなぁ。『万物のアルケーは水である』なんてね。ところで、アルケーって何だっけ?」

神坂課長は、息子の机に座って倫理の教科書をめくっています。

「ああ、根源という意味か。『万物の根源は水であるって意味だったのか。あの言葉はタレスの言葉だったんだな」

「たしかに人間の体の70%は水だというしなぁ」

「ピタゴラスは万物の根源を数だと言ったのか。ヘラクレイトスは火だと言っている。火はないよな、さすがに!」

「おお、このデモクリトスという人はすごいな。万物の根源を原子だと言っている。一番、現代の考え方に近い人だな」

神坂課長は椅子を立って、自分の部屋に戻ってきたようです。

「宋代の儒学では、万物を理と気で説明しているんだよな。形あるものが気で、万物を支配する形なきものを理と読んでいたな」

神坂課長は、朱子学の本を引っ張り出してきました。

「うーん、いつ読んでもこの理気二元論ってやつはよくわからないなぁ。要するに万物を支配する理というのは、大自然の摂理のことなんだよな」

「それを『神』と読んだり、『お天道様』と読んだりしているわけだ」

「儒学でいえば、理の根本は『誠』ってやつなんだろう。誠が万物を支配していると考えるんだな。誠とは己に嘘をつかないことだと長谷川先生が教えてくれたな」

神坂課長は、本を閉じて、着替えを始めました。

「とにかく、自分に正直に、自分を偽らずに生きることが、大自然の摂理に逆らわずに生きることになるんだ。よし、己の本心に正直に生きるぞ!」

神坂課長は、鞄をもって外に出ました。

『朱子学と陽明学と題する講演会のパンフレットを手にしているようです。


ひとりごと

小生が尊敬する人生の先輩に、故安岡正篤先生のお弟子さんがいらっしゃいます。

その方から聴いた話ですが、安岡先生は晩年、「最近は誠がなくなったなぁ」とよく嘆かれたそうです。

たしかに今の日本人は「誠」を失ってしまったように感じます。

政治家諸氏が、家族や友に対して「誠」を貫くことを意識すれば、外交においても「誠」のある外交ができるのではないでしょうか?


【原文】
理は本形無し。形無ければ則ち名無し。形ありて而る後に名有り。既に名有れば則ち之を気と謂うも不可無し。故に専ら本体を指せば、則ち形後も亦之を理と謂い、専ら運用を指せば、則ち形前も亦之を気と謂う。並びに不可なること無し。浩然の気の如きは、専ら運用を指す。其の実は太極の呼吸にして、只だ是れ一誠のみ。之を気原と謂う。即ち是れ理なり。〔『言志晩録』第19条〕

【意訳】
理にはもともと形はない。形がなければ名前もつけられない。形があってはじめて名前をつけることができるはずである。ところがすでに理という名前がついているのであるから、これを気と名づけても問題ないはずである。したがってもっぱら本体を指す場合は、形となった後、すなわち形而下からはこれを理と呼び、もっぱら運用の側面を指す場合は、形となる前、すなわち形而上からはこれを気と呼んでもおかしくはないはずである。孟子のいう「浩然の気」は運用面を指している。その中身は宇宙万象の生成秩序の根源の働きであって、ただひとつの誠があるだけである。これを気の根源といい、即ちそれが理であるのだ

【一日一斎物語的解釈】
万物はすべて大自然の摂理を宿している。それは一言でいえば「誠」である。誠を貫けば、大自然の摂理に適い、万物と一体となれるのだ。


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